旧市街を探索した翌日、私はパレスチナを訊ねることにした。目的地はヨルダン川西岸地区、エルサレムの南、分離壁の向こう側にある街、ベツレヘムである。
ベツレヘムはイエス・キリストが生誕した場所として知られている。クリスマス・ツリーのてっぺんに飾られている星の名前は「ベツレヘムの星」だし、それと同じ名前のアガサ・クリスティの短編小説もあったりする。
エルサレムからそう遠いわけでもないし、同じパレスチナでもガザ地区などと違って特別危険なわけでもない。パレスチナ初心者にはうってつけの場所だ(と言っても、完全に平穏な街というわけでもない。2002年にもパレスチナ側とイスラエルの間で戦闘が起き、そこに戦闘が起こったことを知らない日本人のカップルがノコノコやってきたというので、ちょっとしたニュースになったことがある)。
ベツレヘムへは、バスで行くのが手っ取り早い。バスはエルサレム旧市街の北側、アラブ門の近くにあるバスターミナルから出発している。私は、前日出向いたヤッファ門から再び旧市街に入り、迷い迷いしながら、アラブ門へと抜けた。
アラブ門の付近は、その名前の通り、アラブ人風の人々が多く露天を並べていて、一種独特の雰囲気を漂わせている界隈だった。あたかも、イスラエルの中のアラブの飛び地のようだ。パレスチナ側に住んでいるパレスチナ人達も、ここに商売をしに来ているのかもしれない。
ベツレヘム行きのバスに乗り込むと、バスの中はアラブ人でいっぱいで、ユダヤ人や白人風の人々の姿は見られなかった。なんだか場違いなところに紛れ込んでしまったようだが、そんなのはソマリランドで既にたっぷり経験済みで、今更ビクビクする必要もない。
バスは旧市街の壁を横目に見ながら、南に向かって進んだ。10分程すると、やがて大地に高い壁がそそり立っているのが見えてきた。
あれが、悪名高いイスラエルの分離壁、アパルトヘイト・ウォールか…。
コンクリート製の壁はどっしりと大地に鎮座していて、思ったよりもずっと背が高い。ビルの3階か4階分くらいはあるのではないか。
それに、思ったよりもずしりとした厚みも備えている。これならば、確かに自動車爆弾やRPGの攻撃を受けても、びくともしないだろう。
バスは分離壁に設けられた検査所の入り口で停まり、降りるように促された。検査所はまるで国境審査のような作りで、通行する人々をチェックしているようだったので、一応パスポートを取り出して用意したが、私が明らかにパレスチナ人ではないためか、女性の検査員はパスポートの中身を確かめることもせず、顎で「行け」と出口を示しただけで、ノーチェックだった。
てっきり、別に検査を受けたバスが出入り口で待ち構えているものと思っていたのだが、実際にはバスは待っておらず、ここで終点だということが分かった。
その代わりに待ち受けていたのは、明らかにアラブ人風のタクシードライバーだった。
「ヘイ! タクシー? タクシー? どこに行く?」
と、一人の運ちゃんが早速しつこく絡んできたが、私はこれまでの経験から、発展途上国のタクシードライバーを全く信用していないことは、今までの国でさんざん触れてきたとおりだ。
「なあ、どこに行く? 英語喋れるか? どこに行くんだ? ハロー?」
と、運ちゃんはしつこく付きまとってきたが、私は一言も口を利かず、見向きもしないことに決めていたので、そのまま無視して歩き続けた。やがて、取り付く島もないと気付いた運ちゃんは、
「街までは5キロもあるんだぞ! 頭おかしいんじゃねえのか!?」
などと喧しくがなり立てていたが、諦めて検査所のほうに戻っていった。
徒歩で歩くことよりも、怪しげなタクシードライバーにその身を委ねることのほうが危険だ。ましてや、初対面で「頭おかしいんじゃねえのか」と言ってくるような運ちゃんでは、乗り込んだが最後、とんでもない額を吹っ掛けてくるに決まっていよう。
ヨーロッパの香りのするイスラエルから一転、壁を通り抜けただけで、一瞬にして文化がアラブ圏に変わったことを、はっきりと実感した。「トンネルを通り抜けたら雪国」どころではない。あまりの違いに、頭がくらくらするような感じがした。
スマホの地図とGPSがあるとはいえ、まったく知らない道を歩くのは不安ではあった。しかし、怪しい連中が屯っているような気配もなかったので、私はとにかく南に向けて進路を取り続けた。道沿いから、分離壁の向こう側、盆地になっているイスラエル側の領土の畑が見える。
スマホの地図に従いながら分離壁沿いの細い路地をずっと歩く。分離壁には、パレスチナ人や、パレスチナ側を支持する外国人たちの手になるストリート・アートがぎっしりと描き込まれていて、その上には、イスラエルとパレスチナの間で起きた様々な出来事を綴った看板が、たくさん掲げられていた。中には、日本人が描いていったものもあった。そう、こういったものが見たかったのだ。タクシーに乗らなかったかいがあった。
それからしばらく歩いて行くと、細い路地が分離壁に阻まれて途切れている場所に出くわした。スマホの地図上では、道がこのまま続いているはずなのに、現実には道がなくなっている。
どうしたことだろうかと、地図を見ながらしばらくそこで考えていた。GPSで現在位置は分かっているから、位置を読み間違えることも無いはずなのだが…。
すると、すぐそばにあった土産物屋の店主らしい男性が店から出てきて、こう言った。
「ここはClosedなんだ。そこの道から行きなさい」
「そうですか。ありがとうございます」
彼に教わった通り、ひたすら歩き続けると、やがて車通りの多い幹線道路と思しき場所に出て、それから小高い丘の斜面に築かれた古い街が姿を現した。ここがベツレヘムか。目指すのは、丘の頂上にある、イエス・キリストが生まれたという生誕教会だ。
街は一見、平穏そうだった。だが、街から離れて郊外の分離壁沿いを歩けば、じきにイスラエル人とパレスチナ人の間で土地を巡って争い事が絶えず起こっていることだろう。
急にトイレに行きたくなったので、近くにあった高級そうなホテルに入ってトイレを借りたところ、トイレのある多目的室のようなホールで、韓国人の大学生らしい集団が、何かの勉強会らしいものを開いているところだった。
韓国人がパレスチナまで来て合宿もないだろうから、たぶん何かのNGOか何かで、パレスチナ支援をしているグループなのかもしれない。一瞬、もしかしてフィリピン時代の知り合いでもいないかと見て回ったけれど、さすがにそんなことはなかった。
一方、韓国人たちも、遠いベツレヘムで自分たちによく似た東洋人がふらりと現れたのがよほど珍しかったのか、ジロジロとこちらを見ていた。
生誕教会の屋根には、赤・オレンジ・群青色のアルメニア国旗が建てられていた。なぜこんなところにアルメニア国旗かというと、アルメニア人がここの管理に関わっているかららしい。聖墳墓教会にもひけをとらない荘厳な教会だったが、イエスが生まれたという穴蔵(2000年も前だから地面に埋まってしまったらしく、教会の地下にあった)を参拝する人々が行列を作っていた。
教会から出て、街中をぶらぶらと歩くと、いくつかの場所で、イスラエルの占領政策に抗議する立て看板や、占領地の現状について書かれた掲示板がいくつかあった。
もちろん、現状としてはイスラエルに生殺与奪権を握られている状態ではあるだろうが、それでもイスラエルに対する抗議や報道ができる自由があるというだけでも、まだ救いがあると思った。世の中には、そんな自由すらないところも珍しくないはずだ。
ひとしきり街を見て回った頃には、すっかり夕暮れ時になってしまった。行きは徒歩で来たことだし、帰りも徒歩で帰ろうかと思っていたのだが、なんとなく薄暗くなってきた町並みを見ていると、さすがに夜に徒歩でうろつくのも嫌だなという気がしてきて、結局タクシーを雇うことにした。タクシーの運ちゃんは、頭に布を巻きつけた典型的なアラブ人風のおじさんである。
「エルサレムのゲートまで行きたい。いくら?」
「そうだな、25シェケルかな」
「じゃあ乗るよ」
そう言って乗り込んだ後で、腹が減っていることに気がついた。エルサレム側に戻ってから食べてもいいが、せっかくパレスチナに来たのだし、何が食えるのかわからないが、パレスチナ側で食事を取ってみたい。
「ゲートの近くにレストランか何かある?」
「あるよ。そこでいいのか?」
「そこに行ってほしい」
そこまでは問題なかった。ところがタクシーがゲートに近づいてきた頃、運ちゃんが「これが分離壁だ。どうだ、写真を撮っていけ」と言い始めた。
「いや、写真はもう撮ったからいいんだよ」
「まあ、そう言わずに…」
「いや、いい」
こういうのにいちいち応じていたらきりがない。
タクシーがゲートの近くにあるレストランに着いても、運ちゃんはまだなんだかんだと言って、私を「ツアー」に連れて行こうとし、運賃のお釣りをなかなか出そうとしなかったので、「いいから俺はここで降りるんだ。15シェケル、早く返してくれ」と矢のように催促して、渋る運ちゃんからようやくお釣りを奪い取って、レストランに入った。
実は、何のレストランかよく確かめていなかったのだが、そこはステーキレストランだった。分離壁とは、道路一本挟んですぐ向かいに建っている。
なんと、分離壁をスクリーン替わりにして、何かの歌手のPVらしきものを放送していた。客は殆ど居なかったが、頼んだTボーンステーキは旨味のこもった肉汁たっぷりで、歯ごたえも十分な、実に美味しい逸品だった。
まさかパレスチナで、こんなうまいTボーンステーキを食べることになるとは…。
パレスチナの人々は、イスラエルに圧迫されながらも、逞しく生きているようであった。自分たちの自由な往来を無情に阻む分離壁さえも、映画のスクリーンにしてしまう逞しさ。
あの土産物屋の店主も、圧倒的なスケールで立ちはだかり、道を閉ざす分離壁を前にして、「道がない」とは言わず、ただ、「Closed(閉鎖中)」だと語った。
彼は、おそらくこの分離壁が作られる前の道を知っているはずだ。そして、決してこの道はなくなったわけではなく、ただ「閉鎖しているだけで、いつかきっと開く時がくる」と、そう言っているのだろう。彼の何気ない「Closed」という一言には、そんな重みが潜んでいるはずだ。
毎日ボッタクリに勤しんでいるだろうあのタクシードライバーたちも、よく言えば逞しく生きている人々なのだ。
私はいろいろなことを考えながら、分離壁を超えて、再びエルサレムに戻った。街は再び、アラブからヨーロッパ風に姿を変えた。
私はイスラエルとパレスチナ、ユダヤ教徒とイスラム教徒の対立に口を挟む資格はないけれど、次に来ることがあれば、もっと色々なイスラエルとパレスチナの街を見て、知りたいと思った。