2013年6月3日月曜日

分断された聖地・3(イスラエル・テルアビブ&エルサレム、80〜86日目)


旧市街を探索した翌日、私はパレスチナを訊ねることにした。目的地はヨルダン川西岸地区、エルサレムの南、分離壁の向こう側にある街、ベツレヘムである。
ベツレヘムはイエス・キリストが生誕した場所として知られている。クリスマス・ツリーのてっぺんに飾られている星の名前は「ベツレヘムの星」だし、それと同じ名前のアガサ・クリスティの短編小説もあったりする。
エルサレムからそう遠いわけでもないし、同じパレスチナでもガザ地区などと違って特別危険なわけでもない。パレスチナ初心者にはうってつけの場所だ(と言っても、完全に平穏な街というわけでもない。2002年にもパレスチナ側とイスラエルの間で戦闘が起き、そこに戦闘が起こったことを知らない日本人のカップルがノコノコやってきたというので、ちょっとしたニュースになったことがある)。

ベツレヘムへは、バスで行くのが手っ取り早い。バスはエルサレム旧市街の北側、アラブ門の近くにあるバスターミナルから出発している。私は、前日出向いたヤッファ門から再び旧市街に入り、迷い迷いしながら、アラブ門へと抜けた。
アラブ門の付近は、その名前の通り、アラブ人風の人々が多く露天を並べていて、一種独特の雰囲気を漂わせている界隈だった。あたかも、イスラエルの中のアラブの飛び地のようだ。パレスチナ側に住んでいるパレスチナ人達も、ここに商売をしに来ているのかもしれない。
ベツレヘム行きのバスに乗り込むと、バスの中はアラブ人でいっぱいで、ユダヤ人や白人風の人々の姿は見られなかった。なんだか場違いなところに紛れ込んでしまったようだが、そんなのはソマリランドで既にたっぷり経験済みで、今更ビクビクする必要もない。

バスは旧市街の壁を横目に見ながら、南に向かって進んだ。10分程すると、やがて大地に高い壁がそそり立っているのが見えてきた。
あれが、悪名高いイスラエルの分離壁、アパルトヘイト・ウォールか…。
コンクリート製の壁はどっしりと大地に鎮座していて、思ったよりもずっと背が高い。ビルの3階か4階分くらいはあるのではないか。
それに、思ったよりもずしりとした厚みも備えている。これならば、確かに自動車爆弾やRPGの攻撃を受けても、びくともしないだろう。
バスは分離壁に設けられた検査所の入り口で停まり、降りるように促された。検査所はまるで国境審査のような作りで、通行する人々をチェックしているようだったので、一応パスポートを取り出して用意したが、私が明らかにパレスチナ人ではないためか、女性の検査員はパスポートの中身を確かめることもせず、顎で「行け」と出口を示しただけで、ノーチェックだった。


てっきり、別に検査を受けたバスが出入り口で待ち構えているものと思っていたのだが、実際にはバスは待っておらず、ここで終点だということが分かった。
その代わりに待ち受けていたのは、明らかにアラブ人風のタクシードライバーだった。
「ヘイ! タクシー? タクシー? どこに行く?」
と、一人の運ちゃんが早速しつこく絡んできたが、私はこれまでの経験から、発展途上国のタクシードライバーを全く信用していないことは、今までの国でさんざん触れてきたとおりだ。
「なあ、どこに行く? 英語喋れるか? どこに行くんだ? ハロー?」
と、運ちゃんはしつこく付きまとってきたが、私は一言も口を利かず、見向きもしないことに決めていたので、そのまま無視して歩き続けた。やがて、取り付く島もないと気付いた運ちゃんは、
「街までは5キロもあるんだぞ! 頭おかしいんじゃねえのか!?」
などと喧しくがなり立てていたが、諦めて検査所のほうに戻っていった。
徒歩で歩くことよりも、怪しげなタクシードライバーにその身を委ねることのほうが危険だ。ましてや、初対面で「頭おかしいんじゃねえのか」と言ってくるような運ちゃんでは、乗り込んだが最後、とんでもない額を吹っ掛けてくるに決まっていよう。
ヨーロッパの香りのするイスラエルから一転、壁を通り抜けただけで、一瞬にして文化がアラブ圏に変わったことを、はっきりと実感した。「トンネルを通り抜けたら雪国」どころではない。あまりの違いに、頭がくらくらするような感じがした。


スマホの地図とGPSがあるとはいえ、まったく知らない道を歩くのは不安ではあった。しかし、怪しい連中が屯っているような気配もなかったので、私はとにかく南に向けて進路を取り続けた。道沿いから、分離壁の向こう側、盆地になっているイスラエル側の領土の畑が見える。
スマホの地図に従いながら分離壁沿いの細い路地をずっと歩く。分離壁には、パレスチナ人や、パレスチナ側を支持する外国人たちの手になるストリート・アートがぎっしりと描き込まれていて、その上には、イスラエルとパレスチナの間で起きた様々な出来事を綴った看板が、たくさん掲げられていた。中には、日本人が描いていったものもあった。そう、こういったものが見たかったのだ。タクシーに乗らなかったかいがあった。


それからしばらく歩いて行くと、細い路地が分離壁に阻まれて途切れている場所に出くわした。スマホの地図上では、道がこのまま続いているはずなのに、現実には道がなくなっている。
どうしたことだろうかと、地図を見ながらしばらくそこで考えていた。GPSで現在位置は分かっているから、位置を読み間違えることも無いはずなのだが…。
すると、すぐそばにあった土産物屋の店主らしい男性が店から出てきて、こう言った。

「ここはClosedなんだ。そこの道から行きなさい」
「そうですか。ありがとうございます」


彼に教わった通り、ひたすら歩き続けると、やがて車通りの多い幹線道路と思しき場所に出て、それから小高い丘の斜面に築かれた古い街が姿を現した。ここがベツレヘムか。目指すのは、丘の頂上にある、イエス・キリストが生まれたという生誕教会だ。
街は一見、平穏そうだった。だが、街から離れて郊外の分離壁沿いを歩けば、じきにイスラエル人とパレスチナ人の間で土地を巡って争い事が絶えず起こっていることだろう。
急にトイレに行きたくなったので、近くにあった高級そうなホテルに入ってトイレを借りたところ、トイレのある多目的室のようなホールで、韓国人の大学生らしい集団が、何かの勉強会らしいものを開いているところだった。
韓国人がパレスチナまで来て合宿もないだろうから、たぶん何かのNGOか何かで、パレスチナ支援をしているグループなのかもしれない。一瞬、もしかしてフィリピン時代の知り合いでもいないかと見て回ったけれど、さすがにそんなことはなかった。
一方、韓国人たちも、遠いベツレヘムで自分たちによく似た東洋人がふらりと現れたのがよほど珍しかったのか、ジロジロとこちらを見ていた。


生誕教会の屋根には、赤・オレンジ・群青色のアルメニア国旗が建てられていた。なぜこんなところにアルメニア国旗かというと、アルメニア人がここの管理に関わっているかららしい。聖墳墓教会にもひけをとらない荘厳な教会だったが、イエスが生まれたという穴蔵(2000年も前だから地面に埋まってしまったらしく、教会の地下にあった)を参拝する人々が行列を作っていた。



教会から出て、街中をぶらぶらと歩くと、いくつかの場所で、イスラエルの占領政策に抗議する立て看板や、占領地の現状について書かれた掲示板がいくつかあった。
もちろん、現状としてはイスラエルに生殺与奪権を握られている状態ではあるだろうが、それでもイスラエルに対する抗議や報道ができる自由があるというだけでも、まだ救いがあると思った。世の中には、そんな自由すらないところも珍しくないはずだ。

ひとしきり街を見て回った頃には、すっかり夕暮れ時になってしまった。行きは徒歩で来たことだし、帰りも徒歩で帰ろうかと思っていたのだが、なんとなく薄暗くなってきた町並みを見ていると、さすがに夜に徒歩でうろつくのも嫌だなという気がしてきて、結局タクシーを雇うことにした。タクシーの運ちゃんは、頭に布を巻きつけた典型的なアラブ人風のおじさんである。
「エルサレムのゲートまで行きたい。いくら?」
「そうだな、25シェケルかな」
「じゃあ乗るよ」
そう言って乗り込んだ後で、腹が減っていることに気がついた。エルサレム側に戻ってから食べてもいいが、せっかくパレスチナに来たのだし、何が食えるのかわからないが、パレスチナ側で食事を取ってみたい。
「ゲートの近くにレストランか何かある?」
「あるよ。そこでいいのか?」
「そこに行ってほしい」
そこまでは問題なかった。ところがタクシーがゲートに近づいてきた頃、運ちゃんが「これが分離壁だ。どうだ、写真を撮っていけ」と言い始めた。
「いや、写真はもう撮ったからいいんだよ」
「まあ、そう言わずに…」
「いや、いい」
こういうのにいちいち応じていたらきりがない。
タクシーがゲートの近くにあるレストランに着いても、運ちゃんはまだなんだかんだと言って、私を「ツアー」に連れて行こうとし、運賃のお釣りをなかなか出そうとしなかったので、「いいから俺はここで降りるんだ。15シェケル、早く返してくれ」と矢のように催促して、渋る運ちゃんからようやくお釣りを奪い取って、レストランに入った。

実は、何のレストランかよく確かめていなかったのだが、そこはステーキレストランだった。分離壁とは、道路一本挟んですぐ向かいに建っている。
なんと、分離壁をスクリーン替わりにして、何かの歌手のPVらしきものを放送していた。客は殆ど居なかったが、頼んだTボーンステーキは旨味のこもった肉汁たっぷりで、歯ごたえも十分な、実に美味しい逸品だった。
まさかパレスチナで、こんなうまいTボーンステーキを食べることになるとは…。


パレスチナの人々は、イスラエルに圧迫されながらも、逞しく生きているようであった。自分たちの自由な往来を無情に阻む分離壁さえも、映画のスクリーンにしてしまう逞しさ。
あの土産物屋の店主も、圧倒的なスケールで立ちはだかり、道を閉ざす分離壁を前にして、「道がない」とは言わず、ただ、「Closed(閉鎖中)」だと語った。
彼は、おそらくこの分離壁が作られる前の道を知っているはずだ。そして、決してこの道はなくなったわけではなく、ただ「閉鎖しているだけで、いつかきっと開く時がくる」と、そう言っているのだろう。彼の何気ない「Closed」という一言には、そんな重みが潜んでいるはずだ。
毎日ボッタクリに勤しんでいるだろうあのタクシードライバーたちも、よく言えば逞しく生きている人々なのだ。

私はいろいろなことを考えながら、分離壁を超えて、再びエルサレムに戻った。街は再び、アラブからヨーロッパ風に姿を変えた。
私はイスラエルとパレスチナ、ユダヤ教徒とイスラム教徒の対立に口を挟む資格はないけれど、次に来ることがあれば、もっと色々なイスラエルとパレスチナの街を見て、知りたいと思った。

分断された聖地・2(イスラエル・テルアビブ&エルサレム、80〜86日目)

ようやく宿にありついたその翌朝、私は早くもテルアビブを離れて、聖地エルサレムに向かった。エルサレムへはバスがあったが、今回は列車に乗って行ってみることにした。
宿の近くのバス停からバスに乗り、駅で切符を買ってテルアビブへ。駅ナカで売っている焼きたてのプレッツェルとコーヒーが、良い香りを放っていた。

列車は郊外に出ると、やがて山がちな荒野に分け入って行った。山の斜面斜面に、人々の暮らす農村があった。
曇天の空の下にみえる家々はどこか無骨で荒々しく、装飾的な気配は微塵もない。それは、厳しい環境で荒野を切り拓いてきた人々の気質を表しているようでもある。
列車は一時間後、終着駅であるテルアビブの郊外の駅で停まった。


駅を降りてすぐ、軍用のM16系のアサルトライフルをぶら下げたイスラエル軍の兵士たちの姿を見かけた。バカでかいリュックを背中に背負ってバスを待っているところを見ると、休暇でこれから地元に帰るところなのか、あるいは休暇を終えてこれから任地に戻るところなのだろう。男性も女性も居るが、みな精悍な顔つきをしている。
こんなふうにアサルトライフルを街中で自然にぶら下げているにも関わらず、廻りの誰も気にも止めていない辺りが、イスラエルのお国柄だ。いつどこで銃が必要になるか分からない。それを、国民の誰もが承知し、納得している。こんな風景は、銃社会のアメリカやソマリランドでもそうそうお目にかからないだろう。ましてや日本で自衛隊員が同じ事をやったら、どこかの市民団体が騒ぎ立てて、翌日の朝日新聞あたりの三面を飾るだろう。


ようやく辿り着いたホステルの壁には、“アブラハムは最初のバックパッカーだったのさ”と、書いてあった。なるほど、由緒ある聖地はジョークも知的だ。
その日の夜は嵐が起こり、強風と大雪が降った。つい10日前まで、ソマリランドのビーチで海水浴したとはとても思えない変わりようだ。この異常気象の嵐はイラクやシリア、トルコなどの中東一帯を巻き込み、死者も出たそうだ。

翌日はよく晴れたので、テルアビブの旧市街に向かって、街をのんびりと歩いてみた。


それにしても、ここは明らかに『ヨーロッパ』だよなぁ。
テルアビブの街は、『古都』という当初のイメージとは少し違って、現代的な雰囲気の漂う都会だった。小雪のちらつく中、宿を目指して歩き続けてみると、街の雰囲気が少し分かった。うまく説明はできないが、街は明らかにアラブ風ではなく、ヨーロッパに近い。ただヨーロッパといっても、フランスやイタリア、ドイツのような西欧の街の雰囲気ではなくて、(行ったことはないけれど)戦前の東欧の街を復元するとこんなだろうか、というような感じだ。

街をそぞろ歩く人々も、超正統派のユダヤ教徒の男性(全身黒いスーツでヒゲを伸ばしている)や、キッパー(ユダヤ教徒が被る丸い帽子)を被った男性、どちらかと言えばアラブ人に近いような顔立ちも人も歩いているにはいるが、全体的に見ると、やはり白人が多いようだ。
単に街を歩いている人だけを見てここはどこだ、と聞かれたら、移民の多いヨーロッパのどこかの街、と答えてしまうかもしれない。
そうこうしながら市電の走る坂を下って行くと、いよいよ旧市街を囲む壁が見えてきた。壁は砂岩か何かで出来ているのか、淡いクリーム色だ。ここまで近づいてくると、さすがにヨーロッパ的なイメージは薄れて、沙漠に佇む古代の中東の雰囲気が漂ってくるが、昨日の大吹雪で薄く雪化粧されているのが面白い。
この壁の内側に、多くの宗教の聖地があるのだ…。市電の線路を外れて、私はヤッフォ門に向けて歩いた。

(ん?)

そういえば、と気づいた。
手持ちの地図に、街を横切るように線が引いてあって、ちょうどその上辺りに立っている。確か、このあたりから東エルサレム、つまりヨルダン川西岸地区、もっとハッキリ言えばパレスチナのはずだ。
けど、それを表すようなものは何かあっただろうか? ─ない。街に何か境界線を示すような代物は見られないのだ。
なるほど、イスラエルが東エルサレムを手放したがらないわけだ。誰だって、一度手に入れてしまったものを、ホイホイと隣の敵対的な人々に引き渡したいと思うわけがない。しかも、東エルサレム側には、エルサレム旧市街もある。イスラエルにとって、エルサレムの領有はいわば既成事実なのだ。


ヤッフォ門から中に入ると、決して手広くない壁の中に、所狭しと建物が犇めき、その身を寄せ合う古い町並みがあった。その隙間隙間を、まるで蜘蛛の巣の網目のように、細い路地が張り巡らされ、その両脇に土産物屋がびっしりと並んでいる。なんだか、エジプトの市場あたりに、雰囲気が少し似ているような気がする。
ちなみに、エルサレム旧市街は、おおまかにムスリム地区、キリスト教徒地区、ユダヤ教徒地区、アルメニア人地区の四つの区画に別れていて、それぞれの教徒が住み分けているそうだ。イスラエルはユダヤ人(=ユダヤ教徒)の国で、アラブ人やイスラム教徒は敵というイメージがあるが、正確にはアラブ人もイスラム教徒も居ることには居る。そもそも、イスラム教徒にとってもこの街は聖地であって、イスラエルがエルサレムを占領する前はアラブ人がここを管理していた。

細い路地を練り歩いて、聖墳墓教会を目指した。ここは、イエス・キリストが亡くなったとされる場所で、キリスト教徒最大の聖地の一つだ。
聖墳墓教会に足を踏み入れると、荘厳な聖堂の内部には、しんとした、清冽な空気が漂っていた。別にキリスト教徒でもなんでもないけれど、思わず姿勢を正したくなるような気配だ。聖堂の中心部に、もう一つ小さな祠があって、その入口に行列が出来ている。この中が、キリストの墓だ。
行列に並んで、静かに、祠の奥に分け入っていった。誰もが、神妙な面持ちで、一言も喋らずに行列を成している。カメラで中を撮ろうかと思ったけれど、とてもそんなことが出来る雰囲気ではなかったので、カメラを納めて、自分もじっと並んだ。
しばらくすると、自分の順番が来て、他の参拝者二人と共に祠の最奥部に入った。
祠の最奥部は、大人三人がしゃがまないと入れないほどのごく小さな部屋で、そこには、蝋燭の淡い光に照らされた、石棺が佇んでいる。石棺はいやにツルツルになっていて、この石棺が長い年月の間に多くの人に触れられ続けたであろうことを偲ばせていた。


キリスト教徒らしい白人の他の二人は、十字を胸元で切りながら、祈りを捧げていた。自分はキリスト教徒ではないから、十字を切るのは却って変だと思ったから、十字は切らず、ただ日本風に手を合わせて、それから石棺に触れて、無言で祈ってみることにした。これからの旅路の無事と、旅を終えた後によりよい人生が送れるようにと祈ってみた。
そういうことを祈るところなのか、他の二人は何を祈っているのか、さっぱり判らなかったが、一神教の神様と言うのはおしなべてアガペーに満ちているものだし、何より極東の遥か彼方から旅をしてきたのだから、それくらい神頼みしたって差し支えないだろう、などと思った。

「おい! 止まってないで早く出てくれ!」

外から、そんなことを言うオッサンの声がした。どこにでも、気忙しくてうるさい人は居るものだ。いくばくか興ざめしながら、三人はそそくさと外に出た。


聖墳墓教会を出てから、迷い迷い、嘆きの壁を目指した。都市計画など無かったであろう古代から続く町並みは、迷路のように入り組んでいて分かり辛い。それでもなんとか、嘆きの壁にたどり着いた。
空港の保安検査ゲートのような金属探知機を通って、階段を降りて嘆きの壁に近づく。
嘆きの壁に、頭のこすりつけるようにして、黒尽くめの超正統派ユダヤ教徒達が祈りを捧げている。壁に近づいてみると、砂岩で出来た壁の、ちょうど人間の頭ぐらいの高さの場所が、灰色の帯のように変色し、表面がつるつるになっていた。聖墳墓教会の石棺と同じように、長い年月の間に人々が込めた祈りの痕だ。


壁を形作る石の隙間隙間には、何かの紙がビッシリと挟み込まれていた。多くの人が願いを記して挟んでいった紙なのだという。なんだか、正月の神社のおみくじみたいだ。人間の発想って、やっぱりどこか似ているのかもしれない。
その後、嘆きの壁の左手に、天井がアーチ状になった礼拝所があったので、そこにも入り込んでみた。礼拝所の中では、何十人、何百人ものユダヤ教徒の男たちが、大人も子供も入れ乱れて、一心不乱に祈りを捧げていた。
ユダヤ教の祈り方は独特で、お辞儀をするように、ひたすら前に後ろに振りながら、祈りの句を口ずさむ。何十人、何百人もの人が、それをしている様子は、何とも言えない不思議な光景だ。甚だ不謹慎だが、オウム真理教の修行を連想してしまって、何とも言えず自分の貧困な知識が虚しくなってしまい、写真も撮らずに外に出た。もともと気が小さいし、宗教的な場所であまり写真を無遠慮にバシャバシャ撮るのも気が引けたのだ。

それから、アルメニア人地区を経由して、東エルサレムの郊外がよく見える丘に出てみた。はるか向こうまで、起伏に飛んだ丘陵地帯が広がっていて、そのところどころに、ユダヤ人の入植地と思われる村々が散らばっていた。
目に見える壁や境界線は何処にもなく、そこには平和な風景が広がっているだけだった。


2013年3月24日日曜日

分断された聖地(イスラエル・テルアビブ&エルサレム、80〜86日目)

エジプトを経て、私はイスラエルに向かった。
エジプトは中東戦争の際、他のアラブ諸国から一抜けを宣言し、真っ先にイスラエルと和平を結んだ国である。その時、エジプトと国家連合を組んでいたリビアのカダフィ大佐が激怒し、国家連合を解体、カダフィ大佐は、エジプトと同じ国旗になっていた当時のリビアの国旗を廃止し、部下たちに一晩で新しい国旗を作れと無茶振りをしたのだが、一夜では当然まともなデザインの国旗を作る時間があるはずもなく、あの有名な緑一色の国旗となったという有名な逸話がある。
そんなイスラエルと真っ先に和平を結んだエジプトではあるが、意外なことにイスラエル行きの交通機関がそれほどあるわけではない。列車も飛行機の直行便もなく、選択肢はバスだけである。しかも、地中海に沿ってまっすぐイスラエルに向かうのではなく、わざわざシナイ半島を横切ってビーチリゾートのダハブのある紅海沿岸まで行き、しかるのちテルアビブに向かって北上するというルートを取らねばならない。
イスラエルに向かうにあたっては、地中海に沿って真っ直ぐ行くルートのバスもないかどうか調べてみたが、あるんだかないんだかさっぱりわからず、当てにならなかった。
かといって、シナイ半島を横断するバスも使いたくなかった。というのも、イスラエルは周囲を敵に囲まれている関係上、出入国審査が異様に厳しいことで有名な国だからだ。
特に、アラブ圏を通ってきた「不審な」旅行者は、出入国審査で頻繁に長時間待たされるケースがあるといい、しかも国境を通過するバスが、そうした長時間待たされている不運な旅行者を捨ておいて、無事通過した者だけでさっさと行ってしまうという話を聞いていたのである。
UAE、エジプト、ソマリランド。特にソマリランドを通過した私は、長時間の誰何をされる可能性が高い。国境の荒野に一人取り残されてしまったら、どうやってテルアビブまで向かったらよいのか分からなくなってしまう。別にダハブに行きたいわけでもないし。

そこで、私は運賃はかかるが、キプロス島を経由して飛行機でイスラエルに乗り込んでみてはどうかと思い立った。もともと南北に分断されたキプロスの様子も見てみたかったし、ベングリオン空港まで乗り込んでしまえば、入国拒否されない限りどうとでもなる。
そんなわけで、私はキプロスに入り、キプロスで一泊、翌日イスラエル行きの飛行機に乗り込んだ。南キプロスはすでにEU圏内で、後のトルコのボスポラス海峡を通過して美しくアジアに別れを告げヨーロッパに入るということはできなくなってしまったが、中東の荒野に放り出されるよりは幾分ましだ。

テルアビブのベン・グリオン空港に深夜降り立ち、長い渡り廊下を歩いていると、早速空港の係員二人組が現れて私を呼び止めた。ついに来た! これがイスラエル名物の厳しいチェックだ。
「どこから来たのか」
「これまでどこに行ったのか」
「ソマリア、エジプト、UAEに友人は居るのか」
「長旅の目的は何か」
等々…。あれこれたっぷりと10分間の質問攻めから開放されると、それから更に出入国審査官に色々と問いただされる。
「イスラエルでは何処に行くのか」
「何の職業に就いているのか」
「前職は何という会社に勤めていたのか」
「旅の資金はどうやって手に入れたのか」
「両親の職業は何か」…。
何処かに電話をかけて、前の会社の名前の確認までしているので、さすがにびっくりした。「ヒタチ」なる会社が日本に実在するかどうか確かめたようだ。財政状況についても、誰の金で旅行しているのかが気になるらしい。
とはいえ、予想よりもイスラエルの入国審査は呆気無く終わったように思えたので拍子抜けした。どちらかといえば、先のゴアのあの憎たらしいロマンスグレーの入国審査のほうが大変だったからだ。あれはほとんど喧嘩に近い内容だったし、イスラエルの審査の方がまだ理性的だった。

ようやく審査も終わり、空港からタクシーで予約していたテルアビブ市内の宿に向かった。時刻はまたしても深夜の1時を過ぎている。
くたびれながら宿のチャイムを鳴らしたが、誰も出てこない。
(おかしいな。住所はここであってんのに…)
諦めずにドアをノックしたり、チャイムを鳴らしたりしていると、やがて一人の太った親父がドアの奥からぬっと現れて、こう言った。
「受付は10時までだ。今日はもうやってない」
「いや、だけど予約はもうとってあるんだけど…」
「10時で終わりだ。他のホステルに行ってくれ」
「…。」
じゃあなんの意味があってアンタこの時間に居るんだよ、とは思ったがどう交渉する余地もなく、私は深夜の2時近く、知る人もいない外国の街角に一人放り出されてしまった。ここが何処かもわからず、外は雨が降っていて野宿もできない。またしても最悪の展開だ。
しかしその時、近くをタクシーが通っているのを見かけた。その瞬間、極限ギリギリの状態が生んだ閃きだろうか、自分にしては珍しく冴えたやり方を思いついた。そうだ、地元のタクシーの運ちゃんなら、近場の安いホステルを知っているんじゃないか? いや、もうそれ以外に方法はない!
そんなわけで、私は運ちゃんを捕まえて、近くのホステルに連れて行ってもらうことにした。
「どこから来た?」
「日本だよ」
「そうか…。イスラエルは好きか?」
中年の運ちゃんは、私を乗せるなりそんなことを聞いてきた。
「…? ああ、ここはいいところだよね」
「そうかそうか」
運ちゃんは、私を近くのまともなホステルに案内して、去って行った。タクシーには嫌な目にばかり合わされてきたけれど、今回ばかりは感謝しなくちゃいけない。そんな風に感ぜられた。

しかし、私には引っかかるところがあった。
今までタクシーに何度も乗ってきたけれど、いきなりこの国は好きかなんて聞いてきた人は今までいなかったのだ。
それだけに、その質問はひどく奇妙な印象を残していた。
この国に来てまだ数時間も経っていない旅行者に、そんなことを訊ねる人々。
そうだ。ここは異端。ユダヤの浮島。周囲を敵に囲まれた国。
ここはイスラエルなのだ…。

2013年3月3日日曜日

ナイルのほとりにて・2(エジプト・カイロ、75〜79日目)


翌日、さっそくユースホステルの近所から、カイロ散策を始めることにした。革命後のカイロは今どうなっているだろう。
アフリカの一部・イスラム圏でありながらも、カイロの町並みには、今までの国にない強いヨーロッパの香りが漂っている。自分がいよいよ、ヨーロッパに接近してきているのを、実感として感じる。
ホステルから地図を貰って、ようやく自分がどこに居るか分かってきた。つい最近の革命で反体制派の拠点にもなったタハリール広場のすぐ近く。市内の中心部に近く、どこに行くにもアクセスが良い。なんで運ちゃんは昨夜あんなに迷ったのだろうと、よく分からなくなってきた。
とりあえず、カイロといえば名物のカイロ博物館に行ってみようと、適当に歩いてみた。市内は少なくとも平静を取り戻しているようで、何ら緊迫した雰囲気は感じない。危険というなら、インドのほうがまだ危険なような気がする。
適当に歩き過ぎたせいですっかり道に迷ったが、ひたすら歩き続けるとビル群から抜け、急にナイル川が目の前に広がった。


雄大なナイルのほとり。古代から氾濫することによって肥沃な大地を育み、エジプトの人々の生活を支え続けてきた大河。何か感慨深いものがあるかとも思ったけれど、街に取り囲まれていては、ナイル川も地元の亀田川や豊平川と、(当たり前だが)それほど大きな違いのあるものには見えない。


カイロ博物館では、伝説的なまでに有名なツタンカーメンの仮面に会った。彼の仮面は、その他の似たような仮面が長年の劣化で古ぼけて輝きを失っているのとは対照的に、未だに怪しい黄金色に輝いている。この魔力のような輝きが、長年多くの人々を魅惑してきた理由であろうか、などと思ったりもした。

博物館から外に出て、カフェでコーヒーを飲むことにした。カフェには、数匹の猫がウロウロしている。すると、一匹の茶色い猫がやってきて、じっと私を見上げた。
(うーん、何かあげたいけど、コーヒーじゃなぁ。何も持ってないし…)
そう思っていると、その猫はひょいと私の膝の上に飛び乗って、そこで香箱座りになって寛ぎ始めたのだ。
かわいい。犬派だけど猫もいい。猫を撫でると、野良の割りにはいい餌を食べているのか、毛並みもよくフワフワしている。本当は旅先で猫など触らないほうが良いのだが、向こうからなついてきたのだからしょうがない。
それにしても、犬だらけで猫はまったく見かけなかったインドとは逆で、ここでは犬が少なくて猫が多い。国によっても、犬派と猫派に分かれているのだろうか。
(猫が飼えればいいんだけどな…)
そう思いながら、私はその猫を暫く膝に載せたまま過ごした。実家だろうとどこだろうと、今現在生き物を飼える環境はどこにもない。飼えるのは植物くらいなもので、それはなんとも味気ない現実だった。

カイロ博物館から出て、タハリール広場の方向に向かっていると、奇妙なものを見つけた。
道路の真ん中に、瓦礫やガラクタを積み上げたような山が置かれている。どうしてこんな邪魔臭いものを誰も片付けないのだろうと訝しんでいると、タハリール広場に広がる野戦基地のようなテント群が見えてきた。

↑タハリール広場に通じる道路に置かれたバリケードらしきもの

↑遠くから見たタハリール広場

(あ…これは、バリケードか!)
タハリール広場には、車両の出入りを封鎖するように、バリケードが構築されているのだ。広場の内部にはテントを囲んで屋台や出店などが並んでいるほか、あちこちに手持ち無沙汰な様子の人々が屯して、何か雑談に興じている。
そういえば、カイロ博物館のすぐ脇に、黒く焼け焦げた建物や車が、見るも無残な残骸を晒していた。あれは、革命の残骸なのか。

↑エジプト革命で焼き討ちにあった政府機関系ビル。修理されず放置されている

そこにいる人々から、何か危険なエネルギーを感じた。革命は一段落などしていない。ニュースで聞いた通りだ。まだまだ、彼らの社会に対する不満は晴らされていないのではないか。
そして、こうして人々はバリケードを作って、こうしてタハリール広場に燻っているのだ。まるで、焚き火の跡の熾のように。
流石に、テント村の内部にまで潜り込んで、彼らの輪に混ざるような真似はとても出来なかった。ソマリランドにもなかった、特殊な緊迫感がそこにあった。

↑何の用があるのか、手持ち無沙汰気味の人々が溜まっている

その後のエジプトでの旅は恙無く過ぎた。「駱駝はジェントルさ、大人しい動物さ」などというガイドの言葉とは裏腹に、どう見ても乗られるのを嫌がって怒り狂っているようにしか見えない駱駝に乗ってピラミッドまで行き、すっかりお尻も痛くなってしまった。


ピラミッドの外壁によじ登り、そこから見るカイロの市街地には、曇り空から太陽の光の柱が幾筋も注ぎ込み、実に美しかった。4000年以上ものあいだ、ピラミッドとスフィンクスは、変わらずここに佇み、時にはナポレオンに鼻を取られ、時には日本からやって来た侍の一行と一緒に記念撮影をし、そして今や、三度起こったエジプトの革命を見下ろしていた。
キリストが生まれるよりもずっとずっと前から、何を思ってそれだけの時間を黙って過ごしてきたのだろうか。
しかしもちろん、ピラミッドもスフィンクスも、そのような問いに応じることはない。

滞在最終日に、『ジョジョ』第三部で主人公一行が敵と戦ったとされるあたりを歩いた後、夜の帳の降りたエジプトの街をタハリール広場の方面に戻った。
タハリール広場の方向から、私が戻ってきた方角に向かって、5台もの救急車が列をなして、巨大なサイレン音を奏でながら疾走していった。
何があったのかは定かではないが、何かその巨大な救急車の隊列の不気味なサイレン音は、遠くまでも響き渡り、カイロの町並みに不穏な空気を齎していた。
何か、あったのだろうか…。
私は、街全体を霧のように飲み込んだ不気味な空気に不安を覚えながら、一刻も早く安全なホステルに帰ろうと、道を急いだ。

私が去って一ヶ月もしないうちに、タハリール広場周辺でまた大規模な抗議デモが起きたのは、ニュースで報じられた通りである。

ナイルのほとりにて・1(エジプト・カイロ、75〜79日目)


ほんの2年前、アラブの春の革命によって独裁政権が崩壊したエジプト。ニュースでは、大規模な騒乱の映像が連日放送された事は記憶に新しいが、その後の報道では全てが一件落着したわけでは全くなく、現在に至ってもなお、騒乱の火種が燻っていると報じられている。
一方エジプトは、大人気の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』第三部の舞台となったロマン溢れる国でもあるのだ。
そんなエジプト、現在はどうなっているだろう。ソマリランドでの強烈な体験を終えたのち、私はアディスアベバを経由して、一路エジプトはカイロに飛んだ。

『ジョジョ』では、主人公一行はサウジアラビアの砂漠を横断した後、紅海を潜水艦で横断し、アスワン近郊の海岸に上陸した(それって密入国?)後、ナイル川に沿ってアスワン→ルクソール→カイロとエジプトを北上する旅をしたけれども、今回の私は、勿論合法的に飛行機で、危険なスーダンを飛び越してカイロに辿り着いた。カイロ空港に降り立ったのはもう深夜になってからのことで、私はしかたなく、タクシーを使って宿に入ることにした。
空港ロビーでタクシーを探すと、すぐに怪しい男がタクシーに乗らないかと迫ってきた。私は男があまりにしつこい(荷物を回収するまで待とうと、ぴったりくっついてくる)のが気に食わず、男を無視することにしたが、荷物がベルトコンベアに乗って現れた丁度いいタイミングで、男の携帯電話が掛かって来て、男は誰かを話しながら遠ざかって行った。
チャンス! 私はバックパックを背負うと、すぐにその場を後にし、男を撒くことができた。

ロビーに出ると、ロビーにタクシーのカウンターがある。タクシーは、きちんとしたところで頼まないと、トラブルのもとだ。
「この住所のとこまで行きたい」
「OK。じゃあ、付いて来て」と、受付係の男が私をタクシー乗り場まで誘導し、一台のタクシーを示した。
「これに乗ってくれ。運転手の彼は俺の友達なんだ」
へえ。
「ところで私はツアーやホテルの手配もしているんだが…。ツアーやホテルが必要なら是非連絡してくれ。格安のホテルを手配するから…」
などと、名刺を横しながら、彼は予約していたホステルの4倍の価格の「格安」ホテルを紹介してきた。まったく油断も隙もない。もちろん、頼るつもりはまったくなかった。
彼が「友人」の運ちゃんに目的の宿の行き方をメモ用紙に書いて手渡すと、タクシーはカイロ空港を出発した。

(それにしても大都会だ)
もちろん、ドバイのような現代的な大都市というわけではないけれども、首都だけに道幅も広く、建物もヨーロッパ風の、古い建物がぎっしり立ち並んでいる。合計6日間も滞在したソマリランドの風景に目が慣れていたせいか、風景の変わり様に目が驚いてしまっている。
交通事故で群集が騒いでいる脇をすり抜けると、タクシーは、先のエジプト革命の中心地にもなったタハリール広場の付近に差し掛かった。
ところが、そこから運ちゃんの様子が怪しくなり始めた。あちこちをキョロキョロしたり、同じ場所を行ったり戻ったり、車を停めて人に道を聴き始めたりしている。でもさっき、受付係の兄ちゃんに道順を紙に書いて教えてもらっていたじゃないか。あれで分からないなら、なんであの友だちに確認しないんだろう…。
それからも十数分間、あちこちをウロウロしたが、結局運ちゃんは道が分からなくなってしまったらしく、車を停めると後ろを振り向いて「ホテルの電話番号は?」と聞いてきた。
「えーと、これだけど?」
と、私はスマホのメモ帳を見せる。
「そうか。ちょっと自分の携帯で掛けて…」
(ええー…あんたので掛けてくれないのかよ、しょうがないなぁ)
携帯でホステルに連絡すると、ホステルの受付の男性が出たので、運ちゃんに代わった。運ちゃんは、携帯でホステルとああでもないこうでもないと話をしながら、運転を続けるのだが、説明がうまく伝わっていないのか、電話がなかなか終わらない。
(おいおい、早めに切ってくれよ! その携帯、緊急連絡用で物凄く通話料高いんだぞ)
私は運ちゃんがダラダラ話すのをイライラしながら聞いていたが、結局通話は十分近くかかってしまい、ようやくタクシーがタハリール広場近くにあるホステルに辿り着いたのも、それから更に十分以上かかってからのことだった。

目的地に着いてから、タクシーを降りて荷物を背負って歩き出そうとすると、運ちゃんが私を引き止めて、何やら物欲しそうな目で私を見つめてきた。
「何か?」と聞くと、彼は「お金がまだなんだけど…」と言う。
「お金? 運賃なら君の友達に100ポンド払ったよ。見てただろ?」
「いや、運転手の代金は別なんだ」
「……」
ソマリランドを離れて、深夜3時過ぎにクタクタになりながらようやくカイロに辿り着いたばかりだというのに、私はまたしてもタクシーにタカられている。せっかく、空港で怪しい男の追跡を振り切って、きちんとしたタクシーを選んだはずだったのに、どうしてこう途上国のタクシーというのはトラブルばっかりなんだ。私はまたムカムカしてきた。
「知らないよ。君の友達は100って言っただろ。もう払ったよ」
「いやいや、待ってくれ!!」
「じゃあな」
無視して行こうとすると、ホステルの受付係の兄さんが騒ぎを聞きつけたのか、階下に降りてきて二人であれこれ話をし始めたが、私は構わずホステルに入ることにした。
また例によって、背後から「ウェーイト!」という声が聞こえてきたが、これまでにもあちこちで似たような経験をしてきた結果、私はもうそんな声に貸す耳は持たなくなっていた。なんだか、すっかり自分が心の狭い人間になってしまったようで、虚しい。

ホステルの受付で受付係の兄さんを待っていると、彼は運転手を何とかして帰したのか、一人で戻ってきた。
「色んなとこ行ったけど、どいつもこいつも日本人を財布と勘違いしてるんだよ!」
「いや…そんなことはないが…」
彼はくだを巻く私に困ったような顔をして、チェックインの手続きを始めるのだった。

2013年2月18日月曜日

ソマリランドでの旅について

前回の内容でエチオピアでの模様について書きました。エチオピアの後は、ソマリランドに向かったわけですが、ソマリランドでの旅につきましては、

にて既に書かせて頂きましたので、割愛させていただきます。
なお、エチオピアに到着した際、荷物だけがソマリランドに行ってしまった件についても触れましたが、この荷物は結局、ソマリランドのハルゲイサで発見されました。
ベルベラに到着した時には既に荷物は行方知れずとなっており、ベルベラの宿から現地のエチオピア航空のハルゲイサ事務所やアディスアベバ事務所に電話を掛けるなどして調べたのですが、散々「ここに掛けろ」と色んな番号にたらい回しにされた後(「俺今病院来てるんだから分るわけねぇだろぉぉ!!」と逆ギレされたにはもっと驚きましたが…)、恐ろしいことに誰一人として行方を知らず、
  1. ベルベラの事務所の人は「ハルゲイサに向かった」→
  2. ハルゲイサの事務所の人は「まだエチオピアにあるはずだ」→
  3. エチオピアの事務所の人は「もうソマリランドに行った」→1に戻る
という、愉快なループが構成されていることが分かりました。結局、荷物はハルゲイサに行ったはずだ、という言葉を信じてハルゲイサに向かったところ、何故か私がハルゲイサに向かった2日後、年明けになってからエチオピア航空のハルゲイサ事務所に荷物が届きました。なぜ私が荷物を追い越したのか見当もつきませんが、まあ向こうにも色々事情があるのでしょう。

何だか悪いことばかり書いてしまいましたが、前述のエントリでも述べたように、現在のソマリランドに危険はほとんどなく(日本政府が発出している退避勧告についても、前述のエントリのとおり、日本としてソマリランドを国として認めておらず、ハルゲイサに大使館や領事館を設置できない都合上、日本政府が本来の状況と乖離しているのを承知で退避勧告を発出しているだけですから、10年前のイラクの一件のように、行ったらイスラム過激派に拉致られてスナッフ・ムービーを作成されるようなことにはならないでしょう。)、初アフリカの初心者が乗り込んでもおおむね平気です。ただし、現地で活動されているUNDPのAさんが言っていたように、有事の際に政府が市民をコントロールできるかは疑問ですので、現地の情勢については予め調べておき、選挙の期間や、仮にソマリア連邦政府、イスラム過激派などとの揉め事が予想される場合には、渡航を避けるのが賢明です。

では、良いソマリランドの旅を。

2013年2月16日土曜日

80ドルの土人帝国(エチオピア・アディスアベバ、第69〜70日目)

次の日、私はギュルギさんとアブドゥッラーさんに別れを告げて、ソマリランドに向けて出発した。
アブドゥッラーさんは繰り返し私に、「ソマリアなどには行くな。あそこの連中は狂っている。危険だ」と言っていたが、まだ行ってもいないのに「北部は安全です」などといってもしかたがないので、私は素直に「気をつけます」と言っておいた。

そうこうしているうちに、私は空港に辿り着き、荷物を預けて、エミレーツ航空のアディスアベバ行きの飛行機に乗り込んだ。ところが、飛行機は二十分たっても三十分たっても一向に離陸しない。
フライト・アテンダントのお姉さんたちが、困ったような顔をしながら、あちこちでお客さんに説明している。
「何かあったんですか?」私もそう聞いてみると、
「分かりません。何でも荷物の臨時検査とのことで、まだ出発ができないんです。乗り継ぎ便はございますか?」
「あります」
「乗り継ぎのお時間は何分ございますか?」
「ええと…1時間40分ありますが」
「そうですか…間に合うとは思いますが…」
彼女はそう言ったものの、結局飛行機が離陸したのは、何と一時間も経ってからの事だった。何が問題で荷物の臨時検査が行われたのか解らないが、ともあれアディスアベバではかなり急がなくてはならなくなってしまった。
アディスアベバ空港に辿り着いたのは、もちろん定刻より一時間遅れである。生まれて始めて見る、灼けたアフリカのサバンナ。しかし、そんなことに感慨を抱いている暇がない。私は慌てて飛行機を降りると、近くにいたサングラスのエチオピア航空のスタッフに、「ベルベラ行きはどこですか!?」と尋ねた。すると彼は、「ベルベラ? 上だ」と答えた。
階段を登って上に行くと、そこは国際線の出発ロビーであった。免税店が並び、理由は解らないがムスリムの黒人の女の子たちが、沢山ベンチに座って、私のことを珍しそうに眺めている。
ところが、ベルベラ行きの便がどこにも見当たらない。電光掲示板にも表示がない。どういうことなのだろうと慌てて別の係員に聞くと、「ベルベラ行きなら、国内線ロビーよ」と、事も無げに言われた。
国内線!? なんでソマリア行きが国内線なんだ!?
私は唖然とした。いつからソマリランドはエチオピアになったのだろう。意味が全く分からなかった。私は急いで国内線ロビー行きの連絡バスに乗り込んで、国内線ロビーに向かった。
国内線ロビーに行くと、1つしか無いらしい保安検査ゲートに、黒山の人だかりが出来ている。列に並ぶという概念がないのか何なのか、誰も彼もゲートの前に集まって、「早く入れろ」と騒いでいるらしい。しかし、ゲートの前に陣取った冷たい表情の女性検査員は、彼らを抑えてびくともしない。
こんなところでチンタラやっていたら、本当に乗り遅れてしまう。そこで私も、彼女の服を掴まえて「ベルベラ! ベルベラ!」とアピールしてみたのだが、彼女は何の反応も示してくれない。何を考えているのだろう。飛行機が遅れたんだから、急がないと間に合わないのに! 普通なら、「大変! 皆さんちょっとどいて! さあ、急いで検査して10番ゲートに!」くらいの事を言ってもいいはずなのに、アピールしようがしまいが、誰も彼も知らんぷりするばかりで、私のことなど誰も見向きもしない。
同じく人だかりの中に中年の韓国人風の男性が数人居て、私に溺れ死にかけたハムスターのような悲しげな目線を向けてきたが、だからと言ってどうすることもできなかった。

結局、私が保安検査ゲートをくぐり抜けられたのは、離陸時間が過ぎてからだった。それでも一応ゲートに行ってみると、案の定ベルベラ行きは離陸したところで、エチオピア航空のスタッフの女性たちは、「今頃何しにきたのかしらこの中国人は」というような冷たい目線を私に向けた後、頭を横にふるだけであった。
「とりあえず、国際線のエチオピア航空の窓口に行って」と言われて、私はバスで移動した空港の中を、徒歩で戻った。考えてみれば、それもかなり滅茶苦茶な話だ。空港のターミナルビルの外、滑走路や駐機場に面したエリアを、外国人が一人でウロウロしているのだが、すれ違う空港スタッフの誰も何も言わないのだ。エチオピアでテロをするのは随分簡単なことだろうと、私は苦笑いした。
その後、エチオピア航空の窓口に行くと、一人のエチオピア航空のスタッフが居たので、私は「飛行機が遅れたので、乗り継ぎ便に乗れなかった。何とかしてほしい」と説明した。
ところがこの男は、信じられないことに、「そんなはずはない。飛行機など遅れていない。私は見ていたんだ」などと主張し始めた。
何でその飛行機に乗っていた私が1時間も遅れてここに現れたのに、この男はそんなことを堂々と主張できるのだろう。大体、エミレーツ航空の飛行機を、彼が本当に遅れたか遅れてないかチェックしているとでもいうのだろうか。私はむかついて、「私はそれに乗ってたんだぞ! 嘘をついてないで確認しろ!」と言うと、「いいだろう。確認してやる」と言って、その男は窓口を出て廊下を曲がりどこかに行ってしまった。
ところが、何分経ってもその男が戻ってこない。男を探してみると、男は窓口の近くのテーブルで、なぜか書類仕事をしていた。
「おい、何をしているんだ?」と聞くと、その男はちらりと私を見ただけで、返事もろくにせず、むっつり黙り込んだまま書類仕事を再開した。
近くの椅子に座っていたウーピー・ゴールドバーグそっくりな中年黒人女性が、そんな私達の様子をニヤニヤしながら見つめていた。
やむなく、この男に頼るのはやめて、他のスタッフを待った。すると、やがて別のスタッフが現れて、彼が対処してくれる事になった。彼は通過ビザを発行し、アディスアベバ市内のホテルと翌日の飛行機のチケットをアレンジしてくれた。正直な話、ホテル代はエミレーツ航空に払ってもらいたかったが、そんな話を通すのにどれくらい大変な思いをしなければならないか解らないので、諦めてこちらで負担することにした。
その後荷物を引き取りにベルトコンベアーまで行くと、荷物だけは何故か乗り継ぎに間に合い、ソマリランドに向かってしまっていた。
「あの赤いバッグだろ? もう飛行機に乗ってったぞ」
と、エチオピア航空の貨物係はそう言った。私だけが、うっかり乗り継ぎに遅れたというのだろうか。けれど、どうして私が間に合うことができただろう?
「ありがとう。また」
「どういたしまして」
私はエチオピア航空のスタッフに握手して、彼と別れた。この人が、エチオピアで出会った最後の親切な人となった。

ホテルは、空港の近くにある比較的綺麗な建物であった。建物の周辺は工事をしているのか何なのか瓦礫だらけの殺風景な一角だったが、内部は日本やヨーロッパのホテルと比較しても遜色ない立派な作りで、Wifiも通っているし、シャワールームも綺麗で、エレベータはドイツ製の新品だった。
部屋に落ち着いてから、私はソマリランドのアンバサダーホテルが、私の迎えをベルベラ空港に送ってよこすと連絡してきたことを思い出した。
そこでアンバサダーホテルに電話し、
「申し訳ないが乗り継ぎ便に乗れず、今日は行けない」
と伝えた。すると、電話口に出たホテルの従業員は、
「なに、今日は行けない!? お前の迎えがもうベルベラに居るんだぞ! 何時来るんだ!」と、電話越しに私に怒鳴った。
「明日になる」
「明日! それじゃ、追加料金を払ってくれ!」
「追加料金?」
「そうだ。お前の護衛と迎えはベルベラ空港で一泊しなきゃならならない! まとめて500ドルだ!」
ソマリ人特有の早口で怒鳴るような口調で、彼は私にまくし立てた。
「いや、ちょっと待ってくれ。遅れたのは俺のせいじゃないんだ。エミレーツ航空が一時間遅れたから行けなかったんだよ!」
「だが、お前の護衛と迎えがベルベラに待ってるんだ!」
「そんなこと言われたって、俺のせいじゃないよ! エミレーツ航空に言ってくれ!」
「OKOK、エミレーツ航空が遅れたのは分かった! だから追加料金を払ってくれ!」
「…………」
「もしもし! もしもし!?」
私はそれ以上の交渉が無駄であると悟って、通話を切り、電話の電源を切った。
私を迎えに行った護衛と迎えの人々には悪いが、政府要人でもあるまいに、たかだかベルベラからハルゲイサまで車で片道移動するだけで500ドルなんて払えるわけがない。
後から「護衛と迎えがお前を待っている。とにかく何時来るのか連絡せよ。料金は500ドルである」とのメールがアンバサダーホテルから飛んできたが、「本日ベルベラに行けなかったのはエミレーツ航空の責任であって私の責任ではない、どうしても追加料金が必要ならエミレーツ航空に請求されたし、500ドル請求される限り私は貴ホテルには宿泊しないので了承されたし」という内容のメールを送ると、後は何の連絡も来なくなった。

何処にも出歩く気にならず、外が真っ暗になってから私はロビーに降りて、せっかくだからエチオピア料理を食べてみたいが、どこかにレストランはないか?と受付の女性に聞いてみた。
すると彼女は、「そこにホテルのタクシーがありますから、彼に言えばホテルまで連れて行ってくれるわ」と答えた。
タクシーに乗り込むと、中年のオジさん運転手は、ホテルの近所にあるエチオピア料理のレストランに連れて行った。そこは観光客用のレストランらしく、欧米人や東洋人の観光客でごった返し、民族音楽のショーも行われていた。

↑伝統芸能のダンスショー。

↑皿に敷かれたクレープのような食べ物はインジェラといい、酸っぱい味が特徴的。上に乗っかっているのはワットという煮込み料理で、色々な種類があるらしい。

私は自分が何を食べているのかもよく分からないまま、変わった味のエチオピア料理を食べ、運転手を携帯で呼んで、タクシーに乗り込んだ。
「どうだった」
「ああ、美味しかったよ」
「そうか、それはよかった」
そんな話をしながら、タクシーは大通りに出た。そのままホテルに戻ると思いきや、タクシーはホテルとは別の方向に向かい始めた。
「どこに行くの」
「まあ、いいからいいから。ところで、エチオピアの女の子どう? 美人の女の子いっぱいいるよ」
カンボジアの事が頭に浮かぶ。
「いや、いいよ。いらないよ。それよりホテルに戻って欲しいんだけど」
「まあまあいいからいいから。一泊しかしないんだろう? だったらアディスアベバの街をちょっと案内してあげるからさ」
「いや、戻ってくれないかな」
「いいからいいから…」
強いてここでホテルに戻れ、としつこく主張しなかったのが、間違いだった。オンナの話を切り出してくるタクシードライバーなど、どう考えてもろくなもんじゃないというのは、分かっていたことだったのに。
ドライバーは、ここが首相の官邸で、ここがスラム街で…とつらつらと説明しながら、車を運転し、そこらへんをグルっと回って15分ほどでホテルに戻った。
勘違いしないでもらいたいが、私は首相官邸の内部を見学したわけでも、スラム街を探検したわけでもなんでもない。車に乗って、単に15分ばかりそこらへんを廻っただけだ。
そして、タクシーがホテルに帰り着くと、ドライバーは私に向かって、こう切り出してきた。

「じゃ、80ドルな!!」

(゚Д゚)ハァ?

「…ちょっと確認したいんだけど、ブルじゃなくてドルなの?」
「そうさ、当たり前だろ」
「………」
「私も疲れているんだ、な、早く払って、お互いうちに帰ろうじゃないか(ニコニコ)」
「………」
本当に、この旅に出てからというもの、タクシードライバーくらい嫌いになった職業はない。
「あ、そう。悪いけど、ちょっとホテルに来てくれる? カネ持ってくるからさ」
私はそう言って、先にタクシーを降りてホテルに入った。そして、今にもレゲエを歌い出しそうなドレッドヘアーの受付係のお姉さんに、
「ちょっと。あんたが薦めたあのタクシー、料金80ドルとか言ってんだけど、どういうことなの?」と聞くと、彼女はあらまあ、という顔をして、
「事前に料金を決めなかったの…?」と、言った。
「………」
なるほど、そうですか、と私は思った。
ホテルのタクシーと言って薦めておいて、助けてもくれないのか。
いいだろう、ホテルのタクシーっていうから俺がすっかり油断していたのが、このトラブルの原因なんだろう。わかったよ。俺が自分でケリをつけてやる。
私は部屋に戻って100ドルをエチオピア・ブルに交換させると、ロビーで待っていた運ちゃんに、「はいこれ」と言って、300ブル(15ドル)を差し出した。これは、言い値の1/5以下の額ではあるが、私がレストランで食事をしている時に1時間ほど、客も取らずに私のことを待っていた「かもしれない」ということと、15分そこらを運転したガソリン代を加味した、最大限に譲歩した額であった。
運ちゃんの顔色がさっと変わり、彼は「ノーノーノーノー!! 80ドルだよ!!」と叫んだ。
私は引き下がらず、「だから何でそんなに高いんだよ」と聞いた。すると彼は、「ツアーをしてやったじゃないか!!」と目を剥きだして怒る。
「あんたは15分、そこらをただ車で廻っただけだろう。何で日本のタクシーより高いんだ」と私が言うと、
「日本とは違うんだよッ!!」と、運ちゃんは激昂した。

あ、駄目だコイツ。私はそう思った。まったくもってお話にならない。
ボッタクリをするのにも限度というものがある。この男は、物価の違いを理解していないばかりか、日本人なら幾らでもカネを持っていると勘違いしているのだ。ここで80ドルなど払おうものなら、この男はますますつけ上がって、外国人を狙うことだろう。そうなれば、次にエチオピアに旅行に来る日本人ばかりか、その他の国の旅行者までもが迷惑する。
「あ、そう。とにかくこれが運賃ね、じゃ、さよなら」
と、私は300ブルを押し付けて、エレベータに乗り込んだ。
背中越しに、「ウェイトッ! ウェーイトッ!!」という怒鳴り声がしたが、私は無視することにした。エレベータが閉まる寸前、運ちゃんが受付係のお姉さんに喰って掛かっているのを見たが、勝手にやっていればいいという感じだった。
部屋に戻って、しっかり鍵を掛けた。もしかしたらあの運ちゃんがやって来るかもしれない、そうなったら籠城してやる、と私は意気込んだが、結局のところ朝まで誰もやってくる様子はなかった。朝まで誰もやって来ず、次の日受付係のお姉さんが私の顔を見ても、一切何も言わなかったことが、300ブルが十分な額であることを証明している。

フィリピンに留学していた時、友人の一人が「こういう貧しいところの人が僕らにボッタクリをやるのは仕方ないと思うんです。だって、ボッタクリをしないと生きていけないんですから。僕らは物もお金の価値も違うよその国に来て居候してるんだから、彼に多少お金を多く払うのは仕方ないと思うんですよ」と言っていたことがある。
私も、その意見には賛成だし、現地人価格より多めに払ったとしても、それが日本よりも安くて、彼らの懐が潤うのなら、お互いに何の問題もないことだと思う。
けれど、だからといって何十倍という額を請求されるのは、話が別だ。
月収200ドル300ドルという連中に、15分ドライブしただけで日本よりも高い80ドルもの料金を請求され、あまつさえ「お前の国とはわけが違う」と小馬鹿にされて、引き下がるわけにはいかない。
私は、エチオピアという国に幻滅してしまった。
アフリカきっての大国であり、第二次世界大戦を除いて他国の植民地支配を受け入れることなく、太古の昔から独立を守ってきた歴史と伝統あるエチオピア。アフリカの彼方にありながら、長い歴史を持つ古いキリスト教を守り、中世ヨーロッパの人々からは東方にある伝説のプレスター・ジョンの国と言われたそんな国の人々が、この有様なのだ。
その原因は、やはり貧困であろうと思った。貧困が、彼らを泥棒と何ら変わらないボッタクリに走らせる。度を越した異常なボッタクリをすれば、観光客は幻滅し、二度とこんな所には来ないと思うだろう。そうなれば、結果的に自分の首を締めている事になる、そんな当たり前のことにすら気づかないのだ。
貧すれば鈍する。
貧困にあえぐ人はもちろん罪人ではないが、貧困そのものは罪であると、私は学んだ。

次の日の朝、私は失意に呑まれながら空港に戻り、失われた荷物を求めて、ベルベラに向かった。

砂漠の中の幻・2(アラブ首長国連邦・ドバイ、第62〜68日目)


ドバイのユースホステルのルームメイトは、60代のハンガリー人の男性、ギュルギさんと、サウジアラビア人の男性アヴドゥッラーさん、そしてオランダ国籍でオランダ人とガーナ人のハーフという青年だった。
オランダ人の青年は、私がやって来たその日のうちに、モスクワに行くと言って出発していき、残ったのはギュルギさんと私、そしてアブドゥッラーさんの三人だった。
ギュルギさんは元はハンガリーで食品や薬品のバイヤーをしており、共産党政権時代から西側・東側の各国にしばしば出張していたという人だった。何となく、若いころのショーン・コネリーを思い起こさせる知的な顔立ちに、穏やかな笑顔を浮かべた人。今のように自由に海外に旅行できなかったであろう共産党政権時代に、海外のあちこちに出向いていたというのだから、きっと当時からかなりのエリートだったのだろうなと思った。
一方のアブドゥッラーさんという人は、ギュルギさんとオランダ人の青年によれば「サウジアラビアのミリオネア」だとかで、本人は否定していたが金持ちらしいということだった。彼は文字通り1日中部屋の中で寝て過ごしており、朝から晩まで眠り続けたあと、深夜になると起きてきて何処かに出掛けて行く変わった人だった。本人曰く、「国ではいつも忙しいからここでは寝ていたい」ということだったが、おかげで朝から晩まで彼の眠りを邪魔しないよう、常に部屋では物音を立てないように注意しなければならなかった。

「昨日は何処かに行ったかね?」
砂漠のツアーから一夜明けたクリスマス当日、私はギョルギさんにそう聞かれて、「ええ、昨日は砂漠ツアーに。砂漠の中で夕食を食べてきたんですよ」と答えた。
「今日はこれから何か予定は?」
「そうですね、別に決まっていないですが、ビーチに行ってみようかなと」
「そうか、それならジュメイラ・ビーチに私と行かないか? アブドゥッラーも行くと言っているから。ビーチに行った後、ブルジュ・カリファに行くんだ」
「ジュメイラ・ビーチですか! 行きます!」
ジュメイラ・ビーチは、ドバイの中でも上質なビーチとして知られた有名どころで、無料のジュメイラ・オープン・ビーチと、有料のジュメイラ・ビーチの二箇所がある。しかし、有料でも500円程度で脱衣所なども使えるとあって、私たちはジュメイラ・ビーチに行くことにした。

ホステル前のバス停からバスに乗り込んだ。ジュメイラ・ビーチに近づくと、天気はからりと晴れ上がって、遠くに天高く聳えるブルジュ・カリファが、陽光を反射してキラキラ光っている。気温は三十度以上もあるが、夏にもなれば四十度以上がザラだというから、今が一番いい時期だ。
よく晴れた天気に、白い砂浜と青い海、そして浜辺で身体を焼く美男美女たち。そしてビーチからは、遠くにあの有名な「ザ・ワールド」の工事の様子も見ることが出来る。これ以上ないロケーションだ。
「こりゃ、いいとこですね」
「そうだろう? 私はもう何回もここに来ているよ」
「あそこでパラソルとビーチチェアーを貸し出してるみたいですよ」
「パラソルとタオルは借りるとしよう。ビーチチェアーは私は使わないが、使いたければ借りたまえ」
「そうですね、じゃ両方借りましょう」
そう行ってパラソルとビーチチェアーを借りて、私たちは砂浜に小さな日陰を作った。あとは、脱衣所に入って着替えると、後はビーチに出るだけ。
「僕らは着替えます。アブドゥッラーさんは?」と聞くと、彼は、「私は泳がないからここにいるよ」と言って、パラソルの下にピクニックシートを敷いて座った。
着替え終わって、私とギュルギさんは早速海に入った。ビーチは海の中も整備されているらしく、潜ってみても小さな貝殻のほかには、石やらクラゲやらウニやらといった危険なものは見当たらない。
ひとしきり泳ぎまわると、時刻は1時近くになっており、アブドゥッラーさんもギュルギさんも、パラソルに戻ってきていた。
「昼でも食べようか。どうする?」
「いいですね。何処で食べますか? そこにハンバーガー屋がありますよ」
そうギュルギさんと話していると、アブドゥッラーさんは「私はブルジュ・カリファに行くよ」と言って、一人で去って行ってしまった。せっかくのビーチなのに、泳ぎもしないなんて、変な人だと私は思った。そういえば、彼は「海水は目にいい」とか、なかなか海底まで潜るのは難しい、という私に対して、「そんなはずはない。海水なんだからかえって身体は沈むだろう。プールで潜るより簡単なはずだ」とか、変なことを言っていた。もしかしたら、彼には海で泳ぐ習慣はないのかもしれない。ムスリムだから、人前で裸になるのも抵抗があるだろう。

二人してハンバーガー屋でランチを取った後、私とギュルギさんは二人でビーチで泳いだり休んだり、浜辺をゆったり話をしながら歩いたりした。
話題はいろいろだ。ハンガリーの事について、日本の大震災の事について、原発事故の問題について。
私はうろ覚えの知識を活かして「ハンガリーの共産党は実に賢かったと思います。ミクローシュ・ネーメト首相の時でしたか、自主的に共産主義を辞めて、民主化しましたし、東ドイツ市民を汎ヨーロッパ・ピクニックでオーストリアに出国させましたし。他の国の共産党はもうないですが、今もハンガリー共産党は存続してるわけですから、凄いですよ」と話すと、
「ハハハ、君は結構ハンガリーの事を知っているじゃないか。私はあまり日本の事を知らないのに」と、ギュルギさんは楽しそうに笑った。
その後、陽も傾いてきて、私とギュルギさんは二人で久しぶりのフィリピン料理を食べた後、ブルジュ・カリファに向かった。夜になってライトアップされたブルジュ・カリファを見たいと思ったからだ。


バスを乗り継いで到着したブルジュ・カリファは、夜空を貫かんばかりに高く聳え、美しく光を放っていた。人類の創るビルはどこまで高くなるのだろうと、私はそれを呆然と眺めていた。
「ブルジュ・カリファでは噴水ショーをやっているから、それも見よう」
「いいですね、行きましょう!」


ブルジュ・カリファの根本に広がるドバイ・ファウンテンには、既に噴水ショー目当ての観光客がぎっしりと押し寄せている。私とギュルギさんの二人は、ブルジュ・カリファと噴水ショーが一緒に写真に収められる場所を見つけて、そこに陣取った。
そして、噴水ショーは始まった。
マイケル・ジャクソンの「スリラー」とともに、泉が煌々とライトアップされ、噴水が踊り始める。


あちらでも、こちらでも、まるで水が踊るかのように、スリラーに乗せて水が舞う。
噴水は、自由に、優雅に、白鳥の首のような優雅な曲線を描いて空中に美しい絵を描いていた。
(すごい…)
こんなのは見たことがない。まるで、水と光が爆発したみたいだ。


やがて曲が終わると、噴水もまた一斉に盛大な水しぶきを挙げて、静まり返った元の泉に戻った。周囲からは、歓声と拍手が響き渡った。
「どうだった?」
「よかったです…見れてよかった」
「そうだろう…」


私とギュルギさんは、余韻を残しながら、ブルジュ・カリファを後にした。
「これからはどこを旅するのだね?」
「はい。これからはアフリカのソマリランドに行って、それからエジプトとイスラエルと…それが終わったら、ヨーロッパにも行くつもりです」
「そうか。もしハンガリーに寄ることがあれば、私に連絡をくれたまえ。ブダペストを案内しよう」
「本当ですか? ありがとうございます!」
こうして私は、また新たな旅の仲間を手に入れたのである。

ギュルギさんとの再会は、後にハンガリーで実現することになる。

2013年2月12日火曜日

砂漠の中の幻・1(アラブ首長国連邦・ドバイ、第62日目〜第68日目)


散々な出国審査を終えた後、ようやく私は思い出深いインドを離れ、深夜、ドバイに降り立った。
飛行機がドバイの上空に差し掛かると、暗闇の中に、明るく輝く宝石のようなドバイの町並みが見えた。
(…豪邸だらけだ!)
飛行機が徐々に高度を下げ始めると、町並みがよりはっきりと見えるようになる。道幅が広く、きちんと整備された道路を車が悠々と滑るように走っている。
眼下に広がる家々はどれも庭を備えた瀟洒な建物ばかりで、みすぼらしい雰囲気は欠片も見当たらない。空港に降り立つと、空港の建物もまた現代的で真新しく広々とし、チリひとつ積もっていない。
空港から出ると、深夜遅い時間ということもあって、私はタクシーに乗り込んだ。すると、タクシーにもまた真新しいメーターが備え付けられており、運転手は場所を聞くとメーターをONにしてすぐに走り始めたので、私は更に驚いてしまった。
日本を出て以来、こんなきちんとしたタクシーにお目に掛かったのは、シンガポール以来のことだ。アジアの他のどこの国でも、タクシーというのはボッタクリやトラブルの同義語であって、乗れば何かしら揉め事が待ち構えていると覚悟しなければならない乗り物なのだ。

次の日の午後、私は早速、ドバイにあるダハブシールのエージェントに行くため、ドバイ東部にあるゴールド・スーク・エリア(宝飾店が立ち並ぶ一角で、それ自体が一種の観光地になっている)に乗り込んだ。前後左右を埋め尽くす宝飾店の金銀のアクセサリーにめまいを感じなから、ダハブシールのエージェント一覧にあった住所を求めて迷路のようなスークを行ったり来たりする。けれど、目的のエージェントは一向に見当たらない。
(おかしいな…住所では確かにここのはずなのに…)
スマホの地図情報と見比べながら調べるが、それでも見つからず、仕方なしに周りの人に訪ねて廻ってみたが、意外にも地元の人達も知らないというばかりで、数時間もスーク周辺を彷徨う羽目になってしまった。
やがて辺りが暗くなってきたころ、それでも頑張ってエージェントを探し回っていると、とうとう知っているという人に巡りあった。
「その角を右に曲がって2つ目の店だよ。2つ目な」
「2つ目! やった、ありがとう!」
ついに得た情報! これでようやく帰れる! そう思ってイケメンのアラブ人の彼の言葉に従ってその店に行くと…
「閉まってる…」
営業時間が過ぎていたのか、休業日だったのかわからないが、とにかく店はシャッターが降りていた。
…というか、そもそも住所が違う。ムンバイのエージェントの時も、指定された場所に行ったら会社自体が存在しなかったりした。住所さえ正しかったら今日中に振り込めたかもしれないのに、ちゃんとデータ更新しとけよなぁ…と心のなかでダハブシールに悪態をついて宿に戻った。
翌日、そのエージェントで60USDを送金した後、私はこれからどうするかについて考えた。
エージェントから、ソマリランドのアンバサダーホテルに送金したはいいが、ビザがメールで送られてくるまでは、エチオピアに向けて出発できない。数日間、ドバイで待機するしかないわけだが、あいにく物価の高い先進国UAEには安宿というものが少なく、無為に泊まっていては資金を消耗することになってしまう。
更に安い宿に移らなくては。HostelWorldなどで調べてみて、私は中心部よりかなり遠いが、より安いホステルが空港の北にあるのを見つけ、そこに移ることにした。

そのユースホステルは、他の国のホステルのイメージとは少し違う場所だった。
HostelWorldで見つけられる欧米人のよくいるホステルというと、大抵は欧米人の好みそうな洒落た内装を持ったキレイなホステルをイメージするものだが、この宿の雰囲気は、どちらかと言えば運動部に所属している高校生が泊まるような、日本の合宿所に近いものだった。現に、後になってから地元の小学生のサッカーチームの団体がバスに乗って現れたので、その想像は間違っていなかったことがわかった。
「ところで、うちには砂漠訪問ツアーがあるけど、どうだい?」
「砂漠?」
「このパンフレットを見てくれ」
と、チェックインしてすぐに受け付け係のお兄さんが、私にパンフレットを寄越した。パンフレットには、ドバイの北にある砂漠にランドクルーザーで行き、そこで夕食のパーティもあると書かれている。料金も、それほど高くはなかった。
「よし! 明日行くよ!」
そんなわけで、クリスマスの午後三時頃、ランドクルーザーがホステルの玄関の真ん前に乗り付けたのである。

ランザクルーザーの運ちゃんは、パキスタンのラホールの近所の出身というおじさんだった。信じがたいことだが、ドバイにはパキスタンやインド、フィリピンなどの出稼ぎ労働者が現地人よりも遥かに多く(特にインド人)、地下鉄やバスに乗っていてもインド人が大挙して乗り込んでくれば、あっという間にインドワールドになってしまうのである。
彼とともに、ドバイの北のシャールジャ首長国のホテルでサウジアラビア人のグループをピックアップすると、ランクルは一路北に向けて走りだした。
暫く走って近代的な街の郊外に出ると、巨大なシャールジャの首長の宮殿があり、それを過ぎると後はあっという間に、砂漠の荒野になってしまう。
ドバイの巨大で現代的な町並みの中に居るとすっかり忘れてしまうが、一旦郊外に出てしまえば、やはりあの町は砂漠の中に突然ドカンと浮かぶ砂の中の城、文字通り砂上の楼閣なのだと気づく。
砂漠を更に北に、オマーン領の飛び地・ムサンダムの方角に向けて進んだのち、ランクルは突然舗装路を外れ、砂漠に入った。
すると突然、ランクルが激しく揺れ、全身に衝撃が襲った。
「うおっ!?」
ガゴン、という音と衝撃に、思わず声が出てしまう。ランクルは、砂漠の急な斜面を、思い切りスピードを付けて爆走している。


なにしろ、不安定な砂の斜面を思いっきり斜めになって走行しているのだ。身体が地面に向けて引っ張られる感覚があり、そのまま車ごと横転しそうな恐怖に襲われる。
「心配するな、この車は日本製だ。君のところの車だろう。信用しろよ」
などとパキスタン人の運ちゃんは言うが、正直言って物凄く怖い。実際には、きちんと決められた安全なルートを通っているのだろうけれど、ちょっとハンドル操作を誤ったら、簡単にひっくり返ってしまいそうだ。


こんな恐ろしいドライブは味わったことがない、というくらい恐ろしいドライブだったが、ランクルの隊列は、無事目的地のデザート・キャンプまで辿り着いた。
このキャンプは、文字通り砂漠のど真ん中にある観光用のキャンプだった。中央のお立ち台の周囲の地面に、テーブルと椅子がそのまま並べられており、ツアーに参加した人なら、コーヒーや茶、食事、お菓子なども無料で楽しめるという趣向だった(酒もあったが、酒はさすがに有料)。
お茶をもらって席に座ると、しばらくしてダンスショーが始まった。まずは男性ダンサーたちの剣舞から始まり、女性ダンサーの美しいベリーダンス、男性たちが勢い良くスカートを振り回して踊るスーフィー・ダンスと続く。こういったショーを見るのは初めてだったけれど、その美しさに思わず見とれてしまった。


やがてショーが終わると、そこで砂漠の宴はおしまいになった。
宴の参加者達は、続々と自分たちの車に乗り込んで、キャンプから立ち去っていく。ダンサーたちもいなくなり、食事や売店も全て片付けられて、つい先程まで賑やかだったキャンプの中は、急にガランとしてしまった。
「どうだった? 楽しかったかい?」
パキスタン人の運ちゃんにそう話しかけられて、「ああ、とっても」と私は返事した。
(まるで、幻みたいだ…)
もう人気がほとんどなくなり、抜け殻のような会場を見つめて、私は砂漠のど真ん中で何か幻を見ていたような、そんな不思議と寂しい気持ちになったのだった…。

2013年2月4日月曜日

ロマンスグレーの悪魔(インド連邦・ゴア、第60~62日目)

ムンバイの次に、私は前述のダハブシールのエージェントに立ち寄る都合や、ソマリランドを訪問する都合を鑑みて、利便性の良いドバイの街に行くことにしていた。しかし、私は急に、ドバイに出発する前に、ムンバイの南にあるインド洋に面したゴアという場所に立ち寄ってみようと思いついた。
ムンバイまでの旅路もなかなかに面白おかしいものではあったけれど、次にインドに立ち寄れるのは何時になるのか分からないから、もう一つくらい街を見て回ろうと思い立ったのだ。何より、ゴアからはドバイに行く航空便が就航している。ムンバイに戻ることなく、ゴアを見物してから、ドバイに向けて出発することができるわけだ。

ゴアは、かつてインドにあったポルトガル領の植民地である。ポルトガルがこの地をインドから獲得して以来、この地は貿易港として大変栄え、「ゴアを見たものはリスボンを見る必要なし」とまで言われたという。
しかしその後ゴアは衰退したが、インドがイギリスから独立した後も、ポルトガルはしぶとくゴアを保持していた。やがて1960年代に入ると、インドはポルトガルにゴア返還を迫ったが、独裁体制下にあったポルトガルはこれを拒否。怒ったインドは、大量のインド人をゴアに送り込み、実力でこれを占拠してしまった。やがて、ポルトガルでは民主主義革命が起こり、政権が交代。時代の脱植民地主義の流れから、ポルトガルはインドのゴア併合を追認することになった。
こうした歴史から、他のインドの地域とは少し違う文化を持っているのがゴアである。ポルトガル領時代のゴアはそのままゴア州になり、ゴア地域だけで非常に小さな州を形成している。
以来、この地はヒッピー達の聖地の一つになり、白人たちが好んで押し寄せるビーチリゾートになっている。ゴア・トランスというジャンルの音楽が生まれたのもここだ。ちなみに、「シャンタラム」の主人公リンが、ムンバイから姿を消したヒロインのカーラがここにいることを突き止め、未練がましく追いかけた挙句、フラれてしまったのもこのゴアである。

ゴアの空港に降り立つと、椰子の木があちこちに植えられており、南国の雰囲気は更に色濃くなった。ムンバイと違い、州とはいえあまり大きな都市を持たないゴアは、目に飛び込んでくる緑の量が格段に多い。便利な公共交通機関もあまりなく、私は安宿の集まるビーチエリアまで、タクシーを使って移動した。
車窓からゴアの町並みを見物していると、ゴアにはキリスト教徒が非常に多いのがすぐに見て取れた。運転手たちは、軒並みフロントガラスの手前に十字架を提げている。バスにも「In God We Trust」のペイントが施され、道路のわきには、幾つもの聖母マリアやイエス・キリストの白い小さな祠が建てられているし、教会もあちこちにある。その上に雰囲気は南国のイメージなので、インドの民族衣装を纏った女性たちが街中を歩いていなければ、うっかりフィリピンのどこかの田舎町と勘違いしそうな雰囲気を漂わせている。

と、ここまで仰々しくゴアについて語ってきたが、ゴアではこれと言って特別なことは何もなかった。初めの予定では特に行く予定もなかったし、ここに来たのもビーチを堪能しようと思ったからに過ぎない。


私は三日間、ビーチ近くの安宿に滞在したが、インド洋に面した浜辺は実に魅力的で、温かい海に入って潜ったり、波にぶつかって楽しんだりした。一人でなければ、あるいはクラブやパーティが好きな人ならもっと楽しめたのだろうが、あいにく私はそうではないし、これと言った知り合いを作ることもなかった。
しかし、ゴアにはもう一つ面白いものを見つけた。それは、有名なアイスクリームチェーンの「バスキン・ロビンズ」であった。この狭いゴアのビーチエリアに、バスキン・ロビンズが二件、他にもピザ・ハットなどの有名チェーンがあるのだが、このバスキン・ロビンズは不思議なことに、チェーン店の雰囲気が全くしないのだ。
それよりもどちらかというと、ただの個人商店のような感じがする。実際、隣には雑貨屋さんがあって、同じ人が経営しているらしかった。なんだか可愛らしい佇まいだ。このレベルでOKなのなら、うちの地元にもじゃんじゃん出店してくれればいいのにと思ってしまった(確認したら函館にも1件はあるにはあるが、ここにはこの狭い範囲だけで2件、空港近くの街にはもっとある)。


ちなみに最初のうちは、ポルトガル領時代の遺跡などを見てみようかと思っていたのだが、あまりにもビーチの安宿エリアから遠すぎることもあって、結局行かずじまいになり、海で泳いだり、ビーチエリアをスクーターでブラブラするだけに終わってしまった。


ゴア滞在の最終日に、私はタクシーで空港に向かった(タクシー以外、交通手段がないのだ…)。
途中、タクシーが渋滞に巻き込まれたらしく、しばらく交差点で停車していると、運ちゃんがこう言った。
「今、首相がゴアを訪問中なんだ。この先を首相が通っているところだよ」
「首相って、インドの?」
「そうさ」
と言うことは、今シン首相がこの眼と鼻を通っているのか。
「それはすごいな。写真撮りたいね」
などと言って、私は前方のクルマの隙間に目を凝らしてみたが、何台かの車が交差点を移動している様子がかすかに見えるだけだ。やがて、交通規制は終わったらしく、また再びタクシーは走りはじめた。
その後空港に着くと、軍服を纏った男たちが沢山屯しているのに出くわした。男たちは、黒い車の腹部に金属探知機のような機器を差し込んだり、トランクやボンネットを開いて中身を確認したりしている。やがて確認が終わったらしい車に、身なりの良いスーツ姿の男たちが乗り込んで、空港から離れていく。その様子から、どうやらシン首相が来ているのは間違いないようだ、と確信した。

問題はその後に起こった。
荷物を預けて、出入国審査の列に並んで自分の順番を待っていると、突然、灰色の髪の50代くらいの出入国審査官らしい男が、私を指さしたかと思うと、
「おい、お前! ちょっとこっちに来い!」
と、私を呼びつけたのである。一見、大学教授のような風貌の男だった。
「何ですか?」と私が聞くと、その男は、「パスポートを見せてみろ!」と顎でパスポートを指してみせるので、私はその男にパスポートを渡した。
すると、その男はバラバラとパスポートを捲って、「おい! どこだビザは!」などと、他の待っている人々の前で、私に怒鳴った。
私はたじろぎながら、「19ページです」と言った。そこに、ニューデリーで貰ったビザ・オン・アライバルのスタンプがある。
「どこだ!?」
「だから、19ページですって」
「見せてみろっ!」
何なんだこの男は、と思いながら19ページにある青いスタンプを男に見せると、男は更に、「ビザ・オン・アライバルゥ!? ちょっとこっちに来い!」と、私に怒鳴り散らした。
なんで怒鳴られなきゃならないんだ、と内心苛立ちながら、私は出入国審査ゲートの向こう側に連行された。そこでもさらに、男の質問は続いた。
「これはどこで取った!」
「ニューデリーです」
「ニューデリー!? なぜニューデリーから出国しない!」
「ドバイに行くからですが…」
「ドバイ!? ドバイに何の用があるんだ!」
「観光ですが…」
「観光!? おい、お前はどこから来た!?」
「私は日本からですけど…」
「じゃあ、日本の出国スタンプはどれだ!?」
「これですが…」
「おい、日本の後に他の国に入ってるじゃないか! インドの前はどこから来たんだ!」
「中国ですって。日本を出た後にあちこち移動してきたんですよ!」
「じゃあ違うじゃないか!! 何故嘘をつくんだ!!」
(何言ってんだこのオッサン…うるせぇなぁもう、さっさとしろよ…)
私が怒鳴られている間に、他の人々はどんどん出国審査をくぐって、私達のほうをチラチラ眺めながら、出発ゲートに向かって歩いて行く。その様子にイライラしていると、この男は更にこんなことを言い出した。
「お前はニューデリーから出国しなければならない!」
「はぁ!?」
「お前はニューデリーでビザを取ったんだろう! ニューデリーから出ろ!」
(おいおい、そんな話聞いたことないぞ、冗談じゃない!)
私はもう、ドバイに向けて出発する寸前なのだ。第一、ビザ・オン・アライバルで入国したら同じ空港から出国しなければならないなどという規則は聞いたことがない。
この男は、何処かに携帯で電話をかけて、日本人がどうこう、と話すと、更に私を質問攻めにした。
「本当のことを話せ。インドではどこに行っていたんだ!」
「ニューデリーから入国した後、アーグラとジャイプールとムンバイに行きました」
「目的はなんだ!」
「(見りゃ分るだろ、どこの国にTシャツ短パンサンダルにリュック背負ったビジネスマンが居るんだよ、アホか…)だから、観光だって言ってるじゃないですか」
「お前の家族構成と財政状況について説明しろ!」
「??? …うちの父はデパートのマネージャーです。母は工場の従業員です。私は元コンピュータエンジニアですよ」
なぜ、自分が出国審査に並ぶ行列の人達に向かって自分の家族について説明しなければならないのか、私は頭が混乱してどうしてよいのか分からなくなってきた。もし、万が一本当にここから出国できないという話になったとしたら、今すぐに飛行機をキャンセルして荷物を戻し、ニューデリー行きに切り替えなければならないのに、男はいつまでも質問をやめようとしない。私はますます苛立ってきた。
「それで、旅の目的はなんだ!」
「だから観光だって言ってるじゃないですか!!」
ついつい怒鳴って、私は、男が握り締めている自分のパスポートを取り戻そうと手を伸ばした。すると、男は私がパスポートをつかめないように、自分の背後に回してしまった。
「おまえ! 本当に日本人なんだろうな! いったい中国では何をやってきたんだ!」
また同じ質問の堂々巡りだ。その時、男の携帯に電話がかかってきた。男は抗議する私を片手で制すると、携帯にふんふん、と応答している。
そうして携帯を切ると、男は突然笑顔になって、こう言い出した。
「行っていいよ」
「はぁ!?」
「行っていいよ」
男はニコニコしながら私にパスポートを返した。
「………!!」
男の急変ぶりに、私は空いた口がふさがらなかった。私はまた怒鳴りそうになるのを必死でこらえて、ようやく男からパスポートを取り返した。
この男の意味不明の質問攻めの理由は、つまりこういうことだ。
要するに、この男は見なれない東洋人の男がゴアから出国しようとしている様子を見て怪しいと考え、シン首相が来ている手前、頑張って点数を稼ごうとでも考えたのではないだろうか。
そうしてパスポートを確認するや、あまり一般的でないビザ・オン・アライバルで入国していたものだから、ますます怪しい、何かあるに違いないと思い込んだのだ。その上おそらく、この男は不勉強でビザ・オン・アライバルでは入国した空港と同じ空港からしか出国できないと勘違いしていたのだろう。
ところが、上役に確認したら問題なしということになり、さんざん私に怒鳴り散らしておきながら、あたかも最初から何もなかったような態度をとっているのだ。謝罪の言葉ひとつない。なんという厚顔無恥で、面の皮の厚いやつだろうと、私は呆れ返った。見た目は渋い大学教授のようだったが、中身はとんでもない男だった。
そうして30分近くも拘束された末、私はようやく出国審査の列に並び直すことを許された。そこで、出国審査官の女性に、「ねえちょっと、ビザ・オン・アライバルでは入国した空港から出国しないといけないの?」と聞くと、その女性は肩をすくめて、「さあ、知らないわ…」と呟いたので、私はますます呆れ返ってしまった。ここの連中は、出入国審査官のくせして、そんなこともろくに知らないのだ。肩をすくめたいのはこっちだった。

そうしてようやく、私はドバイに出ることができた。
インド。最初から最後まで、何から何まで、わけの分からない出来事が頻発する、おそろしくインパクトの大きな国だった。
まだ、見ていない場所はたくさんある。きっとまた、ここに来よう。そう思いながら、私はもう二度と、ゴアから出国だけはしないと心に誓ったのだった。

混沌の街・2(インド連邦・ムンバイ、第57~59日目)

「シャンタラム」は、オーストラリアの作家グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツが2003年に発表した小説である。この小説では、80年代、主人公ことリン・シャンタラムが、オーストラリアで銀行強盗をした挙句、偽装パスポートであてもなくムンバイに落ち延び、そこでひょんなことから無免許の医師となって人望を集める傍ら、ムンバイ・マフィアの一員となって現地の裏社会に通じるようになり、更には当時ソ連と戦争状態にあったアフガニスタンに、ムジャヒディーンの義勇兵として赴くなどの波瀾万丈の人生が描かれている。
何とも非現実的な話のようだが、実はこの小説でリン・シャンタラムが体験するこうした数々の出来事は、殆どが作者・グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツの実体験によるものとされている。実際にグレゴリー・デイヴィッド・ロバーツはムンバイで逮捕され、オーストラリアに強制送還されて服役し、出所後にこの小説を書いているのだ。どこまでが創作でどこまでが実話なのかは定かではないが、こうしたことからこの小説は半自伝小説と考えられている。
(ちなみに、『暴走特急』という、ナショナル・ジオグラフィック誌のカメラマンが世界各地の地元民が使う危険な乗り物を乗り継いで旅をするノン・フィクションがあるのだが、その中にムンバイを旅する箇所がある。そこで、この本の作者は「シャンタラム」に登場するある人物のモデルとなった男に会い、彼にムンバイを案内されるのだが、その時この人物は、「あの本(シャンタラム)に書いてあることは全部本当だ」と言ったらしい。しかもこの男によれば、グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツはオーストラリアで服役後、小説のお陰か金持ちになり、ムンバイに戻ってきて堂々とヤクをやったり、古くからの友人のこの男に様々な便宜を図っていたというのだから、大したものである)
この小説には、インドとムンバイのむせ返るような熱気と騒音が詰め込まれている。作者がインドを愛していなければこうした作品を書くことは絶対にできない。そのためか、この小説はバックパッカーに大変人気があり、私も旅の途中にこの小説が日本人食堂に『深夜特急』と一緒に置いてあったのを見たことがある。
ここまで書けばもう説明するまでもないが、私はこの小説に登場するムンバイに憧れて、ムンバイに行くことを選んだのである。もちろん、この小説の中に登場する場所を訪問するだけで、リン・シャンタラムのようにとてつもなく劣悪な刑務所に収監されたり、スラムで生活するつもりはなかったわけだが。



(適当にフォート地区のあたりをブラブラして、暗くなってきたらカフェ・レオポルドで飯にするか)
私はローカルトレインに乗る前に、そんな風に予定を立てていた。「シャンタラム」の中には、フォート地区がよく登場する。フローラの泉や、壮麗なインド門、タージマハル・ホテル等など、ムンバイといえば誰しも思いつくような場所ばかりだが、中でもリン・シャンタラムが通いつめていたバー兼レストランが、カフェ・レオポルドである。
このカフェ・レオポルドは、創業100年超という、外国人に人気の超老舗レストランだ。ここにおよそ30年前、リンやカーラ、その他の多くのシャンタラムに登場した人々が、このバーに通い詰めては酒を飲み、悪事の相談をしていたのである。
更に2008年のムンバイ同時多発テロでは、『外国人に人気だから』という理由で近隣の警察署やホテルともども爆破されたこともある。それでもなお普通に営業しているのだから、実にタフでロックだ。シャンタラムの世界を味わうのに、このバーを於いて他にない。私はフォート地区をぶら付いて腹を空かせると、さっそくカフェ・レオポルドに飛び込んだ。


(ちょっと想像してたのとは違うけど、えらくお洒落だ)
カフェ・レオポルドは6時過ぎから既に大混雑しており、一階のレストラン席は満席、二階のバー席ならなんとか空いているとの事で入れてもらえた。
早速二階のバー席に座る。室内は青い照明で照らされ、ダンス・ミュージックが流れ、たくさんの白人の観光客が楽しそうに歓談していた。
普段こういうところにはあまり行くことがないし、客は私一人だけ東洋人だったので何だか自分一人だけ場違いな気がしたけれど、考えてみれば他の連中だって単なる観光客だ。それに、せっかく来たのにいちいち気後れなんてしてたらつまらない。
そう思ってスタッフにオススメのメニューを注文すると、これがまたやたらと美味しかった。
(すごい。やっぱり100年も店を続けられるような店は違うな)
お値段は残念ながら安くはなかったけれど、それからはますます、ムンバイの街が楽しくなってきてしまった。
私は、この雑然として、危険で、混沌としたこの街がどうやら気に入ってしまったらしい。
住みたいのかと言われたら、もちろんそうではないと思う。ただ、もしかしたら、今以上にヘンテコな出来事に出会えるんじゃないか。もしかしたら、シャンタラムのように、どこかの通りを曲がったら、そこがムンバイの裏社会に通じる裏路地だったりするんじゃないか。
そんな風に、なんだか街全体が1つのアトラクションのように感じたのだ。ニューデリーでジャブを食らって落ち込んだ気力は、ムンバイで一気に盛り返してきた。
それからまる三日間、私はフォート地区を中心に街を廻ってみた。もちろん、移動手段はオートリクシャーとあの危険なローカルトレインで、晩飯は3日連続、カフェ・レオポルドに入り浸った。
オートリクシャーもローカルトレインも相変わらず危険で、客車の中でipodをうっかり落とした時には、それを拾おうとしたインド人にタカられそうになったりと、思わぬ失敗もした。


混沌と危険に満ちたムンバイは、それでもなお美しい場所だった。ガンディーが住み暮らした住まいも残されているし、壮麗なインド門と海のコントラストは実に魅力的だし、インド門そばの船着場から出ている船に乗れば、美しい遺跡の残るエレファント島にも行ける。


ムンバイに居た三日間に、「シャンタラム」にあったような危険で過酷な出来事は、さすがに起きなかった。けれども、私の心のなかに、猥雑にして壮麗なムンバイは、強く刻み込まれることになった。いずれまた、この地に戻ってくることもあるはずだ。ムンバイはまさに、私にとってのインドそのものになった。

混沌の街・1(インド連邦・ムンバイ、第57~59日目)

朝方早く、私は運ちゃんと共にジャイプールの空港に向かった。
まる三日間私に付き合ってくれた運ちゃんとは、ここでお別れである。はじめ彼と出会ったのが例の怪しい旅行会社ということもあり、正直あまり彼の事も知りたいとは思っていなかったが、話しているうちに彼は単なる下請けの別の会社のドライバーであって、あの旅行会社の社員ではなく、単なる女の子好きの兄ちゃんだったと分かって、少し気が楽になった。
「来年は彼女と結婚するかもしれない。まだわからないけど」
「この仕事(ドライバー)は危ないから、そろそろ辞めたいと思ってる。出来ればイギリスに行って働きたいんだけどな…」
彼はそう言っていた。
Facebookのアカウントを交換すると、私は彼にチップを渡し、別れを告げて空港に入った。
ジャイプールの空港を離陸した飛行機は、一路南に向かった。一時はシンガポールまで南下し、その後トルファン・ウルムチまで北上したすえ、私は再び、南国に戻ってきたのである。

ムンバイは、英領インド帝国時代からの伝統ある大都市だ。インド全土で四本の指に入る巨大な人口を擁し、政治の中心地であるニューデリーに対し、中国でいえば上海に相当する経済の中心地として発展してきた街だ。それだけに、ヴァーラーナスィーのような「聖地」に対して、言うなればインドの「俗地」の極北といえる街であろう。
なぜ、無数のインドの都市の中からこの街を特に選んだか。その目的は大きく分けて2つである。
1つは、以前読んだバックパッカーに人気の小説「シャンタラム」の舞台となったムンバイを見たかった事。
そしてもう1つは、後ほど訪問することになるアフリカ・ソマリランドのビザを入手するため、当地にあるソマリランドの会社ダハブシール(Dahabshiil)のエージェントを通じて、ソマリランドのホテルにビザ取得代行料を支払う事であった。
ムンバイと「シャンタラム」の事は後述するとして、この2つ目の目的・ダハブシールのことについて簡単に説明すると、これはソマリア北部の旧イギリス領ソマリアで独自の国家を建設し、ソマリア連邦からの一方的独立を宣言したソマリランド共和国の難民たちのために始められた、送金サービスを行なっている会社である。
内戦でソマリランドを追われたソマリ人たちは、難民となってアメリカやヨーロッパなど世界各地に散らばったが、彼らはそこで稼いだ資金を、「祖国」ソマリランドに送金する必要があった。しかし、世界に認められていない祖国に宛てて、安全確実に送金する手立てがなかった。そこでこのサービスが作られたのだ。
全世界に存在する(と言っておきながら、ソマリ人が少ない日本にはエージェントはないが、)この会社のエージェントに送金先を指定して入金すると、送金先では数分以内に入金された額を引き出すことができる。アフリカの謎の国が必要に迫られて始めた、意外な先進的ビジネスの1つだ。
この会社のエージェントが、インドではただ一箇所、ムンバイにある。ここでビザ取得の手続きを済ませてしまう手はずだったのだが、結論から言うと、これはうまく行かなかった。
ムンバイに着いた後、ダハブシールのHPにあるエージェント一覧の住所に向かったのだが、会社自体が既に存在しなかったのである。そこでこの件については、次の目的地で同じくエージェントがいくつもあるアラブ首長国連邦で処理することにした。
というわけで、これ以降は、純粋にムンバイについて書いていこう。

「おおっ、ここは…」
ムンバイの空港に降り立ってみると、そこには燦々と陽光が照りつける、明るい大都会が広がっていた。今までのニューデリーからジャイプールまでは何となく曇りがちだったのに、ムンバイはからりと晴れ上がっていて、路上に植えられたヤシの木が、南国の風情を演出している。フィリピンや今まで通ってきた東南アジアの町並みを思い出す暖かさだ。
宿に着くと、暖かくて靴と靴下を履く必要が無くなったので、中国に入って以降しばらくバックパックの底に眠っていたサンダルを取り出して、再びTシャツ・短パン、サンダル履きの典型的バックパッカーの出で立ちになった。
宿は空港の北、街の中心部からは外れた住宅地の奥まった一角にある白人宿で、インドの、しかもムンバイのような大都会にしては、閑静な場所にあった。
「さ、後はフリーだよ。自由にエンジョイしてくれ」
必要書類を書くと、宿のスタッフは笑顔でそう言った。
私は、地図を見ながら、現在地と行きたい場所の位置関係を確かめてみた。ゲートウェイ・オブ・インディア、フローラの泉、カフェ・レオポルド、ヴィクトリアスターミナル駅、ガンディーの住まいetc…。すると、こうした場所は意外に遠いことがわかった。こうした地点のほとんどはおもにムンバイが所在する半島の最南端、フォート地区と呼ばれる一角にあり、空港の北にある宿からは直線距離にしておよそ20kmも離れているのである。インド亜大陸は大きいので、地図でちょっと見るとそんなに遠くないように錯覚するが、まったく違う…。タクシーなど使ったら、悪辣なドライバーにとんでもない額を請求されて揉めるに決まっている。
そこで「ねえ、フォート地区まで、どう行ったらいいかな」とスタッフに聞いてみると、
「そうだな。ここからなら、リクシャーでアンドヘーリ駅まで行って、列車でチャーチゲート駅まで行けばいいよ」
という答えが返って来たので、宿でしばらく休憩した後、私はそれに従ってフォート地区を目指してみることにした。

オートリクシャーは、その名の通りオートバイに黒と黄色の配色の客車を取り付けたバイクタクシーの一種で、フィリピンのトライシクルや、タイのトゥクトゥクに相当する乗り物であった。私は大通りに出ると手頃なオートリクシャーを捕まえて、アンドヘーリ駅まで向かうように頼んだ(オートリクシャーにはメーターが付いているものもあったけれど、面倒くさいのかボリたいのか知らないがあまりメーターは使わないらしく、やっぱり交渉制だった。値段はボッタクリというほどでもなかったので問題なかったが)。
「…こ、これは…」
リクシャーに乗って数分して、私はムンバイの交通事情が、アーグラや衝突事故に遭ったジャイプールよりも更にひどいことに気がついた。
大量の自動車やオートリクシャーが、うんうんと唸りをあげながら、車間距離を恐ろしいほど詰めて走っているのだ。距離は1mなんてものではない。50cm、30cm、10cm…右にも左にも前にも後ろにも、手が届く(届きそうなではなく、届く)距離にまで、車が近づいてくる。
にも関わらず、運ちゃん達は勢い良く発進して、ぶつかるかぶつからないか、その限界寸前のところで器用に停まる。まるで、互いにセンサーを装備していて、ぎりぎりの距離で自動的に停止しているかのような、達人級の曲芸だ。
私はというと、そんな芸当に感心するどころか、生命の危険を感じていた。
この連中、何だってこんなに距離を詰めたがるんだ。そりゃあ、ムンバイはとてつもない大都会で、インドは煮えたぎったヤカンの底みたいにものすごく忙しくてアツいところなのかもしれないが、そんなに車間距離詰めることないじゃないか。あんたらの誰か一人がほんのちょっとアクセルかブレーキ踏み損ねただけでぶつかるんだぞ。あんたら本当に免許持ってんの? それともチキンレースみたいに、よりギリギリまで詰めた方が男らしくてカッコいいとか、そういう奇習かなんかあるわけ? どうかしてるんじゃないのか?
フィリピンに居た時も、トライシクルにはよく乗っていたが、その語学学校には夜間のトライシクル禁止という規則があった。
何かあったら向こうの大学の責任になるだろうから仕方ないのだろうけど、心配性だなまったく、別に危なくなんかないのに、などとその頃は内心思っていたわけだが、これはそんなレベルではなかった。ここに語学学校があったとして、オートリクシャー禁止の規則があったとしても私は何の疑問も抱かないと思う。
正直、ものすごく怖い。
私は、真面目に手の届く距離まで接近したり、急発進したり急停車したりするオートリクシャーの中で、ビクビクしながらひたすらぶつかりませんようにと祈っていた。

結局、オートリクシャーは問題なくアンドヘーリ駅まで辿り着いた。私は切符を買うと、列車を待つまでの間に、カバンに財布や携帯電話を放り込み、いつでも使えるようにと用意していたナンバーロック式の南京錠をカバンのチャックに取り付けて、前に背負った。悪名高いインドの列車の噂はすでに耳にしている。ここは泥棒やスリにも注意しなければ…。
前の列車が出たすぐ後に来たためか、私は列の最前列になり、後ろには沢山のインド人が列?…否、列らしき人混みを形成した。やがて数分経って、列車がガタンゴトンと音を立ててプラットフォームに進入してきた時に、それは始まった。
(な、なんだ?)
進入してきた列車が止まる前から、既に数人の男たちが、列車のドアから飛び降り、更には列車に飛び乗り始めている。その様子にあっけに取られていると、
「ウオオオオオオオオオオオオーーーーーッッッ!!」
突然、怒号とともに前に押された。男たちはまるで喧嘩神輿を担いでいるかのように、怒声をぶちまけながら、奥へ奥へと身体をねじ込もうと必死だ。列などもう関係ない。完全に停車している必要もない。乗れるまで減速しているのだから乗らねばならないのだ!
(これは…気圧されている場合じゃない!!)
もう、流れに乗るしかない。インド人の津波の一部になって、前に居る連中を押し、押されながら内側にめり込んでいくしかない。ドアは? ドアはない。正確にはあることはあるようだが、一人でも多く詰め込むためだろう、走行中も常に全て開けっ放しにしているようだ。のんびりしていたら、危険なドアの手前で、振り落とされないようにどこかにしがみつづけるしかなくなってしまう。先に奥に潜り込めたほうが勝ちだ!
「オオオオオオーーーーーッ!!」
やがて人々は、熱気とともに列車にパンパンに詰め込まれ、列車は何事もなかったかのようにまた走りはじめた。これがインド。インドの、怒涛のように押し寄せ、岩をも砕く波濤のごときローカルトレイン、人命や安全をとことんまで切り詰めた、究極なまでに危険な鉄道の姿だった。
地獄のような人混みに押しつぶされそうになりながら、私はフォート地区に向かった。この時くらい、東京で大混雑した地下鉄に乗っておいてよかったと思ったこともないと思う。

なお、2008年のムンバイのローカルトレインでは、1日に平均17人が、何らかの事故により死亡している…。

2013年1月23日水曜日

衝突事故(インド連邦・ジャイプール、第55〜56日目)

次の日の朝、アーグラを離れた車は、一路ジャイプールに向かった。


赤い城壁に囲まれたジャイプールは、別名を「ピンク・シティー」という。あちこちの建物にピンクの塗装を施していることから付いたあだ名だが、これは1876年にイギリスのヴィクトリア女王がこの地を訪問した際、建物の色をピンクに塗装したことから、伝統的にピンク色の塗装をするようになったのだという(むろん、何から何までピンクだらけの町並みというわけではないし、ピンクもショッキングピンクのようなケバケバしいものではなく、穏やかな色合いだ)。
地図上でアーグラとジャイプールを見ると大して離れていないように感じるが、実際には200km以上も離れている。インド亜大陸の広大さを否が応でも認識させられる。

途中の観光客向けの立派なレストランで昼食を取って、そこからまたジャイプールを目指して走った。目的地であるジャイプールに入ったのは、陽も傾きはじめた夕方になってからだった。
「ジャイプールではどこに行きたい?」
と運転手の兄さんに聞かれて、「そうだなぁ。やっぱりジャイプールといえば、シティパレスに…」
「モンキーテンプルという場所があるよ。まずはそこに行ってみよう」
「モンキーテンプル?」
「サルがいっぱいいるんだ」
そういえば、インドでは妙に猿も沢山居るように感じていた。インドの動物と言えば勿論牛だが、牛以外にも色々な動物がウロウロしている。猿以外では、リス、山羊、イノシシ(野生の豚?)、そして犬が特に多いようだ。リスや猿は観光地だけでなく街中にも住み着いているようで、アーグラの街中でも、遠くのビルの屋上を猿がぶらぶらと歩いているのを目にしていた。
話は逸れるが、意外なことにインド滞在中にネコの姿はほとんど見かけなかった。野良犬があちこちに寝転がっているのだから、野良猫もあちこちに転がっていてもよさそうなものだが、ネコの姿は非常に少ない。そこで運ちゃんに、「インド人はネコが嫌いなの?」と聞くと、
「そんなことはない。インド人はネコが大好きだよ。ネコは家の中でだけ飼ってるんだ」
と彼は答えた。本当なのかどうかわからないが、地面に落ちているものはゴミを除くと犬かインド人かというくらい犬が何処にでも転がっているということを考えると、猫は確かに何らかの特別な扱いを受けているのは間違いないのだろう。
そんなわけで、私は運ちゃんに連れられて、モンキーテンプルに向かった。

モンキーテンプルとは、小高い山の麓に作られたヒンドゥー教の寺院で、その名の通り、寺院全体がサルの群れの棲家となっている場所である。正式名称は「ガルタージ(Galtaji)」という。


ここには文字通り凄まじい数のサルが生息しているが、何よりもこの地のサルが特徴的なのは、人間と生活空間を共有しているためか、他の場所のサルのように、人間が近づいてきてもいちいち威嚇したり逃げたりせず、無関心を貫いていることであった。50cm程度まで近づいてもこちらは見向きもされず、面倒くさそうに脇に避けられるだけである。まるで、動物園の猿山の中に、自分だけが突然放り込まれたようだ。


山頂を目指して登って行くと、サル達が怒声を挙げながら、一箇所に走っていく場面に出くわした。何事が起こったのかと自分もその群衆の中に混じって騒ぎを観察すると、寺院の隅で、一匹の強面のサルがもう一匹の首筋に噛み付き、屈服させているところだった。


その他のサルたちもまた、その周囲でキーキーと喧しくがなり立てながら、その様子を見守っている。やがて、強面のサルがもう一匹を放すと、それは慌てた様子で山頂へ向かう階段を駆け上がって行き、他のサルたちもそれを追いかけるように、山頂の方向に走り去っていった。
つい1分ほど前まで怒号の渦中にあった寺院の一角は、あっという間に何事もなかったかのように静まり返り、部外者の私だけがそこに取り残された。

山頂にたどり着くと、そこにはジャイプールの町並みを見下ろすように、小さな祠と、それを守る管理人の家が建っていた。初老の男性に招き入れられて中に入ると、彼は祠の錠を外して扉を開き、そこに祀られている二体のヒンドゥー教の神様の像を私に見せてくれた。


神様の名前は何と言ったか忘れてしまったが、何でもこの神様は夫婦なのだという。どんないわれのある神様か分からないけれど、きっとジャイプールを守る神様なのだろう。何やらギョロ目をした、穏やかな顔のような妖怪の顔のような、不思議な神様の像だった。
小高い山の上から見下ろすジャイプールは、ニューデリーにも負けないような大きな街だった。暮れなずむ空の下で、街が霧で霞んだ地平線の先まで続いている。
なんだか不思議な光景だった。眼下では、車や人が忙しそうに往来しているのに、夕焼けに溶け込んでいく町並みには、奇妙なほど穏やかな空機が流れていた。
それは、普段のインドのイメージとは一味違った、インドのもう一つの表情であったのかもしれない。


麓の寺院にまで降りていく途中、サル達が麓に向かって一斉に走り出していく様子を見た。
(何か麓であるのかな…)
と、彼らの様子を見に下まで降りて行くと、サル達の飼育員らしい数人の男たちが、ダンボールに入ったバナナの山をサル達に振舞っているところが目に飛び込んできた。
猿山全てのサルが総結集したのだろう、軽く百匹以上のサルが、飼育員たちを取り囲んでおり、彼らを追いかけていった私もまた、いつの間にかサル達の群れのど真ん中に放り込まれていた。


飼育員たちがバナナを放り投げると、そこに向かって一斉にサル達が殺到する。押し合い圧し合い奪い合い、バナナを手にしようとサル達は必死になって競い合っている。ある者は真っ先にバナナを手にしようというのか、飼育員たちの足にしがみついてみたり、またある者は他のサルから強引に奪いとろうとしたり、まだバナナがないのかと、カラのダンボール箱を引っ掻き回してみたりしている。
中にはどこから来たのか、白黒の毛の大柄なハヌマンラングールらしいサルまで現れて、他のサルたちを圧倒してバナナを奪い取っている。


仔猿が私の方を見つめていたので見つめ返してみると、母猿が仔猿を片手で後ろに庇い、私を威嚇してきた。そんな様子を見ていると、猿も人間と変わらないなと思ったりもする。
猿の群れの向こう側には、今から山頂へ向かおうとする数人の年配の白人女性の姿があったが、あまりにも数が多いのに危険を感じたのか、歩みを止めてポカンとこちらを見ていた。
この寺院は、まるで人間の社会の縮図だ。

次の日の昼間は、ジャイプールの郊外にあるアンベール城や、シティ・パレスを見物して過ごした。アンベール城には、中国の万里の長城を思わせる城壁や、山頂に美しい空中庭園があった。


その日の夜になって、事件は起こった。
「今日の晩飯はどうする? 昨日のところでいいかい? それとも別の場所にしようか?」
「そうだなぁ…」
その日の行程を終えた私と運ちゃんの車は、夕食のレストランに向かおうと、ホテルの近所にある交差点で右折待ちをしているところだった。
「じゃあ、今日は…」
別のレストランを紹介してくれ、と言おうとした時、ガゴン、という鈍い音と共に、車に軽い衝撃が走って、運ちゃんはブレーキを踏み込んだ。
「な、なんだ?」
見ると、我々の車のそばで、倒れた原付を起こそうとしている二人組のインド人女性の姿があった。女性たち二人は、しまった、というような顔で私達を見ている。
「やりやがった!」
と、運ちゃんは運転席のドアを開けて、女性二人に何かを言おうとした。ところがその時、どこから現れたのか、突然二人組の警察官が姿を見せた。
二人組の警察官は口に咥えたホイッスルを鳴らしながら、運ちゃんに向かって「降りろ」というような手振りを示した。
運ちゃんは渋面を浮かべて車を車道の脇に寄せると、警察官の手招きに従って、交差点の反対側の方へと歩いて行った。
事故、事故だ。今更ながら、自分たちがトラブルに巻き込まれたことが実感として分かった。しかし、事故と言ったって、自分たちの車が右折をしようと停まっていたところに、二人組のバイクが勝手に突っ込んできたのだ。悪いのはあの二人組で、こちらに責任はない。
そうは思ったが、運ちゃんがなかなか戻ってこないので、私は心配になって車から降りて交差点の反対側の様子を見ていた。すると、見ず知らずの野次馬の男性二人が現れて、
「君のドライバーはベリーグッドだ。心配するな」
と言うのだ。何がベリーグッドなのかさっぱり分からないけれど、とにかく待つしかない。車に戻ってしばらく待っていると、やがて怒った様子の運ちゃんが戻ってきた。
「くそっ!」
「一体どうしたんだ?」
運ちゃんにそう聞くと、驚くべき答えが返って来た。
「警官どもに金を要求されたんだよ!」
「なんだって? どうして? それでどうしたんだ?」
「金なんか無いって言って払わなかったよ!」
「あのバイクの二人組は?」
「知らない。奴ら、さっさとどっかに行ってしまったよ!」
それは、実に信じられないインド警察の実態だった。
あの警察官たちは、こちらの車には何の非も無いというのに、こちらの運ちゃんの免許を取り上げるなどといってワイロを要求してきたらしいのだ。
つまり、あの警察官たちは、雁首揃えて現れておきながら、金になりそうな外国人の乗っている私の車にだけ目を付け、金にならないインド人の女二人組は放ったらかしたということである。
しかも、事故が起きてから警察官が登場するのがいやに早いと思ったが、彼らは要所要所の交差点を見張っていて、事故が起きるとすぐに飛んでくるというのだ。交通整理とか、そういうのはおそらくせずに。まるでこれでは、警察官たちのほうが、事故を狙って網を張って待ち構えている蜘蛛みたいだった。彼らの目的は事故の防止だとか交通の秩序を守るということではなく、カネなのだ!
以前一度、フィリピンのセブ島で、同じように私の乗った車の運ちゃんが、悪徳警官にワイロをせびられているところを目撃したことはあるけれど、ここまであからさまな腐敗を見せつけられると、何だか頭がクラクラするような感じがした。この国は、やはり日本では考えられないような混沌と腐敗が支配しているのだ。
怒髪天を衝く勢いで怒る運ちゃんは、そのまま前日と同じレストランに私を降ろした。せっかくだから別のレストランがいい、と言おうとしたけれど、とても言える状況ではなくなってしまった。

とはいえ、私は内心、この国の訳の分からなさが逆に面白く感じ始めていた。
初日から続くインドのヘンテコで奇妙な出来事の数々が、一周して却って面白く感じ始めていたのである。
ジャイプールの次には、いよいよ、インドで最もインパクトの強かった街、ムンバイが私を待ち構えていた。
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