バトゥパハ(Batu Pahat、峇株巴轄)は、マレーシアのジョホール州の海沿いにある、小さな田舎町である。取り立てて見るものもなく、外国人に特別に知られているわけでもなければ、観光客がやって来ること自体が稀なこの街に、今回シンガポールを出て行ってみることにした。
実は前々からこの街には是非足を伸ばして見たかったのだが、なぜそんな事を考えたのかというと、それはある小説を読んだからに他ならない。
明治生まれの小説家、金子光晴。愛知県に生まれたこの人物は、1930年代初頭にマレー半島をあてもなく旅し、後にその体験を「マレー蘭印紀行」という小説にまとめた。
彼のこの小説は、何処か気だるげな幻想感の漂う、不思議な紀行文だ。緑に塗り込められたマレーシア半島の片田舎の小さな町で、日本を離れ、一人あてもなく彷徨う金子光晴の体験が、綴られている。その文章は、所々難解な表現が出てくることもあるが、幽玄と言ってもいい不思議な世界観で、文章の存在する次元が違うのではないかとさえ思わせてくれる。かの立松和平もまた、この紀行文の愛読者だったらしい。
その金子光晴が、一人やってきたのがこのバトゥパハという小さな街で、彼はこの街にあった日本人クラブの建物の三階で寝泊まりをして過ごしていた。
今回、シンガポールを出てマラッカに向かう途中で、バスでバトゥパハをわざと経由し、乗り換え時間でバトゥパハの町並みと、今も現存する、かつて金子光晴が住み暮らしたあの日本人クラブの建物を見てやろうと、寄り道をしたのであった。
そんなわけで、シンガポールから一路陸路で国境を越え、マレーシア側のラーキンというバスターミナルから、バトゥパハ行きのバスに乗り込んだ。
バトゥパハには3時ごろ着いた。
ネットで見聞きしたバトゥパハという町は、観光地どころかいよいよもって全く何もない単なる鄙びた田舎町で、外国人とみれば珍しいので話しかけられたりじろじろ見られたりする、という話だった。
そういうわけで、日本の田舎の漁村のような、緩やかに限界集落に向かって死を待つだけの町を想像していたのだが、実際に町に入ってみると、巨大なモスクや警察署、近代的なショッピングモールにKFC等々と、最初のイメージとはまったくかけ離れた町並みが広がっていた。
町の道路は幅が広くて直線が長いため、どこか帯広の町を連想させるものがあった。
バスターミナルから降りてみると、自分が完全にイスラム圏に入り込んだことがわかった。全身をチャードルに包んだ女性や、頭にヒジャブだけ巻いて、あとは洋装というあべこべな感じの女性たち、ソンコという帽子を被った男たちなどが、大荷物を抱えてバスターミナルをウロウロしている。バスターミナルの中には、イスラム教の礼拝所まであった。後から聞いた話だと、これから週末に掛けてマレーシアの祝日だというので、里帰りなどの旅行者であるらしい。
しかも、じろじろ見られるとか、話しかけられるということもまったくない。みな、忙しそうに歩いているし、こちらのことを気にかけるような素振りの人など一人も居ない。もう、外国人など珍しくないくらい、町も発展が進んでいるということだろう。あるいは、里帰りの都会から来た人たちだらけだったかのどちらかだ。
早速乗り継ぎのバスのチケットを取り、タクシーで目的の日本人クラブを見てやろうとしたのだが、実は肝心の日本人クラブの位置がどうしてもわからなかった。ネット上には何人か訪問の記録を書いている人がいて、建物の写真は何枚もあるのだが、住所がどこかということは誰も書いていない。
『川べりを10分歩いて』とか、『タクシーの運転手に適当に流してもらって見つけた』とか、その程度であった。
しかし、大荷物を抱えて歩きたくなかったので、タクシーの運転手を捕まえて「昔の日本人クラブの建物に連れて行ってくれ。バトゥパハの町の中で、川の近くにあって、今は使われていないはずで、近くに税関がある」というと、その建物を知っているという人がいるので、早速そのタクシーに乗り込んだ。
すると、タクシーはどういうわけか市街地を離れてパームヤシのプランテーションの中の道をひたすら突き進み始めた。
目的地はかなり遠く、15分くらいかかるし、タクシーを捕まえることは難しいので、私を使って往復しろという。…そんな場所だったかなと思いながらも、おとなしくそれに従って乗って行くと、タクシーはやがて小さな集落のそばの廃墟の前に乗り付けた。
「これがそうか?」
「そうだ。見ろ。税関は知らないが、川のそばで、相当昔の建物で、町がそばにあって、今は誰も使っていない」
ロケーションはいちおう合っている。しかし、明らかに建物が違う。だいたい、町中にある三階建の建物だというのに、目の前の朽ちかけた廃墟は草むらの中の平屋建てだ。
「ここで合っているのか?」
「私の知る限り、日本の建物はここしかない。時折日本人がここに来るが、みながっかりして帰っていく。どうだ、がっかりしたか」
と言って、運転手は笑う。
しかし、どう考えてもここではなかった。第二次世界大戦中にイギリス軍と日本軍が戦闘したというその場所を後にして町中に戻り、インターネットができる喫茶店に連れて行ってもらって、店員たちに地図と写真を見せながら、ここはどこかと尋ねた。
すると、年配の店員が、
「Jalan Enganだ」と言う。なんと、バスターミナルから本当に歩いて10分足らずの場所にあったのだ。
バックパックを背負って、Jalan Enganへと歩いて行くと、ようやく、写真と同じ、旧日本人クラブの建物が姿を表した。
建物の一階は何かの会社が使っており、二階以上は封鎖されていて上がることはできないが、ようやく辿り着けたという感慨深さで、胸が熱くなるものを感じた。最初に小説を読んで数年、ついに、こんなところにまで来てしまったのだ。
建物の横には今も税関がやはりあり、男たちが船便の荷物の揚げおろしをしていた。税関の警備員に写真を撮っていいかと聞くと、5分だけだと言って好きに取らせてくれた。きっと彼は、たまによそ者が来て写真を撮りたがるが、一体全体ここに何があるのだろうと不思議に思っているに違いない。
写真を撮った後、建物の壁に背を預け、パソコンを開いて『マレー蘭印紀行』の一節を読んだ。
『バトパハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた町すじの、袋小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊(カキ・ルマ)のある家々で続いている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹き抜けてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街を取り囲んで、打ち負かされることなく森森と茂っている…』
思えば、70年以上も前に書かれたただ一冊の本が、遠い日本に住む、何の縁もゆかりもない一人の人間を、マレーシアの田舎のひとつの建物の前にまで導いてきたのだった。
自分のやっていることとはいえ、人の世の縁の不思議を思わずには居られない。もちろん、やっていることといえばアニメの舞台を巡る「聖地巡礼」と大した違いのない、まったくもってミーハーな振る舞いでしかないのだけれども。
ふと、携帯から日本の実家に電話を掛けてみると、母親が出た。今はもう、ここはかつての密林の深奥に広がる幽玄と気怠さの漂う町ではなく、もっと新しい街になったのだろう。きっと、よそ者が増えて開発が進み、ボタンを押すだけで実家にいつでも電話が掛けられるような。
それにしても、あのタクシーの運転手に連れられて、高い金を払って何の関係もない建物に連れて行かれてがっかりして帰っていった日本人が何人もいるのかと思うと、何だか面白くてしかたがない。
けれどもまあ、悪いのは他に誰もこんなところに来ないだろうとたかをくくって正確な所在地を書かない他の旅行者の皆様であるので、私は以下に正確な位置を明示しておこうと思います。行きたい人がいれば、Jalan Enganと現地の人に訊けば、すぐにたどり着けるはずです。
旧日本人クラブの位置はこちら(正確には、Jalan Engan通りと、Jalan Shah Bandar通りの角の場所です)
Batu Pahatの写真はこちらにアップロードしました。
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