2013年2月4日月曜日

混沌の街・1(インド連邦・ムンバイ、第57~59日目)

朝方早く、私は運ちゃんと共にジャイプールの空港に向かった。
まる三日間私に付き合ってくれた運ちゃんとは、ここでお別れである。はじめ彼と出会ったのが例の怪しい旅行会社ということもあり、正直あまり彼の事も知りたいとは思っていなかったが、話しているうちに彼は単なる下請けの別の会社のドライバーであって、あの旅行会社の社員ではなく、単なる女の子好きの兄ちゃんだったと分かって、少し気が楽になった。
「来年は彼女と結婚するかもしれない。まだわからないけど」
「この仕事(ドライバー)は危ないから、そろそろ辞めたいと思ってる。出来ればイギリスに行って働きたいんだけどな…」
彼はそう言っていた。
Facebookのアカウントを交換すると、私は彼にチップを渡し、別れを告げて空港に入った。
ジャイプールの空港を離陸した飛行機は、一路南に向かった。一時はシンガポールまで南下し、その後トルファン・ウルムチまで北上したすえ、私は再び、南国に戻ってきたのである。

ムンバイは、英領インド帝国時代からの伝統ある大都市だ。インド全土で四本の指に入る巨大な人口を擁し、政治の中心地であるニューデリーに対し、中国でいえば上海に相当する経済の中心地として発展してきた街だ。それだけに、ヴァーラーナスィーのような「聖地」に対して、言うなればインドの「俗地」の極北といえる街であろう。
なぜ、無数のインドの都市の中からこの街を特に選んだか。その目的は大きく分けて2つである。
1つは、以前読んだバックパッカーに人気の小説「シャンタラム」の舞台となったムンバイを見たかった事。
そしてもう1つは、後ほど訪問することになるアフリカ・ソマリランドのビザを入手するため、当地にあるソマリランドの会社ダハブシール(Dahabshiil)のエージェントを通じて、ソマリランドのホテルにビザ取得代行料を支払う事であった。
ムンバイと「シャンタラム」の事は後述するとして、この2つ目の目的・ダハブシールのことについて簡単に説明すると、これはソマリア北部の旧イギリス領ソマリアで独自の国家を建設し、ソマリア連邦からの一方的独立を宣言したソマリランド共和国の難民たちのために始められた、送金サービスを行なっている会社である。
内戦でソマリランドを追われたソマリ人たちは、難民となってアメリカやヨーロッパなど世界各地に散らばったが、彼らはそこで稼いだ資金を、「祖国」ソマリランドに送金する必要があった。しかし、世界に認められていない祖国に宛てて、安全確実に送金する手立てがなかった。そこでこのサービスが作られたのだ。
全世界に存在する(と言っておきながら、ソマリ人が少ない日本にはエージェントはないが、)この会社のエージェントに送金先を指定して入金すると、送金先では数分以内に入金された額を引き出すことができる。アフリカの謎の国が必要に迫られて始めた、意外な先進的ビジネスの1つだ。
この会社のエージェントが、インドではただ一箇所、ムンバイにある。ここでビザ取得の手続きを済ませてしまう手はずだったのだが、結論から言うと、これはうまく行かなかった。
ムンバイに着いた後、ダハブシールのHPにあるエージェント一覧の住所に向かったのだが、会社自体が既に存在しなかったのである。そこでこの件については、次の目的地で同じくエージェントがいくつもあるアラブ首長国連邦で処理することにした。
というわけで、これ以降は、純粋にムンバイについて書いていこう。

「おおっ、ここは…」
ムンバイの空港に降り立ってみると、そこには燦々と陽光が照りつける、明るい大都会が広がっていた。今までのニューデリーからジャイプールまでは何となく曇りがちだったのに、ムンバイはからりと晴れ上がっていて、路上に植えられたヤシの木が、南国の風情を演出している。フィリピンや今まで通ってきた東南アジアの町並みを思い出す暖かさだ。
宿に着くと、暖かくて靴と靴下を履く必要が無くなったので、中国に入って以降しばらくバックパックの底に眠っていたサンダルを取り出して、再びTシャツ・短パン、サンダル履きの典型的バックパッカーの出で立ちになった。
宿は空港の北、街の中心部からは外れた住宅地の奥まった一角にある白人宿で、インドの、しかもムンバイのような大都会にしては、閑静な場所にあった。
「さ、後はフリーだよ。自由にエンジョイしてくれ」
必要書類を書くと、宿のスタッフは笑顔でそう言った。
私は、地図を見ながら、現在地と行きたい場所の位置関係を確かめてみた。ゲートウェイ・オブ・インディア、フローラの泉、カフェ・レオポルド、ヴィクトリアスターミナル駅、ガンディーの住まいetc…。すると、こうした場所は意外に遠いことがわかった。こうした地点のほとんどはおもにムンバイが所在する半島の最南端、フォート地区と呼ばれる一角にあり、空港の北にある宿からは直線距離にしておよそ20kmも離れているのである。インド亜大陸は大きいので、地図でちょっと見るとそんなに遠くないように錯覚するが、まったく違う…。タクシーなど使ったら、悪辣なドライバーにとんでもない額を請求されて揉めるに決まっている。
そこで「ねえ、フォート地区まで、どう行ったらいいかな」とスタッフに聞いてみると、
「そうだな。ここからなら、リクシャーでアンドヘーリ駅まで行って、列車でチャーチゲート駅まで行けばいいよ」
という答えが返って来たので、宿でしばらく休憩した後、私はそれに従ってフォート地区を目指してみることにした。

オートリクシャーは、その名の通りオートバイに黒と黄色の配色の客車を取り付けたバイクタクシーの一種で、フィリピンのトライシクルや、タイのトゥクトゥクに相当する乗り物であった。私は大通りに出ると手頃なオートリクシャーを捕まえて、アンドヘーリ駅まで向かうように頼んだ(オートリクシャーにはメーターが付いているものもあったけれど、面倒くさいのかボリたいのか知らないがあまりメーターは使わないらしく、やっぱり交渉制だった。値段はボッタクリというほどでもなかったので問題なかったが)。
「…こ、これは…」
リクシャーに乗って数分して、私はムンバイの交通事情が、アーグラや衝突事故に遭ったジャイプールよりも更にひどいことに気がついた。
大量の自動車やオートリクシャーが、うんうんと唸りをあげながら、車間距離を恐ろしいほど詰めて走っているのだ。距離は1mなんてものではない。50cm、30cm、10cm…右にも左にも前にも後ろにも、手が届く(届きそうなではなく、届く)距離にまで、車が近づいてくる。
にも関わらず、運ちゃん達は勢い良く発進して、ぶつかるかぶつからないか、その限界寸前のところで器用に停まる。まるで、互いにセンサーを装備していて、ぎりぎりの距離で自動的に停止しているかのような、達人級の曲芸だ。
私はというと、そんな芸当に感心するどころか、生命の危険を感じていた。
この連中、何だってこんなに距離を詰めたがるんだ。そりゃあ、ムンバイはとてつもない大都会で、インドは煮えたぎったヤカンの底みたいにものすごく忙しくてアツいところなのかもしれないが、そんなに車間距離詰めることないじゃないか。あんたらの誰か一人がほんのちょっとアクセルかブレーキ踏み損ねただけでぶつかるんだぞ。あんたら本当に免許持ってんの? それともチキンレースみたいに、よりギリギリまで詰めた方が男らしくてカッコいいとか、そういう奇習かなんかあるわけ? どうかしてるんじゃないのか?
フィリピンに居た時も、トライシクルにはよく乗っていたが、その語学学校には夜間のトライシクル禁止という規則があった。
何かあったら向こうの大学の責任になるだろうから仕方ないのだろうけど、心配性だなまったく、別に危なくなんかないのに、などとその頃は内心思っていたわけだが、これはそんなレベルではなかった。ここに語学学校があったとして、オートリクシャー禁止の規則があったとしても私は何の疑問も抱かないと思う。
正直、ものすごく怖い。
私は、真面目に手の届く距離まで接近したり、急発進したり急停車したりするオートリクシャーの中で、ビクビクしながらひたすらぶつかりませんようにと祈っていた。

結局、オートリクシャーは問題なくアンドヘーリ駅まで辿り着いた。私は切符を買うと、列車を待つまでの間に、カバンに財布や携帯電話を放り込み、いつでも使えるようにと用意していたナンバーロック式の南京錠をカバンのチャックに取り付けて、前に背負った。悪名高いインドの列車の噂はすでに耳にしている。ここは泥棒やスリにも注意しなければ…。
前の列車が出たすぐ後に来たためか、私は列の最前列になり、後ろには沢山のインド人が列?…否、列らしき人混みを形成した。やがて数分経って、列車がガタンゴトンと音を立ててプラットフォームに進入してきた時に、それは始まった。
(な、なんだ?)
進入してきた列車が止まる前から、既に数人の男たちが、列車のドアから飛び降り、更には列車に飛び乗り始めている。その様子にあっけに取られていると、
「ウオオオオオオオオオオオオーーーーーッッッ!!」
突然、怒号とともに前に押された。男たちはまるで喧嘩神輿を担いでいるかのように、怒声をぶちまけながら、奥へ奥へと身体をねじ込もうと必死だ。列などもう関係ない。完全に停車している必要もない。乗れるまで減速しているのだから乗らねばならないのだ!
(これは…気圧されている場合じゃない!!)
もう、流れに乗るしかない。インド人の津波の一部になって、前に居る連中を押し、押されながら内側にめり込んでいくしかない。ドアは? ドアはない。正確にはあることはあるようだが、一人でも多く詰め込むためだろう、走行中も常に全て開けっ放しにしているようだ。のんびりしていたら、危険なドアの手前で、振り落とされないようにどこかにしがみつづけるしかなくなってしまう。先に奥に潜り込めたほうが勝ちだ!
「オオオオオオーーーーーッ!!」
やがて人々は、熱気とともに列車にパンパンに詰め込まれ、列車は何事もなかったかのようにまた走りはじめた。これがインド。インドの、怒涛のように押し寄せ、岩をも砕く波濤のごときローカルトレイン、人命や安全をとことんまで切り詰めた、究極なまでに危険な鉄道の姿だった。
地獄のような人混みに押しつぶされそうになりながら、私はフォート地区に向かった。この時くらい、東京で大混雑した地下鉄に乗っておいてよかったと思ったこともないと思う。

なお、2008年のムンバイのローカルトレインでは、1日に平均17人が、何らかの事故により死亡している…。

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