2012年12月25日火曜日

敦煌・1(中国甘粛省・敦煌市、第43〜47日目)

敦煌。20世紀初頭、王円籙という一人の道士(道教のプロの宗教家)が、この小さな街の郊外にある遺跡・莫高窟の封印された1窟の中から、大量の古文書を発見した。彼は当局にこれを届け出たが、当局はまったく関心を示さず、適当に処理しておけと申し渡しただけであった。
その後、各国の探検隊(イギリスのオーレル・スタイン、フランスのポール・ペリオ、日本の大谷光瑞など)がこの街にやってきて、大量の古文書を王円籙から買い取って自国に持ち帰っていくのを見て、清朝当局はようやく古文書の価値に気がついたが、時既に遅く、古文書はイギリス、フランス、日本、ロシアなどに散逸してしまった後だった。これが、敦煌という街を一躍有名にした敦煌文献である。
なぜ、こうした古文書が大量に洞窟の中に仕舞い込まれて洞窟が塞がれたのか、正確なところはよく分かっていないが(内容から判断すると、要らなくなった文書をしまっておいただけらしい)、この文書がなぜ洞窟の中に封じられたのか、を巡る物語を描いたのが、有名な井上靖の『敦煌』という小説である。

小説『敦煌』は、約1000年前の、茫漠たるシルクロードを舞台に、歴史の影に生きた人々の息遣いを、飾り気のない文体で綴った、ロマン溢れる傑作小説である。
主人公・趙行徳は、科挙の試験を落第した後、紆余曲折を経て当時勃興していた西夏の兵士にされてしまうが、後に仲間と共に西夏に反逆して離反する。やがて彼は西夏の軍勢に追い詰められて敦煌に逃れるが、進軍する西夏の軍勢から仏教の文化遺産を守ろうと決意し、僧侶たちとともに古文書を莫高窟に封じる。そして、莫高窟に財宝が隠されていると勘違いして襲撃してきた商人・尉遅光(うっちこう)を撃退した後、侵攻してきた西夏の軍勢に飲み込まれて姿を消してしまう(物語の最後に、彼が更に西のどこかの国で生きているらしいことが示唆される)。
NHK特集・シルクロードを見た上、この小説を読んだからには、是非ともシルクロードを訪問しなければならない。私は西安を離れ、一路敦煌へと飛んだ。


(こりゃまた、ヤバいところに来たんじゃないか…?)
敦煌の空港に降り立った時、空港の周囲に何一つ建物も植物も見当たらない事に気づいて、私は少し驚いてしまった。建物自体は比較的立派だが、ミャンマーのバガンの空港より何もない。空港ターミナルを抜けて外に出ると、後は駐車場しかなく、建物も何もない。客待ちをするタクシーも無ければ、バスもない。売店もない。何もない。

先に空港に降り立った人々は、さっさと自分を待つ車に乗って去っていき、私は一人ぽつねんとその場に取り残されてしまった。
しばらくどうしようかと思案していると、一人の男性が「タクシー」と言って手招きした。駐車場に一台の車が停まっている。信用すべきかどうすべきかと一瞬悩んだが、誰にも英語も通じない中、彼に置いていかれたらどうやって移動してよいのか分からない。大人しくその車に乗り込むと、比較的適正な価格で市内まで届けてくれると申し出てくれ、きちんと目的地のユースホステルに私を送り届けてくれた。
市内に着くまでの間は、ミャンマーのバガンのような場所を想像していたが、市内に入ってみると、町並みは小さいながらもきちんと整備されており、バガンと比較しては失礼なほど立派な『街』であった。考えてみれば、これだけ寒くなる場所な上、シルクロード観光の要衝なのだから、バガンのような呑気な雰囲気の町なわけがないか、と考えを改めた。


ユースホステルに着くと、私はインターネットで早速敦煌の情報を調べ始めた。聞くところによると、敦煌には「隋さん」なる日本語が堪能な人物が居り、彼がオリジナルのツアーなども手配してくれるのだという。しかし、とりあえず空腹が勝ってきたので、私は隋さんに連絡するのを後回しにして、昼飯を食べに近所の市場「瓜州市場」に入った。
屋根付きの市場では、干しブドウなどの果物や、焼き鳥、衣類、糸、靴など色々なものが所狭しと並べて得られていた。その奥に、碁盤の升目状に麺や焼き飯などの安食堂が並ぶ食堂街が現れた。
(何食うかな…ここまで来たからには、地元の料理が食いたいよな)
と、食堂街の奥に入り込んでいくと、「新疆」との文字の書かれた緑色の看板が目についた。
(新疆ってこた、ウイグル料理が食べられるのか。こいつはイーじゃんかよぉ)
中に入ると、高校生くらいの女の子二人がいそいそと働いていた。その他、地元の漢民族風の客や、ウイグル人風の客が食事をつついている。
私が適当な料理を注文して待っていると、女の子が何かのノートを私のテーブルにそっと置いた。
(? なんだこれは?)
と、ノートを開いてみると、驚くべきことに、中には日本の旅行者たちが綴った日本語がびっしりと書き込まれていたのだ。
(こ、これは?)
と、店のドアに目をやると、ドアにも日本語で「旅人の家 いらっしゃいませ」という言葉がプリントされている。間抜けなことに全然気づかなかった。
ということは、ここはもしかして…。
そう思ったが、如何せん英語が通じないのであるから、店員さんにどう説明することもできない。とにかく昼飯を食べてから考えようと食事に手をつけていると、そこに一人の男性がドアをくぐって現れた。
「や、あなたですか日本人は? 私が隋です」
やっぱりだった。私は隋さんと、早速遭遇してしまったのであった。

2012年12月24日月曜日

出発地点(中国陝西省・西安市、第39〜42日目)

昆明を出て、私は西安に向かった。
「うーむ、なんだか、風景が段々と親しみやすくなってきたな」
西安の空港に降り立って、バスで西安の街に向かう途中の風景は、どこか北海道に近い雰囲気を漂わせていた。雪こそ降っていないが、気温は零下にまで下がっている。そのせいか、植生が北海道に似ているのだ。
バスに乗っている間に段々と陽が落ち、街の摩天楼が姿を現す頃には、濃いガスが街をすっかり覆っていて、どこか怪しい雰囲気を街に与えていた。バスは、街のランドマークである大鐘楼の付近で私を降ろした。

中国の中央部に位置する西安は、かつては長安と呼ばれ、旧市街を巨大な外壁で囲まれた街である。旧市街の中央部には、30年前のNHK特集の番組・シルクロードの冒頭で、陳舜臣さんが「今、私は西安に来ています」と言って番組を始めた場所、大鐘楼がある。
その他、天竺から帰って来た玄奘三蔵法師が巻物を納めたという大雁塔、シルクロードを伝ってアラブの商人がここまで来ていたことを表すという、見た目はどう見ても仏教寺院なのに、中に入ってよく見ると実は「モスク」という、世にも奇妙な大清真寺がある。

郊外に眼を移すと、秦の始皇帝陵と、それに附随してほんの40年ばかり前に発見されたばかりの、日本でもおなじみの兵馬俑遺跡がある。西安は、その他にも実に色々なシルクロードを巡る文化遺産が眠っている街なのだが、それだけではなく、現在の西安は中国の中でも十本の指に入るであろう大都市である。
街は綺麗に整備され、街の中心部のほんの半径100か200mほどの狭い範囲内の中に、アップルストアが3件も4件もあったりする。

予約してあったユースホステル「Hang Tan Inn Guest House」は、いわゆる欧米人の集まる「白人宿」で、極めて分かりにくい住宅地の真ん中にあった。同じ場所をぐるぐる廻って、探すのに40分近くかかったほどだ。しかし、事前のネットの評判の通り、中は欧米人好みの、洗練された雰囲気の居心地の良い宿であった。ルームメイトは、イスラエルから来たという女性ネタさんに、鼾のうるさいオーストラリア人の兄ちゃん、クールな雰囲気の小柄なスウェーデン人の青年、温厚そうなスペイン人の男性などであった。
ネタさんとは、エアコンが漢字で分からないというのであれこれ操作してあげたり、パンを貰ったり、中国でネット規制を回避する方法について話すなど、割と仲良くなった。

やってきて二日目に、ユースホステルのゲストハウスのツアーに参加し、欧米人たちと徒党を組んで兵馬俑と秦の始皇帝陵の遺跡に向かった。
秦の始皇帝陵は、その名の通り秦の始皇帝を埋葬するために作られた古墳である。しかし、外目からは単なる小高い丘が公園として整備されているだけで、面白くもなんともないのが特徴である。実際、始皇帝陵の見学時間は5分足らずで終わった。
しかし、実はこの小高い丘の下には、始皇帝の死後の邸宅として作られた巨大な宮殿が眠っている。実際、調査で宮殿の形までは分かっているそうだ。しかも、歴史書によればこの宮殿には水銀の河や海なども作られたという。これは長い間誇張だと思われていたらしいが、実際に地面から高濃度の水銀の反応があったため、本当にそれを作ったのだという可能性が高くなっているという。おまけに、宮殿内部には、盗掘者を射殺すための仕掛け弓などの装置も用意されているらしい。なんと壮大で、ロマンに溢れる話しなんだろうか!
本当にあるのかどうか、早く掘り起こして見せて欲しいものだが、掘り返すときに失敗すると取り返しがつかないとの理由から、まだ発掘はされていないのだそうだ。

その後、兵馬俑に向かった。
兵馬俑は、始皇帝陵と一緒に作られた付属の遺跡のようなもので、陶器で作られた精巧な兵士たちの人形が大量に収められているところから、英語では「テラコッタ・アーミー」という。

これは有名すぎるから、特に説明する必要はないが、出土された大量の兵士たちや馬たちが遠くまで続いているのは圧巻である。
作られてからというもの、敵軍によって押し入られて破壊されたり、後の時代になって盗掘されたり、終いには地元民の誰かが墓に使った場所もあったりそうで、現在になって「発見」される前から、実は「知っている人は知っている」場所だったのかもしれない。

付属の博物館の売店コーナーには、兵馬俑の発見者の一人である、楊老人が座って昼飯を食べていた。兵馬俑の発見者は一人と思われがちだが、実は数人の「楊さん一族」が一緒に発見した遺跡である。
NHKのインタビューを受けていた「楊さん」は、残念ながらその場におらず、昼飯を食べているのは別の「楊さん」だった。
挨拶をしてみたが彼からは何の反応もなく、サインも本の購入者に限るとの事だったので、コミュニケーションを取るのは諦めた。彼らは今や中国人の間ではスターのような存在で、発見以来何十年も博物館にこうしているわけだから、いちいち愛想をよくしていてはきりがないのであろう。
その夜は、ホステルの中で中国の伝統酒の利き酒大会に参加し、楽しく過ごせた。ユースホステルは人に気を使わなければならないことも多くて面倒だが、孤独な一人旅の中では、こうした大勢で何かを楽しむ機会がちょっとした癒しと活力になる。

三日目は西安の町中をさまよって過ごした。西安の町では、零下だというのに、店のドアを開け放ったり、食品工場の入り口にかけてあるビニールの垂れ幕のようなものでドアを代用している店が多く、店の中がとにかく寒いのが特徴である。アップルストアさえ、ドアを開け放って営業している。北海道でこのようなことをしたら顰蹙ものだろうが、誰一人として寒いのに構っている様子はない。後で敦煌で人に聞いたところによると、西安人にとってはあの気温はそれほど寒いものではないらしく、店員が面倒臭がってドアを閉めていないだけであることが分かった。一方私は、帽子と手袋を購入した。

四日目、またトラブル。またしても、朝早い飛行機に乗り遅れてしまったのだ。これで、たぶん人生で6度目くらいの飛行機乗り遅れだろう。この日、私は西安を離れて、敦煌に向かうつもりでおり、朝早くホステルを離れて離陸の2時間半前に空港に向かったのだが、途中の渋滞などで時間を食ってしまい、結局チェックインには間に合わなかったのだ。
西安の空港の中にはカプセルホテルのような、珍しい施設がある。「蜂の巣」と名付けられたその施設は、空港の通路の脇に、狭い箱の中に大人一人がようやく入れる大きさのベッドを置いただけのもので、1時間で50元(675円)もするバカ高い代物だったが、インターネットが使えるとあって1時間だけその中に潜り込み、今後のことについて考えることにした。
今日の敦煌行きの飛行機はもうないが、明日なら敦煌行きの別の飛行機がある。しかし、それまでの間どうするか。いっそこの狭っ苦しい場所に次の日の朝まで居ようか。いや、そんなことをしたら、こんな迫っ苦しい空間とネットひとつのために何百元吹き飛ぶかわかったものじゃない。そもそも一泊二泊と滞在するためのものではないし、飯も風呂もないのだ。

…結論。Hang Tan Innに帰ろう。帰ってまた明日出直そう。チケットは出発後でも一部返金してくれるというし、空港に居たって何のいいこともない。
私はそう決めて、気晴しに空港内のちょっと高いビュッフェで昼飯を食べて西安市内に帰った。「今日は空港を見物に行ったんだ」と無理やり自分を納得させながら。「あれ、戻ってきたの?」と、Hang Tan Innのスタッフやネタさんには笑われてしまった。
とはいえ、くよくよ考えても仕方がないのが一人旅である。臨機応変に行けば、銃を突き付けられて身ぐるみ剥がされ、どこかの見知らぬ山中に裸でうっちゃられたというのでもない限り、大抵のトラブルは自分でカバーできるだろう。

次の日、私は更に早い時間に起きてバスに飛び乗り、空港に向かった。今度は、大丈夫だった。

2012年12月16日日曜日

滇へ到る(中国・雲南省昆明市、第36~38日目)

ヤンゴンで休憩を終えた私は、ゴールデン・トライアングルの一帯を飛び越えて、一路中国は雲南省・昆明に入った。
東南アジアを旅した多くの旅人ならば、ここまで来たら次に行くのはインドが相場である。コルカタあたりに飛び、そこから陸路や空路でヴァーラーナスィーやアーグラに向かって西に進んでいくというのが、まずありがちなルートである。
しかし、今回私は中国西部を見たいという目標があった。敦煌、トルファン、ウルムチにカシュガルと、いわばシルクロードをなぞる旅路である。シルクロードの世界を訪問した後、ウルムチからパキスタンのイスラマバードとラホールを経由して、ニューデリーに抜けるというルートを取る目論見であった(しかしながらこれは、後でうまくいかないことが判明する)。

「寒い!」
今年の6月に開港したばかりの真新しい昆明の空港に降り立った最初の感想はそれである。昆明が海抜約1900mの高地にあるためなのか、長い間暑い国ばかり移動してきたせいなのか、気温17度のはずなのにやたらと寒く感じた。
「都会だ!」
昆明の町並みは、とかく文明的だった。今までの東南アジアの町並みと比べて、明らかに垢抜けて、都会的な様相を呈している。

「ネットが…」
中国では、金盾(キンジュン、グレートファイアウォール)という仕組みによって中国当局にとって都合の悪いウェブサイトは全てブロックされている。
Facebook、twitter、YouTube、ニコニコ動画、fc2、ebloggerなどといったインフラは全て不可であり、そのかわりに中国人は中国製の似たようなバッタ物を使用している。これを回避する方策は、ミャンマーで既に立ててあった。
「英語が通じない…」
最大の問題はこれであった。とにかく、簡単な英語ができる人にさえ、まったくお目にかからないのである。タクシードライバーはもとより、ホテルの従業員や空港の職員にも英語が通じないことが多いことがわかった。
かと言って、中国語を話そうにもうまくいかない。中国語は声調のある言語である。有名な話だが、普通話をしゃべる場合、四種類のアクセントを滑らかに使い分けて発音しないと、カタカナ中国語をそのまま読んでも中国人には通じないのだ。
ホテルに入って、慌てて最低限の旅行会話を手帳に書き込んだ。日本人の場合、漢字という文字を共有しているから、必要最低限の簡体字を知れば、ある程度のコミュニケーションを取れる可能性はあるが、漢字の読み書きができない、中国語もできない欧米人が中国を旅行するのは本当に大変だろうと思う。
そのせいなのだろうか、単に寒いせいなのだろうか、これまで東南アジアの各国の何処にでも居た欧米人の姿が、ぱったりと消えてしまった。

言葉の壁の問題の中でも、特に中国人の不思議なところは、相手が明らかに中国語が喋れないと分かっていても、ひたすら中国語で話し続けるところである。
英語が分からないなら分からないで、I can't speak Englishでも、Noでもいいから言ってさっさと会話を切り上げてくれた方がずっと簡単で楽だと思うのだが、彼らはこちらが中国語の分からない外国人だと気づいた後でも、ひたすら中国語を喋り続けるのである。
その心中は何なのであろう。
中国に来る外国人なのだから中国語くらいわかるだろう、と考えているのだろうか。
分からないのは承知の上で、とりあえず何かを伝えようと試みているのだろうか。
それとも単に、こちらが外国人なのに全く気づいていないで、同じ中国人のくせに中国語が分からんとはけしからん奴だ、とか思っているのだろうか。
よく分からないが、要するに彼らは学校で英語を習わないのだろう。田舎のお年寄りが英語を話せないというのなら分かるが、大都会に暮らすどんな若い人にも簡単な英語1つ通じないのだから、それ以外に考えられない。
ネットを見ると、中国人のTOEFLの成績は日本人・韓国人より上とか、中国人は英語がうまいという話が散見されるけれども、それは恐らく上海とか北京とかの中国一先進的な都会限定の話か、どこかの当局がデータをいじくっているのに過ぎないのではないかと思う。そうでなければ、昆明のような大都会でOKとかPleaseとかWhere is toilet? さえ通じないという状況に説明が付けられない。はっきり言って日本の小さな地方都市と大差ないと思うし、中国語で延々としゃべり続けるあたりが、少なくとも「英語は分かりません」と意思表示するか、しどろもどろになって何も言えなくなってしまって外国人側もすぐにあきらめてしまう日本人よりも面倒臭いと思う。

雲南省は、中国でもかなり少数民族の多い場所である。
イ族、ペー族、ハニ族、チワン族、ミャオ族、ワ族、チベット族等々…。雲南省にしかいない少数民族が15もあるというから驚きだ。
それを象徴するかのように、雲南省には雲南民族村という少数民族のショーウインドウのような観光施設もある。
この雲南民族村は昆明市の南10kmほどの場所に位置する観光地で、各少数民族の生活を持ち寄って再現した小さな村を集めたような場所である。近くには、登龍門の語源になった龍門という旧跡もある。そこを訪問してみることにした。
こんな場所を訪問したからといって少数民族の暮らしぶりが分るかといえばそんなわけもないと思ったが、まあ訪問しないよりは、少しばかりはましである。

雲南民族村に入り、各民族の展示を眺めた後で、午後の3時半からショーが開かれた。各民族の生活や文化をごった煮にして歌と踊りで表現したような歌劇である。
正直な話し、どれがどの少数民族の文化を表現しているのかもよくわからなかったし、これらが少数民族の文化を正しく反映しているのかも定かではなかったけれど、遠くから観ても迫力のあるショーであった。

(まてよ。そういえば、もう一つ少数民族のショーがあったはずだ。かなり評判の良いヤツだぞ)
ホテルに戻ってからネットで調べると、ヤン・リーピンという大スターの「雲南映像(Dynamic Yunnan)」という舞台であることがわかった。日本の横浜でも開催されたことがあるという。
早速夜になってから開催場所に出向いてこのショーを鑑賞したが、なるほど人気があるのも頷ける内容だった。
太陽をモチーフにした太鼓から始まるプロローグに、各民族をモチーフにした歌と踊りが続く。その全てに不思議な威力とどこか鳥肌が立ってくるような感動があった。
中でも、劇の開始前から要所要所で登場するチベット族の男性を主人公にした荘厳なチベット族の章と、ヤン・リーピンをスターにしたという人間離れした「月光」の章は、目を離せなかった。
タイで鑑賞したニューハーフ・ショー以来の素晴らしいショーであった。これを見るために昆明に来るのもありだと思わせるほどであった。

昆明滞在を終えて、次に向かったのは西安である。西安はシルクロードの起点であり、また私のシルクロード訪問の出発点であった。

2012年12月15日土曜日

遺跡地獄・2(ミャンマー・バガン、第30~35日目)


もうもうと砂埃の立ち込めるニューバガンの町並みを走って、タクシーはニューバガンのモーテル、Duwun Motelの前に停止した。
巻きスカートに白いシャツの年配の従業員が現れて、私を部屋に案内した。部屋は広くゆったりしていたが、どこかかび臭く、(そんなはずはないのだが)長いこと使われていなかったような雰囲気を呈していた。Wifiはなく、温水と書かれた蛇口を捻っても水しか出ない。しかし、このホテル不足を前にしては、そんな文句を言っているわけにもいかない。
細かい事は忘れて一眠りすると、午後から近所で自転車をレンタルして、オールドバガン目指して早速走りだした。しかし、ペダルを漕いでも、あっという間に砂にタイヤを取られてしまう。
ニューバガンからオールドバガンまでの幹線道路らしい大きな通りは舗装がされているのだが、道路の両脇から押し寄せる砂が道路上に堆積していて、ものすごく走りづらい。かと言って、頻繁に車が往来しているから、道路中央を走るわけにもいかない。

走っていると、早速遺跡にお目にかかった。煉瓦を積み重ねて作られた仏塔。すぐ近くに、管理人と思しき人々の家があって、子供たちが歓声を挙げている。中に入ると、仏陀の像が荘厳な表情を浮かべて静かに佇んでいる。
写真を撮って、また道路に戻る。またすぐに遺跡が現れる。写真を撮って戻る。また遺跡。また遺跡。
ほんの1~2kmを走っている間にも、立派な仏教遺跡がいくらでも現れる。人気のない遺跡もあって、そういう所に入り込むと、まるで遺跡を貸し切っているような気分になる。
小高い丘の上に建っている遺跡に登って遠景を見ると、遺跡の数々が地平線の彼方まで連なっている。その一つ一つに色々な由来があるのだろうけれど、あまりにも数が多くて、その一つ一つの歴史を確かめる気にはとてもなれない。
ただただ、サバンナのごとき雄大な平原に、遺跡がある。世界三大仏教遺跡の呼び名が誇張でもなんでもないことは、ここに来ればすぐに分かった。

自転車でオールドバガンに着き、食事をして鄙びたオールドバガンを見廻った頃には、もう辺りは真っ暗闇に包まれてしまった。
自転車で何とかニューバガンに戻ろうとしたが、街灯もない真っ暗闇の道が延々と続いていて、足元が砂なのか舗装路なのかも分からない。挙句、舗装路に空いた穴にタイヤを取られて転びそうになる。
唯一の光源と言えば通りを行き交う車だけで、こんなに車に通りがかってほしいと思った道もなかった。「行きはよいよい帰りはこわい」という言葉通りのとてつもない田舎道である。

次の日は自転車に疲れたこともあって、馬車に乗って一帯を廻ってみることにした。自転車では進入しにくい平原の中の遺跡を案内してほしい旨を御者に希望したが、意外にも馬車は自転車で十分廻れそうな場所しか通ってくれず、期待外れだった(けれど、馬車でゆっくりと廻る田舎道は、のんびりしていてそれはそれで悪くなかった)。
遺跡のところどころで、何故かオバマ大統領のコブシを利かせたスピーチが聞こえてくる。大統領はちょうどその頃、数日前に私が行ったスー・チーさんの家でスピーチを行なっていたのだった。
「プレジデント」「オバマ」「アメリカ」といった単語を話しているのも聴こえる。彼らがどう思っているのかは定かではないが、大統領のスピーチのウケはそれほど悪くはなさそうであった。

(現金が足りない…)
夜になって改めて現金の枚数を数えてみると、現金が不足していることが分かった。やはり、現金は全てにおいて必要であり、みるみるうちに減ってしまった。
だが、バガンで現金を手に入れる方法は一切ない。
もし、ニャウンウー空港でチケットを買えなければ、15時間のヤンゴン行き地獄バスに強制参加させられてしまう。
なんとかしなければと策を巡らすと、マネーバッグに一枚だけ、予備の1万円札を取っておいたことを思い出した。これを両替できないだろうか?

バガンのみならず、ミャンマー全体で円は立場がない。広く流通しているのはドル、ユーロ、そして何故かシンガポール・ドルであって、円やタイバーツはヤンゴン空港でさえ両替してもらえないのである。
インターネットで調べると、つい最近、11月の初旬から中頃にバガンに滞在していた人のサイトを発見した。そのサイトによると、ホテルの従業員に1万円札を両替してもらおうとしたが、75000チャットだと言われて諦めたとの記述があった。75000チャットということは、約2000円が従業員の懐に収まるレートである。これは幾らなんでも足元を見すぎだ。
しかし、そのレートでもいいから両替しないと、15時間バスに乗らざるをえない。
モーテルの従業員にその旨を伝えると、モーテルのオーナー夫人なる年配の女性が現れて、流暢な英語で相談に応じてくれた。
彼女はすぐにオーナーに電話を掛けると、円を両替できる場所がすぐそばにあるということがわかった。オーナー夫人と従業員二人に付き添ってもらって歩いて行くと、看板も何もない商店のような建物の店先で、母娘とおもわれる女性二人が店番をしていた。
レートは90000チャット。一も二もなくオーケーした。
「良かったわね。これで飛行機のチケットが買えるわよ」
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
ミャンマー人のホスピタリティに触れたような気がした。ミャンマーはATM1つとっても不便な国だが、にも関わらず、ミャンマー人の人当たりの良さは、これまで通ってきた東南アジアのどの国にも勝るところがあるように感じられるのだった。

次の日とその次の日の飛行機の出発時刻まで、インターネットカフェにこもって時間を潰したり、安い自転車を使って遺跡を見て廻ることに費やした。
facebookに接続すると、トモコさん夫婦もまた現金の欠乏に苦しめられ、旦那さんが現金を手に入れるためにヤンゴンに戻ったという書き込みがあった。
私もまた、限界まで現金の欠乏に苦しめられた。飛行機の出発時に残された現金は、3ドルと750チャット、日本円にして315円にまで減っていた。
ATMもなければカードも使えない国で、315円しか手持ちがないという現実に、ATMやクレジットカードという文明の利器が如何に有り難いものであるかを骨の髄まで思い知る羽目になるのだった。

<北朝鮮直営レストランの憂鬱・2>

ヤンゴンに戻った次の日の昼、私はどうしても諦めきれなくて、もう一度あの北朝鮮直営レストランに出向いた。昼の北朝鮮レストランは、数日前の喧騒が嘘のように静まり返って、従業員の他には客一人居ない有様だった。
がらんとしたレストランの中で、今回はきちんと席に案内された。料理を決めて伝えると、ウェイトレスに「日本人?」と聞かれたので、Yesと答えた。注文を受け付けてもらったので、ためしに「カムサハムニダ」と言ってみると、ウェイトレスは驚いたような顔をして奥に引っ込んでいった。
料理を待っていると、別のウェイトレスがカラオケの曲リストを持ち出して声をかけてきた。
「日本人? 日本のいい曲教えてよ。ブルー・ライト・ヨコハマーってやつ」
「うーん、それはすごく有名だけど、僕はよく知らない」と言うと、彼女たちは驚いて、
「日本人でしょ? なんで知らないの?」というので、
「それはもう少し歳が上の人が好きな曲だ。年齢によって好きな曲は違う。ここに来る日本人の好きな曲は分からないよ」と説明したが、よく分かっていないようだった。
考えてみると北朝鮮人と話すのは初めての体験だった。この時間帯の彼女たちは暇を持て余しているらしく、向こうから話しかけてくるほどだった。ほとんどの国民が外に出られない北朝鮮にあって、海外に出て「敵国民」の韓国人や日本人と普通に話し、しかも恐らく北朝鮮当局が逃亡したり亡命したりはしないとお墨付きを与えて海外に送り出しているわけだから、彼女たちはきっと特別な存在なのであろうが、話した感じは別に特別な雰囲気は感じられず、ただの普通の韓国人女性のようにも見えた。

試しにカラオケの曲リスト本を捲ってみると、意外なことに最近のヒットソングやアニソンが大量に収録されていることに気がついた。
北朝鮮当局はどこからこんな新しいカラオケマシンを調達してきたのだろう。謎だったが、とりあえずここに来る日本人が最新ヒット曲やアニソンを歌うという絵面が想像できないし、カンボジアの売春カラオケがまたフラッシュバックしてきたので、もうそれ以上突っ込むのはやめることにした。
北朝鮮の冷麺は氷漬けにされて出てくるものらしい。冷麺とスープを飲んで、店を出ることにした。料理の味は普通だった。
支払った代金がミサイルの製造に使われないことを祈りながら、私はホテルに帰ることにした。

2012年12月12日水曜日

遺跡地獄・1(ミャンマー・バガン、第30日目)


バガンに向かう飛行機は、またもや早朝便である。いい加減早朝に起きることにも少しずつ慣れてきつつあり、私は朝早く起きると、食事を取る暇もなくホテルを後にした。
ヤンゴン空港に向かうと、事前に便を予約しておいた会社、エア・マンダレーのチェックインカウンターを探したが、チェックインカウンターには誰もいない。そこで空港の職員らしき人に声をかけてみると、
「エア・マンダレーは出発済みだよ」
「別の飛行機を手配してあげよう」
ということになった。おかしい…。まだ飛行機の出発時間の1時間前なのに、もう出発済みときた。しかも、簡単に別の会社の飛行機に変えてくれるというこのイージー・ゴーイングっぷりにも驚かされる。
しかし、ここは日本ではない。もう、細かい事をいちいち気にしないことにも慣れてきつつあった。
「現金で121ドル。持ってる?」
「現金? カードで払えませんか?」
「現金だけだね」
「…分かりました。チャットでお願いします」
「チャットか…OK、両替するから出して」
この時、ふと自分が少々マズい事になっているのではないかということに気づいた。
考えてみれば、エア・マンダレーのHPで予約した時にも、カードの番号を入力したりといった支払いの作業は一切行なっていなかったのだ。とすれば、当然、飛行機に乗るときには、チェックインする時に現金で支払うしかないということになる。
前日、カードで支払いができないというのでATMからお金を降ろしたわけだが、ATMに屯していた男たちの好奇の視線に耐えかねたのと、ATMから出てきたチャットの札束のものすごい厚み(1万円札だとしたら、100万円分くらいの厚みがあった)に目が眩んだのもあって、一度降ろしただけで満足してホテルに引き返してしまったのである。
…まてよ、そういえば、ヤンゴンに戻る帰りの飛行機のチケットも、現金で支払わなければならないはずだ。
それに、首都でつい数日前に初めてサービスが開始されたATMが、バガンなどという田舎の町に備わっているわけがない。
とすれば、ヤンゴンに帰るまでの間、チケット代の現金をキープしなければならないのでは?
「………」
これは、マズいことになったのではないか。金はどこで使うことになるか分からない。しかしもう、ここまで来れば後は行くしかなかった。

「日本の方ですよね? ホテルがどのへんにあるのかわかりますか?」
途中の機内で、日本人の女性が声をかけてきた。トモコさんはアメリカに在住しておられ、アメリカ人の旦那さんとミャンマーで2週間滞在する予定とのことだった。
「この三本の道路を結んだ三角形の地域に遺跡が沢山あるそうです。ホテルはオールドバガン地区にはないそうで、ニャウンウーかニューバガン地区になるらしいですよ」
などと情報交換をし、知っているホテルの名前を伝えると、どうせだからタクシーをシェアして一緒にホテルを探しに行こう、ということになった。

バガンの空港に到着すると、三人は空港の観光案内所に向かった。朝早い便だから、ホテルの空きが取れるかもしれない。何はともあれ、宿がとれなければ観光どころではないのだからと、三人は観光案内所のお姉さんに頼み込み、片っ端からホテルに当たってもらうことにした。
トモコさん夫婦のホテルは、案外あっさりと決まった。少し高めのホテルなら、空きがあったようだ。私は、現金をなるべく減らしたくない思惑もあって、別の宿を当たってもらうことにし、トモコさん夫婦は一足先にタクシーでホテルに向かっていった。
「今はなかなか無いのよ…」と、お姉さんは片っ端から宿に電話で確認を取っていく。
「一日に7000人の観光客がバガンに来るのよ。でも、バガンには部屋が2600部屋しかないの。ホテルが足りないのよ」と、別のお姉さん。
…ちょっと待てよ。2600部屋しかないってことは、仮にそれが全部ダブルベッドで全部入れたとしても5200人だ。勿論、そんなわけには行かないし、何日も泊まる人も当然居るわけだから、一日に数千人の人が宿にありつけずに立ち往生するということになるのではないか。
「宿に泊まれなかった人は、どうするんですか?」と聞くと、
「空港で寝てるわね」とお姉さんは答えた。
空港は小さくてとても数千人を収容できるようなスペースはないし、すべての人が空港に泊まりにやって来るわけはないとしても、たぶんかなりの人が一夜を空港で明かしているのだろう。ヤンゴンでもそうだったが、ミャンマーの深刻な宿不足の現実をまざまざと見せつけられた思いがした。
やがて、何十回も電話をかけ続けてくれたお姉さんが、とうとう一軒の空室を発見してくれた。私は、思わず「ありがとう。あなたは天使だ!」と手を握り返してしまった。

タクシーで空港を離れて道路を走っていると、風景はがらりと変わって、まるで自分がアフリカのサバンナの中を横断しているような雰囲気になってきた。
「あれがオールドバガンだよ」
「おお!」
そのサバンナの向こう側に、遺跡の群れがポツポツと姿を現し始めた。
遺跡。
まるで、あの付近一帯が全て遺跡だとでも言うかのように、どこまでもあちこちに遺跡が連なっている。
「…なんだここは…」
それとともに、ニューバガンに入ると更に驚かれた。グーグル・マップの地図上では、一見、碁盤の目状に道が整備された綺麗な町並みがあるように見えていたが、実際のニューバガンは、道路など舗装されておらず、道路上に砂埃が一日中舞い上がっている、おおよそ日本人の考える町とはかけ離れた場所だったからである。

2012年12月2日日曜日

アジアン・フロンティア(ミャンマー・ヤンゴン、第28~29日目)


<一日目>

バンコクでミャンマービザを取る事に成功した私は、翌日にドンムアン空港からヤンゴン行きの飛行機に乗り込んだ。チェンマイに行く時にもドンムアンを使ったから、この短いタイ滞在中に二回もドンムアンとバンコクを往復したことになる。

(思ったより近代的な空港だな)
ミャンマーの空港に降り立った時に、最初に思ったことはそれだった。バンコクからミャンマーに行ったというある人のブログを見ると、ヤンゴンの空港は酷いところでバンコクに帰ったら文明のありがたみがわかった、というような記事が載っているので、どんな酷い場所なのかと思っていたのだ。
空港でタクシーに乗り込むと、タクシーはドル払いだった。やれやれ、またか、という思いが頭をかすめる。それというのも、カンボジアではドルが自国通貨よりも優遇されていて、カンボジア・リエルは紙くずに近い扱いを受けていたので、それと同じようなことがここでも行われているのではと考えたのだった。

しかし、ヤンゴンのダウンタウンに入ってみると、思いの外ヤンゴンの街に活気が溢れていることに驚いた。ヨーロッパ風の建物の立ち並ぶダウンタウンの通りのあちこちで、屋台や会社の事務所、インターネットカフェやゲストハウスが立ち並び、人々が忙しそうにあちこちを行き来している。
日本の企業や、韓国の企業の小奇麗なオフィスビルも目立つ─INAX、ソニー、サムスン、富士フィルム…多くの企業が、チャンスを求めて集まってきている。
ほんの数年前まで国際社会から経済制裁され、世界から孤立していた国とは思えない活状だ。

「おお、ここはスカートの国だ!」
この国では、男性もスカートを履いているのが目に付く。民族衣装の巻きスカートだ。男性のスカートと言えば、スコットランドのバグパイプ奏者の男たちが有名だけれど、こちらはその比ではない。街ゆく多くの男女が、普通にスカートを履いて歩いているので、男性がスカートを履いていることにまったく違和感を感じない。
また女性と子供は、顔に灰色の粉を塗りたくっているのが印象的だ。はじめは泥を塗りつけているのかと思ったけれど、あとでタナカという木の粉を塗っているのだとわかった。日焼け止めの効果があるらしいのだが、人によっても塗り方に違いがある。何でも、塗り方によって美人かどうか─つまり、モテるモテないにも関わってくるらしい。所変われば習慣も変わる─まさにこのことである。

カンボジアと違って、自国通貨のチャットが広く流通していることにも気がついた。これは、チャットが少しずつ信頼を取り戻しているということなのだろうと思った。ATMさえ当たり前のようにドルを吐き出すカンボジアの有様を見ているだけに、それだけでも、この国が良い方向に向かっているのではないかと思わせるのに十分だった。
そして、ハイ・シーズンとのことでどこのゲストハウスにも先客が詰まっていることもわかり、結局空室のあった若干高めのホテルに泊まることになった。

タクシーの運転手に聞いてみた。
「どうですか? この国は変わってきていますか?」
「今、この国は変わっているところだよ。外国の企業も沢山チャンスを求めてやってきている。いいことさ」と運転手は言った。

<二日目>

二日目、私はまず、ホテルの近くにあるアウン・サン・スーチーさんの生家を訪問してみることにした。大学のある道幅の広い通りをホテルから30分ほどもかけて歩いて行くと、やがて一軒の変わった雰囲気の家を見つけた。
灰色の鉄製の門と、スー・チーさん率いる野党NLDのマーク。塀の上には、有刺鉄線が張り巡らされている。これがスー・チーさんの家に違いない。
近くに警備員風の人々が屯していたので、ためしに写真を撮っても良いかと聞くと、「OK」という返事が呆気なく返って来た。数年前までは、近づくだけでも「帰れ」と強面の警備員に追い返されるということだったから、それだけでも相当この国が変わっているということを示しているに違いなかった。
写真を撮っていると、何かの車が門の前に乗り付けた。門がゆっくりと開いたので、せっかくだから門の中を見せてもらおうと車の後ろから覗きこむと、中にいた巻きスカートを履いた強面の男が私をキッと睨みつけ、すぐに門を閉じてしまった。
あとで気づいたことだが、この二日後に、アメリカのオバマ大統領が、ここを訪問し、スーチーさんと面会する予定になっていたのだ。中の人々が相当殺気立っていただろうことは、容易に想像がつく。

その後、ヤンゴンと言えばとりあえず観ておかないとならないシュエダゴン・パゴダを訪問した。
ミャンマーというか、東南アジアの仏像や仏教施設は、とにかく金色にギラギラ輝いているのが特徴で、木造の侘び寂びの寺の世界に親しんでいる日本人の自分にとっては、どこかサイケデリックな印象さえ感じる。どこを観てもあんまりギラギラしているので、ほどほどにして見るのを止めて帰ることにした。

パゴダから出る時、そういえばお金を降ろしたいな、思った。手持ちの現金では少し足りないような気がしていたのだが、ホテルのそばの銀行のATMにカードを入れてもカードが拒否されてしまい、どこで降ろせるのか分からなかった。
パゴダの入り口にいた観光案内の職員のおばちゃんが、「XXタワーのエキゾティックツアーという会社に行きなさい。そこなら両替もお金を降ろすのも出来るわよ」と教えてくれた。
なぜツアー会社に行くと両替したりお金を降ろしたりできるんだ??
その時はそういう疑問が膨らんできたが、他にどういうアイディアもなく、そのアドバイスに従って、言われた通りのツアー会社を訪ねた。

ツアー会社の受付嬢に、お金を降ろしたいと説明すると、彼女は自分が何を言われているのかさっぱり分からない、という怪訝な顔で私を見たあと、オフィスの奥に行って人を呼んできた。
受付嬢に代わって現れたのは、キャリアウーマン風の女性だった。彼女は私に名刺を渡したあと、こう言った。
「うちはツアー会社だから、ツアーのアシスタントはするけれど、両替もお金の引き落としもしないですよ」と言われる。そこで、(ああ、あのパゴダのおばちゃんは、俺がどこかのツアー会社のツアーで来ていると勘違いしたらしい…)と合点がいった。
そこで、「どこかにマスターカードでお金を降ろせるATMはありませんかね」と尋ねると、彼女は信じられない言葉を返してきた。
「ミャンマーの銀行はどこも国際クレジットカードのシステムに接続していないのよ。だから外国人はお金を降ろすことはできないの」

…そんな国が、あったのか。驚きのあまり、声が出なかった。
あのカンボジアのシェムリアップ、あの道路が舗装されていなくて、マリオカートのコースみたいに凸凹だらけで、売春カラオケ屋に連れて行かれるあのカンボジアですら、そこらの道端にあるATMでドルを降ろすことができたのに、それすらできない国もあるなんて。
「ということは、僕はどうやってもお金を降ろせないんですか?」
「そうなるわね…あ、ちょっと待って…」と言って、彼女はオフィスの奥に一度入ってまた戻ってきた。
「最近、つい二三日前に、マスターカードが使えるATMがダウンタウンにオープンしたというニュースが流れたのよ。そこを試してみるといいわ」と言って、彼女はATMの場所を調べて教えてくれた。
相談料に1ドル渡そうとしたが、彼女は決して受け取ろうとはしないのだった。

彼女に教えられたATMに向かうと、確かにそこに、マスターカードのマークのついたATMが鎮座していた。
しかし、ATMの前には、何もしないでただ座っているだけの男たちが、何人も屯している。近くの屋台で食事を取りながら、彼らが立ち去るのを待ったが、彼らは座ったまま一向にその場を離れようとしないので、ついに意を決して彼らにどいてもらい、ATMにカードを差し込んでみた。
パスワードを入力し、金額を選ぶ…
暫くして、指定した額のミャンマー・チャットがニュッとATMから姿を表した。
(やった!!)
これで当分はお金に困らなくてすむ。ATMからお金を降ろせることがこんなに素晴らしいだなんて…と感激しながら振り向いた時、私は背筋が寒くなった。

10人近い男たちが、私がお金を降ろしている様子を凝視していたからだ。
私が驚いていると、男たちは頼みもしないのに電卓を取り出し、ドルとチャットのレートを入力しはじめたので、慌ててその場から逃げ出すことにした。
ともかく、これで後の旅は大丈夫だ。
その時はそう思っていたが、あとでそれが間違いであることが判明する。

<北朝鮮直営レストランの憂鬱>

その日の終わり、私はヤンゴンに北朝鮮直営のレストラン「Pyongyang Koryo Restaurant」があると聞き、店の位置を調べると、夜レストランに向かった。日本の駒込で寿司職人として働いていたという日本語の堪能な親切なタクシードライバーに連れられてレストランに近づくと、一人の男が現れて、私を店の中まで案内した。
レストランの中に入ると、そこでは噂に名高い北朝鮮人従業員による歌謡ショーがすでに始まっているところだった。
レストランの内部は既に韓国人団体客に埋め尽くされ、席の空く様子は微塵もない。「一人です」と英語で言うと、年配の従業員が朝鮮語で何事かを早口でまくし立て、壁際にある椅子(席ではない。テーブルがなく、ただ椅子があるだけである)を薦めてきた。

舞台の上で歌って踊る従業員たちは、何やら80年代のキャバレーのホスト嬢のようなギラギラと輝くミニスカートのドレスに身を包み、統率の取れた動きでムード歌謡のような曲を披露している。
韓国人ツアー客は嬉しそうにそれを眺めながら北朝鮮料理に舌鼓をうち、更には一つの演目が終わると歓声を上げ、何処からともなく持ちだされた花束が、ショーの出演者たちに手渡される。
にやけた顔つきの中年男性たちが数人、演台のそばに近寄って動画を撮影し、「NO PHOTO」との張り紙を気にする人は一人も居ない。
数人の韓国人ツアー客が、ぼうっと壁際の席に座り続けている私の様子を不審そうな眼差しでチラチラと見るが、やがて数秒で興味を失って、彼らの視線は演台に戻る。

北朝鮮人のウェイトレスさんたちは、キリキリと素早い身のこなしで次々と韓国人ツアー客のテーブルに食事を運んでいくが、壁際で寄る辺なく座り続ける私に声をかけてくれる人も、声をかけられそうな雰囲気の人も一人も居ない。


非常にシュールな光景だった。
数十年前から深刻な対立を続け、つい最近でも潜水艦を爆破させたり、砲撃を加え合って人を殺している国同士で、別に問題が解決したわけでもなんでもないのに、この花束と歓声の宴は何なんだ?
爆撃を加えた国の相手に花束や大歓声を送ったり、黙々と給仕をし続けるこの様子をどう解釈すればいいんだ?
それとも、国同士の対立は建前で、同じ民族同士本当はとても仲が良いということなのか?

30分ほどもショーを黙って見続けたころ、数人の身なりの良い中東風の男女が現れた。ウェイトレスたちは、彼らは何も言わないうちから素早く彼らを二階に連れて行った。
(帰るかぁ…)
その様子を観て、私は黙ってレストランを出ることにした。いつまで経ってもこの宴が終わる気配はないし、この宴が終わってガラガラになった後で、ぽつねんと一人で飯を食べる気持ちにはとてもなれなかった。

北朝鮮レストランを出て、私は隣の中華料理店に行った。ウェイターたちは、私を快くもてなしてくれ、食事もビールも全てが美味いのだった。

2012年11月28日水曜日

ミャンマー旅行で役に立つ情報(2012年11月現在)

前回のミャンマービザ取得方法についての記事が、なぜかにほんブログ村の海外旅行カテゴリランキングで、数日間1位を取ってしまいました。
読んでいただいた皆さん有り難うございます、と申し上げると同時に、ミャンマー旅行に関心を持たれている方が沢山いらっしゃるのだと改めて驚きました。
というわけで、今回はミャンマー入国後に役に立つ情報について報告したいと思います。

ATMでお金を降ろす

ミャンマーを旅行する際の最大の懸案事項は、ミャンマーでは、基本的に外国人はATMで現金を降ろせないということです。
実は、ミャンマーの銀行は国際クレジットカードのシステムと連携していない為、VisaだろうとMasterCardだろうとATMで使用できないのです。

従って、ミャンマーに向かう前に、現金を大量に用意しておく必要がありますが、もし、現金を持たずにミャンマーに向かうとどうなるか。
これは、一言で言って帰国できなくなるかもしれません。
なぜなら、クレジットカードが使用できないので、飛行機のチケットを買う時でさえ、現金で支払わなければならないからです(2012年11月現在、例えばミャンマーの航空会社のHPで飛行機のチケットを予約したとしても、支払い画面などは出てこないはずです。予約を受け付けましたというメールしか帰ってきません。チェックインする時に現金を払うしかないのです)。
つまり、行き帰りの飛行機代に加え、現地でのホテル代や食費なども全て含めた額の現金を用意しておかないと、後々大変な目に遭うことになります。

ただし、2012年11月現在、ヤンゴン市内に限っては、MasterCardを使用してキャッシングが出来るATMが幾つか登場し、外国人でも現金が調達出来るようになりました。
2012年11月15日、ヤンゴンのCo-Operative Bank(CBBank)が、ミャンマーで初めてMasterCardでのキャッシングサービスを始めました。この銀行のATMを使用すれば、一日に最大で、MasterCardで300,000チャット×3の計900,000チャットを入手することができます。
ヤンゴン市内のCBBankのATMの位置は以下のとおりです(市内でもう一箇所、MasterCardのマークのついたCBBankのATMを目撃しましたので、もしかすれば市内のCBBankのATMは全て対応したのかもしれません)。


ここのATMを使用する上で、他の国のATMと違うところは特にありませんが、このATMの周囲には闇両替商などが常時たむろっていることに注意する必要があります。
ATMでキャッシングをするという行為自体が珍しいのか、私がお金を降ろした時、10人近くの男たちが背後から私がキャッシングしている様子をじっと見つめた後、頼んでもいないのにチャットをドルに両替しようと迫って来ました。
こうした闇両替商にお金を騙し取られたという話も聞きますので、声を掛けられても応じないのが懸命です。
このATMは24時間営業ですので、夜間、彼らが引き上げた後にお金を降ろしに行くのもよいでしょう。銀行のガードマンはATMのすぐ近くで常に見張っているので、お金を降ろして強盗に襲われるというようなことはないはずです。

ミャンマーでの通貨事情について

ミャンマーで流通している貨幣は、ミャンマー・チャットとアメリカ・ドルです。
以前はチャットの公式為替レートが非現実的で、公式レートと闇レートの二通りが存在するほど、チャットが信用されておらず、そのかわりにドルを使っていたようです。
最近は二重レートが廃止され、比較的現実的なレートになったそうですが、チャットも街のあちこちで普通に使われています。

さて、昔の旅行ブログや本などで、「どこでもドルが通用するので、ドルさえ持っていれば不便はしない」という記述をしているものがあったと聞いていますが、2012年11月現在、ドルは町中であまり通用しません
ヤンゴンではドルを受け取ってくれる人もたまにいますが、バガンのような田舎ともなるとドルを受け取ってくれる人はほとんどいません。
逆にドルを使わなければならないのは空港で、航空券のチケットやエアポートタクシーの類はドル払いとなっています。一方、一般生活の中ではチャットが主流なので、航空券の料金はドルで、それ以外はチャットで用意すべきです。
今は二通りの通貨を使わなければならずに不便ですが、将来的にはおそらくチャットだけでよくなるでしょう。
カンボジア・リエルのように、自国通貨が買い物をした後にもらえるおまけチケットレベルの扱いを受けている国(ATMでもドルが当たり前のように出てくる)に比べれば、ずっとマシだと思います。

バガンでの円の両替について

2012年11月現在、ミャンマーでは、円はほとんど両替できません。ミャンマーで通用するのは、チャット、米ドル、ユーロ、そしてなぜかシンガポール・ドルだけです。円はどこに行ってもなかなか受け付けてもらえません。円は出発前にドルに変えておいたほうが望ましいでしょう。

さて、ミャンマー中部にある遺跡の街・バガンは、アンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥールに並ぶ超弩級の仏教遺跡群であり、日本人や欧米人もしばしばバガンを訪問しています。

ヤンゴンのように、最低限の現金入手法がある場所はともかく、地方都市に行くと完全にそうした手段もなくなります。
(私自身のことですが、)バガンに向かったものの、バガンでチャットがなくなってしまい、「どうしても手持ちの円からチャットに両替したい」ということがあるかもしれません。
むろん、普通の両替所で円をチャットに両替してくれる場所はほとんどありませんが、バガンのゲストハウスのオーナー夫人から、一箇所だけ円をチャットに両替して貰える場所を教えていただきましたので、こちらでご紹介しておきます。

大きな地図で見る

ニューバガンのメインストリート、Kayay St.の、ストゥーパが中央にあるロータリーの付近に、Duwun Motelというモーテルがあります。そのモーテルから、ストゥーパの方角に進むと、左手にネットカフェと食堂らしい店があるので、その店の角を左に曲がって少し歩くと、右手に看板も何もない、小さな商店のような店があります。
私が行った時は奥さんとその娘さんの二人が店番をされていました。そこで両替を依頼することができます。

レートは2012年11月現在で1万円=90,000チャットでした。同じく最近バガンに行かれたこちらのサイトの方は、「1万円=75,000チャット」と仰っておられるので、それに比べれば遥かによいレートのはずですので、バガンで両替をしたい方は、ぜひ試してみてください(ただし、私の時は近所の知り合いの人に頼まれたので、良いレートで引き受けてくれたという可能性もあります。実際に行ってもっと低いレートだったとしても責任は取れませんのでご注意を!)。

それでは、よいミャンマーの旅を!

2012年11月25日日曜日

バンコクでのミャンマービザ取得方法について(2012年11月現在)

チェンマイからバンコクに帰還した翌日、ようやくミャンマー大使館に赴いてビザを取得してみることにしました。
ミャンマーは、基本的に日本人がビザがないと入れない数少ない国の1つですので、次にミャンマーに向かう人のために取得方法を纏めてみました。

2012年11月現在、ヤンゴン空港でアライバルビザを取得することは可能ですが、取得できるビザの種類は
  • 商用
  • エントリー
  • 通過
だけで、観光ビザを空港で取ることはできません。従って、観光ビザはやはり事前に大使館で取得することになります(ちなみに、タイ国境の一部の村(観光客用の先住民族の村)には、5USDでミャンマーに日帰り入国することができるそうです)。
なお、ネット上でミャンマーのビザが取得できるシステム(E-Visa)が開始されたというニュースがあり、ウェブサイトもすでに開設されていますが、これは2012年11月現在使用できる状態にないようです。
バンコクの大使館でビザを取得すると、最短当日中~翌日には取得できますので、日本で取得するより便利かもしれません。

バンコクのミャンマー大使館は、バンコクBTSスラサック駅から、クリスチャン系の学校の方角に向かって歩いて数分の位置にあります。
ビザの申請時間は午前中のみですので、午前9時ごろに向かいます。
既に朝からビザ申請の行列ができていますが、ビザの申請用紙が整っていない場合は、絶対にここに直情的に並んではいけません。なぜなら、申請用紙は行列で長時間待った後の大使館の中にしかなく、並んでようやく大使館の中に入った後に、申請用紙を書いて写真を貼ってからまた並び直さなければならなくなるからです。


では、どうするか。
大使館のある通りを、北に向かって数分歩くと、このような看板が見えてきます。

実は、この看板の奥にあるカメラ屋に行くと、ミャンマービザの申請用紙に、証明写真、パスポートのコピーが全て手に入ってしまうのです!
ここには申請用紙の見本もあるので、時間を無駄にせずに申請用紙を書き、写真とパスポートのコピーを作ってもらうことができます。

申請書類が完成したら、後は行列に並び、ミャンマー大使館に入ります。
ビザの発給は最短で当日ですが、"Express service with air ticket only"との注意書きが貼り付けてあることからも、翌日出発の航空券を持って行かない限り、当日に発給してもらうことはできないようです。

申請手数料は、
  • 即日:1260バーツ
  • 翌日:1035バーツ
  • 2日後:810バーツ
です。
申請が済んだらいったんパスポートを大使館に預けて、ビザの発給日にもう一度大使館に行きます。ビザの受領時間は15:30~16:30で、その時間に行けばビザとパスポートを手に入れることができます。

それでは、よいミャンマーの旅を!

2012年11月24日土曜日

北方の薔薇(チェンマイ・第22~25日目)


カンボジアから戻ってきた後、ミャンマービザを取り忘れたせいで、すぐにミャンマーに出発できないことに気づいた私は、この土日をどうするかについて考えた。
土日はバンコクのミャンマー大使館が休みだから、何もすることができない。このままバンコクで土日を黙って待つというのもひとつの方法だったけれど、カンボジアから戻ってすでに丸二日休んでいたうえ、更に二日間何もせずに過ごすのは幾らなんでも怠惰に過ぎると思えてきて、いっそチェンマイを見て廻ろうかと思い至った。

チェンマイは、タイに入る前までは全く知らない土地だった。それを行こうと思い立ったのは、Across the Universeを連載中の市川君がオススメしてくれたことと、シェムリアップツアーで知り合ったシンジさんが、「チェンマイは流し灯篭のお祭りがとても綺麗らしい」というようなことを教えてくれたからだった。
そんなわけで、全く何の繋がりもない二人に同時にオススメされたということもあって、俄然興味が湧いてきてしまったのだった。
なおチェンマイでは、コムローイ祭りや、ロイカートン祭り、イーペン祭りなど、11月にイベントが満載だったのだが(ちょうど、これを書いている頃にお祭りが始まっているはずだ)、その期間に合わせて行くのは難しく、従って祭り前にチェンマイに出向くことになった。

チェンマイは、主に城壁(の跡)で囲まれた旧市街と、城壁の外にある新市街で成り立っている。旧市街の内部には無数の仏教寺院があり、僧侶が暮らしている。
ゲストハウスは旧市街の中にあり、すぐそばに数軒の寺院があったが、夕方になると僧侶たちの祈りの読経が、近所の寺院から染み入るように流れてくるのが、夕暮れ時の街に妙にしっくりきていて、どこか穏やかな気持ちになった。言葉はまったく分からないけれども、それはペナンで聞いたモスクの祈りの読経と、それは何処か似ていた。
僧侶たちは、こうやって、寺院の横にシボレーの代理店が出来る前から、今と変わらない祈りを捧げつづけてきたのだろう。そんなふうに思えた。

二日目は、チェンマイの町並みをのんびり見て歩くことに費やし、寺院の中で、地元民に混じって祈りを捧げた。別に自分は熱心な仏教徒でも何でもないけれども、マレーシアでもバンコクでもアンコール・ワットでも、とりあえず神仏に旅の安全をずっと祈るようにしていたからだ(出発前に函館の寺院でおみくじを引いたら人生初の大凶だったのを、なんとなく引き摺っていた)。

三日目は、市川くんに聞いた、タイの温泉に行く事にした。チェンマイの北80kmにチェンダオという小さな町があり、そこで日本人がレストランと温泉を経営しているという話であった。
ゲストハウスでバイクを借り受け、まずはチェンダオの前に小手調べとばかりに、チェンマイの北西の山1080mにあるワット・ドイ・ステープを訪ねた。久方ぶりのバイクに心は躍り、バイクはするすると山道を上り詰めて、ワット・ドイ・ステープに辿り着き、そこからチェンマイの町並みを心ゆくまで堪能することができた。
その後、チェンダオまで一気にバイクで駆けた。チェンダオまでの80kmはのどかなもので、道幅の広い道路はさながら高速道路と見紛うばかりだった。
1時間半も走ってチェンダオの日本食レストラン『TAKE』にたどり着くと、そこにはオーナーのUさんと、その友人のYさんが酒盛りに興じているところだった。二人共もう50代と思われる壮年の男性で、日本では地位の高い役職に就いていたのでは思わせる貫禄があった(実際にYさんは、日本では茨城の大学の助教授であったという)。
(なお、Yさんとの雑談の内容は、ミスターYかく語りきのエントリにて記した通りである)

Uさんの経営する温泉「ほたるの湯」は、『TAKE』から3kmほど離れた森の中にあり、日本人が発見した源泉を引いて作った温泉なのだという。立派なつくりの露天風呂2つと、地元民も使うという無料の土管風呂が川べりに置かれていた。
露天風呂のほうはもう既に予約がいっぱいとのことで、土管風呂に入ることにした。気さくそうな地元のタイ人たちとともに、土管を輪切りにして塩ビパイプで湯を引いただけの湯船に浸かった。森の中で、一ヶ月ぶりに入る温泉は、心までも温まるかのような心地よさで、旅の疲れを癒してくれた。

風呂の後は、『TAKE』でトンカツ定食を作ってもらい、それを食べながら、UさんYさん、メーホーソンからやってきた二人の友人で、高倉健にそっくりなSさん、彼らの友人のタイ人Tさん、同じくチェンダオに長期滞在しにきたIさん夫妻らと、楽しい宴会が催された。そこは間違いなくタイの北の果てだったけれど、どこかそんなことを忘れて、まるで日本にいるのではないかと錯覚してしまいそうになるのだった。

すっかり辺りが暗くなったころ、「カラオケに行こう」「チェンマイなんか行っても城壁しかない」「(Tさんの)家に泊まればいい」というUさんYさんの誘いを固辞して、バイクでチェンマイに戻ることにした。カンボジアでのカラオケ事件のせいで、すっかりカラオケ恐怖症になったのもあったけれど、さすがに会って初日のTさんの家に泊まるのはいささか気が引けたのだった。
チェンマイに戻る真っ暗闇の道をひた走っていると、突然タイ軍の検問にひっかかった。暗がりからぬっと現れた軍人の男性から、何事かタイ語であれこれと問いかけられたが、当然分からないので「自分は日本人である。タイ語は分からない」と英語で説明すると、ただの旅行者と気づいたらしく、すんなりと通してくれた。
後で調べたところでは、今年の7月にこの国境付近で麻薬の密売組織との銃撃戦があったばかりなのだという。一人でバイクに乗ってミャンマー側から走ってきたので、麻薬の運び屋なのではないかと怪しまれて誰何されたのだろう。

四日目、何の脈絡もなかったけれど、突然銃が撃ちたくなって、チェンマイの北にある射撃場にライフルを撃ちにいった。実銃を撃つのは、韓国の釜山で拳銃を撃って以来、4年ぶりのことだった(釜山で自分が銃を撃った数ヶ月後、例の爆発事故が起きて驚いたが、自分の行ったシューティングレンジとは別の店だった。ただし、事故のあった店はガイドブックに乗っており、行こうかと思ったが遠いので別の店にしたのだった)。
銃というのは面白いもので、一発を撃つごとに、私は何処か敬虔な気持ちになる。きっとそれは、銃という道具は、基本的には何かを破壊し、あるいは殺傷する兵器であるからだろう。
ライフルといっても撃ったのは22口径で、豆鉄砲に毛の生えた程度のものだったけれど、それでも当たりどころが悪ければ、人を殺すくらいの破壊力は十分にある。
自分は単にレンジでターゲットペーパーを狙うだけだが、もし人間を狙ったなら、狙った人間の運命をどうしようもなく決定し、不可逆的に完全に破壊することができるだろう。
おかしな話だけれど、銃を無事に撃ち切った後には、奇妙な平穏が心を満たす。うまく説明はできないけれども、それは自分が危険な兵器を誰も傷つけることなく無事に制御しきったという満足感とも、危険な兵器を制御する責任を果たしたという安心感ともいえるかもしれない。
自分は知らないけれど、ナイフを収集する趣味の人にも、そういうところがあるのではないだろうか。そういう人たちは、『危険なものが好き』というよりは、『危険なものを制御している安心感が好き』なのではないだろうか。危険な魅力であることに変わりはないけれども。

夕方、非常に親切なオジさんの運転するソンテウ(乗合バスのような車。見た目はフィリピンのジプニーに近い)を雇ってチェンマイ空港に行き、バンコク行きの飛行機に乗り込んだ。
いよいよ翌日、未知の国ミャンマー大使館との対決が待ち構えている。そう思うと、なんだかワクワクするものを感じた。

2012年11月20日火曜日

失敗(ベンメリア/トンレサップ湖~バンコク・第19~21日目)



三日目の日程は、ベンメリアと呼ばれる遺跡と、シェムリアップ南部に位置する巨大な湖、トンレサップ湖の訪問である。
ここで、二日目に出会ったシンジさん、マサキくんはそれぞれの目的地に向かって出立した。それと入れ違いに、アツミさんが旅の仲間に加わった。
アツミさんは道民である。普段は道北の利尻島で働いているらしいが、なんと1月~3月の冬の期間は函館(!)で仕事をする予定になっているとかで、旅を終えた時に確実に再会できる人がいるという楽しみが増えることになった(ヤッターバンザーイ)。

アツミさん、アサミさんにアニキと私という四人編成でトゥクトゥクに乗り込み、ベンメリアに向かった。ベンメリアはアンコール・ワットよりも更に北、シェムリアップの北80kmに位置する。
事前にマサキくんから、ベンメリアまでは非常に道が悪く、走ると砂埃が舞い上がるうえ道は凸凹していて、油断するとトゥクトゥクに頭をぶつけるという話が出ていたが、雨が降ったせいか道路はしっとりと濡れていて、砂埃に悩まされることはなかった。

一時間してベンメリアに着いた。ベンメリアは、雰囲気が「天空の城ラピュタ」に似ているところから、カンボジアのラピュタなどと呼ばれることもあるらしいが、巨大なガジュマルが遺跡のあちこちに根を下ろし、遺跡のあちこちが崩れているところを見ると、なるほど雰囲気はよく似ていた。
ここもまた、遺跡は内戦の影響であちこち破壊されてしまっていた。ここはほとんどまだ修復は始められていないらしく、あちこちに崩れた石が積み重なり、それを苔がすっかり覆いつくして、壊されてからもかなり長い時間が経ってしまったことを思わせた。
アンコール・ワットよりも規模は小さいはずだが、それでも積み重なった様々な装飾の施された瓦礫の山を見れば、これを元通りに修復するには、気の遠くなるような時間と、莫大な金が必要なのは一目瞭然だった。たとえどこの国が援助しようとも、そう簡単に修復が始められるものでは無さそうに思えた。
しかも聞いた話では、遺跡の巨大なガジュマルを切るかどうかでも問題になっているという。つまり、ガジュマルはもう遺跡の一部になったのか、それともただ遺跡を破壊しているだけなのか、という問題が以前から修復プロジェクトで議論されているらしい。
まったくもって、壊すほうは気軽に壊せるが、創るほうは想像を絶する難しさがある。最近はピラミッドを壊すとかスフィンクスを壊すとか言っている過激派イスラム教徒もエジプトにいるらしいが、彼らはそういった事を想像しないのであろうか?

ベンメリアからシェムリアップに戻ると、土産物屋と市内のオールドマーケットに案内された後、トンレサップ湖に向かった。トンレサップ湖はシェムリアップの南にあり、その大きさはシェムリアップの街をはるかに凌ぐ。
トンレサップ湖からは更に川が南に向かって流れていて、この川を辿って行くとプノンペン近郊を通ってベトナムまで届き、最後に太平洋に流れ出ていく(ちなみに、季節によって、トンレサップ湖に流入する川の流れる向きも色々と変わるらしい)。

トンレサップ湖に着くと、巨大な湖が我々を出迎えた。
湖の中には森が茂っているがこれは陸地ではなく、木々が直接湖の中に生えて陸地のように見えている。
アニキに促されて、三人でボートに乗り込むと、ボートは両側を森に挟まれて一見川のようになっている航路を突き進む。川のふちには、水上生活を送る人々の家々(これも全てボートの上にある)が並んでいる。
川を下り終えて、開けた場所に出た。そこは文字通り海だった。文字通り地平線の果てまで湖が続く、雄大そのものの景色である。
ここで夕陽の展望台兼土産物屋(これもボートの上)に降ろされ、夕陽がやって来るのを待った。陽が落ちるのを待つ間、展望台を散策すると、展望台の地下(水面?)室に十匹前後のワニが飼われているのを見た。見物客用の見世物なのだろうか。

もっと驚いたのは蟻だった。
蟻が、展望台のレストランの一角に捨てられていたゆでエビの残骸に集まって、エビをせっせとどこかに運んでいるのだ。湖のど真ん中で!
どこに巣を作っているのだろう。展望台から湖の底に降りて、地中にある巣に向かう秘密のルートがあるのだろうか。それとも、ボートのどこかに穴をあけて、そこに巣をつくっているのか。あるいは、木の上や幹の中に棲む変わった種類の蟻なのだろうか。
探してはみたが、彼らの行き先はさっぱりわからなかった。

トンレサップ湖の夕焼けは美しかったが、やや曇っていて太陽は見えなかった。周囲が薄暗くなって、呼びに来たアニキに従ってボートで来た道を戻った。
水上生活を送る人々は、元を辿るとベトナム人であるらしい。彼らは、季節に従って住む場所を移しながら半定住生活をしているという。
彼らの水上ハウスには普通にテレビがあって、子供たちがテレビを見ている。ハンモックでゴロゴロしている人もいるし、たくさんの商品が陳列された商店もある。
たぶんパソコンを持っている人もいるだろうし、ひょっとしたら船に揺られながら水上生活のブログなんかを更新している人もいるかもしれない。
いずれにしても、世の中には色々な暮らしをしている人たちがいる。その人たちはまったく違う暮らしをしているようでいて、一方では日本の暮らしと大して違わないところもあるらしい。
そんな人々が世界のあちこちにいるというだけで、どこか勇気付けられるような、心強いような気持ちを感じながら、またトゥクトゥクに乗ってトンレサップ湖を後にした。

トゥクトゥクがホテルに着くころ、またアニキが囁くように話しかけてきた。
「ここね、ここのインターネットカフェに9時半。私は韓国語の勉強してから行きます。OK?」
例のカラオケの誘いである。
アニキは「ホテルの人には言ってないね? ホテルの人に言うと面倒だからね」と言う。変だと思ったうえ、正直なところ疲れていて面倒くさい気持ちがあったのだが、一度約束してしまったので行く事にした。
しかし、どこか変だと思うところもあったので、一応「アニキ、僕は女の人は要らないですよ。普通のカラオケだけ、それでもよければいきますけど」というと、アニキは「OKOK」と行って去っていった。
9時半にインターネットカフェに行くと、アニキは時間通りバイクで待ち構えており、それから私を後ろにのせて出発した。

バイクで10分、人気のない薄暗い道をひた走ってカラオケ屋に通されると、そこにはピンクの照明の玄関ロビーに女性が30人ばかりも待ち構えているカラオケ屋だった。
(やっぱりこうなるのね…)
女性たちの視線を感じながら、アニキの案内で奥に通される。
「女の子呼ぶとキスとタッチだけOK。エッチは別料金」と説明するアニキに、「女は要らないって言ったろ」と抗議する気持ちもなくなり、さっさと歌って帰ることを決心する。
「女の子ホントに要らない? ホントに?」と聞くアニキと店のママさんのような人に断固「要らない」と断って日本曲の本をめくってみると、どれもこれも40代以上が歌うような演歌とムード歌謡だらけで、歌える曲がほとんど見つからない。
ここに来る日本人の客層を想像してげんなりしながらも、なんとか歌える曲を数曲見つけてなんとか1時間半を切り抜けた。その頃にはさすがのアニキも私が乗り気でないことに気づいたらしく、当初は2,3軒掛け持ちするつもりでいたようだったが、1軒目で打ち止めということになった。
ちなみに、アニキはその1時間半の間にカンボジアの演歌を楽しそうに歌い、7~8回もカンパイ!と言って場を盛り上げようとしていたが、当然そんな売春カラオケ店にやってきて男二人で盛り上がるはずもなく、終始粛々と歌うだけで終わった。
カラオケ1時間半とビール2本、ピーナッツ1袋で35ドルというボッタクリ価格、費用はこちらの全持ち、さらにアニキの飲酒運転バイクにニケツでホテルに戻るはめになるという、何のために行ったのかさっぱり分からない脱力ぎみの宴になった。
(ちなみに、アニキはこうやって客を売春カラオケ屋に連れていけば、店から手数料をいくらかもらえるのであろう。ホテルに言うなとしつこく念押ししていたのも、そういう理由だったのだと思う。)
こうして、カンボジアの夜は幕を閉じた。

こうして私はカンボジアからバンコクに戻った。
長時間の野外活動と、最終夜の脱力売春カラオケ事件で疲れ果ててしまい、バンコクでは2日ばかり休んで、それからヤンゴンに向かうつもりでおり、ブログで情報収集やカオサンロードで土産物探しなどに費やした。
しかし、「金曜日の午後」になって大変なことを忘れていたことに気づく。
ミャンマーはビザが必要な国であり、ミャンマービザの申請手続きは「月曜から金曜の午前中」までだということを。
つまりそれは、ミャンマーにはまだ行けないということを示していた。

2012年11月16日金曜日

払暁(アンコール・ワット、第18日目)

またまた、次の日も朝4時ごろに起きた。
ツアーの予定で、朝の5時からアンコール・ワットで朝日を眺める予定になっていたからである。
ようやく目が覚めてきて、5時にロビーに降りていくと、ロビーにはもうすでに他の日本人の仲間達がスタンバイしていた。
彼らと一緒にホテルの外に出ると、外ではトゥクトゥク(カンボジアでもタイと同じ名前でほぼ同じ乗り物。バイクに客席を取り付けた三輪タクシー。フィリピンでいうトライシクル)が待ち構えていた。これ2台に二人ずつ分乗して行くということらしい。
ところが、運転手の一人が、裸のバイクを指さしてこれにニケツをせよと言い出した。

「もう一人のトゥクトゥクのオカマ、眠い言ってる。来れない。スリーピー。」
…はぁ、そうですか。

というわけで、他の三人とは別れて、バイクの後部座席にニケツをして朝方のアンコール・ワットまで出向くことになった。
(出発前、バイクの運転手が人に言いつけて倉庫からヘルメットを取り出させていたので、てっきり自分の分もあるのかと思っていたら、ライダーがそれを被ってさっさと出発してしまった)

払暁のシェムリアップを、バイクはグングンと速度を上げて走る。街はまだ眠りから目覚め切っておらず、ぽつぽつと数人の人が道端をウロウロしている以外に、ほとんど人気はなかった。
アンコール・ワットに向かう道路は、町中の道路の様子とは裏腹に、いやに道幅が広く、小奇麗に整備され、森を貫くように真っ直ぐ進んでいた。
バイクでひた走っていると、風で少し肌寒いくらいに感じる。薄暗い森の中を走っていくその様子は、それだけでなんとも言えないくらいに幻想的で、まるで子供の頃にテレビで見た「みんなのうた」の「まっくら森の歌」の世界を思わせるようだった。

バイクがアンコール・ワットに着くと、ドライバーは何処かに行ってしまった。ガイドもなく、一人で奥に向かうと、意外なことに早朝のアンコール・ワットは、あちこちに人だかりができていた。
そこかしこで自分と同じく朝日を狙ってやってきた観光客だらけで、ひっきりなしに日本語が聞こえてくる。
やがて、朝日がアンコール・ワットを美しく照らした。それは実に美しかったが、あまりにも観光客が多すぎて、どこか拍子抜けさせられるところもあった。
(もっと奥に行ってみるかな。いや、止めとこう。どうせ今日また来るんだから…)

遺跡入口に戻ったが、他の仲間達の姿はどこにもなく、待っていたバイクでホテルに戻った。途中、バイクが道端で急に停止したので、何事かと思って様子を見ていると、運転手は道端にあった、大きな石油ポンプのような機材が乗っかったドラム缶のそばに立っていた女性に声をかけ、金を払った。すると女性は、石油ポンプに取り付けられていたチューブをおもむろにバイクのタンクに挿しこみ、もう片方のチューブの端を外して、チューブを頭上高く持ち上げたのだ。

これはガソリンスタンドだ!
なんということだろう。ガソリンを、道端で普通の女の人が何事もないような顔をして売っているのだ。そういえば、普通のガソリンスタンドはほとんど見かけない代わりに、このドラム缶式ガソリンスタンドが道のあちこちにある…。取扱免許とか、そういうのはどうなっているのだろう。
カンボジアのことがますます分からなくなりながら、ホテルに戻った。

ホテルに戻って朝食を済ませたあと、朝の8時に再び遺跡訪問に出発した。ここで、日本語を話すガイドの人が現れた。
自称『アニキ』。テンションの妙に高い、お調子者タイプのキャラである。彼の正しいのか正しくないのか今ひとつよく分からない解説を聞きながら、一行は午前中にはアンコールトム、タ・プローム、午後からはアンコールワットを訪問した。
こうした遺跡は有名すぎて、いちいち自分が何か感想を述べるのも憚られるほどだが、一言で言ってその荘厳さと、スケールの大きさには圧倒されるものがあった。これほどのものを、1000年近い昔の人々が手作業で作り上げていったとは、とても想像がつかない。今同じようなものを作ったとしても、とてつもない大工事になるだろう。
残念なことに、こうした遺跡は、カンボジア内戦の影響で、悉くクメール・ルージュによって大きく破壊されてしまっていた。もしこれが破壊されていなかったとしたら、もっと素晴らしい遺跡になっていたことだろう。
遺跡群のあちこちで、各国が協力している修復プロジェクトが進行中、というような看板を目にした。もちろん、これが単なる各国の善意と篤志だけで行われているとは思わないけれども、それで遺跡が少しでも蘇るなら、それに越したことはないとも思えた。

アンコールワットの遺跡の中では、かつてここを訪れた訪問者たちの刻んだ文字をあちこちで目にした。
1902、XXXX。昭和十六年、大日本帝國・XXXX。大南國X南省(戦前のベトナム)・XXX。1959年・XX。2007年・XXX…。
中には、1632年にアンコールワットを訪ねた長崎の武士・森本右近太夫の落書きまでも、石柱に残されている。
色々な国からの、様々な人々の訪問記念の落書きである。言ってしまえば文化財の破壊でしかないわけだが、外国に訪問するのも難しかったであろう大昔の人々の落書きを見ると、彼らはどのような思いを胸にここにやってきたのだろう、彼らはそれからどのような人生を送ったのだろう、と思いを馳せずには居られなかった。

最後にプノンバケンという遺跡で、アサミさんマサキくんと共に夕日を鑑賞した後、ホテルに戻った。
強すぎる直射日光と長時間の野外活動のせいで、とにかくヘトヘトに疲れていたが、まだまだ明日の予定は残されていた。

ちなみに遺跡の鑑賞中、アニキが私に向かってこんな事を囁いてきた。
「どうですか、夜にカラオケでもいきませんか?」
一瞬迷ったが、現地の人との交流は大事にしなければなどと思いたち、OKすることにした。しかし、これが次の日、失敗であることが判明する。

2012年11月15日木曜日

ミスターY かく語りき

ミスターY:
神奈川出身。チェンマイ・チェンダオの日僑経済界のフィクサー。現在は自動車関係?の職業に着かれている様子。ミャンマーにも詳しい。ドイツ語を話す。
(私は北タイ・ミャンマー情勢には詳しくなく、しかも酒の席での雑談なので、とりとめがなくまったく詳細に欠けますがご了承ください。所々間違えているかもしれませんし、参考程度です)

於:チェンダオ某所

Q.東南アジアに日本企業が進出しているようですね
A.タイにも色々日本企業が来ているが、日本企業がなぜ東南アジアに来るかわかるかね。人件費が安いのも1つだが、法律の規制が緩いので廃水などを垂れ流しに出来るからだ。現地に住んでいる者からすればとんでもない話だ。倫理が破綻している。そんなことをしていたらいずれ堕落するよ。

Q.北タイはどうなのですか
A.北タイは今アツい。アジアハイウェイをここから北のチェンコンあたりに建設する計画が進んでいる。なぜ道路を作るかというと、マレーシアを迂回して海路で荷物を運ぶよりずっと安いからだ。中国や日本が進出してきている。北タイ人も賢い。何をしたかというと、道路が出来る前からさっそく穀物の集積倉庫や、パルプの工場を建てた。こういうのはハズレがない。今は地価も上がってきて、土地などとても買えなくなってしまって失敗だった。

Q.最近はミャンマーが注目されていますが
A.私に言わせれば何故あれほどミャンマーが熱いのかわからない。ミャンマーは今もてはやされているが、西部のアラカン(ラカイン)州あたりでは軍がイスラム教徒を殺していて、また何が起きるかわからない。何かが起きた時、日本企業が対応できるかという話だ。先の地震の時も日本人は準備をしなかったので、うろたえて対応できなかった。私もドイツ人に、なぜ日本は原発事故の対応が遅いのかと言われた。そういうことだ。

Q.ミャンマーとタイは貿易が盛んなのですか
A.盛んだが、ミャンマーは不安定だ。最近ではメーソートというところの国境が閉まっている。なぜかというと、ミャンマー側の警察と軍が通行税の取り立てで内輪もめをしていて話が纏まっていないからだ。それで北タイ側のルートが注目されている。

Q.中国と日本が揉めていますが日本企業は東南アジアに移転してきていますか
A.私としてはもう少し揉めてくれたほうが面白いがね。それにしても日本という国はおとなしすぎる。あんなんでは国際社会で戦っていけない。

ミスターYについてS氏、U氏のコメント
S氏「ところでUさん、最近Yさんは何されてるんですか。バイクの在庫が800台くらいお持ちなんですよね?」
U氏「さぁなァ、いっつも聞いてんだけどよォ、よく分かんねぇんだよなァ!」

(このインタビューは無許可掲載ですが、特に特定個人に重大な影響を及ぼす内容ではないと思いましたので掲載しました。問題があればご一報ください)

ក្រុងសៀមរាប(カンボジア国境〜シェムリアップ、第17日目)

エイジアンティークでカリプソ・ショーを堪能した翌日、私はまた非常に頑張って朝4時半に早起きした。
朝何とか目を覚ました後、荷物を纏めてツアー会社のオフィスに向かうことを考えると、たとえそのオフィスがホテルの100m圏内にあろうとも、集合2時間前には起きないと荷物のパッキングをして出発することができない。そういう人間なのだ(会社に通っていた時は、会社と家を決まった手順で往復するだけで、面倒な荷物の整理も特になかったから、始業3,40分前に起きてもギリギリ間に合うことができた)。
そうやってようやく6時半にオフィスの前に行くと、今回はすぐにツアー会社のスタッフがやって来て、また昨日と同じように移動用のバンに私を案内した。

今回の行きずりの仲間たちは、昨日とは違っていた。
名古屋出身のアキコさんに、大阪出身のアサミさん。それと、福岡は粕屋郡出身の男性(なんと、智さんと同じでまた粕屋郡だ!)。
うとうとしながらバンに揺られて数時間、タイ・カンボジア国境のレストランで昼食を取り、出入国審査で長時間待たされつつも、徒歩で国境を通過する。歩いて国境を越えるのは、初めての経験だ。
その後、バスに乗り換えてこのままシェムリアップに向かうのかと思いきや、バスはタイ国境を出てすぐの大きなバスターミナルに停車し、全員が降ろされた。次にどうすればいいのかとガイドの話を聞くと、次はタクシーに乗ってシェムリアップまで行くらしく、日本人たちはタクシーに同乗してシェムリアップに向かった。

(ちなみに、ツアーの内容によってここでタクシーに乗るか、普通のシェムリアップ行きバスに乗るかが変わるらしい。ところがバスは次いつ来るか分からない、多分数時間後だなどと寝ぼけたような話が始まり、国境越えまで一緒だったドイツ人カップルが「自分でカネを払ってタクシーに乗るよ」とガイドに言うと、ガイドは「だめだ。俺はカネを貰ってるからあんたのバスのチケットに対して責任がある。バスに乗れ」などと怒り出し「あんたに責任なんかないよ、カネは自腹で出すと言ってるだろ」というドイツ人カップルと口論していた。急げと言ってさんざん急かした割に何分も待たせたりとサービスはテキトーなのに、責任だなんだということにはなぜかシビアなガイドだった)

そうこうしてシェムリアップに向かったが、タクシーはえらくのんびりとしたペースで、どこまでも限りなく続く水田をひたすら走った。運転手曰く、2時間はかかるという。
走っても走ってもあまりに風景が変わらないため、仲間たちはやがて寝始めた。自分もまた寝た。次に目を覚ました瞬間、たまたま視界の中に「Siem Reap Province」と書かれた標識が目に入ったが、風景は寝る前と全く変わっていなかった。

仲間たちもやがて起きてきて「全然風景変わってないね…」などと口々に話した。そう、あまりにも風景が変わらなすぎて、だんだんみんな不安になってきたようだった。シェムリアップという町がどんな所なのか想像もつかなくなってきたのだ。
もしかして、畑のど真ん中にホテルとアンコールワット遺跡だけがぽつんとあるような場所なのではないか…?
そんな想像さえ、あながち笑い話とも思えないくらいに風景に変わりがなかった。一体全体、どれだけ大量のコメを作っているのだろう。どこかに輸出しているのだろうか? それにしては、カンボジア米なんて聞いたことがない。でも、これだけの面積ならものすごい量が採れそうな気がする…。

誰かが「これホントに進んでるの?」と言うので、「一応さっきシェムリアップ州に入ったみたいですから、進んでるはずですよ」というと「良く見てたねそんなの」と言われたが、何のことはない、目が覚めたらたまたま州境だっただけの話だ。
その次は道路脇の石の標識に「Siem Reap 23km」と書かれているのを発見し、一同にようやく安堵の色が広がるのだった。

そうして少しずつ風景が街中に変わっていき、シェムリアップに到着したが、シェムリアップはなんだか一言で言っておかしな街だった。
あちこちに高級リゾートホテルのような立派なホテルがドンドンと建っているにも関わらず、道は舗装があまり行き届いていないらしく、赤茶けた色の土埃があちこちに舞い上がり、街自体がどこか赤っぽい印象を与えている。立派なリゾートホテルの隙間にには、フィリピンの家を更に貧しくしたような佇まいの家々がそこかしこに犇めいている。そうかと思えば、東京あたりにありそうな近代的なビルが突然現れて、その中に旅行代理店のH.I.Sの事務所が入っている。
ホテルに入る道は一般の生活道路のような様相を呈し、舗装はおろか、赤茶けた色の土の道があたかもマリオカートのように、凸凹と上下に波打っている。にも関わらず、舗装されてない道の両脇には、観光客向けの小奇麗なバーやらレストランやらマッサージ店やらがずらずら並んでいる。

わけがわからない…。タイとも何処か違う、謎の国カンボジアが私を出迎えたのだった。

2012年11月13日火曜日

ニューハーフ・ショー(アユタヤ/バンコク・第16日目)


バンコク二日目の朝7時、私はホテルのすぐそばにあるツアー会社のオフィスに向かった。
そのツアー会社は日本人が経営しており、日本人のスタッフがいるということで、前日の昼間に行ってツアーの申し込みをしていた。
申し込んだのは、バンコクの北にあるアユタヤ見学ツアーと、隣国カンボジアのシェリムアップにあるアンコールワット見学ツアーである。
最初はバックパッカーがツアーに参加するというのも変かもしれないと思ったが、話に色々と聞くと、アユタヤもアンコールワットも個人で回るのが難しく、一人で右往左往して疲れるよりかは、現地発のツアーに参加して効率よく見て回ったほうがいいと判断したのだった。

というわけで、7時集合との指示を受けて非常に頑張って起き、7時ちょうどにツアー会社の前に行ったものの、オフィスは開いておらず、係の人も誰もいない。
すぐそばで欧米人連中が朝のお茶代わりにビールを飲んでいるのを横目で見ながら、もしかして集合場所を間違っただろうかなどと不安になりながら待っていると、ツアー会社のタイ人のスタッフは、7時半になってから何事もなかったかのように現れ(そういえばここは東南アジアだった)「何をしている。早く行くぞ」という素振りで、私や他の人々を車まで誘導するのだった。

そのままツアー会社のバンに乗り込むと、日本人も何人か乗り込んでいた。
将悟くんと同じく大学の学園祭期間を利用してやってきたという和宏くんにヒロアキくん、立川在住の萌さん舞依さん、元日立製作所所員で現在は弁理士のキモトさん(犬の写真大好きな女性で、遺跡の写真よりひたすら現地の犬の写真を撮りまくっていた。面白い人である)。

アユタヤに到着すると、一行はツアーガイドに案内されながら、仏教寺院の遺跡を見て回った。昔ブッダの遺骨が収められていたという寺院跡や、木の根元に埋め込まれているブッダの頭部の石像、そして世界で三番目に大きいというアユタヤの寝釈迦像に詣った。
アユタヤの寝釈迦像と言えば、格闘ゲームの「ストリートファイターⅡ」のキャラクター、サガットのステージとして我々の世代にはお馴染みで、これを見に行くのが楽しみだったのだ(ちなみに、今の大学生にサガットステージと言ってももう通用しない。話をしても「何のことすか?」という反応が返ってくるだけである)
さっそく、寝釈迦像の目の前でサガットの必殺技ポーズを作って写真を撮ってもらおうとしていたところ、そこにいきなり「リュウ役をやりたい」と言って飛び込んできた人があった。
福岡県の粕屋郡出身の智さんという男性である。さっそく彼に波動拳のポーズを作ってもらって、ようやく再現することに成功した(まったくもってくだらない遊びだが、こういうくだらないちょっとしたことが意外といい思い出になったりするものだ)。

最後の記念にみんなで象の背中に乗ると、元着た道をバンで戻ることにした。バンの中で、せっかく会ったのだしムエタイでも見に行きましょうか、と智さんを誘うと、萌さんが「ニューハーフショーもおもしろいらしいですよ」とパンフレットを見ながら言った。
そこで、急にムエタイからニューハーフショーに興味が移ってしまったうえ、和宏くんの「俺の先輩もニューハーフショーがおすすめだって言ってました」との言葉に、急遽ニューハーフショーを見に行くことにした。
萌さん舞依さんキモトさんと別れ、カオサンで男性陣4人が待ち合わせして集まると、さっそく目的のカリプソ・ショーが行われるというエイジアン・バンコク・ホテルに向かったが、そこで何か様子がおかしいことに気づく。
ホテルの入り口で、「カリプソは9月に別の場所に移転した。ここのショーは小さい。カリプソはここでチケット買えるしそこまで送ってやる」という強引な客引き風のタクシードライバーのオジさんと、「カリプソとは違うけど、同じショーがここでもやってる」というホテルマン風の男性二人が突然現れたのだ。

どう見ても怪しいのはタクシードライバー風のオジさんである。しかし、「カリプソは移転した派」の係の人も、ホテルのロビーの一角にコーナーを設けて受付らしいことをやっている。「ここで金を払えばタクシー代タダで今すぐ連れて行くよ」という相変わらず強引なオジさんを横目に、四人は「何だかこのオジさん怪しくないすか。強引だし」「でもカリプソは移転したみたいなんだよなぁ」「カリプソでなくてもここでもいいんじゃない?」などと喧々諤々と話し合ったすえ、ヒロアキくんが彼らを「わかった。ただしちゃんと目的地まで連れて行かなかったらカネは返してもらうぞ」と脅しつけた末に、ようやく四人はタクシーに乗って移動することになった。

タクシーは、ホテルを慌てて出発すると、突然高速道路に乗り付ける。車内では「やっぱりなんかこのオッサン怪しいですよ。20分って言ってましたよね。20分で着かなかったらボコりましょう」などと不穏な話し合いが持たれる。
結局、タクシーは渋滞に巻き込まれて40分もかかりながらも、それでも目的地の真新しいショッピングモール・エイジアンティークに到着した。そこにはカリプソ・ショーのブースがきちんと設けられており、結局のところ、オジさんは詐欺師でもなんでもなかったことが分かった。

そうして散々もめながらも、ニューハーフ・ショーは始まった。
ニューハーフ・ショーは日本にもあるが、一度も行ったことはなかった。雰囲気が怪しいし、そんなところには行きたいと思ったこともなかった。
ところが、タイのニューハーフ・ショーは、そんな気持ちはどこかに吹き飛ばすほどの、物凄いパワーを秘めたエンタテインメントだった。
ニューハーフたちの、己の全身全霊を賭けたような、力強い演技。妖艶なセクシーさの中に、あっけらかんとした楽天的な楽しさがあふれる。そして、美しさを計算し尽くした演出。
美空ひばりの『川の流れのように』にのせて踊られる美しい演技の余韻を、容赦なくギャグパートに落としこんで観客を盛り上がるおかしさ。

全てが素晴らしい舞台だった。何より、彼ら(彼女ら)は美しい。
きっと、彼らにしかわからない世間からの偏見や圧力にもめげず、楽天的に、どこまでも美の追求を怠らなかった努力がこのショーを生み出しているのだ。
西尾維新の「偽物語」にこんな言葉がある。『偽物故に、きっとなによりも本物に近い彼女たち』。まさに、彼女たちこそがそれだ。
ショーが終わってから、どうしても記念写真が撮りたくなって、ギャグパート担当の青いドレスの彼女と記念写真を撮ってしまった。

ショーが終わって、どこかすっきりしたような気分でカオサン・ロードに帰った。非常にいいものを見れたという満足感に包まれていた。もちろん他の三人の心境はわからないけれど、あの様子では自分と同じ気持ちだったと思って間違い無いと思う。

タイのニューハーフショーは、素晴らしい。

2012年11月11日日曜日

旅する仏像(バンコク・第15日目)

バンコクで迎えた初日は、それなりに朝早く起きることに成功すると、さっそく市内を見て回ることにした。
バンコクで見るものといえば、何はなくとも、ワット・プラケオ(王宮)、ワット・ポー(菩薩の寺)、ワット・アルン(暁の寺)である。
カオサン・ロードから、トゥクトゥクを雇ってワット・プラケオに向かうと、そこにはもうすでに大量の人だかりができていた。
中国の年配の観光客たちが団体で記念写真を撮影している横をすり抜けて王宮に入ると、金色に装飾された数々の仏塔や寺院が、私を出迎えた。
仏塔や寺院を彩るのは、精密巧緻をきわめる金細工の数々。寺なのにこんなにギラギラしていていいのかと思ったが、あとで調べたところによると、王室専用の仏教施設だということで、僧侶がここに住んでいるわけではないらしい。

ワット・プラケオの最も重要な寺院のひとつでは、エメラルドの仏像が鎮座ましましている。この仏像は、最初インドのパトナで作られ、その後スリランカに移された。その後、ビルマの王朝がスリランカから仏典を手に入れてビルマに持ち帰る際に一緒に持ち出されるも、船が難破してカンボジアのアンコールトムに流れ着き、アユタヤに移される。その後更にアユタヤからチェンライ、チェンマイ、ラオスのヴィエンチャンを経由して、ようやくバンコクに辿り着いたのだとか。
このエメラルド仏は季節によってタイ国王が衣替えをするという伝統があるらしく、今は冬服を着ていた。

旅の安全と無事をエメラルド仏に祈ってから、ワット・ポーに行き、寝釈迦像を拝み、ワット・アルンを遠くから眺めた。ワット・アルンは別名を暁の寺といい、三島由紀夫の小説の舞台になった寺でもある(私は読んだことはない)。
私が行った時、ワット・アルンではちょうど何かの行事が執り行われているところで、川の対岸から眺めることしかできない日にあたっていた。川べりに向かうと、ワット・アルンを背景に、細く長い形状のドラゴン・ボートに乗った僧侶たちが、祈りの歌を捧げながら、ゆっくりと川を下っていく場面に出くわした。
周囲には、祈りの声がぼうっと響く。観光客が川べりにたくさん張り付いてその様子を眺めているにもかかわらず、その歌声が、黄昏時の川辺を、どこかゆったりとした雰囲気に変えて流れつづけていた。

バンコクの写真は、こちらにアップロードしました。

2012年11月8日木曜日

聖地(カオサン・ロード、第14日目)

国際急行列車の中で知り合った旅仲間・将悟くんとタイの首都バンコクに辿り着いたのは、昼1時ごろである。
バンコクに辿り着いた二人は、取るものも取りあえず、トゥクトゥクに乗り込むと、バンコク市内にあるカオサン・ロードへと向かった。カオサン・ロードといえば、東南アジアを旅する旅人にとっては聖地であり、多くの旅人がここからカンボジアやラオス、ミャンマーといった国々へと旅立っていく出発点でもある。旅をはじめる前から、その名声は私もよく耳にしており、是非私もそれに倣いたいと考えていたのであった。

昼のカオサン・ロードが、照り付ける白い日差しの中、私と将悟くんを迎え入れた。
(これが、噂のカオサン・ロードか…)
人ごみ、人ごみ、人ごみ。
人ごみが絶えることなく、ずっと続いている。道の至る所に、食事やジュース、Tシャツや偽造証明書などを売りさばく露天が軒を連ね、それを縫うように人やバイクが蠢き、左右のあちこちからクラブ・ミュージックが聞こえてくるさまは、完全に無法地帯である。その縺れきった人ごみの中で、ただカオサン・ロードの道だけが、混沌を均すただ一本の秩序ででもあるかのように、遥か彼方に向かってまっすぐ貫かれている。

その、あまりにも楽天的な雰囲気に押されながら、とりあえず食事を取ろうと将悟くんを誘って、レストランに入り、食事を取った。将悟くんはM大学の学園祭の期間中、学園祭には一切ノータッチでこちらに旅をしに来たらしい。
大学生のうちに旅をしておくのは良いことだと思う。フィリピンに留学していた時も、大学を休学したり、少ない路銀を何とかやりくりしてでも世界を見てやろう、あるいはNGOの活動に加わって、世界をよくしよう等々と考える気骨のある仲間たちが大勢いて、羨ましく思ったり、自分が恥ずかしく思えたりした。自分が大学生だった頃はそんなことは考えたこともなかったし、ただ漫然と時間を潰し、ストレートに卒業して適当な会社に入ることしか頭になかった。

将悟くんと別れてカオサン・ロード沿いに投宿し、夜になって再び外に出た。夜になっても変わらずカオサン・ロードは賑やかで、どこでもかしこでも欧米人が酒を飲み、歌い踊って人生を謳歌している。
この場所に、世界各地からありとあらゆる人々が集まり、そして一時の間盃を交わして、また何処ともなく己の目的に向かって立ち去っていく。あたかも、色々な色の糸が絡み合い、変わった色目の布が出来上がるみたいに。
自分もまたその一本の糸になり、カオサン・ロードの歴史に堆積する地層の1ミリになったのだということに、旅人の一人として晴れて認められたような気がして、どこか不思議な高揚感が芽生えた。
こんなところは他にあるまい。カオサン・ロード、そこはまさに、旅人の聖地である。

<<カオサン・ロードの人々>>
  • 欧米人
とにかく一番多い。朝から次の日の朝まで酒を飲みつづけ、店の中でも路上でも、とにかく歌ったり踊ったりと羽目を外しているのは彼ら。  
「ちょっと噂のカオサン通りを見に来ました」という一般人風の人も居れば、ヒッピーの残党軍のような出で立ちの人々もいる。オーガニックという言葉を肩から提げて歩いているような東洋かぶれの服装の人に、全身に施された刺青を見せつけながら歩くオバケのような姉さん、白い仮面を被ってペンキをぶっ掛けた作業服のような服を着て、終始無言でギターを引きつづける男などさまざま。
  • 東洋人
一番多いのは日本人風の人。次に韓国人風と中国人風の人が多い。数は多いが雰囲気に押されている印象。最後に、現地の学生など若者(売り子は除く)。日本人風の女性は西洋人と同じでオーガニック風の服装が目に付く(絶対に自分の国では着なさそうな服を着て颯爽と歩く)。対して男性はいかにもバックパッカーのお上りさんというイメージ。韓国人風の男はサイズの小さいピチピチしたノースリーブのTシャツを着てウロウロしている(兵役の影響か?)。中国人風はよそ行きの観光客っぽい。
  • 売り子たち
色々な店の売り子。地元風の人々がほとんど。パッタイ(麺料理)売り、ケバブ売り、カットフルーツ売り、ゲテモノ売り(昆虫食)、Tシャツ売り、マッサージ屋やバーの店員、おもちゃ売り(夜になると、タケコプターのような光って空をとぶおもちゃを一晩中空に打ち上げている)、アクセサリー売り、スーツ?売り(この人のメインターゲットは西洋人の男。東洋人には声をかけない)、民芸品売り(民族衣装風の服を着て、手元の楽器を鳴らしながらゆっくり歩く色の黒いおばあさん)、偽造証明書(国際学生証、プレスカード等)売り、等など。
  • 仙人
カオサン在住数十年という感じの老人。何人か分からないほど灰色に枯れて、沈没というより完全にカオサンの歴史に埋没したような雰囲気の人もいた。
  • あまり見ない人たち
インド人風、アフリカ人風(除く、アフリカ系アメリカ人風)で遊びにきたような雰囲気の人は見ない。ただしインド人の店はいくつかあり、インド人風の店員がいる。中東風の人も少ない。
  • 動物
猫と犬が少し。

深夜急行(タイ国鉄・ペナン~バンコク行き、第13日目)


孫文の家を訪問した後、荷物を纏めてゲストハウスを離れた。ゲストハウスのそばをいつもウロウロしていた人懐こい可愛い猫に別れを告げて、フェリーでペナン島からマレーシア本土側に戻った。
このフェリーは、往路(バタワース→ジョージタウン)は有料だが、復路(その逆)はお金がかからない仕組みである。

バタワース駅から国際急行列車が出発したのは14:20だった。国際急行列車という立派な肩書きとは裏腹に、寝台車が2両だけという冗談のような編成をしている。この列車には後ほどタイ領のハジャイというところで一等車や食堂車が連結され、そこからようやく国際急行列車らしくなる。
(これとは別に、シンガポールからバンコク、バンコクからチェンマイまでの区間を、イースタン&オリエンタル・エクスプレスという、日本でいうトワイライトエクスプレスに相当する超豪華列車が運行している。車輪の付いたホテルがレールの上を走っているようなもので、値段も一番安くて23万から上は90万もする。もちろん、バックパッカーには無縁)

この列車は、夕方ごろ国境を越えた。国境の駅で一度降り、マレーシアの出国審査とタイの入国審査を受けた後、同じ列車に戻ってすぐに出発する。
太陽が完全に沈む頃になると、係の叔母さんが座席のテーブルをセッティングし、ついでメニューを持って夕食と次の日の朝食の注文を取りに来る。その後、次の停車駅で停まったタイミングで、料理が配膳されるという仕組みであった。
運ばれてきたタイカレーを食べながら、暗くなった車窓を眺めると、否応なしに、旅情が増して心が膨らむ感じがしてくる。列車の中で食べる食事は、たとえ少しばかり美味しくなくても、素敵な感じがするものだ。

食事を済ますと、今度は係の叔父さんが現れ、テーブルを外して各人の座席をベッドに仕立てる作業を始める。一人旅の客にも4人掛けのボックス席が1つ割り当てられているが、このL字型の座席のシートを倒してスライドし固定した後、その上にマットとシーツを掛けると、それが下段ベッドに変わってしまう。
上段には飛行機の荷物入れと同じような棚があり、それを開けると、それが上段ベッドになる。後はカーテンを引くと、ちょうど二人は寝られる個室が出来上がる。

言わずもがなだが、今の日本で寝台列車はほとんど実用性を無くしていて、乗りたい人が趣味で乗るものに近い。
日本には世界に誇る新幹線や飛行機があり、わざわざ列車で寝る必要性がないくらい早いのだから、それはそれで良いことだが、やはり寝台列車には寝台列車にしかない趣がある。

ベッドに横になって、外を眺めた。
外は完全に暗くなってしまい、見ても何の面白みもない。しかし、ベッドにうつ伏せになってみると、自分の体のすぐ下を、車輪がゴトゴトと音を立ててレールの上をひた走っている音が全身に伝わる。その不思議な感覚がなんとも言えず面白くて、まるで、列車を抱いて眠っているかのように思える。
けれど、停車したタイミングで外に出たなら、駅のプラットフォームが当たり前のようにそこにあり、旅行者たちが行き交っている。そのギャップがまた、楽しい。

旅人たちは、こうして一時の休息を得ながら、次の目的地・バンコクに向かった。

2012年11月2日金曜日

東洋の真珠(ジョージタウン・第10日目〜第12日目)


朝8時45分、クアラ・ルンプールを出発したバタワース行きの急行SINARAN UTARA号が目的地に到着したのは、夜の7時も大きく回った頃だった。
予定では夕方の4時過ぎに到着するはずだったから、都合3時間は遅れたことになる。途中の駅でずいぶん長いこと停車していたから事故か何かがあったのだと思われたが、(記憶が間違っていなければ)特に車掌や運転手から遅れている理由の説明はなかった。説明を求めるような律儀な乗客も居ないらしく、バタワースに到着するなり乗客たちはさっさと列車を降りていった。遅延が当たり前のマレー鉄道の面目躍如といったところだろう。

ペナン州の州都ジョージタウンは、本土側ではなく、本土から離れたペナン島側に位置する。本土と島嶼部を領有していて、島側に中心地があるという意味では、デンマークのコペンハーゲンや、赤道ギニアのマリボあたりに似ている。
バタワース駅のすぐそばにフェリー乗り場があり、フェリーで約15分ほどでジョージタウンにたどり着くことができる。フェリーから見る夜のペナン島は、いくつもの高層ビルが立ち並んで、明るく輝いている。ペナン島に降り立ってみれば、そこは再び大都市だった。
ペナン島はマラッカ同様、イギリスの植民地支配の拠点になった島である。辛亥革命のころの孫文が拠点をここに設けていたこともある。街の雰囲気はまた、マラッカとは一味違った趣を見せている。マラッカは穏やかな、のんびりとしたところのある街だったが、この街はもっとゴミゴミとして、活力がある。コロニアル様式の家々の連なりのなかに、中国の寺院やモスクがあり、リトル・インディアの雑然としたマーケットがある。遠くには、街のどこからでもよく見渡せる超高層ビル、コムタ・タワーが見える。ゲストハウスから少し歩いて行いたところに、屋台が軒を連ねていた。屋台の軒先では、テーブルを囲んで雑多な人々が話に花を咲かせていた。

島の中心部に位置する、ペナン・ヒルに向かってみることにした。ペナン・ヒルの麓までは、コムタ・タワー発のRapid Penang社の204号線のバスに乗って、45分ほどで着く。そこからは、麓から山頂までを一気に駆け上がるケーブルカーが運行されている。
ペナン・ヒルからは街が一望できる。出発地のコムタ・タワーが見え、その先にはマラッカ海峡の海が霞んでいる。
標高のためか涼しいペナン・ヒルには、サルが何匹も棲んでいた。サルたちは、人間たちから如何に食料をせしめるかに頭を悩ませている様子で、観光客たちに着かず離れず付いて回ったり、ゴミ箱からジュースを取り出して飲んでみたり、人間を威嚇してみたりしていた。

夜、モスクの付近を歩いてみることにした。モスクの付近に設置されたスピーカーからは、祈りの言葉が流れ、通りの隅々に流れ込んでいった。その祈りの声に合わせるかのように、犬たちもまた遠吠えをしていて、まるで一緒に祈りを捧げているかのようでさえある。
人と犬の織りなす祈りの声と共に歩く人気のない夜の通りは、どこか別の世界に迷い込んでしまったかのようにも思えた。

別の通りに出ると、路上で男たちが雑多なものを地面に並べながら、何かひそひそと話し込んでいるところに出くわした。
バイクか自転車の部品らしいものや、ヘルメット、何かの金属部品などがごちゃごちゃと並べられているが、商品名も値札も店の名前も、何も掲げられていない。
直感的に盗品市ではないかと思えた。こんな夜遅くに、こんな人通りのない場所で、訳の分からない部品を地面に並べて、まともな客が来るわけがない。
何か、堂々と商売ができない理由があるのだ…。そう思ってチラチラと様子を盗み見ていたが、男たちのこちらを伺うような目線を感じて、私は早々にその場を引き上げることにした。

ペナン滞在の最終日には、孫文の住んだ家を訪ねた(そこは、あの盗品市のあった場所のすぐ近くだった)。10年ほど前には、中国の胡錦濤国家主席や、マレーシアのマハティール首相もここを訪問したことがあるという。
孫文といえば、自分の中では安彦良和の『王道の狗』に出てきた、理想にあふれる革命家『孫大砲』時代の彼であるが、実際の孫文は、革命半ばにして亡くなっている。
中国は四分五裂、蒋介石の国民党に毛沢東の共産党、山西派、広西派、雲南派、馬家軍にスヴェン・ヘディンが捕まった盛世才の新疆に日本軍の侵略と、三国志も真っ青の群雄割拠時代に入り込んでしまった(後に、共産党が全てを手にしたわけだが…)。
『王道の狗』(フィクションである。念のため)の中で、主人公の貫真人と革命のために戦う孫文のことをふと思いながら、案内人に勧められた美味しい中国茶を飲んだ。
もし孫文が生きていたら、今の中国と台湾をどう思うだろうか? 毛沢東と蒋介石のことをどう思っていたのだろうか? 共産主義をどう考えていたのだろうか? 胡錦濤やマハティールはここに来て何を思ったのだろうか? そんなことを考えたが、そうした歴史と政治の世界は、異国の一市民にはあまりに遠すぎて、彼の家はほとんど何も語りかけてはくれないのだった。

泥の合流する場所(クアラ・ルンプール・第9日目)

マラッカを出て二時間、マレーシアの首都、クアラ・ルンプールに辿り着いた。
クアラ・ルンプールとは『泥の合流する場所』という意味であるらしい。その言葉通り、ここもまたマレー・インド・中国といった人種の人々が、シンガポールにも引けを取らないほどたくさん集まり、盛んに往来していた(結局こうなるのだったら、シンガポールを追放した意味はあったのだろうか?)。

シンガポールと同様、クアラ・ルンプールもまたとてつもない大都市だが、シンガポールと違うのは、シンガポールにはない、古ぼけて奇妙にゴミゴミとした雰囲気があるところと、それとまた同時に、大都市特有の洗練された佇まいが同居しているところだった。
町中には摩天楼が立ち並び、それをすり抜けるかのように、高架橋の上をトラムが行き来している。まるで、昭和時代と未来都市がごちゃまぜになったような雰囲気だ。

マラッカで思わず延泊をしてしまったため、クアラ・ルンプールはあまり長居せずにいようと決めていたのだが、次の日の出発の前に是非行っておきたいところが2つあった。
1つはむろんクアラ・ルンプールのシンボルマーク、ペトロナス・ツインタワーと、もう1つは水曜どうでしょうファンの道民には有名な、ホテル・イスタナである。

まずは翌日のチケットを取りにKL Sentral駅に向かった後、KLCC駅に移動した。KLCC駅はペトロナス・ツインタワーの地下と直結しており、駅を出るとタワーの真下にまろび出ることになった。お陰で、あれだけ高いタワーのはずなのにどこにも影も形もないのはどうしたことだろうとキョロキョロ見回し、真上を見上げてようやくここがタワーの真下だと気づくほどだった。

ペトロナス・ツインタワーは1998年竣工の超巨大高層ビルである。タワー1は日本が、タワー2は韓国の業者が建設したもので、さながら日韓共同事業といった趣がある。マイクロソフト・マレーシアはタワー2の30階にあり、フランスのスパイダーマンとして有名なアラン・ロベールは、ここの外壁を二度素手で登っている。

あまりにも高いタワーを見上げながら写真を撮ってみると、不思議と立派に見える写真が撮れた。大地から屹立するタワーが、夜空に向かって天高く聳えている。自然の存在にはない、人工物特有の美しさというようなものがあった。
タワーに登ってみようと、地下にある受付カウンターに向かってみると、ムスリムの受付嬢に「今日はもうチケットの販売は終わってしまった。また明日来てくれ」と言われ、追い払われてしまった。
奥のほうでは、これから本日最後の見学ツアーに参加するのであろう人々が行列をなして、空港の保安検査のゲートと同じ装置をくぐっていたが、どうすることもできず帰るしかないのだった。

ツインタワーにすげなく追い払われて、次に向かったのはホテル・イスタナである。このホテルは、北海道の人気番組『水曜どうでしょう』の企画中で、大泉洋さん・鈴井貴之さんを始めとするどうでしょう班が、1998年と2004年の二度に渡ってこのホテルに滞在し、タマン・ヌガラ国立公園に旅立っていった出発地点として有名である。
本当は是非とも一泊したかったのだが、予約が取れず、仕方なく外から見て、番組と同じアングルから写真を撮ることにした。無論、実際には本当に普通の立派なホテルであって、何の見るべきところもないのであった(ただし、宿泊した人のレビューによれば、値段に見合うだけのホスピタリティのある、実に良いホテルだということらしい。予約が取れなかったのが悔やまれる)。

ドミトリーでは、オランダ人のアンドレアスさんと知り合いになった。ヨーロッパ人らしい、金髪の立派な偉丈夫であった。聞くと、彼もなんとタマン・ヌガラ国立公園にこれから向かうのだといって笑った。もっと色々と話をしたいところだったが、その後は彼と会話をするタイミングはないままで終わってしまった。せっかくだからfacebookのアドレスぐらい訊いとけばよかったと後悔しているが、こう見えて初対面の人とすぐに打ち解けないところのある自分には、なかなかそういうことが難しいのだった(今後の課題である)。

クアラ・ルンプールの写真は、こちらにアップロードしました。

2012年10月30日火曜日

赤い街(マラッカ・第6日目〜第8日目)

バトゥパハを後にして、マラッカにバスで向かった。バスはバトゥパハのバスターミナルで1時間待たせた挙句、ターミナルで待っていた私を置いてけぼりにして出発しようとし、危うく乗り遅れるところだった。
実際、後10秒気づくのが遅れていたら、完全にバスに乗り遅れていただろう。
座席指定のチケットを買わせて、ターミナルのどこから出発するかもはっきり分からないバスを一時間も待たせておきながら、着いたらよく確かめもアナウンスもせず出発するなんて、なんて不親切なんだ…と言いたくなるところだが、おそらくバス会社からしてみれば、来たバスに乗らないほうが悪いのだし、遠い日本からこんなところまで来る時間も金もたっぷりある奴が、たかがバスに遅れたぐらいで何を怒ることがあるのか…と彼らは思うであろう。

マラッカに着くと、タクシーに乗り込んで本日の宿に向かった。
「リラックスリラックス、私は必ず目的地に送ってあげるよ、ハハハ!」と5回も6回も言いつつ、5分で着くはずの場所をぐるぐる回って20分以上経っても着かず、終いには自分が道案内をするはめになった。
どう見ても地元在住数十年のタクシーの運転手のおっさんに、到着10分の外国人が「見ろ、今左手に見えているのがアブドゥル・アジズ通りだ。目的の宿はマラッカ川沿いにあって今我々の後ろにマラッカ川がある。ということは我々の右後ろに宿があるはずだ」
などととくとくと説いて道案内するのは、日本人の感覚からすると何だかひどく滑稽である。しかし、フィリピンでもそうだったが、タクシーの運転手たちは地理にあまり詳しくないことが多い。
住所を教えて、近くのランドマークを教えて、スマートフォンで場所を見せて、それでもなかなか辿り着かない事があるし、そもそも彼らがちょっとした市街地の地図一枚持ち合わせているところすら見たためしがない。
そして、目的地に着いた後、日本なら「あたしのせいで大分掛かったから◯◯◯円でいいですよ」という話になるが、そうならずにキッチリメーター分請求してくるのもまた、こちら流のようである。
しかしそれもまた、バスと同じで「金持ちの暇人が何を(略)」ということに落ち着くであろう。

マラッカは元々、マラッカ王国というイスラム教の王国があったところである。そののち、ポルトガル、オランダ、イギリスといったヨーロッパ列強の植民地になり、日本も一時期ここを占領したことがある。
その後マレーシアが独立した時、ラーマン首相が独立宣言(メルデカ!)したのもここである。以降、マラッカはマレーシアの特別市になり、世界遺産になった。歴史的に意義の高い町である。
マラッカの街には不思議な魅力があった。赤塗りの壁のヨーロッパ様式の町並みと、中国系の店が軒を連ねる乱雑な通りが、マレーの気怠げな雰囲気と混ざり合って、どこかのんびりとしている。
観光地としてこなれていながらも、やれ世界遺産だといって気取ったり、気負ったりしている様子はあまりない。どこか田舎の楽しげな雰囲気を湛えているのが楽しい。

トライショーと呼ばれる恥ずかしいくらい豪華な装飾が施された輪タクに乗せてもらい、町中を案内してもらった。歴史的な町並みと、近代的なショッピングモールがぶつかり合わずに併存している。
町の中心部にある遊覧タワー(ぐるぐると回転する遊覧スペースが、地上80mくらいの高さまで登っていくしくみ)に乗って、町を上空から眺めると、美しいヨーロッパ風の町並みと、マラッカ海峡の美しく広大な海が見えた。
植民地時代の古い教会にゆくと、一人の壮年のマレー人男性が、のんびりとしたギターの曲を弾いて歌っていた。
その様子が実に雰囲気にマッチしていて、聞き惚れてしまうようなところがあった。
「ここはちょっとした家なら結構安いよ。10万リンギットくらいでいいの買えるよ」とトライショーの兄さんに言われて、正直な話し、少し心が動いてしまった。

結局、本当は二泊ですますはずのところを、延泊して三泊してしまった。新しい靴を調達したり、予備のメガネを作ってもらったりと、マラッカは便利な町でもあった。いつかまた、再就職して忙しくなった頃に手に入れた連休とかで、またあそこでのんびりしたくなるだろうな、などと思わずにはいられない街であった。

マラッカの画像はこちらにアップロードしました。

2012年10月26日金曜日

峇株巴轄(バトゥパハ・第6日目)

バトゥパハ(Batu Pahat、峇株巴轄)は、マレーシアのジョホール州の海沿いにある、小さな田舎町である。取り立てて見るものもなく、外国人に特別に知られているわけでもなければ、観光客がやって来ること自体が稀なこの街に、今回シンガポールを出て行ってみることにした。
実は前々からこの街には是非足を伸ばして見たかったのだが、なぜそんな事を考えたのかというと、それはある小説を読んだからに他ならない。

明治生まれの小説家、金子光晴。愛知県に生まれたこの人物は、1930年代初頭にマレー半島をあてもなく旅し、後にその体験を「マレー蘭印紀行」という小説にまとめた。
彼のこの小説は、何処か気だるげな幻想感の漂う、不思議な紀行文だ。緑に塗り込められたマレーシア半島の片田舎の小さな町で、日本を離れ、一人あてもなく彷徨う金子光晴の体験が、綴られている。その文章は、所々難解な表現が出てくることもあるが、幽玄と言ってもいい不思議な世界観で、文章の存在する次元が違うのではないかとさえ思わせてくれる。かの立松和平もまた、この紀行文の愛読者だったらしい。
その金子光晴が、一人やってきたのがこのバトゥパハという小さな街で、彼はこの街にあった日本人クラブの建物の三階で寝泊まりをして過ごしていた。
今回、シンガポールを出てマラッカに向かう途中で、バスでバトゥパハをわざと経由し、乗り換え時間でバトゥパハの町並みと、今も現存する、かつて金子光晴が住み暮らしたあの日本人クラブの建物を見てやろうと、寄り道をしたのであった。
そんなわけで、シンガポールから一路陸路で国境を越え、マレーシア側のラーキンというバスターミナルから、バトゥパハ行きのバスに乗り込んだ。

バトゥパハには3時ごろ着いた。
ネットで見聞きしたバトゥパハという町は、観光地どころかいよいよもって全く何もない単なる鄙びた田舎町で、外国人とみれば珍しいので話しかけられたりじろじろ見られたりする、という話だった。
そういうわけで、日本の田舎の漁村のような、緩やかに限界集落に向かって死を待つだけの町を想像していたのだが、実際に町に入ってみると、巨大なモスクや警察署、近代的なショッピングモールにKFC等々と、最初のイメージとはまったくかけ離れた町並みが広がっていた。
町の道路は幅が広くて直線が長いため、どこか帯広の町を連想させるものがあった。
バスターミナルから降りてみると、自分が完全にイスラム圏に入り込んだことがわかった。全身をチャードルに包んだ女性や、頭にヒジャブだけ巻いて、あとは洋装というあべこべな感じの女性たち、ソンコという帽子を被った男たちなどが、大荷物を抱えてバスターミナルをウロウロしている。バスターミナルの中には、イスラム教の礼拝所まであった。後から聞いた話だと、これから週末に掛けてマレーシアの祝日だというので、里帰りなどの旅行者であるらしい。
しかも、じろじろ見られるとか、話しかけられるということもまったくない。みな、忙しそうに歩いているし、こちらのことを気にかけるような素振りの人など一人も居ない。もう、外国人など珍しくないくらい、町も発展が進んでいるということだろう。あるいは、里帰りの都会から来た人たちだらけだったかのどちらかだ。

早速乗り継ぎのバスのチケットを取り、タクシーで目的の日本人クラブを見てやろうとしたのだが、実は肝心の日本人クラブの位置がどうしてもわからなかった。ネット上には何人か訪問の記録を書いている人がいて、建物の写真は何枚もあるのだが、住所がどこかということは誰も書いていない。
『川べりを10分歩いて』とか、『タクシーの運転手に適当に流してもらって見つけた』とか、その程度であった。
しかし、大荷物を抱えて歩きたくなかったので、タクシーの運転手を捕まえて「昔の日本人クラブの建物に連れて行ってくれ。バトゥパハの町の中で、川の近くにあって、今は使われていないはずで、近くに税関がある」というと、その建物を知っているという人がいるので、早速そのタクシーに乗り込んだ。
すると、タクシーはどういうわけか市街地を離れてパームヤシのプランテーションの中の道をひたすら突き進み始めた。
目的地はかなり遠く、15分くらいかかるし、タクシーを捕まえることは難しいので、私を使って往復しろという。…そんな場所だったかなと思いながらも、おとなしくそれに従って乗って行くと、タクシーはやがて小さな集落のそばの廃墟の前に乗り付けた。
「これがそうか?」
「そうだ。見ろ。税関は知らないが、川のそばで、相当昔の建物で、町がそばにあって、今は誰も使っていない」
ロケーションはいちおう合っている。しかし、明らかに建物が違う。だいたい、町中にある三階建の建物だというのに、目の前の朽ちかけた廃墟は草むらの中の平屋建てだ。
「ここで合っているのか?」
「私の知る限り、日本の建物はここしかない。時折日本人がここに来るが、みながっかりして帰っていく。どうだ、がっかりしたか」
と言って、運転手は笑う。
しかし、どう考えてもここではなかった。第二次世界大戦中にイギリス軍と日本軍が戦闘したというその場所を後にして町中に戻り、インターネットができる喫茶店に連れて行ってもらって、店員たちに地図と写真を見せながら、ここはどこかと尋ねた。
すると、年配の店員が、
「Jalan Enganだ」と言う。なんと、バスターミナルから本当に歩いて10分足らずの場所にあったのだ。
バックパックを背負って、Jalan Enganへと歩いて行くと、ようやく、写真と同じ、旧日本人クラブの建物が姿を表した。
建物の一階は何かの会社が使っており、二階以上は封鎖されていて上がることはできないが、ようやく辿り着けたという感慨深さで、胸が熱くなるものを感じた。最初に小説を読んで数年、ついに、こんなところにまで来てしまったのだ。
建物の横には今も税関がやはりあり、男たちが船便の荷物の揚げおろしをしていた。税関の警備員に写真を撮っていいかと聞くと、5分だけだと言って好きに取らせてくれた。きっと彼は、たまによそ者が来て写真を撮りたがるが、一体全体ここに何があるのだろうと不思議に思っているに違いない。

写真を撮った後、建物の壁に背を預け、パソコンを開いて『マレー蘭印紀行』の一節を読んだ。
『バトパハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた町すじの、袋小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊(カキ・ルマ)のある家々で続いている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹き抜けてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街を取り囲んで、打ち負かされることなく森森と茂っている…』
思えば、70年以上も前に書かれたただ一冊の本が、遠い日本に住む、何の縁もゆかりもない一人の人間を、マレーシアの田舎のひとつの建物の前にまで導いてきたのだった。
自分のやっていることとはいえ、人の世の縁の不思議を思わずには居られない。もちろん、やっていることといえばアニメの舞台を巡る「聖地巡礼」と大した違いのない、まったくもってミーハーな振る舞いでしかないのだけれども。
ふと、携帯から日本の実家に電話を掛けてみると、母親が出た。今はもう、ここはかつての密林の深奥に広がる幽玄と気怠さの漂う町ではなく、もっと新しい街になったのだろう。きっと、よそ者が増えて開発が進み、ボタンを押すだけで実家にいつでも電話が掛けられるような。

それにしても、あのタクシーの運転手に連れられて、高い金を払って何の関係もない建物に連れて行かれてがっかりして帰っていった日本人が何人もいるのかと思うと、何だか面白くてしかたがない。
けれどもまあ、悪いのは他に誰もこんなところに来ないだろうとたかをくくって正確な所在地を書かない他の旅行者の皆様であるので、私は以下に正確な位置を明示しておこうと思います。行きたい人がいれば、Jalan Enganと現地の人に訊けば、すぐにたどり着けるはずです。

旧日本人クラブの位置はこちら(正確には、Jalan Engan通りと、Jalan Shah Bandar通りの角の場所です)

Batu Pahatの写真はこちらにアップロードしました。

2012年10月25日木曜日

シンガポールのコインランドリー

シンガポールにはコインランドリーというものはあまりない。あるのは普通のクリーニング屋ばかりである。
今回、溜まった洗濯物をホテルのランドリーサービスに預けようとしたところ、「今日はもう回収し終わったから明日の朝10時に出しなさい。明後日の朝に戻ってくる。値段は3500円」という、明日の朝にチェックアウトする人間には何のありがたみもないコメントが受付から帰ってきたので、ネットでコインランドリーがないかどうか調べてみた。

シンガポールでは、コインランドリーは"laundromat"と言うらしい。今回泊まったヴィクトリアストリートのホテルから最も近いのは、セレギーストリートのPoMoモールの地下にある「Systematic laundromat」である。これは正確には日本のコインランドリーのような無人の店舗ではなく、人間がコインランドリーの機械を使って洗濯をしてくれるという店だったが、1000円ほど、4時間で綺麗な衣服を戻してくれた。
他にも、「Easy wash」という、日本のコインランドリーと同じ仕組みの店舗がシンガポール内に幾つかある。

ちなみに、systematic laundromatのそばには、「Angel Beats!」風のロゴのアニメショップがあり、日本のアニメ雑誌や最新のアニメのポスター・東方のフィギュアなどがゴロゴロ転がっており、店の中ではシンガポール人が嬉しそうにオタトーク(らしきこと)をしていた。
アニメ好きの旅人が居たら暇つぶしに入ってみるのも良いかもしれない。

摩天楼の王国(シンガポール・第5日目)

シンガポールという国がある。
マレー人、インド人、中国人の3つの民族が混ざり合って暮らすこの国は、元はマレーシア連邦の一員として、マラヤ・サラワク・サバと共に独立を果たした。ところが、1963年に中央政府との間に民族間の仲違いが生じ、追い出されるようにして独立した。
独立の当時、リー・クアンユー首相は演説中に泣いたという。本人はシンガポール独立を望んでいなかった上に、共にマレーシア独立のために長年戦ってきたマレーシアの戦友・ラーマン首相に、民族間の融和は不可能だといって追い出されてしまったようなものだからだ。
それ以来、シンガポールは一つの都市がまるごと国家になった都市国家として発展しつづけ、今やシンガポールは国全体が大都市のようになっている。
けれど、シンガポールは表向きの発展とは裏腹に、長年独裁が続く独裁国家である。野党があり選挙もあることにはあるが、野党が勝った選挙区には制裁があるとか、反体制的なジャーナリストなどが弾圧・国外追放を受けたりしているという。ゲリマンダーや言論統制も日常茶飯事とのことだ。
シンガポールが『明るい北朝鮮』と言われる所以だ。

そんなシンガポールに実際に行ってみたが、シンガポールは噂通りの大都市であった。
街は綺麗で美しく、街にはインド風、マレー風、中国風の人々が、縦横無尽に行き交っている。高層ビルがこれでもかというほど立ち並び、圧倒的な情景を演出する。東京と横浜を足して二で割ったような印象だ。
実際、街には何の問題もないように思える。様々な人種が衝突することなく混ざり合い、街は発展し続けているのだから。
こうした人々の中には、祖国を離れて、経済的に豊かなシンガポールに移住してきた人たちもいることだろう。つまり、そうした人々は民主主義でも貧しい国より、独裁でもいいから豊かな国のほうが良いと思っているはずである。
一体、どちらが正しいのだろうか?

きっと、シンガポールはリー首相が亡くなってから、あるいは今の首相(リー首相の息子)が辞めてから、新たな物凄いカリスマが現れない限り、一悶着起きると思う。
独裁制で野党を支持すると制裁されるから、国民はあまり政治に関心がないというし、そういう国民が民主主義をしても上手く行かないのはよくある話である。
また、カリスマがいなくなった後、各民族が自分たちの主張ばかりして衝突した結果、国が砕け散ってしまったユーゴスラビアの例もある。
果たして、シンガポールはこれからどうなっていくのだろう。
きっとそんな話をすれば、シンガポール人は笑って、「うちのことなんかより、お前の国の首相がころころ変わるのを心配しろよ」と言うのだろうけれど。

そんなことを思いながら眺めるシンガポールの街並みは、美しい限りだった。

2012年10月23日火曜日

バコロド、再び(第2日目〜第4日目)

世界一周をする一ヶ月ほど前まで、語学を学ぶためにフィリピンに留学していた。
留学先はマニラでもセブでもなかった。フィリピン中部のヴィサヤ諸島、ネグロス島の西に位置する、バコロド市である。
バコロドの人口は40万ほどで、特にこれと言った大観光地のようなものはない、一地方都市である。
しかし、それが故にバコロドは治安がよく、人々はフレンドリーで穏やかだった。日本人も少なく、日本人だけで常に固まるような状態になりにくく、勉強に集中しやすい。それが、バコロドに行く事に決めた理由で、実際にバコロドに行ったのは正しかったと思う。
今、Across The Universeという人気のブログをたちあげて世界一周中の市川くんもまた、自分と同じころに同じ学校に行っていた仲間である。

今回、そんなバコロドにわざわざ帰国後一ヶ月で出戻りを果たしたのは、毎年10月の中頃に、マスカラフェスティバルというフィリピン最大級のお祭りが開かれるからだった。
街中の至るところでダンスコンテストやイベントが開かれ、パレードや出店も数えきれないほどであるという。留学していた時、これを見れずに帰ったのが、目下の心残りであった。
とはいえ、わざわざそのために、一度帰った場所にまた戻るべきかどうか悩んだが、全く未知の土地に向かう前に、海外で知っている場所を一度訪問し、調子を整えてから向かいたいという思いがあった。
何より、その話をすると母はこう言った。
「行ける時に行っておいたほうがいい。そうしないと後悔するから」と。
全くもってその通りである。来年の今頃、バコロドに行けるかどうかなど、誰にも分からないのだ。

そうしてバコロドに再びやって来ると、街はすっかりお祭りムードに充たされ、主要なスポットはまさしく人ごみに埋め尽くされていた。まるで、街全てがひとつのアトラクションになったかのようだった。
かつての仲間たちと再会し、食事を交わし、旧交(というほど昔でもないけれど)を温め、ともにフェスティバルを愉しむ。
そうしているうちに、少しずつ調子が戻ってくるような感じがした。函館を出る直前は、自分のことだというのに、何だか世界一周というものが遠い場所にあるかのような気さえしていた。
それが、バコロドに戻ってきて、雑然とした熱気の中に迷い込んだだけで、気持ちが留学中の時のように上向いてきたことを確かに感じた。思い通りの結果だった。

バコロド滞在の最終夜に、大ショッピングモール・SMモールのそばに設置された移動遊園地に友人たちとともに出かけた。
「ヤバいですよ」としきりに乗るように勧められた空中ブランコに乗りたいと思っていたのだ。
空中ブランコに乗り込むと、ブランコは恐るべきスピードで回り始めた。遠心力で遥か彼方に吹き飛ばされそうになりながら夜空を見上げると、美しい月が浮かんでいた。
その月を眺めていると、いよいよ明日からは、本当の旅が始まるのだという思いが、心のなかから湧きあがるのだった…。

2012年10月18日木曜日

誓約書(第1日目)

フィリピンへの語学留学を終えてから一ヶ月、ついに世界一周の旅を始めた。
どこまで行けるのか分からないが、一生に一度あるかないかの機会である。やれるだけのことはやらなくてはならない。

そう思ってはみたものの、人間とは不思議なもので、世界一周がいざ目の前に差し掛かると、どうも調子が乗らないからもっと後で出発しようとか、準備が済んでいないからもっと後で出発しようとか、そういう気持ちが心の中から湧きだしてきていた。
会社員時代、何年間も、毎日のように夢見てきた旅路だというのに、である。
この一ヶ月、日本の生活にすっかり馴染みきってしまい、ついつい毎日ダラダラと過ごす日々が続いていたせいかもしれない。あるいは、本来の性格がそういう後回しタイプの人間だからか…。

いずれにしても、こんなことではいけないと思い、出発日を無理やり決めてしまった。
フィリピンで語学留学していたネグロス島のバコロド市。そこで、10月19日からマスカラフェスティバルというフィリピン第一のお祭り(のハイライト)がある。
留学していた頃から、見てみたいとずっと思いながらも、とうとう果たせずに帰国してしまった。
それを見てやろうというのである。

語学留学したばかりの街に、一ヶ月と経たず戻ってくるというのはどうなんだという気持ちはある。実際、留学先の日本人スタッフの人に、一年ぐらいしてから戻ってきてくれたほうがこっちも安心するわと冗談を言われたりもした。
とはいえ、見たいというのだから仕方がない。小田実じゃないが、『何でも見てやろう』という位の気持ちでいたほうが、日本に戻ってくる頃により多くのものを得られるはずである。

ところが、初日から旅は波瀾の幕開けを迎えた。
バックパックを抱えて函館空港の国際線ロビーにたどり着き、椅子に座って一息ついて、印刷しておいたコリアンエアのチケット控えを取り出したら、何か違和感がある。
よく見ると、函館から韓国のインチョン、インチョンからマニラへ一日のうちに飛ぶ予定になっていたはずが、インチョンからマニラまでのフライトが明日の朝のフライトになっていたのだ。
いきなり、ホームラン級のボケを披露してしまったことに狼狽し、慌ててチェックインカウンターでフライトを変えてもらえてないかと掛け合ったが、今日のフライトは満席だ、ということであった。

しかも、問題はそれだけに終わらなかった。どうしようかと考えていると、受付の女性が深刻そうな顔で私のパスポートとチケット控えを見つめている。
「何か問題でも?」
そう聞くと、女性は「帰りのフライトがありませんが…」という。
「それで合ってますよ。ここには帰らずに、フィリピンからまた別の国に移動するんです。フライトはまだ予約してないですけど」というと、女性は「そうなんですか…」と言いつつ、何かの用紙を取り出した。
紙には、「誓約書」なる文言が書かれている。
「何ですか、これ?」
「フィリピンのビザをお持ちでないので、誓約書を書いていただかなければなりません」
ビザ? ビザってなんだ? 今回は一週間もフィリピンに居ない予定のはずだ。ビザなんて必要ないはず。帰りのチケットがないとフィリピンには入国させてもらえないのか? そんな話は聞いたことがない。
「そんなに長くいる予定ではないので、ビザはもともとないのが普通のはずですが…」
「いえ、書いていただくことになっておりますので…」
PHビザ未所持。ビザを所持していないことによるいかなる損害も大韓航空に請求しないことを誓約致します…云々と、不穏な言葉がこれでもかと並んでいるが、サインをしないと乗せてもらえないということなので、仕方がなくサインした。

それでも、インチョン国際空港には定刻通りに到着した。
急遽トランジットホテルを取り、そこに投宿。本場のビビンバはこれでもかというほど美味しかった。
そうして今これを書いている。旅はまだ始まったばかりだ。
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