もうもうと砂埃の立ち込めるニューバガンの町並みを走って、タクシーはニューバガンのモーテル、Duwun Motelの前に停止した。
巻きスカートに白いシャツの年配の従業員が現れて、私を部屋に案内した。部屋は広くゆったりしていたが、どこかかび臭く、(そんなはずはないのだが)長いこと使われていなかったような雰囲気を呈していた。Wifiはなく、温水と書かれた蛇口を捻っても水しか出ない。しかし、このホテル不足を前にしては、そんな文句を言っているわけにもいかない。
細かい事は忘れて一眠りすると、午後から近所で自転車をレンタルして、オールドバガン目指して早速走りだした。しかし、ペダルを漕いでも、あっという間に砂にタイヤを取られてしまう。
ニューバガンからオールドバガンまでの幹線道路らしい大きな通りは舗装がされているのだが、道路の両脇から押し寄せる砂が道路上に堆積していて、ものすごく走りづらい。かと言って、頻繁に車が往来しているから、道路中央を走るわけにもいかない。
走っていると、早速遺跡にお目にかかった。煉瓦を積み重ねて作られた仏塔。すぐ近くに、管理人と思しき人々の家があって、子供たちが歓声を挙げている。中に入ると、仏陀の像が荘厳な表情を浮かべて静かに佇んでいる。
写真を撮って、また道路に戻る。またすぐに遺跡が現れる。写真を撮って戻る。また遺跡。また遺跡。
ほんの1~2kmを走っている間にも、立派な仏教遺跡がいくらでも現れる。人気のない遺跡もあって、そういう所に入り込むと、まるで遺跡を貸し切っているような気分になる。
小高い丘の上に建っている遺跡に登って遠景を見ると、遺跡の数々が地平線の彼方まで連なっている。その一つ一つに色々な由来があるのだろうけれど、あまりにも数が多くて、その一つ一つの歴史を確かめる気にはとてもなれない。
自転車でオールドバガンに着き、食事をして鄙びたオールドバガンを見廻った頃には、もう辺りは真っ暗闇に包まれてしまった。
自転車で何とかニューバガンに戻ろうとしたが、街灯もない真っ暗闇の道が延々と続いていて、足元が砂なのか舗装路なのかも分からない。挙句、舗装路に空いた穴にタイヤを取られて転びそうになる。
唯一の光源と言えば通りを行き交う車だけで、こんなに車に通りがかってほしいと思った道もなかった。「行きはよいよい帰りはこわい」という言葉通りのとてつもない田舎道である。
次の日は自転車に疲れたこともあって、馬車に乗って一帯を廻ってみることにした。自転車では進入しにくい平原の中の遺跡を案内してほしい旨を御者に希望したが、意外にも馬車は自転車で十分廻れそうな場所しか通ってくれず、期待外れだった(けれど、馬車でゆっくりと廻る田舎道は、のんびりしていてそれはそれで悪くなかった)。
遺跡のところどころで、何故かオバマ大統領のコブシを利かせたスピーチが聞こえてくる。大統領はちょうどその頃、数日前に私が行ったスー・チーさんの家でスピーチを行なっていたのだった。
「プレジデント」「オバマ」「アメリカ」といった単語を話しているのも聴こえる。彼らがどう思っているのかは定かではないが、大統領のスピーチのウケはそれほど悪くはなさそうであった。
(現金が足りない…)
夜になって改めて現金の枚数を数えてみると、現金が不足していることが分かった。やはり、現金は全てにおいて必要であり、みるみるうちに減ってしまった。
だが、バガンで現金を手に入れる方法は一切ない。
もし、ニャウンウー空港でチケットを買えなければ、15時間のヤンゴン行き地獄バスに強制参加させられてしまう。
なんとかしなければと策を巡らすと、マネーバッグに一枚だけ、予備の1万円札を取っておいたことを思い出した。これを両替できないだろうか?
バガンのみならず、ミャンマー全体で円は立場がない。広く流通しているのはドル、ユーロ、そして何故かシンガポール・ドルであって、円やタイバーツはヤンゴン空港でさえ両替してもらえないのである。
インターネットで調べると、つい最近、11月の初旬から中頃にバガンに滞在していた人のサイトを発見した。そのサイトによると、ホテルの従業員に1万円札を両替してもらおうとしたが、75000チャットだと言われて諦めたとの記述があった。75000チャットということは、約2000円が従業員の懐に収まるレートである。これは幾らなんでも足元を見すぎだ。
しかし、そのレートでもいいから両替しないと、15時間バスに乗らざるをえない。
モーテルの従業員にその旨を伝えると、モーテルのオーナー夫人なる年配の女性が現れて、流暢な英語で相談に応じてくれた。
彼女はすぐにオーナーに電話を掛けると、円を両替できる場所がすぐそばにあるということがわかった。オーナー夫人と従業員二人に付き添ってもらって歩いて行くと、看板も何もない商店のような建物の店先で、母娘とおもわれる女性二人が店番をしていた。
レートは90000チャット。一も二もなくオーケーした。
「良かったわね。これで飛行機のチケットが買えるわよ」
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
ミャンマー人のホスピタリティに触れたような気がした。ミャンマーはATM1つとっても不便な国だが、にも関わらず、ミャンマー人の人当たりの良さは、これまで通ってきた東南アジアのどの国にも勝るところがあるように感じられるのだった。
次の日とその次の日の飛行機の出発時刻まで、インターネットカフェにこもって時間を潰したり、安い自転車を使って遺跡を見て廻ることに費やした。
facebookに接続すると、トモコさん夫婦もまた現金の欠乏に苦しめられ、旦那さんが現金を手に入れるためにヤンゴンに戻ったという書き込みがあった。
私もまた、限界まで現金の欠乏に苦しめられた。飛行機の出発時に残された現金は、3ドルと750チャット、日本円にして315円にまで減っていた。
ATMもなければカードも使えない国で、315円しか手持ちがないという現実に、ATMやクレジットカードという文明の利器が如何に有り難いものであるかを骨の髄まで思い知る羽目になるのだった。
ヤンゴンに戻った次の日の昼、私はどうしても諦めきれなくて、もう一度あの北朝鮮直営レストランに出向いた。昼の北朝鮮レストランは、数日前の喧騒が嘘のように静まり返って、従業員の他には客一人居ない有様だった。
がらんとしたレストランの中で、今回はきちんと席に案内された。料理を決めて伝えると、ウェイトレスに「日本人?」と聞かれたので、Yesと答えた。注文を受け付けてもらったので、ためしに「カムサハムニダ」と言ってみると、ウェイトレスは驚いたような顔をして奥に引っ込んでいった。
料理を待っていると、別のウェイトレスがカラオケの曲リストを持ち出して声をかけてきた。
「日本人? 日本のいい曲教えてよ。ブルー・ライト・ヨコハマーってやつ」
「うーん、それはすごく有名だけど、僕はよく知らない」と言うと、彼女たちは驚いて、
「日本人でしょ? なんで知らないの?」というので、
「それはもう少し歳が上の人が好きな曲だ。年齢によって好きな曲は違う。ここに来る日本人の好きな曲は分からないよ」と説明したが、よく分かっていないようだった。
考えてみると北朝鮮人と話すのは初めての体験だった。この時間帯の彼女たちは暇を持て余しているらしく、向こうから話しかけてくるほどだった。ほとんどの国民が外に出られない北朝鮮にあって、海外に出て「敵国民」の韓国人や日本人と普通に話し、しかも恐らく北朝鮮当局が逃亡したり亡命したりはしないとお墨付きを与えて海外に送り出しているわけだから、彼女たちはきっと特別な存在なのであろうが、話した感じは別に特別な雰囲気は感じられず、ただの普通の韓国人女性のようにも見えた。
試しにカラオケの曲リスト本を捲ってみると、意外なことに最近のヒットソングやアニソンが大量に収録されていることに気がついた。
北朝鮮当局はどこからこんな新しいカラオケマシンを調達してきたのだろう。謎だったが、とりあえずここに来る日本人が最新ヒット曲やアニソンを歌うという絵面が想像できないし、カンボジアの売春カラオケがまたフラッシュバックしてきたので、もうそれ以上突っ込むのはやめることにした。
北朝鮮の冷麺は氷漬けにされて出てくるものらしい。冷麺とスープを飲んで、店を出ることにした。料理の味は普通だった。
支払った代金がミサイルの製造に使われないことを祈りながら、私はホテルに帰ることにした。
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