2012年10月30日火曜日

赤い街(マラッカ・第6日目〜第8日目)

バトゥパハを後にして、マラッカにバスで向かった。バスはバトゥパハのバスターミナルで1時間待たせた挙句、ターミナルで待っていた私を置いてけぼりにして出発しようとし、危うく乗り遅れるところだった。
実際、後10秒気づくのが遅れていたら、完全にバスに乗り遅れていただろう。
座席指定のチケットを買わせて、ターミナルのどこから出発するかもはっきり分からないバスを一時間も待たせておきながら、着いたらよく確かめもアナウンスもせず出発するなんて、なんて不親切なんだ…と言いたくなるところだが、おそらくバス会社からしてみれば、来たバスに乗らないほうが悪いのだし、遠い日本からこんなところまで来る時間も金もたっぷりある奴が、たかがバスに遅れたぐらいで何を怒ることがあるのか…と彼らは思うであろう。

マラッカに着くと、タクシーに乗り込んで本日の宿に向かった。
「リラックスリラックス、私は必ず目的地に送ってあげるよ、ハハハ!」と5回も6回も言いつつ、5分で着くはずの場所をぐるぐる回って20分以上経っても着かず、終いには自分が道案内をするはめになった。
どう見ても地元在住数十年のタクシーの運転手のおっさんに、到着10分の外国人が「見ろ、今左手に見えているのがアブドゥル・アジズ通りだ。目的の宿はマラッカ川沿いにあって今我々の後ろにマラッカ川がある。ということは我々の右後ろに宿があるはずだ」
などととくとくと説いて道案内するのは、日本人の感覚からすると何だかひどく滑稽である。しかし、フィリピンでもそうだったが、タクシーの運転手たちは地理にあまり詳しくないことが多い。
住所を教えて、近くのランドマークを教えて、スマートフォンで場所を見せて、それでもなかなか辿り着かない事があるし、そもそも彼らがちょっとした市街地の地図一枚持ち合わせているところすら見たためしがない。
そして、目的地に着いた後、日本なら「あたしのせいで大分掛かったから◯◯◯円でいいですよ」という話になるが、そうならずにキッチリメーター分請求してくるのもまた、こちら流のようである。
しかしそれもまた、バスと同じで「金持ちの暇人が何を(略)」ということに落ち着くであろう。

マラッカは元々、マラッカ王国というイスラム教の王国があったところである。そののち、ポルトガル、オランダ、イギリスといったヨーロッパ列強の植民地になり、日本も一時期ここを占領したことがある。
その後マレーシアが独立した時、ラーマン首相が独立宣言(メルデカ!)したのもここである。以降、マラッカはマレーシアの特別市になり、世界遺産になった。歴史的に意義の高い町である。
マラッカの街には不思議な魅力があった。赤塗りの壁のヨーロッパ様式の町並みと、中国系の店が軒を連ねる乱雑な通りが、マレーの気怠げな雰囲気と混ざり合って、どこかのんびりとしている。
観光地としてこなれていながらも、やれ世界遺産だといって気取ったり、気負ったりしている様子はあまりない。どこか田舎の楽しげな雰囲気を湛えているのが楽しい。

トライショーと呼ばれる恥ずかしいくらい豪華な装飾が施された輪タクに乗せてもらい、町中を案内してもらった。歴史的な町並みと、近代的なショッピングモールがぶつかり合わずに併存している。
町の中心部にある遊覧タワー(ぐるぐると回転する遊覧スペースが、地上80mくらいの高さまで登っていくしくみ)に乗って、町を上空から眺めると、美しいヨーロッパ風の町並みと、マラッカ海峡の美しく広大な海が見えた。
植民地時代の古い教会にゆくと、一人の壮年のマレー人男性が、のんびりとしたギターの曲を弾いて歌っていた。
その様子が実に雰囲気にマッチしていて、聞き惚れてしまうようなところがあった。
「ここはちょっとした家なら結構安いよ。10万リンギットくらいでいいの買えるよ」とトライショーの兄さんに言われて、正直な話し、少し心が動いてしまった。

結局、本当は二泊ですますはずのところを、延泊して三泊してしまった。新しい靴を調達したり、予備のメガネを作ってもらったりと、マラッカは便利な町でもあった。いつかまた、再就職して忙しくなった頃に手に入れた連休とかで、またあそこでのんびりしたくなるだろうな、などと思わずにはいられない街であった。

マラッカの画像はこちらにアップロードしました。

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