2013年6月3日月曜日

分断された聖地・2(イスラエル・テルアビブ&エルサレム、80〜86日目)

ようやく宿にありついたその翌朝、私は早くもテルアビブを離れて、聖地エルサレムに向かった。エルサレムへはバスがあったが、今回は列車に乗って行ってみることにした。
宿の近くのバス停からバスに乗り、駅で切符を買ってテルアビブへ。駅ナカで売っている焼きたてのプレッツェルとコーヒーが、良い香りを放っていた。

列車は郊外に出ると、やがて山がちな荒野に分け入って行った。山の斜面斜面に、人々の暮らす農村があった。
曇天の空の下にみえる家々はどこか無骨で荒々しく、装飾的な気配は微塵もない。それは、厳しい環境で荒野を切り拓いてきた人々の気質を表しているようでもある。
列車は一時間後、終着駅であるテルアビブの郊外の駅で停まった。


駅を降りてすぐ、軍用のM16系のアサルトライフルをぶら下げたイスラエル軍の兵士たちの姿を見かけた。バカでかいリュックを背中に背負ってバスを待っているところを見ると、休暇でこれから地元に帰るところなのか、あるいは休暇を終えてこれから任地に戻るところなのだろう。男性も女性も居るが、みな精悍な顔つきをしている。
こんなふうにアサルトライフルを街中で自然にぶら下げているにも関わらず、廻りの誰も気にも止めていない辺りが、イスラエルのお国柄だ。いつどこで銃が必要になるか分からない。それを、国民の誰もが承知し、納得している。こんな風景は、銃社会のアメリカやソマリランドでもそうそうお目にかからないだろう。ましてや日本で自衛隊員が同じ事をやったら、どこかの市民団体が騒ぎ立てて、翌日の朝日新聞あたりの三面を飾るだろう。


ようやく辿り着いたホステルの壁には、“アブラハムは最初のバックパッカーだったのさ”と、書いてあった。なるほど、由緒ある聖地はジョークも知的だ。
その日の夜は嵐が起こり、強風と大雪が降った。つい10日前まで、ソマリランドのビーチで海水浴したとはとても思えない変わりようだ。この異常気象の嵐はイラクやシリア、トルコなどの中東一帯を巻き込み、死者も出たそうだ。

翌日はよく晴れたので、テルアビブの旧市街に向かって、街をのんびりと歩いてみた。


それにしても、ここは明らかに『ヨーロッパ』だよなぁ。
テルアビブの街は、『古都』という当初のイメージとは少し違って、現代的な雰囲気の漂う都会だった。小雪のちらつく中、宿を目指して歩き続けてみると、街の雰囲気が少し分かった。うまく説明はできないが、街は明らかにアラブ風ではなく、ヨーロッパに近い。ただヨーロッパといっても、フランスやイタリア、ドイツのような西欧の街の雰囲気ではなくて、(行ったことはないけれど)戦前の東欧の街を復元するとこんなだろうか、というような感じだ。

街をそぞろ歩く人々も、超正統派のユダヤ教徒の男性(全身黒いスーツでヒゲを伸ばしている)や、キッパー(ユダヤ教徒が被る丸い帽子)を被った男性、どちらかと言えばアラブ人に近いような顔立ちも人も歩いているにはいるが、全体的に見ると、やはり白人が多いようだ。
単に街を歩いている人だけを見てここはどこだ、と聞かれたら、移民の多いヨーロッパのどこかの街、と答えてしまうかもしれない。
そうこうしながら市電の走る坂を下って行くと、いよいよ旧市街を囲む壁が見えてきた。壁は砂岩か何かで出来ているのか、淡いクリーム色だ。ここまで近づいてくると、さすがにヨーロッパ的なイメージは薄れて、沙漠に佇む古代の中東の雰囲気が漂ってくるが、昨日の大吹雪で薄く雪化粧されているのが面白い。
この壁の内側に、多くの宗教の聖地があるのだ…。市電の線路を外れて、私はヤッフォ門に向けて歩いた。

(ん?)

そういえば、と気づいた。
手持ちの地図に、街を横切るように線が引いてあって、ちょうどその上辺りに立っている。確か、このあたりから東エルサレム、つまりヨルダン川西岸地区、もっとハッキリ言えばパレスチナのはずだ。
けど、それを表すようなものは何かあっただろうか? ─ない。街に何か境界線を示すような代物は見られないのだ。
なるほど、イスラエルが東エルサレムを手放したがらないわけだ。誰だって、一度手に入れてしまったものを、ホイホイと隣の敵対的な人々に引き渡したいと思うわけがない。しかも、東エルサレム側には、エルサレム旧市街もある。イスラエルにとって、エルサレムの領有はいわば既成事実なのだ。


ヤッフォ門から中に入ると、決して手広くない壁の中に、所狭しと建物が犇めき、その身を寄せ合う古い町並みがあった。その隙間隙間を、まるで蜘蛛の巣の網目のように、細い路地が張り巡らされ、その両脇に土産物屋がびっしりと並んでいる。なんだか、エジプトの市場あたりに、雰囲気が少し似ているような気がする。
ちなみに、エルサレム旧市街は、おおまかにムスリム地区、キリスト教徒地区、ユダヤ教徒地区、アルメニア人地区の四つの区画に別れていて、それぞれの教徒が住み分けているそうだ。イスラエルはユダヤ人(=ユダヤ教徒)の国で、アラブ人やイスラム教徒は敵というイメージがあるが、正確にはアラブ人もイスラム教徒も居ることには居る。そもそも、イスラム教徒にとってもこの街は聖地であって、イスラエルがエルサレムを占領する前はアラブ人がここを管理していた。

細い路地を練り歩いて、聖墳墓教会を目指した。ここは、イエス・キリストが亡くなったとされる場所で、キリスト教徒最大の聖地の一つだ。
聖墳墓教会に足を踏み入れると、荘厳な聖堂の内部には、しんとした、清冽な空気が漂っていた。別にキリスト教徒でもなんでもないけれど、思わず姿勢を正したくなるような気配だ。聖堂の中心部に、もう一つ小さな祠があって、その入口に行列が出来ている。この中が、キリストの墓だ。
行列に並んで、静かに、祠の奥に分け入っていった。誰もが、神妙な面持ちで、一言も喋らずに行列を成している。カメラで中を撮ろうかと思ったけれど、とてもそんなことが出来る雰囲気ではなかったので、カメラを納めて、自分もじっと並んだ。
しばらくすると、自分の順番が来て、他の参拝者二人と共に祠の最奥部に入った。
祠の最奥部は、大人三人がしゃがまないと入れないほどのごく小さな部屋で、そこには、蝋燭の淡い光に照らされた、石棺が佇んでいる。石棺はいやにツルツルになっていて、この石棺が長い年月の間に多くの人に触れられ続けたであろうことを偲ばせていた。


キリスト教徒らしい白人の他の二人は、十字を胸元で切りながら、祈りを捧げていた。自分はキリスト教徒ではないから、十字を切るのは却って変だと思ったから、十字は切らず、ただ日本風に手を合わせて、それから石棺に触れて、無言で祈ってみることにした。これからの旅路の無事と、旅を終えた後によりよい人生が送れるようにと祈ってみた。
そういうことを祈るところなのか、他の二人は何を祈っているのか、さっぱり判らなかったが、一神教の神様と言うのはおしなべてアガペーに満ちているものだし、何より極東の遥か彼方から旅をしてきたのだから、それくらい神頼みしたって差し支えないだろう、などと思った。

「おい! 止まってないで早く出てくれ!」

外から、そんなことを言うオッサンの声がした。どこにでも、気忙しくてうるさい人は居るものだ。いくばくか興ざめしながら、三人はそそくさと外に出た。


聖墳墓教会を出てから、迷い迷い、嘆きの壁を目指した。都市計画など無かったであろう古代から続く町並みは、迷路のように入り組んでいて分かり辛い。それでもなんとか、嘆きの壁にたどり着いた。
空港の保安検査ゲートのような金属探知機を通って、階段を降りて嘆きの壁に近づく。
嘆きの壁に、頭のこすりつけるようにして、黒尽くめの超正統派ユダヤ教徒達が祈りを捧げている。壁に近づいてみると、砂岩で出来た壁の、ちょうど人間の頭ぐらいの高さの場所が、灰色の帯のように変色し、表面がつるつるになっていた。聖墳墓教会の石棺と同じように、長い年月の間に人々が込めた祈りの痕だ。


壁を形作る石の隙間隙間には、何かの紙がビッシリと挟み込まれていた。多くの人が願いを記して挟んでいった紙なのだという。なんだか、正月の神社のおみくじみたいだ。人間の発想って、やっぱりどこか似ているのかもしれない。
その後、嘆きの壁の左手に、天井がアーチ状になった礼拝所があったので、そこにも入り込んでみた。礼拝所の中では、何十人、何百人ものユダヤ教徒の男たちが、大人も子供も入れ乱れて、一心不乱に祈りを捧げていた。
ユダヤ教の祈り方は独特で、お辞儀をするように、ひたすら前に後ろに振りながら、祈りの句を口ずさむ。何十人、何百人もの人が、それをしている様子は、何とも言えない不思議な光景だ。甚だ不謹慎だが、オウム真理教の修行を連想してしまって、何とも言えず自分の貧困な知識が虚しくなってしまい、写真も撮らずに外に出た。もともと気が小さいし、宗教的な場所であまり写真を無遠慮にバシャバシャ撮るのも気が引けたのだ。

それから、アルメニア人地区を経由して、東エルサレムの郊外がよく見える丘に出てみた。はるか向こうまで、起伏に飛んだ丘陵地帯が広がっていて、そのところどころに、ユダヤ人の入植地と思われる村々が散らばっていた。
目に見える壁や境界線は何処にもなく、そこには平和な風景が広がっているだけだった。


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