2012年11月28日水曜日

ミャンマー旅行で役に立つ情報(2012年11月現在)

前回のミャンマービザ取得方法についての記事が、なぜかにほんブログ村の海外旅行カテゴリランキングで、数日間1位を取ってしまいました。
読んでいただいた皆さん有り難うございます、と申し上げると同時に、ミャンマー旅行に関心を持たれている方が沢山いらっしゃるのだと改めて驚きました。
というわけで、今回はミャンマー入国後に役に立つ情報について報告したいと思います。

ATMでお金を降ろす

ミャンマーを旅行する際の最大の懸案事項は、ミャンマーでは、基本的に外国人はATMで現金を降ろせないということです。
実は、ミャンマーの銀行は国際クレジットカードのシステムと連携していない為、VisaだろうとMasterCardだろうとATMで使用できないのです。

従って、ミャンマーに向かう前に、現金を大量に用意しておく必要がありますが、もし、現金を持たずにミャンマーに向かうとどうなるか。
これは、一言で言って帰国できなくなるかもしれません。
なぜなら、クレジットカードが使用できないので、飛行機のチケットを買う時でさえ、現金で支払わなければならないからです(2012年11月現在、例えばミャンマーの航空会社のHPで飛行機のチケットを予約したとしても、支払い画面などは出てこないはずです。予約を受け付けましたというメールしか帰ってきません。チェックインする時に現金を払うしかないのです)。
つまり、行き帰りの飛行機代に加え、現地でのホテル代や食費なども全て含めた額の現金を用意しておかないと、後々大変な目に遭うことになります。

ただし、2012年11月現在、ヤンゴン市内に限っては、MasterCardを使用してキャッシングが出来るATMが幾つか登場し、外国人でも現金が調達出来るようになりました。
2012年11月15日、ヤンゴンのCo-Operative Bank(CBBank)が、ミャンマーで初めてMasterCardでのキャッシングサービスを始めました。この銀行のATMを使用すれば、一日に最大で、MasterCardで300,000チャット×3の計900,000チャットを入手することができます。
ヤンゴン市内のCBBankのATMの位置は以下のとおりです(市内でもう一箇所、MasterCardのマークのついたCBBankのATMを目撃しましたので、もしかすれば市内のCBBankのATMは全て対応したのかもしれません)。


ここのATMを使用する上で、他の国のATMと違うところは特にありませんが、このATMの周囲には闇両替商などが常時たむろっていることに注意する必要があります。
ATMでキャッシングをするという行為自体が珍しいのか、私がお金を降ろした時、10人近くの男たちが背後から私がキャッシングしている様子をじっと見つめた後、頼んでもいないのにチャットをドルに両替しようと迫って来ました。
こうした闇両替商にお金を騙し取られたという話も聞きますので、声を掛けられても応じないのが懸命です。
このATMは24時間営業ですので、夜間、彼らが引き上げた後にお金を降ろしに行くのもよいでしょう。銀行のガードマンはATMのすぐ近くで常に見張っているので、お金を降ろして強盗に襲われるというようなことはないはずです。

ミャンマーでの通貨事情について

ミャンマーで流通している貨幣は、ミャンマー・チャットとアメリカ・ドルです。
以前はチャットの公式為替レートが非現実的で、公式レートと闇レートの二通りが存在するほど、チャットが信用されておらず、そのかわりにドルを使っていたようです。
最近は二重レートが廃止され、比較的現実的なレートになったそうですが、チャットも街のあちこちで普通に使われています。

さて、昔の旅行ブログや本などで、「どこでもドルが通用するので、ドルさえ持っていれば不便はしない」という記述をしているものがあったと聞いていますが、2012年11月現在、ドルは町中であまり通用しません
ヤンゴンではドルを受け取ってくれる人もたまにいますが、バガンのような田舎ともなるとドルを受け取ってくれる人はほとんどいません。
逆にドルを使わなければならないのは空港で、航空券のチケットやエアポートタクシーの類はドル払いとなっています。一方、一般生活の中ではチャットが主流なので、航空券の料金はドルで、それ以外はチャットで用意すべきです。
今は二通りの通貨を使わなければならずに不便ですが、将来的にはおそらくチャットだけでよくなるでしょう。
カンボジア・リエルのように、自国通貨が買い物をした後にもらえるおまけチケットレベルの扱いを受けている国(ATMでもドルが当たり前のように出てくる)に比べれば、ずっとマシだと思います。

バガンでの円の両替について

2012年11月現在、ミャンマーでは、円はほとんど両替できません。ミャンマーで通用するのは、チャット、米ドル、ユーロ、そしてなぜかシンガポール・ドルだけです。円はどこに行ってもなかなか受け付けてもらえません。円は出発前にドルに変えておいたほうが望ましいでしょう。

さて、ミャンマー中部にある遺跡の街・バガンは、アンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥールに並ぶ超弩級の仏教遺跡群であり、日本人や欧米人もしばしばバガンを訪問しています。

ヤンゴンのように、最低限の現金入手法がある場所はともかく、地方都市に行くと完全にそうした手段もなくなります。
(私自身のことですが、)バガンに向かったものの、バガンでチャットがなくなってしまい、「どうしても手持ちの円からチャットに両替したい」ということがあるかもしれません。
むろん、普通の両替所で円をチャットに両替してくれる場所はほとんどありませんが、バガンのゲストハウスのオーナー夫人から、一箇所だけ円をチャットに両替して貰える場所を教えていただきましたので、こちらでご紹介しておきます。

大きな地図で見る

ニューバガンのメインストリート、Kayay St.の、ストゥーパが中央にあるロータリーの付近に、Duwun Motelというモーテルがあります。そのモーテルから、ストゥーパの方角に進むと、左手にネットカフェと食堂らしい店があるので、その店の角を左に曲がって少し歩くと、右手に看板も何もない、小さな商店のような店があります。
私が行った時は奥さんとその娘さんの二人が店番をされていました。そこで両替を依頼することができます。

レートは2012年11月現在で1万円=90,000チャットでした。同じく最近バガンに行かれたこちらのサイトの方は、「1万円=75,000チャット」と仰っておられるので、それに比べれば遥かによいレートのはずですので、バガンで両替をしたい方は、ぜひ試してみてください(ただし、私の時は近所の知り合いの人に頼まれたので、良いレートで引き受けてくれたという可能性もあります。実際に行ってもっと低いレートだったとしても責任は取れませんのでご注意を!)。

それでは、よいミャンマーの旅を!

2012年11月25日日曜日

バンコクでのミャンマービザ取得方法について(2012年11月現在)

チェンマイからバンコクに帰還した翌日、ようやくミャンマー大使館に赴いてビザを取得してみることにしました。
ミャンマーは、基本的に日本人がビザがないと入れない数少ない国の1つですので、次にミャンマーに向かう人のために取得方法を纏めてみました。

2012年11月現在、ヤンゴン空港でアライバルビザを取得することは可能ですが、取得できるビザの種類は
  • 商用
  • エントリー
  • 通過
だけで、観光ビザを空港で取ることはできません。従って、観光ビザはやはり事前に大使館で取得することになります(ちなみに、タイ国境の一部の村(観光客用の先住民族の村)には、5USDでミャンマーに日帰り入国することができるそうです)。
なお、ネット上でミャンマーのビザが取得できるシステム(E-Visa)が開始されたというニュースがあり、ウェブサイトもすでに開設されていますが、これは2012年11月現在使用できる状態にないようです。
バンコクの大使館でビザを取得すると、最短当日中~翌日には取得できますので、日本で取得するより便利かもしれません。

バンコクのミャンマー大使館は、バンコクBTSスラサック駅から、クリスチャン系の学校の方角に向かって歩いて数分の位置にあります。
ビザの申請時間は午前中のみですので、午前9時ごろに向かいます。
既に朝からビザ申請の行列ができていますが、ビザの申請用紙が整っていない場合は、絶対にここに直情的に並んではいけません。なぜなら、申請用紙は行列で長時間待った後の大使館の中にしかなく、並んでようやく大使館の中に入った後に、申請用紙を書いて写真を貼ってからまた並び直さなければならなくなるからです。


では、どうするか。
大使館のある通りを、北に向かって数分歩くと、このような看板が見えてきます。

実は、この看板の奥にあるカメラ屋に行くと、ミャンマービザの申請用紙に、証明写真、パスポートのコピーが全て手に入ってしまうのです!
ここには申請用紙の見本もあるので、時間を無駄にせずに申請用紙を書き、写真とパスポートのコピーを作ってもらうことができます。

申請書類が完成したら、後は行列に並び、ミャンマー大使館に入ります。
ビザの発給は最短で当日ですが、"Express service with air ticket only"との注意書きが貼り付けてあることからも、翌日出発の航空券を持って行かない限り、当日に発給してもらうことはできないようです。

申請手数料は、
  • 即日:1260バーツ
  • 翌日:1035バーツ
  • 2日後:810バーツ
です。
申請が済んだらいったんパスポートを大使館に預けて、ビザの発給日にもう一度大使館に行きます。ビザの受領時間は15:30~16:30で、その時間に行けばビザとパスポートを手に入れることができます。

それでは、よいミャンマーの旅を!

2012年11月24日土曜日

北方の薔薇(チェンマイ・第22~25日目)


カンボジアから戻ってきた後、ミャンマービザを取り忘れたせいで、すぐにミャンマーに出発できないことに気づいた私は、この土日をどうするかについて考えた。
土日はバンコクのミャンマー大使館が休みだから、何もすることができない。このままバンコクで土日を黙って待つというのもひとつの方法だったけれど、カンボジアから戻ってすでに丸二日休んでいたうえ、更に二日間何もせずに過ごすのは幾らなんでも怠惰に過ぎると思えてきて、いっそチェンマイを見て廻ろうかと思い至った。

チェンマイは、タイに入る前までは全く知らない土地だった。それを行こうと思い立ったのは、Across the Universeを連載中の市川君がオススメしてくれたことと、シェムリアップツアーで知り合ったシンジさんが、「チェンマイは流し灯篭のお祭りがとても綺麗らしい」というようなことを教えてくれたからだった。
そんなわけで、全く何の繋がりもない二人に同時にオススメされたということもあって、俄然興味が湧いてきてしまったのだった。
なおチェンマイでは、コムローイ祭りや、ロイカートン祭り、イーペン祭りなど、11月にイベントが満載だったのだが(ちょうど、これを書いている頃にお祭りが始まっているはずだ)、その期間に合わせて行くのは難しく、従って祭り前にチェンマイに出向くことになった。

チェンマイは、主に城壁(の跡)で囲まれた旧市街と、城壁の外にある新市街で成り立っている。旧市街の内部には無数の仏教寺院があり、僧侶が暮らしている。
ゲストハウスは旧市街の中にあり、すぐそばに数軒の寺院があったが、夕方になると僧侶たちの祈りの読経が、近所の寺院から染み入るように流れてくるのが、夕暮れ時の街に妙にしっくりきていて、どこか穏やかな気持ちになった。言葉はまったく分からないけれども、それはペナンで聞いたモスクの祈りの読経と、それは何処か似ていた。
僧侶たちは、こうやって、寺院の横にシボレーの代理店が出来る前から、今と変わらない祈りを捧げつづけてきたのだろう。そんなふうに思えた。

二日目は、チェンマイの町並みをのんびり見て歩くことに費やし、寺院の中で、地元民に混じって祈りを捧げた。別に自分は熱心な仏教徒でも何でもないけれども、マレーシアでもバンコクでもアンコール・ワットでも、とりあえず神仏に旅の安全をずっと祈るようにしていたからだ(出発前に函館の寺院でおみくじを引いたら人生初の大凶だったのを、なんとなく引き摺っていた)。

三日目は、市川くんに聞いた、タイの温泉に行く事にした。チェンマイの北80kmにチェンダオという小さな町があり、そこで日本人がレストランと温泉を経営しているという話であった。
ゲストハウスでバイクを借り受け、まずはチェンダオの前に小手調べとばかりに、チェンマイの北西の山1080mにあるワット・ドイ・ステープを訪ねた。久方ぶりのバイクに心は躍り、バイクはするすると山道を上り詰めて、ワット・ドイ・ステープに辿り着き、そこからチェンマイの町並みを心ゆくまで堪能することができた。
その後、チェンダオまで一気にバイクで駆けた。チェンダオまでの80kmはのどかなもので、道幅の広い道路はさながら高速道路と見紛うばかりだった。
1時間半も走ってチェンダオの日本食レストラン『TAKE』にたどり着くと、そこにはオーナーのUさんと、その友人のYさんが酒盛りに興じているところだった。二人共もう50代と思われる壮年の男性で、日本では地位の高い役職に就いていたのでは思わせる貫禄があった(実際にYさんは、日本では茨城の大学の助教授であったという)。
(なお、Yさんとの雑談の内容は、ミスターYかく語りきのエントリにて記した通りである)

Uさんの経営する温泉「ほたるの湯」は、『TAKE』から3kmほど離れた森の中にあり、日本人が発見した源泉を引いて作った温泉なのだという。立派なつくりの露天風呂2つと、地元民も使うという無料の土管風呂が川べりに置かれていた。
露天風呂のほうはもう既に予約がいっぱいとのことで、土管風呂に入ることにした。気さくそうな地元のタイ人たちとともに、土管を輪切りにして塩ビパイプで湯を引いただけの湯船に浸かった。森の中で、一ヶ月ぶりに入る温泉は、心までも温まるかのような心地よさで、旅の疲れを癒してくれた。

風呂の後は、『TAKE』でトンカツ定食を作ってもらい、それを食べながら、UさんYさん、メーホーソンからやってきた二人の友人で、高倉健にそっくりなSさん、彼らの友人のタイ人Tさん、同じくチェンダオに長期滞在しにきたIさん夫妻らと、楽しい宴会が催された。そこは間違いなくタイの北の果てだったけれど、どこかそんなことを忘れて、まるで日本にいるのではないかと錯覚してしまいそうになるのだった。

すっかり辺りが暗くなったころ、「カラオケに行こう」「チェンマイなんか行っても城壁しかない」「(Tさんの)家に泊まればいい」というUさんYさんの誘いを固辞して、バイクでチェンマイに戻ることにした。カンボジアでのカラオケ事件のせいで、すっかりカラオケ恐怖症になったのもあったけれど、さすがに会って初日のTさんの家に泊まるのはいささか気が引けたのだった。
チェンマイに戻る真っ暗闇の道をひた走っていると、突然タイ軍の検問にひっかかった。暗がりからぬっと現れた軍人の男性から、何事かタイ語であれこれと問いかけられたが、当然分からないので「自分は日本人である。タイ語は分からない」と英語で説明すると、ただの旅行者と気づいたらしく、すんなりと通してくれた。
後で調べたところでは、今年の7月にこの国境付近で麻薬の密売組織との銃撃戦があったばかりなのだという。一人でバイクに乗ってミャンマー側から走ってきたので、麻薬の運び屋なのではないかと怪しまれて誰何されたのだろう。

四日目、何の脈絡もなかったけれど、突然銃が撃ちたくなって、チェンマイの北にある射撃場にライフルを撃ちにいった。実銃を撃つのは、韓国の釜山で拳銃を撃って以来、4年ぶりのことだった(釜山で自分が銃を撃った数ヶ月後、例の爆発事故が起きて驚いたが、自分の行ったシューティングレンジとは別の店だった。ただし、事故のあった店はガイドブックに乗っており、行こうかと思ったが遠いので別の店にしたのだった)。
銃というのは面白いもので、一発を撃つごとに、私は何処か敬虔な気持ちになる。きっとそれは、銃という道具は、基本的には何かを破壊し、あるいは殺傷する兵器であるからだろう。
ライフルといっても撃ったのは22口径で、豆鉄砲に毛の生えた程度のものだったけれど、それでも当たりどころが悪ければ、人を殺すくらいの破壊力は十分にある。
自分は単にレンジでターゲットペーパーを狙うだけだが、もし人間を狙ったなら、狙った人間の運命をどうしようもなく決定し、不可逆的に完全に破壊することができるだろう。
おかしな話だけれど、銃を無事に撃ち切った後には、奇妙な平穏が心を満たす。うまく説明はできないけれども、それは自分が危険な兵器を誰も傷つけることなく無事に制御しきったという満足感とも、危険な兵器を制御する責任を果たしたという安心感ともいえるかもしれない。
自分は知らないけれど、ナイフを収集する趣味の人にも、そういうところがあるのではないだろうか。そういう人たちは、『危険なものが好き』というよりは、『危険なものを制御している安心感が好き』なのではないだろうか。危険な魅力であることに変わりはないけれども。

夕方、非常に親切なオジさんの運転するソンテウ(乗合バスのような車。見た目はフィリピンのジプニーに近い)を雇ってチェンマイ空港に行き、バンコク行きの飛行機に乗り込んだ。
いよいよ翌日、未知の国ミャンマー大使館との対決が待ち構えている。そう思うと、なんだかワクワクするものを感じた。

2012年11月20日火曜日

失敗(ベンメリア/トンレサップ湖~バンコク・第19~21日目)



三日目の日程は、ベンメリアと呼ばれる遺跡と、シェムリアップ南部に位置する巨大な湖、トンレサップ湖の訪問である。
ここで、二日目に出会ったシンジさん、マサキくんはそれぞれの目的地に向かって出立した。それと入れ違いに、アツミさんが旅の仲間に加わった。
アツミさんは道民である。普段は道北の利尻島で働いているらしいが、なんと1月~3月の冬の期間は函館(!)で仕事をする予定になっているとかで、旅を終えた時に確実に再会できる人がいるという楽しみが増えることになった(ヤッターバンザーイ)。

アツミさん、アサミさんにアニキと私という四人編成でトゥクトゥクに乗り込み、ベンメリアに向かった。ベンメリアはアンコール・ワットよりも更に北、シェムリアップの北80kmに位置する。
事前にマサキくんから、ベンメリアまでは非常に道が悪く、走ると砂埃が舞い上がるうえ道は凸凹していて、油断するとトゥクトゥクに頭をぶつけるという話が出ていたが、雨が降ったせいか道路はしっとりと濡れていて、砂埃に悩まされることはなかった。

一時間してベンメリアに着いた。ベンメリアは、雰囲気が「天空の城ラピュタ」に似ているところから、カンボジアのラピュタなどと呼ばれることもあるらしいが、巨大なガジュマルが遺跡のあちこちに根を下ろし、遺跡のあちこちが崩れているところを見ると、なるほど雰囲気はよく似ていた。
ここもまた、遺跡は内戦の影響であちこち破壊されてしまっていた。ここはほとんどまだ修復は始められていないらしく、あちこちに崩れた石が積み重なり、それを苔がすっかり覆いつくして、壊されてからもかなり長い時間が経ってしまったことを思わせた。
アンコール・ワットよりも規模は小さいはずだが、それでも積み重なった様々な装飾の施された瓦礫の山を見れば、これを元通りに修復するには、気の遠くなるような時間と、莫大な金が必要なのは一目瞭然だった。たとえどこの国が援助しようとも、そう簡単に修復が始められるものでは無さそうに思えた。
しかも聞いた話では、遺跡の巨大なガジュマルを切るかどうかでも問題になっているという。つまり、ガジュマルはもう遺跡の一部になったのか、それともただ遺跡を破壊しているだけなのか、という問題が以前から修復プロジェクトで議論されているらしい。
まったくもって、壊すほうは気軽に壊せるが、創るほうは想像を絶する難しさがある。最近はピラミッドを壊すとかスフィンクスを壊すとか言っている過激派イスラム教徒もエジプトにいるらしいが、彼らはそういった事を想像しないのであろうか?

ベンメリアからシェムリアップに戻ると、土産物屋と市内のオールドマーケットに案内された後、トンレサップ湖に向かった。トンレサップ湖はシェムリアップの南にあり、その大きさはシェムリアップの街をはるかに凌ぐ。
トンレサップ湖からは更に川が南に向かって流れていて、この川を辿って行くとプノンペン近郊を通ってベトナムまで届き、最後に太平洋に流れ出ていく(ちなみに、季節によって、トンレサップ湖に流入する川の流れる向きも色々と変わるらしい)。

トンレサップ湖に着くと、巨大な湖が我々を出迎えた。
湖の中には森が茂っているがこれは陸地ではなく、木々が直接湖の中に生えて陸地のように見えている。
アニキに促されて、三人でボートに乗り込むと、ボートは両側を森に挟まれて一見川のようになっている航路を突き進む。川のふちには、水上生活を送る人々の家々(これも全てボートの上にある)が並んでいる。
川を下り終えて、開けた場所に出た。そこは文字通り海だった。文字通り地平線の果てまで湖が続く、雄大そのものの景色である。
ここで夕陽の展望台兼土産物屋(これもボートの上)に降ろされ、夕陽がやって来るのを待った。陽が落ちるのを待つ間、展望台を散策すると、展望台の地下(水面?)室に十匹前後のワニが飼われているのを見た。見物客用の見世物なのだろうか。

もっと驚いたのは蟻だった。
蟻が、展望台のレストランの一角に捨てられていたゆでエビの残骸に集まって、エビをせっせとどこかに運んでいるのだ。湖のど真ん中で!
どこに巣を作っているのだろう。展望台から湖の底に降りて、地中にある巣に向かう秘密のルートがあるのだろうか。それとも、ボートのどこかに穴をあけて、そこに巣をつくっているのか。あるいは、木の上や幹の中に棲む変わった種類の蟻なのだろうか。
探してはみたが、彼らの行き先はさっぱりわからなかった。

トンレサップ湖の夕焼けは美しかったが、やや曇っていて太陽は見えなかった。周囲が薄暗くなって、呼びに来たアニキに従ってボートで来た道を戻った。
水上生活を送る人々は、元を辿るとベトナム人であるらしい。彼らは、季節に従って住む場所を移しながら半定住生活をしているという。
彼らの水上ハウスには普通にテレビがあって、子供たちがテレビを見ている。ハンモックでゴロゴロしている人もいるし、たくさんの商品が陳列された商店もある。
たぶんパソコンを持っている人もいるだろうし、ひょっとしたら船に揺られながら水上生活のブログなんかを更新している人もいるかもしれない。
いずれにしても、世の中には色々な暮らしをしている人たちがいる。その人たちはまったく違う暮らしをしているようでいて、一方では日本の暮らしと大して違わないところもあるらしい。
そんな人々が世界のあちこちにいるというだけで、どこか勇気付けられるような、心強いような気持ちを感じながら、またトゥクトゥクに乗ってトンレサップ湖を後にした。

トゥクトゥクがホテルに着くころ、またアニキが囁くように話しかけてきた。
「ここね、ここのインターネットカフェに9時半。私は韓国語の勉強してから行きます。OK?」
例のカラオケの誘いである。
アニキは「ホテルの人には言ってないね? ホテルの人に言うと面倒だからね」と言う。変だと思ったうえ、正直なところ疲れていて面倒くさい気持ちがあったのだが、一度約束してしまったので行く事にした。
しかし、どこか変だと思うところもあったので、一応「アニキ、僕は女の人は要らないですよ。普通のカラオケだけ、それでもよければいきますけど」というと、アニキは「OKOK」と行って去っていった。
9時半にインターネットカフェに行くと、アニキは時間通りバイクで待ち構えており、それから私を後ろにのせて出発した。

バイクで10分、人気のない薄暗い道をひた走ってカラオケ屋に通されると、そこにはピンクの照明の玄関ロビーに女性が30人ばかりも待ち構えているカラオケ屋だった。
(やっぱりこうなるのね…)
女性たちの視線を感じながら、アニキの案内で奥に通される。
「女の子呼ぶとキスとタッチだけOK。エッチは別料金」と説明するアニキに、「女は要らないって言ったろ」と抗議する気持ちもなくなり、さっさと歌って帰ることを決心する。
「女の子ホントに要らない? ホントに?」と聞くアニキと店のママさんのような人に断固「要らない」と断って日本曲の本をめくってみると、どれもこれも40代以上が歌うような演歌とムード歌謡だらけで、歌える曲がほとんど見つからない。
ここに来る日本人の客層を想像してげんなりしながらも、なんとか歌える曲を数曲見つけてなんとか1時間半を切り抜けた。その頃にはさすがのアニキも私が乗り気でないことに気づいたらしく、当初は2,3軒掛け持ちするつもりでいたようだったが、1軒目で打ち止めということになった。
ちなみに、アニキはその1時間半の間にカンボジアの演歌を楽しそうに歌い、7~8回もカンパイ!と言って場を盛り上げようとしていたが、当然そんな売春カラオケ店にやってきて男二人で盛り上がるはずもなく、終始粛々と歌うだけで終わった。
カラオケ1時間半とビール2本、ピーナッツ1袋で35ドルというボッタクリ価格、費用はこちらの全持ち、さらにアニキの飲酒運転バイクにニケツでホテルに戻るはめになるという、何のために行ったのかさっぱり分からない脱力ぎみの宴になった。
(ちなみに、アニキはこうやって客を売春カラオケ屋に連れていけば、店から手数料をいくらかもらえるのであろう。ホテルに言うなとしつこく念押ししていたのも、そういう理由だったのだと思う。)
こうして、カンボジアの夜は幕を閉じた。

こうして私はカンボジアからバンコクに戻った。
長時間の野外活動と、最終夜の脱力売春カラオケ事件で疲れ果ててしまい、バンコクでは2日ばかり休んで、それからヤンゴンに向かうつもりでおり、ブログで情報収集やカオサンロードで土産物探しなどに費やした。
しかし、「金曜日の午後」になって大変なことを忘れていたことに気づく。
ミャンマーはビザが必要な国であり、ミャンマービザの申請手続きは「月曜から金曜の午前中」までだということを。
つまりそれは、ミャンマーにはまだ行けないということを示していた。

2012年11月16日金曜日

払暁(アンコール・ワット、第18日目)

またまた、次の日も朝4時ごろに起きた。
ツアーの予定で、朝の5時からアンコール・ワットで朝日を眺める予定になっていたからである。
ようやく目が覚めてきて、5時にロビーに降りていくと、ロビーにはもうすでに他の日本人の仲間達がスタンバイしていた。
彼らと一緒にホテルの外に出ると、外ではトゥクトゥク(カンボジアでもタイと同じ名前でほぼ同じ乗り物。バイクに客席を取り付けた三輪タクシー。フィリピンでいうトライシクル)が待ち構えていた。これ2台に二人ずつ分乗して行くということらしい。
ところが、運転手の一人が、裸のバイクを指さしてこれにニケツをせよと言い出した。

「もう一人のトゥクトゥクのオカマ、眠い言ってる。来れない。スリーピー。」
…はぁ、そうですか。

というわけで、他の三人とは別れて、バイクの後部座席にニケツをして朝方のアンコール・ワットまで出向くことになった。
(出発前、バイクの運転手が人に言いつけて倉庫からヘルメットを取り出させていたので、てっきり自分の分もあるのかと思っていたら、ライダーがそれを被ってさっさと出発してしまった)

払暁のシェムリアップを、バイクはグングンと速度を上げて走る。街はまだ眠りから目覚め切っておらず、ぽつぽつと数人の人が道端をウロウロしている以外に、ほとんど人気はなかった。
アンコール・ワットに向かう道路は、町中の道路の様子とは裏腹に、いやに道幅が広く、小奇麗に整備され、森を貫くように真っ直ぐ進んでいた。
バイクでひた走っていると、風で少し肌寒いくらいに感じる。薄暗い森の中を走っていくその様子は、それだけでなんとも言えないくらいに幻想的で、まるで子供の頃にテレビで見た「みんなのうた」の「まっくら森の歌」の世界を思わせるようだった。

バイクがアンコール・ワットに着くと、ドライバーは何処かに行ってしまった。ガイドもなく、一人で奥に向かうと、意外なことに早朝のアンコール・ワットは、あちこちに人だかりができていた。
そこかしこで自分と同じく朝日を狙ってやってきた観光客だらけで、ひっきりなしに日本語が聞こえてくる。
やがて、朝日がアンコール・ワットを美しく照らした。それは実に美しかったが、あまりにも観光客が多すぎて、どこか拍子抜けさせられるところもあった。
(もっと奥に行ってみるかな。いや、止めとこう。どうせ今日また来るんだから…)

遺跡入口に戻ったが、他の仲間達の姿はどこにもなく、待っていたバイクでホテルに戻った。途中、バイクが道端で急に停止したので、何事かと思って様子を見ていると、運転手は道端にあった、大きな石油ポンプのような機材が乗っかったドラム缶のそばに立っていた女性に声をかけ、金を払った。すると女性は、石油ポンプに取り付けられていたチューブをおもむろにバイクのタンクに挿しこみ、もう片方のチューブの端を外して、チューブを頭上高く持ち上げたのだ。

これはガソリンスタンドだ!
なんということだろう。ガソリンを、道端で普通の女の人が何事もないような顔をして売っているのだ。そういえば、普通のガソリンスタンドはほとんど見かけない代わりに、このドラム缶式ガソリンスタンドが道のあちこちにある…。取扱免許とか、そういうのはどうなっているのだろう。
カンボジアのことがますます分からなくなりながら、ホテルに戻った。

ホテルに戻って朝食を済ませたあと、朝の8時に再び遺跡訪問に出発した。ここで、日本語を話すガイドの人が現れた。
自称『アニキ』。テンションの妙に高い、お調子者タイプのキャラである。彼の正しいのか正しくないのか今ひとつよく分からない解説を聞きながら、一行は午前中にはアンコールトム、タ・プローム、午後からはアンコールワットを訪問した。
こうした遺跡は有名すぎて、いちいち自分が何か感想を述べるのも憚られるほどだが、一言で言ってその荘厳さと、スケールの大きさには圧倒されるものがあった。これほどのものを、1000年近い昔の人々が手作業で作り上げていったとは、とても想像がつかない。今同じようなものを作ったとしても、とてつもない大工事になるだろう。
残念なことに、こうした遺跡は、カンボジア内戦の影響で、悉くクメール・ルージュによって大きく破壊されてしまっていた。もしこれが破壊されていなかったとしたら、もっと素晴らしい遺跡になっていたことだろう。
遺跡群のあちこちで、各国が協力している修復プロジェクトが進行中、というような看板を目にした。もちろん、これが単なる各国の善意と篤志だけで行われているとは思わないけれども、それで遺跡が少しでも蘇るなら、それに越したことはないとも思えた。

アンコールワットの遺跡の中では、かつてここを訪れた訪問者たちの刻んだ文字をあちこちで目にした。
1902、XXXX。昭和十六年、大日本帝國・XXXX。大南國X南省(戦前のベトナム)・XXX。1959年・XX。2007年・XXX…。
中には、1632年にアンコールワットを訪ねた長崎の武士・森本右近太夫の落書きまでも、石柱に残されている。
色々な国からの、様々な人々の訪問記念の落書きである。言ってしまえば文化財の破壊でしかないわけだが、外国に訪問するのも難しかったであろう大昔の人々の落書きを見ると、彼らはどのような思いを胸にここにやってきたのだろう、彼らはそれからどのような人生を送ったのだろう、と思いを馳せずには居られなかった。

最後にプノンバケンという遺跡で、アサミさんマサキくんと共に夕日を鑑賞した後、ホテルに戻った。
強すぎる直射日光と長時間の野外活動のせいで、とにかくヘトヘトに疲れていたが、まだまだ明日の予定は残されていた。

ちなみに遺跡の鑑賞中、アニキが私に向かってこんな事を囁いてきた。
「どうですか、夜にカラオケでもいきませんか?」
一瞬迷ったが、現地の人との交流は大事にしなければなどと思いたち、OKすることにした。しかし、これが次の日、失敗であることが判明する。

2012年11月15日木曜日

ミスターY かく語りき

ミスターY:
神奈川出身。チェンマイ・チェンダオの日僑経済界のフィクサー。現在は自動車関係?の職業に着かれている様子。ミャンマーにも詳しい。ドイツ語を話す。
(私は北タイ・ミャンマー情勢には詳しくなく、しかも酒の席での雑談なので、とりとめがなくまったく詳細に欠けますがご了承ください。所々間違えているかもしれませんし、参考程度です)

於:チェンダオ某所

Q.東南アジアに日本企業が進出しているようですね
A.タイにも色々日本企業が来ているが、日本企業がなぜ東南アジアに来るかわかるかね。人件費が安いのも1つだが、法律の規制が緩いので廃水などを垂れ流しに出来るからだ。現地に住んでいる者からすればとんでもない話だ。倫理が破綻している。そんなことをしていたらいずれ堕落するよ。

Q.北タイはどうなのですか
A.北タイは今アツい。アジアハイウェイをここから北のチェンコンあたりに建設する計画が進んでいる。なぜ道路を作るかというと、マレーシアを迂回して海路で荷物を運ぶよりずっと安いからだ。中国や日本が進出してきている。北タイ人も賢い。何をしたかというと、道路が出来る前からさっそく穀物の集積倉庫や、パルプの工場を建てた。こういうのはハズレがない。今は地価も上がってきて、土地などとても買えなくなってしまって失敗だった。

Q.最近はミャンマーが注目されていますが
A.私に言わせれば何故あれほどミャンマーが熱いのかわからない。ミャンマーは今もてはやされているが、西部のアラカン(ラカイン)州あたりでは軍がイスラム教徒を殺していて、また何が起きるかわからない。何かが起きた時、日本企業が対応できるかという話だ。先の地震の時も日本人は準備をしなかったので、うろたえて対応できなかった。私もドイツ人に、なぜ日本は原発事故の対応が遅いのかと言われた。そういうことだ。

Q.ミャンマーとタイは貿易が盛んなのですか
A.盛んだが、ミャンマーは不安定だ。最近ではメーソートというところの国境が閉まっている。なぜかというと、ミャンマー側の警察と軍が通行税の取り立てで内輪もめをしていて話が纏まっていないからだ。それで北タイ側のルートが注目されている。

Q.中国と日本が揉めていますが日本企業は東南アジアに移転してきていますか
A.私としてはもう少し揉めてくれたほうが面白いがね。それにしても日本という国はおとなしすぎる。あんなんでは国際社会で戦っていけない。

ミスターYについてS氏、U氏のコメント
S氏「ところでUさん、最近Yさんは何されてるんですか。バイクの在庫が800台くらいお持ちなんですよね?」
U氏「さぁなァ、いっつも聞いてんだけどよォ、よく分かんねぇんだよなァ!」

(このインタビューは無許可掲載ですが、特に特定個人に重大な影響を及ぼす内容ではないと思いましたので掲載しました。問題があればご一報ください)

ក្រុងសៀមរាប(カンボジア国境〜シェムリアップ、第17日目)

エイジアンティークでカリプソ・ショーを堪能した翌日、私はまた非常に頑張って朝4時半に早起きした。
朝何とか目を覚ました後、荷物を纏めてツアー会社のオフィスに向かうことを考えると、たとえそのオフィスがホテルの100m圏内にあろうとも、集合2時間前には起きないと荷物のパッキングをして出発することができない。そういう人間なのだ(会社に通っていた時は、会社と家を決まった手順で往復するだけで、面倒な荷物の整理も特になかったから、始業3,40分前に起きてもギリギリ間に合うことができた)。
そうやってようやく6時半にオフィスの前に行くと、今回はすぐにツアー会社のスタッフがやって来て、また昨日と同じように移動用のバンに私を案内した。

今回の行きずりの仲間たちは、昨日とは違っていた。
名古屋出身のアキコさんに、大阪出身のアサミさん。それと、福岡は粕屋郡出身の男性(なんと、智さんと同じでまた粕屋郡だ!)。
うとうとしながらバンに揺られて数時間、タイ・カンボジア国境のレストランで昼食を取り、出入国審査で長時間待たされつつも、徒歩で国境を通過する。歩いて国境を越えるのは、初めての経験だ。
その後、バスに乗り換えてこのままシェムリアップに向かうのかと思いきや、バスはタイ国境を出てすぐの大きなバスターミナルに停車し、全員が降ろされた。次にどうすればいいのかとガイドの話を聞くと、次はタクシーに乗ってシェムリアップまで行くらしく、日本人たちはタクシーに同乗してシェムリアップに向かった。

(ちなみに、ツアーの内容によってここでタクシーに乗るか、普通のシェムリアップ行きバスに乗るかが変わるらしい。ところがバスは次いつ来るか分からない、多分数時間後だなどと寝ぼけたような話が始まり、国境越えまで一緒だったドイツ人カップルが「自分でカネを払ってタクシーに乗るよ」とガイドに言うと、ガイドは「だめだ。俺はカネを貰ってるからあんたのバスのチケットに対して責任がある。バスに乗れ」などと怒り出し「あんたに責任なんかないよ、カネは自腹で出すと言ってるだろ」というドイツ人カップルと口論していた。急げと言ってさんざん急かした割に何分も待たせたりとサービスはテキトーなのに、責任だなんだということにはなぜかシビアなガイドだった)

そうこうしてシェムリアップに向かったが、タクシーはえらくのんびりとしたペースで、どこまでも限りなく続く水田をひたすら走った。運転手曰く、2時間はかかるという。
走っても走ってもあまりに風景が変わらないため、仲間たちはやがて寝始めた。自分もまた寝た。次に目を覚ました瞬間、たまたま視界の中に「Siem Reap Province」と書かれた標識が目に入ったが、風景は寝る前と全く変わっていなかった。

仲間たちもやがて起きてきて「全然風景変わってないね…」などと口々に話した。そう、あまりにも風景が変わらなすぎて、だんだんみんな不安になってきたようだった。シェムリアップという町がどんな所なのか想像もつかなくなってきたのだ。
もしかして、畑のど真ん中にホテルとアンコールワット遺跡だけがぽつんとあるような場所なのではないか…?
そんな想像さえ、あながち笑い話とも思えないくらいに風景に変わりがなかった。一体全体、どれだけ大量のコメを作っているのだろう。どこかに輸出しているのだろうか? それにしては、カンボジア米なんて聞いたことがない。でも、これだけの面積ならものすごい量が採れそうな気がする…。

誰かが「これホントに進んでるの?」と言うので、「一応さっきシェムリアップ州に入ったみたいですから、進んでるはずですよ」というと「良く見てたねそんなの」と言われたが、何のことはない、目が覚めたらたまたま州境だっただけの話だ。
その次は道路脇の石の標識に「Siem Reap 23km」と書かれているのを発見し、一同にようやく安堵の色が広がるのだった。

そうして少しずつ風景が街中に変わっていき、シェムリアップに到着したが、シェムリアップはなんだか一言で言っておかしな街だった。
あちこちに高級リゾートホテルのような立派なホテルがドンドンと建っているにも関わらず、道は舗装があまり行き届いていないらしく、赤茶けた色の土埃があちこちに舞い上がり、街自体がどこか赤っぽい印象を与えている。立派なリゾートホテルの隙間にには、フィリピンの家を更に貧しくしたような佇まいの家々がそこかしこに犇めいている。そうかと思えば、東京あたりにありそうな近代的なビルが突然現れて、その中に旅行代理店のH.I.Sの事務所が入っている。
ホテルに入る道は一般の生活道路のような様相を呈し、舗装はおろか、赤茶けた色の土の道があたかもマリオカートのように、凸凹と上下に波打っている。にも関わらず、舗装されてない道の両脇には、観光客向けの小奇麗なバーやらレストランやらマッサージ店やらがずらずら並んでいる。

わけがわからない…。タイとも何処か違う、謎の国カンボジアが私を出迎えたのだった。

2012年11月13日火曜日

ニューハーフ・ショー(アユタヤ/バンコク・第16日目)


バンコク二日目の朝7時、私はホテルのすぐそばにあるツアー会社のオフィスに向かった。
そのツアー会社は日本人が経営しており、日本人のスタッフがいるということで、前日の昼間に行ってツアーの申し込みをしていた。
申し込んだのは、バンコクの北にあるアユタヤ見学ツアーと、隣国カンボジアのシェリムアップにあるアンコールワット見学ツアーである。
最初はバックパッカーがツアーに参加するというのも変かもしれないと思ったが、話に色々と聞くと、アユタヤもアンコールワットも個人で回るのが難しく、一人で右往左往して疲れるよりかは、現地発のツアーに参加して効率よく見て回ったほうがいいと判断したのだった。

というわけで、7時集合との指示を受けて非常に頑張って起き、7時ちょうどにツアー会社の前に行ったものの、オフィスは開いておらず、係の人も誰もいない。
すぐそばで欧米人連中が朝のお茶代わりにビールを飲んでいるのを横目で見ながら、もしかして集合場所を間違っただろうかなどと不安になりながら待っていると、ツアー会社のタイ人のスタッフは、7時半になってから何事もなかったかのように現れ(そういえばここは東南アジアだった)「何をしている。早く行くぞ」という素振りで、私や他の人々を車まで誘導するのだった。

そのままツアー会社のバンに乗り込むと、日本人も何人か乗り込んでいた。
将悟くんと同じく大学の学園祭期間を利用してやってきたという和宏くんにヒロアキくん、立川在住の萌さん舞依さん、元日立製作所所員で現在は弁理士のキモトさん(犬の写真大好きな女性で、遺跡の写真よりひたすら現地の犬の写真を撮りまくっていた。面白い人である)。

アユタヤに到着すると、一行はツアーガイドに案内されながら、仏教寺院の遺跡を見て回った。昔ブッダの遺骨が収められていたという寺院跡や、木の根元に埋め込まれているブッダの頭部の石像、そして世界で三番目に大きいというアユタヤの寝釈迦像に詣った。
アユタヤの寝釈迦像と言えば、格闘ゲームの「ストリートファイターⅡ」のキャラクター、サガットのステージとして我々の世代にはお馴染みで、これを見に行くのが楽しみだったのだ(ちなみに、今の大学生にサガットステージと言ってももう通用しない。話をしても「何のことすか?」という反応が返ってくるだけである)
さっそく、寝釈迦像の目の前でサガットの必殺技ポーズを作って写真を撮ってもらおうとしていたところ、そこにいきなり「リュウ役をやりたい」と言って飛び込んできた人があった。
福岡県の粕屋郡出身の智さんという男性である。さっそく彼に波動拳のポーズを作ってもらって、ようやく再現することに成功した(まったくもってくだらない遊びだが、こういうくだらないちょっとしたことが意外といい思い出になったりするものだ)。

最後の記念にみんなで象の背中に乗ると、元着た道をバンで戻ることにした。バンの中で、せっかく会ったのだしムエタイでも見に行きましょうか、と智さんを誘うと、萌さんが「ニューハーフショーもおもしろいらしいですよ」とパンフレットを見ながら言った。
そこで、急にムエタイからニューハーフショーに興味が移ってしまったうえ、和宏くんの「俺の先輩もニューハーフショーがおすすめだって言ってました」との言葉に、急遽ニューハーフショーを見に行くことにした。
萌さん舞依さんキモトさんと別れ、カオサンで男性陣4人が待ち合わせして集まると、さっそく目的のカリプソ・ショーが行われるというエイジアン・バンコク・ホテルに向かったが、そこで何か様子がおかしいことに気づく。
ホテルの入り口で、「カリプソは9月に別の場所に移転した。ここのショーは小さい。カリプソはここでチケット買えるしそこまで送ってやる」という強引な客引き風のタクシードライバーのオジさんと、「カリプソとは違うけど、同じショーがここでもやってる」というホテルマン風の男性二人が突然現れたのだ。

どう見ても怪しいのはタクシードライバー風のオジさんである。しかし、「カリプソは移転した派」の係の人も、ホテルのロビーの一角にコーナーを設けて受付らしいことをやっている。「ここで金を払えばタクシー代タダで今すぐ連れて行くよ」という相変わらず強引なオジさんを横目に、四人は「何だかこのオジさん怪しくないすか。強引だし」「でもカリプソは移転したみたいなんだよなぁ」「カリプソでなくてもここでもいいんじゃない?」などと喧々諤々と話し合ったすえ、ヒロアキくんが彼らを「わかった。ただしちゃんと目的地まで連れて行かなかったらカネは返してもらうぞ」と脅しつけた末に、ようやく四人はタクシーに乗って移動することになった。

タクシーは、ホテルを慌てて出発すると、突然高速道路に乗り付ける。車内では「やっぱりなんかこのオッサン怪しいですよ。20分って言ってましたよね。20分で着かなかったらボコりましょう」などと不穏な話し合いが持たれる。
結局、タクシーは渋滞に巻き込まれて40分もかかりながらも、それでも目的地の真新しいショッピングモール・エイジアンティークに到着した。そこにはカリプソ・ショーのブースがきちんと設けられており、結局のところ、オジさんは詐欺師でもなんでもなかったことが分かった。

そうして散々もめながらも、ニューハーフ・ショーは始まった。
ニューハーフ・ショーは日本にもあるが、一度も行ったことはなかった。雰囲気が怪しいし、そんなところには行きたいと思ったこともなかった。
ところが、タイのニューハーフ・ショーは、そんな気持ちはどこかに吹き飛ばすほどの、物凄いパワーを秘めたエンタテインメントだった。
ニューハーフたちの、己の全身全霊を賭けたような、力強い演技。妖艶なセクシーさの中に、あっけらかんとした楽天的な楽しさがあふれる。そして、美しさを計算し尽くした演出。
美空ひばりの『川の流れのように』にのせて踊られる美しい演技の余韻を、容赦なくギャグパートに落としこんで観客を盛り上がるおかしさ。

全てが素晴らしい舞台だった。何より、彼ら(彼女ら)は美しい。
きっと、彼らにしかわからない世間からの偏見や圧力にもめげず、楽天的に、どこまでも美の追求を怠らなかった努力がこのショーを生み出しているのだ。
西尾維新の「偽物語」にこんな言葉がある。『偽物故に、きっとなによりも本物に近い彼女たち』。まさに、彼女たちこそがそれだ。
ショーが終わってから、どうしても記念写真が撮りたくなって、ギャグパート担当の青いドレスの彼女と記念写真を撮ってしまった。

ショーが終わって、どこかすっきりしたような気分でカオサン・ロードに帰った。非常にいいものを見れたという満足感に包まれていた。もちろん他の三人の心境はわからないけれど、あの様子では自分と同じ気持ちだったと思って間違い無いと思う。

タイのニューハーフショーは、素晴らしい。

2012年11月11日日曜日

旅する仏像(バンコク・第15日目)

バンコクで迎えた初日は、それなりに朝早く起きることに成功すると、さっそく市内を見て回ることにした。
バンコクで見るものといえば、何はなくとも、ワット・プラケオ(王宮)、ワット・ポー(菩薩の寺)、ワット・アルン(暁の寺)である。
カオサン・ロードから、トゥクトゥクを雇ってワット・プラケオに向かうと、そこにはもうすでに大量の人だかりができていた。
中国の年配の観光客たちが団体で記念写真を撮影している横をすり抜けて王宮に入ると、金色に装飾された数々の仏塔や寺院が、私を出迎えた。
仏塔や寺院を彩るのは、精密巧緻をきわめる金細工の数々。寺なのにこんなにギラギラしていていいのかと思ったが、あとで調べたところによると、王室専用の仏教施設だということで、僧侶がここに住んでいるわけではないらしい。

ワット・プラケオの最も重要な寺院のひとつでは、エメラルドの仏像が鎮座ましましている。この仏像は、最初インドのパトナで作られ、その後スリランカに移された。その後、ビルマの王朝がスリランカから仏典を手に入れてビルマに持ち帰る際に一緒に持ち出されるも、船が難破してカンボジアのアンコールトムに流れ着き、アユタヤに移される。その後更にアユタヤからチェンライ、チェンマイ、ラオスのヴィエンチャンを経由して、ようやくバンコクに辿り着いたのだとか。
このエメラルド仏は季節によってタイ国王が衣替えをするという伝統があるらしく、今は冬服を着ていた。

旅の安全と無事をエメラルド仏に祈ってから、ワット・ポーに行き、寝釈迦像を拝み、ワット・アルンを遠くから眺めた。ワット・アルンは別名を暁の寺といい、三島由紀夫の小説の舞台になった寺でもある(私は読んだことはない)。
私が行った時、ワット・アルンではちょうど何かの行事が執り行われているところで、川の対岸から眺めることしかできない日にあたっていた。川べりに向かうと、ワット・アルンを背景に、細く長い形状のドラゴン・ボートに乗った僧侶たちが、祈りの歌を捧げながら、ゆっくりと川を下っていく場面に出くわした。
周囲には、祈りの声がぼうっと響く。観光客が川べりにたくさん張り付いてその様子を眺めているにもかかわらず、その歌声が、黄昏時の川辺を、どこかゆったりとした雰囲気に変えて流れつづけていた。

バンコクの写真は、こちらにアップロードしました。

2012年11月8日木曜日

聖地(カオサン・ロード、第14日目)

国際急行列車の中で知り合った旅仲間・将悟くんとタイの首都バンコクに辿り着いたのは、昼1時ごろである。
バンコクに辿り着いた二人は、取るものも取りあえず、トゥクトゥクに乗り込むと、バンコク市内にあるカオサン・ロードへと向かった。カオサン・ロードといえば、東南アジアを旅する旅人にとっては聖地であり、多くの旅人がここからカンボジアやラオス、ミャンマーといった国々へと旅立っていく出発点でもある。旅をはじめる前から、その名声は私もよく耳にしており、是非私もそれに倣いたいと考えていたのであった。

昼のカオサン・ロードが、照り付ける白い日差しの中、私と将悟くんを迎え入れた。
(これが、噂のカオサン・ロードか…)
人ごみ、人ごみ、人ごみ。
人ごみが絶えることなく、ずっと続いている。道の至る所に、食事やジュース、Tシャツや偽造証明書などを売りさばく露天が軒を連ね、それを縫うように人やバイクが蠢き、左右のあちこちからクラブ・ミュージックが聞こえてくるさまは、完全に無法地帯である。その縺れきった人ごみの中で、ただカオサン・ロードの道だけが、混沌を均すただ一本の秩序ででもあるかのように、遥か彼方に向かってまっすぐ貫かれている。

その、あまりにも楽天的な雰囲気に押されながら、とりあえず食事を取ろうと将悟くんを誘って、レストランに入り、食事を取った。将悟くんはM大学の学園祭の期間中、学園祭には一切ノータッチでこちらに旅をしに来たらしい。
大学生のうちに旅をしておくのは良いことだと思う。フィリピンに留学していた時も、大学を休学したり、少ない路銀を何とかやりくりしてでも世界を見てやろう、あるいはNGOの活動に加わって、世界をよくしよう等々と考える気骨のある仲間たちが大勢いて、羨ましく思ったり、自分が恥ずかしく思えたりした。自分が大学生だった頃はそんなことは考えたこともなかったし、ただ漫然と時間を潰し、ストレートに卒業して適当な会社に入ることしか頭になかった。

将悟くんと別れてカオサン・ロード沿いに投宿し、夜になって再び外に出た。夜になっても変わらずカオサン・ロードは賑やかで、どこでもかしこでも欧米人が酒を飲み、歌い踊って人生を謳歌している。
この場所に、世界各地からありとあらゆる人々が集まり、そして一時の間盃を交わして、また何処ともなく己の目的に向かって立ち去っていく。あたかも、色々な色の糸が絡み合い、変わった色目の布が出来上がるみたいに。
自分もまたその一本の糸になり、カオサン・ロードの歴史に堆積する地層の1ミリになったのだということに、旅人の一人として晴れて認められたような気がして、どこか不思議な高揚感が芽生えた。
こんなところは他にあるまい。カオサン・ロード、そこはまさに、旅人の聖地である。

<<カオサン・ロードの人々>>
  • 欧米人
とにかく一番多い。朝から次の日の朝まで酒を飲みつづけ、店の中でも路上でも、とにかく歌ったり踊ったりと羽目を外しているのは彼ら。  
「ちょっと噂のカオサン通りを見に来ました」という一般人風の人も居れば、ヒッピーの残党軍のような出で立ちの人々もいる。オーガニックという言葉を肩から提げて歩いているような東洋かぶれの服装の人に、全身に施された刺青を見せつけながら歩くオバケのような姉さん、白い仮面を被ってペンキをぶっ掛けた作業服のような服を着て、終始無言でギターを引きつづける男などさまざま。
  • 東洋人
一番多いのは日本人風の人。次に韓国人風と中国人風の人が多い。数は多いが雰囲気に押されている印象。最後に、現地の学生など若者(売り子は除く)。日本人風の女性は西洋人と同じでオーガニック風の服装が目に付く(絶対に自分の国では着なさそうな服を着て颯爽と歩く)。対して男性はいかにもバックパッカーのお上りさんというイメージ。韓国人風の男はサイズの小さいピチピチしたノースリーブのTシャツを着てウロウロしている(兵役の影響か?)。中国人風はよそ行きの観光客っぽい。
  • 売り子たち
色々な店の売り子。地元風の人々がほとんど。パッタイ(麺料理)売り、ケバブ売り、カットフルーツ売り、ゲテモノ売り(昆虫食)、Tシャツ売り、マッサージ屋やバーの店員、おもちゃ売り(夜になると、タケコプターのような光って空をとぶおもちゃを一晩中空に打ち上げている)、アクセサリー売り、スーツ?売り(この人のメインターゲットは西洋人の男。東洋人には声をかけない)、民芸品売り(民族衣装風の服を着て、手元の楽器を鳴らしながらゆっくり歩く色の黒いおばあさん)、偽造証明書(国際学生証、プレスカード等)売り、等など。
  • 仙人
カオサン在住数十年という感じの老人。何人か分からないほど灰色に枯れて、沈没というより完全にカオサンの歴史に埋没したような雰囲気の人もいた。
  • あまり見ない人たち
インド人風、アフリカ人風(除く、アフリカ系アメリカ人風)で遊びにきたような雰囲気の人は見ない。ただしインド人の店はいくつかあり、インド人風の店員がいる。中東風の人も少ない。
  • 動物
猫と犬が少し。

深夜急行(タイ国鉄・ペナン~バンコク行き、第13日目)


孫文の家を訪問した後、荷物を纏めてゲストハウスを離れた。ゲストハウスのそばをいつもウロウロしていた人懐こい可愛い猫に別れを告げて、フェリーでペナン島からマレーシア本土側に戻った。
このフェリーは、往路(バタワース→ジョージタウン)は有料だが、復路(その逆)はお金がかからない仕組みである。

バタワース駅から国際急行列車が出発したのは14:20だった。国際急行列車という立派な肩書きとは裏腹に、寝台車が2両だけという冗談のような編成をしている。この列車には後ほどタイ領のハジャイというところで一等車や食堂車が連結され、そこからようやく国際急行列車らしくなる。
(これとは別に、シンガポールからバンコク、バンコクからチェンマイまでの区間を、イースタン&オリエンタル・エクスプレスという、日本でいうトワイライトエクスプレスに相当する超豪華列車が運行している。車輪の付いたホテルがレールの上を走っているようなもので、値段も一番安くて23万から上は90万もする。もちろん、バックパッカーには無縁)

この列車は、夕方ごろ国境を越えた。国境の駅で一度降り、マレーシアの出国審査とタイの入国審査を受けた後、同じ列車に戻ってすぐに出発する。
太陽が完全に沈む頃になると、係の叔母さんが座席のテーブルをセッティングし、ついでメニューを持って夕食と次の日の朝食の注文を取りに来る。その後、次の停車駅で停まったタイミングで、料理が配膳されるという仕組みであった。
運ばれてきたタイカレーを食べながら、暗くなった車窓を眺めると、否応なしに、旅情が増して心が膨らむ感じがしてくる。列車の中で食べる食事は、たとえ少しばかり美味しくなくても、素敵な感じがするものだ。

食事を済ますと、今度は係の叔父さんが現れ、テーブルを外して各人の座席をベッドに仕立てる作業を始める。一人旅の客にも4人掛けのボックス席が1つ割り当てられているが、このL字型の座席のシートを倒してスライドし固定した後、その上にマットとシーツを掛けると、それが下段ベッドに変わってしまう。
上段には飛行機の荷物入れと同じような棚があり、それを開けると、それが上段ベッドになる。後はカーテンを引くと、ちょうど二人は寝られる個室が出来上がる。

言わずもがなだが、今の日本で寝台列車はほとんど実用性を無くしていて、乗りたい人が趣味で乗るものに近い。
日本には世界に誇る新幹線や飛行機があり、わざわざ列車で寝る必要性がないくらい早いのだから、それはそれで良いことだが、やはり寝台列車には寝台列車にしかない趣がある。

ベッドに横になって、外を眺めた。
外は完全に暗くなってしまい、見ても何の面白みもない。しかし、ベッドにうつ伏せになってみると、自分の体のすぐ下を、車輪がゴトゴトと音を立ててレールの上をひた走っている音が全身に伝わる。その不思議な感覚がなんとも言えず面白くて、まるで、列車を抱いて眠っているかのように思える。
けれど、停車したタイミングで外に出たなら、駅のプラットフォームが当たり前のようにそこにあり、旅行者たちが行き交っている。そのギャップがまた、楽しい。

旅人たちは、こうして一時の休息を得ながら、次の目的地・バンコクに向かった。

2012年11月2日金曜日

東洋の真珠(ジョージタウン・第10日目〜第12日目)


朝8時45分、クアラ・ルンプールを出発したバタワース行きの急行SINARAN UTARA号が目的地に到着したのは、夜の7時も大きく回った頃だった。
予定では夕方の4時過ぎに到着するはずだったから、都合3時間は遅れたことになる。途中の駅でずいぶん長いこと停車していたから事故か何かがあったのだと思われたが、(記憶が間違っていなければ)特に車掌や運転手から遅れている理由の説明はなかった。説明を求めるような律儀な乗客も居ないらしく、バタワースに到着するなり乗客たちはさっさと列車を降りていった。遅延が当たり前のマレー鉄道の面目躍如といったところだろう。

ペナン州の州都ジョージタウンは、本土側ではなく、本土から離れたペナン島側に位置する。本土と島嶼部を領有していて、島側に中心地があるという意味では、デンマークのコペンハーゲンや、赤道ギニアのマリボあたりに似ている。
バタワース駅のすぐそばにフェリー乗り場があり、フェリーで約15分ほどでジョージタウンにたどり着くことができる。フェリーから見る夜のペナン島は、いくつもの高層ビルが立ち並んで、明るく輝いている。ペナン島に降り立ってみれば、そこは再び大都市だった。
ペナン島はマラッカ同様、イギリスの植民地支配の拠点になった島である。辛亥革命のころの孫文が拠点をここに設けていたこともある。街の雰囲気はまた、マラッカとは一味違った趣を見せている。マラッカは穏やかな、のんびりとしたところのある街だったが、この街はもっとゴミゴミとして、活力がある。コロニアル様式の家々の連なりのなかに、中国の寺院やモスクがあり、リトル・インディアの雑然としたマーケットがある。遠くには、街のどこからでもよく見渡せる超高層ビル、コムタ・タワーが見える。ゲストハウスから少し歩いて行いたところに、屋台が軒を連ねていた。屋台の軒先では、テーブルを囲んで雑多な人々が話に花を咲かせていた。

島の中心部に位置する、ペナン・ヒルに向かってみることにした。ペナン・ヒルの麓までは、コムタ・タワー発のRapid Penang社の204号線のバスに乗って、45分ほどで着く。そこからは、麓から山頂までを一気に駆け上がるケーブルカーが運行されている。
ペナン・ヒルからは街が一望できる。出発地のコムタ・タワーが見え、その先にはマラッカ海峡の海が霞んでいる。
標高のためか涼しいペナン・ヒルには、サルが何匹も棲んでいた。サルたちは、人間たちから如何に食料をせしめるかに頭を悩ませている様子で、観光客たちに着かず離れず付いて回ったり、ゴミ箱からジュースを取り出して飲んでみたり、人間を威嚇してみたりしていた。

夜、モスクの付近を歩いてみることにした。モスクの付近に設置されたスピーカーからは、祈りの言葉が流れ、通りの隅々に流れ込んでいった。その祈りの声に合わせるかのように、犬たちもまた遠吠えをしていて、まるで一緒に祈りを捧げているかのようでさえある。
人と犬の織りなす祈りの声と共に歩く人気のない夜の通りは、どこか別の世界に迷い込んでしまったかのようにも思えた。

別の通りに出ると、路上で男たちが雑多なものを地面に並べながら、何かひそひそと話し込んでいるところに出くわした。
バイクか自転車の部品らしいものや、ヘルメット、何かの金属部品などがごちゃごちゃと並べられているが、商品名も値札も店の名前も、何も掲げられていない。
直感的に盗品市ではないかと思えた。こんな夜遅くに、こんな人通りのない場所で、訳の分からない部品を地面に並べて、まともな客が来るわけがない。
何か、堂々と商売ができない理由があるのだ…。そう思ってチラチラと様子を盗み見ていたが、男たちのこちらを伺うような目線を感じて、私は早々にその場を引き上げることにした。

ペナン滞在の最終日には、孫文の住んだ家を訪ねた(そこは、あの盗品市のあった場所のすぐ近くだった)。10年ほど前には、中国の胡錦濤国家主席や、マレーシアのマハティール首相もここを訪問したことがあるという。
孫文といえば、自分の中では安彦良和の『王道の狗』に出てきた、理想にあふれる革命家『孫大砲』時代の彼であるが、実際の孫文は、革命半ばにして亡くなっている。
中国は四分五裂、蒋介石の国民党に毛沢東の共産党、山西派、広西派、雲南派、馬家軍にスヴェン・ヘディンが捕まった盛世才の新疆に日本軍の侵略と、三国志も真っ青の群雄割拠時代に入り込んでしまった(後に、共産党が全てを手にしたわけだが…)。
『王道の狗』(フィクションである。念のため)の中で、主人公の貫真人と革命のために戦う孫文のことをふと思いながら、案内人に勧められた美味しい中国茶を飲んだ。
もし孫文が生きていたら、今の中国と台湾をどう思うだろうか? 毛沢東と蒋介石のことをどう思っていたのだろうか? 共産主義をどう考えていたのだろうか? 胡錦濤やマハティールはここに来て何を思ったのだろうか? そんなことを考えたが、そうした歴史と政治の世界は、異国の一市民にはあまりに遠すぎて、彼の家はほとんど何も語りかけてはくれないのだった。

泥の合流する場所(クアラ・ルンプール・第9日目)

マラッカを出て二時間、マレーシアの首都、クアラ・ルンプールに辿り着いた。
クアラ・ルンプールとは『泥の合流する場所』という意味であるらしい。その言葉通り、ここもまたマレー・インド・中国といった人種の人々が、シンガポールにも引けを取らないほどたくさん集まり、盛んに往来していた(結局こうなるのだったら、シンガポールを追放した意味はあったのだろうか?)。

シンガポールと同様、クアラ・ルンプールもまたとてつもない大都市だが、シンガポールと違うのは、シンガポールにはない、古ぼけて奇妙にゴミゴミとした雰囲気があるところと、それとまた同時に、大都市特有の洗練された佇まいが同居しているところだった。
町中には摩天楼が立ち並び、それをすり抜けるかのように、高架橋の上をトラムが行き来している。まるで、昭和時代と未来都市がごちゃまぜになったような雰囲気だ。

マラッカで思わず延泊をしてしまったため、クアラ・ルンプールはあまり長居せずにいようと決めていたのだが、次の日の出発の前に是非行っておきたいところが2つあった。
1つはむろんクアラ・ルンプールのシンボルマーク、ペトロナス・ツインタワーと、もう1つは水曜どうでしょうファンの道民には有名な、ホテル・イスタナである。

まずは翌日のチケットを取りにKL Sentral駅に向かった後、KLCC駅に移動した。KLCC駅はペトロナス・ツインタワーの地下と直結しており、駅を出るとタワーの真下にまろび出ることになった。お陰で、あれだけ高いタワーのはずなのにどこにも影も形もないのはどうしたことだろうとキョロキョロ見回し、真上を見上げてようやくここがタワーの真下だと気づくほどだった。

ペトロナス・ツインタワーは1998年竣工の超巨大高層ビルである。タワー1は日本が、タワー2は韓国の業者が建設したもので、さながら日韓共同事業といった趣がある。マイクロソフト・マレーシアはタワー2の30階にあり、フランスのスパイダーマンとして有名なアラン・ロベールは、ここの外壁を二度素手で登っている。

あまりにも高いタワーを見上げながら写真を撮ってみると、不思議と立派に見える写真が撮れた。大地から屹立するタワーが、夜空に向かって天高く聳えている。自然の存在にはない、人工物特有の美しさというようなものがあった。
タワーに登ってみようと、地下にある受付カウンターに向かってみると、ムスリムの受付嬢に「今日はもうチケットの販売は終わってしまった。また明日来てくれ」と言われ、追い払われてしまった。
奥のほうでは、これから本日最後の見学ツアーに参加するのであろう人々が行列をなして、空港の保安検査のゲートと同じ装置をくぐっていたが、どうすることもできず帰るしかないのだった。

ツインタワーにすげなく追い払われて、次に向かったのはホテル・イスタナである。このホテルは、北海道の人気番組『水曜どうでしょう』の企画中で、大泉洋さん・鈴井貴之さんを始めとするどうでしょう班が、1998年と2004年の二度に渡ってこのホテルに滞在し、タマン・ヌガラ国立公園に旅立っていった出発地点として有名である。
本当は是非とも一泊したかったのだが、予約が取れず、仕方なく外から見て、番組と同じアングルから写真を撮ることにした。無論、実際には本当に普通の立派なホテルであって、何の見るべきところもないのであった(ただし、宿泊した人のレビューによれば、値段に見合うだけのホスピタリティのある、実に良いホテルだということらしい。予約が取れなかったのが悔やまれる)。

ドミトリーでは、オランダ人のアンドレアスさんと知り合いになった。ヨーロッパ人らしい、金髪の立派な偉丈夫であった。聞くと、彼もなんとタマン・ヌガラ国立公園にこれから向かうのだといって笑った。もっと色々と話をしたいところだったが、その後は彼と会話をするタイミングはないままで終わってしまった。せっかくだからfacebookのアドレスぐらい訊いとけばよかったと後悔しているが、こう見えて初対面の人とすぐに打ち解けないところのある自分には、なかなかそういうことが難しいのだった(今後の課題である)。

クアラ・ルンプールの写真は、こちらにアップロードしました。
にほんブログ村 旅行ブログ 世界一周へ
にほんブログ村