2012年12月25日火曜日

敦煌・1(中国甘粛省・敦煌市、第43〜47日目)

敦煌。20世紀初頭、王円籙という一人の道士(道教のプロの宗教家)が、この小さな街の郊外にある遺跡・莫高窟の封印された1窟の中から、大量の古文書を発見した。彼は当局にこれを届け出たが、当局はまったく関心を示さず、適当に処理しておけと申し渡しただけであった。
その後、各国の探検隊(イギリスのオーレル・スタイン、フランスのポール・ペリオ、日本の大谷光瑞など)がこの街にやってきて、大量の古文書を王円籙から買い取って自国に持ち帰っていくのを見て、清朝当局はようやく古文書の価値に気がついたが、時既に遅く、古文書はイギリス、フランス、日本、ロシアなどに散逸してしまった後だった。これが、敦煌という街を一躍有名にした敦煌文献である。
なぜ、こうした古文書が大量に洞窟の中に仕舞い込まれて洞窟が塞がれたのか、正確なところはよく分かっていないが(内容から判断すると、要らなくなった文書をしまっておいただけらしい)、この文書がなぜ洞窟の中に封じられたのか、を巡る物語を描いたのが、有名な井上靖の『敦煌』という小説である。

小説『敦煌』は、約1000年前の、茫漠たるシルクロードを舞台に、歴史の影に生きた人々の息遣いを、飾り気のない文体で綴った、ロマン溢れる傑作小説である。
主人公・趙行徳は、科挙の試験を落第した後、紆余曲折を経て当時勃興していた西夏の兵士にされてしまうが、後に仲間と共に西夏に反逆して離反する。やがて彼は西夏の軍勢に追い詰められて敦煌に逃れるが、進軍する西夏の軍勢から仏教の文化遺産を守ろうと決意し、僧侶たちとともに古文書を莫高窟に封じる。そして、莫高窟に財宝が隠されていると勘違いして襲撃してきた商人・尉遅光(うっちこう)を撃退した後、侵攻してきた西夏の軍勢に飲み込まれて姿を消してしまう(物語の最後に、彼が更に西のどこかの国で生きているらしいことが示唆される)。
NHK特集・シルクロードを見た上、この小説を読んだからには、是非ともシルクロードを訪問しなければならない。私は西安を離れ、一路敦煌へと飛んだ。


(こりゃまた、ヤバいところに来たんじゃないか…?)
敦煌の空港に降り立った時、空港の周囲に何一つ建物も植物も見当たらない事に気づいて、私は少し驚いてしまった。建物自体は比較的立派だが、ミャンマーのバガンの空港より何もない。空港ターミナルを抜けて外に出ると、後は駐車場しかなく、建物も何もない。客待ちをするタクシーも無ければ、バスもない。売店もない。何もない。

先に空港に降り立った人々は、さっさと自分を待つ車に乗って去っていき、私は一人ぽつねんとその場に取り残されてしまった。
しばらくどうしようかと思案していると、一人の男性が「タクシー」と言って手招きした。駐車場に一台の車が停まっている。信用すべきかどうすべきかと一瞬悩んだが、誰にも英語も通じない中、彼に置いていかれたらどうやって移動してよいのか分からない。大人しくその車に乗り込むと、比較的適正な価格で市内まで届けてくれると申し出てくれ、きちんと目的地のユースホステルに私を送り届けてくれた。
市内に着くまでの間は、ミャンマーのバガンのような場所を想像していたが、市内に入ってみると、町並みは小さいながらもきちんと整備されており、バガンと比較しては失礼なほど立派な『街』であった。考えてみれば、これだけ寒くなる場所な上、シルクロード観光の要衝なのだから、バガンのような呑気な雰囲気の町なわけがないか、と考えを改めた。


ユースホステルに着くと、私はインターネットで早速敦煌の情報を調べ始めた。聞くところによると、敦煌には「隋さん」なる日本語が堪能な人物が居り、彼がオリジナルのツアーなども手配してくれるのだという。しかし、とりあえず空腹が勝ってきたので、私は隋さんに連絡するのを後回しにして、昼飯を食べに近所の市場「瓜州市場」に入った。
屋根付きの市場では、干しブドウなどの果物や、焼き鳥、衣類、糸、靴など色々なものが所狭しと並べて得られていた。その奥に、碁盤の升目状に麺や焼き飯などの安食堂が並ぶ食堂街が現れた。
(何食うかな…ここまで来たからには、地元の料理が食いたいよな)
と、食堂街の奥に入り込んでいくと、「新疆」との文字の書かれた緑色の看板が目についた。
(新疆ってこた、ウイグル料理が食べられるのか。こいつはイーじゃんかよぉ)
中に入ると、高校生くらいの女の子二人がいそいそと働いていた。その他、地元の漢民族風の客や、ウイグル人風の客が食事をつついている。
私が適当な料理を注文して待っていると、女の子が何かのノートを私のテーブルにそっと置いた。
(? なんだこれは?)
と、ノートを開いてみると、驚くべきことに、中には日本の旅行者たちが綴った日本語がびっしりと書き込まれていたのだ。
(こ、これは?)
と、店のドアに目をやると、ドアにも日本語で「旅人の家 いらっしゃいませ」という言葉がプリントされている。間抜けなことに全然気づかなかった。
ということは、ここはもしかして…。
そう思ったが、如何せん英語が通じないのであるから、店員さんにどう説明することもできない。とにかく昼飯を食べてから考えようと食事に手をつけていると、そこに一人の男性がドアをくぐって現れた。
「や、あなたですか日本人は? 私が隋です」
やっぱりだった。私は隋さんと、早速遭遇してしまったのであった。

2012年12月24日月曜日

出発地点(中国陝西省・西安市、第39〜42日目)

昆明を出て、私は西安に向かった。
「うーむ、なんだか、風景が段々と親しみやすくなってきたな」
西安の空港に降り立って、バスで西安の街に向かう途中の風景は、どこか北海道に近い雰囲気を漂わせていた。雪こそ降っていないが、気温は零下にまで下がっている。そのせいか、植生が北海道に似ているのだ。
バスに乗っている間に段々と陽が落ち、街の摩天楼が姿を現す頃には、濃いガスが街をすっかり覆っていて、どこか怪しい雰囲気を街に与えていた。バスは、街のランドマークである大鐘楼の付近で私を降ろした。

中国の中央部に位置する西安は、かつては長安と呼ばれ、旧市街を巨大な外壁で囲まれた街である。旧市街の中央部には、30年前のNHK特集の番組・シルクロードの冒頭で、陳舜臣さんが「今、私は西安に来ています」と言って番組を始めた場所、大鐘楼がある。
その他、天竺から帰って来た玄奘三蔵法師が巻物を納めたという大雁塔、シルクロードを伝ってアラブの商人がここまで来ていたことを表すという、見た目はどう見ても仏教寺院なのに、中に入ってよく見ると実は「モスク」という、世にも奇妙な大清真寺がある。

郊外に眼を移すと、秦の始皇帝陵と、それに附随してほんの40年ばかり前に発見されたばかりの、日本でもおなじみの兵馬俑遺跡がある。西安は、その他にも実に色々なシルクロードを巡る文化遺産が眠っている街なのだが、それだけではなく、現在の西安は中国の中でも十本の指に入るであろう大都市である。
街は綺麗に整備され、街の中心部のほんの半径100か200mほどの狭い範囲内の中に、アップルストアが3件も4件もあったりする。

予約してあったユースホステル「Hang Tan Inn Guest House」は、いわゆる欧米人の集まる「白人宿」で、極めて分かりにくい住宅地の真ん中にあった。同じ場所をぐるぐる廻って、探すのに40分近くかかったほどだ。しかし、事前のネットの評判の通り、中は欧米人好みの、洗練された雰囲気の居心地の良い宿であった。ルームメイトは、イスラエルから来たという女性ネタさんに、鼾のうるさいオーストラリア人の兄ちゃん、クールな雰囲気の小柄なスウェーデン人の青年、温厚そうなスペイン人の男性などであった。
ネタさんとは、エアコンが漢字で分からないというのであれこれ操作してあげたり、パンを貰ったり、中国でネット規制を回避する方法について話すなど、割と仲良くなった。

やってきて二日目に、ユースホステルのゲストハウスのツアーに参加し、欧米人たちと徒党を組んで兵馬俑と秦の始皇帝陵の遺跡に向かった。
秦の始皇帝陵は、その名の通り秦の始皇帝を埋葬するために作られた古墳である。しかし、外目からは単なる小高い丘が公園として整備されているだけで、面白くもなんともないのが特徴である。実際、始皇帝陵の見学時間は5分足らずで終わった。
しかし、実はこの小高い丘の下には、始皇帝の死後の邸宅として作られた巨大な宮殿が眠っている。実際、調査で宮殿の形までは分かっているそうだ。しかも、歴史書によればこの宮殿には水銀の河や海なども作られたという。これは長い間誇張だと思われていたらしいが、実際に地面から高濃度の水銀の反応があったため、本当にそれを作ったのだという可能性が高くなっているという。おまけに、宮殿内部には、盗掘者を射殺すための仕掛け弓などの装置も用意されているらしい。なんと壮大で、ロマンに溢れる話しなんだろうか!
本当にあるのかどうか、早く掘り起こして見せて欲しいものだが、掘り返すときに失敗すると取り返しがつかないとの理由から、まだ発掘はされていないのだそうだ。

その後、兵馬俑に向かった。
兵馬俑は、始皇帝陵と一緒に作られた付属の遺跡のようなもので、陶器で作られた精巧な兵士たちの人形が大量に収められているところから、英語では「テラコッタ・アーミー」という。

これは有名すぎるから、特に説明する必要はないが、出土された大量の兵士たちや馬たちが遠くまで続いているのは圧巻である。
作られてからというもの、敵軍によって押し入られて破壊されたり、後の時代になって盗掘されたり、終いには地元民の誰かが墓に使った場所もあったりそうで、現在になって「発見」される前から、実は「知っている人は知っている」場所だったのかもしれない。

付属の博物館の売店コーナーには、兵馬俑の発見者の一人である、楊老人が座って昼飯を食べていた。兵馬俑の発見者は一人と思われがちだが、実は数人の「楊さん一族」が一緒に発見した遺跡である。
NHKのインタビューを受けていた「楊さん」は、残念ながらその場におらず、昼飯を食べているのは別の「楊さん」だった。
挨拶をしてみたが彼からは何の反応もなく、サインも本の購入者に限るとの事だったので、コミュニケーションを取るのは諦めた。彼らは今や中国人の間ではスターのような存在で、発見以来何十年も博物館にこうしているわけだから、いちいち愛想をよくしていてはきりがないのであろう。
その夜は、ホステルの中で中国の伝統酒の利き酒大会に参加し、楽しく過ごせた。ユースホステルは人に気を使わなければならないことも多くて面倒だが、孤独な一人旅の中では、こうした大勢で何かを楽しむ機会がちょっとした癒しと活力になる。

三日目は西安の町中をさまよって過ごした。西安の町では、零下だというのに、店のドアを開け放ったり、食品工場の入り口にかけてあるビニールの垂れ幕のようなものでドアを代用している店が多く、店の中がとにかく寒いのが特徴である。アップルストアさえ、ドアを開け放って営業している。北海道でこのようなことをしたら顰蹙ものだろうが、誰一人として寒いのに構っている様子はない。後で敦煌で人に聞いたところによると、西安人にとってはあの気温はそれほど寒いものではないらしく、店員が面倒臭がってドアを閉めていないだけであることが分かった。一方私は、帽子と手袋を購入した。

四日目、またトラブル。またしても、朝早い飛行機に乗り遅れてしまったのだ。これで、たぶん人生で6度目くらいの飛行機乗り遅れだろう。この日、私は西安を離れて、敦煌に向かうつもりでおり、朝早くホステルを離れて離陸の2時間半前に空港に向かったのだが、途中の渋滞などで時間を食ってしまい、結局チェックインには間に合わなかったのだ。
西安の空港の中にはカプセルホテルのような、珍しい施設がある。「蜂の巣」と名付けられたその施設は、空港の通路の脇に、狭い箱の中に大人一人がようやく入れる大きさのベッドを置いただけのもので、1時間で50元(675円)もするバカ高い代物だったが、インターネットが使えるとあって1時間だけその中に潜り込み、今後のことについて考えることにした。
今日の敦煌行きの飛行機はもうないが、明日なら敦煌行きの別の飛行機がある。しかし、それまでの間どうするか。いっそこの狭っ苦しい場所に次の日の朝まで居ようか。いや、そんなことをしたら、こんな迫っ苦しい空間とネットひとつのために何百元吹き飛ぶかわかったものじゃない。そもそも一泊二泊と滞在するためのものではないし、飯も風呂もないのだ。

…結論。Hang Tan Innに帰ろう。帰ってまた明日出直そう。チケットは出発後でも一部返金してくれるというし、空港に居たって何のいいこともない。
私はそう決めて、気晴しに空港内のちょっと高いビュッフェで昼飯を食べて西安市内に帰った。「今日は空港を見物に行ったんだ」と無理やり自分を納得させながら。「あれ、戻ってきたの?」と、Hang Tan Innのスタッフやネタさんには笑われてしまった。
とはいえ、くよくよ考えても仕方がないのが一人旅である。臨機応変に行けば、銃を突き付けられて身ぐるみ剥がされ、どこかの見知らぬ山中に裸でうっちゃられたというのでもない限り、大抵のトラブルは自分でカバーできるだろう。

次の日、私は更に早い時間に起きてバスに飛び乗り、空港に向かった。今度は、大丈夫だった。

2012年12月16日日曜日

滇へ到る(中国・雲南省昆明市、第36~38日目)

ヤンゴンで休憩を終えた私は、ゴールデン・トライアングルの一帯を飛び越えて、一路中国は雲南省・昆明に入った。
東南アジアを旅した多くの旅人ならば、ここまで来たら次に行くのはインドが相場である。コルカタあたりに飛び、そこから陸路や空路でヴァーラーナスィーやアーグラに向かって西に進んでいくというのが、まずありがちなルートである。
しかし、今回私は中国西部を見たいという目標があった。敦煌、トルファン、ウルムチにカシュガルと、いわばシルクロードをなぞる旅路である。シルクロードの世界を訪問した後、ウルムチからパキスタンのイスラマバードとラホールを経由して、ニューデリーに抜けるというルートを取る目論見であった(しかしながらこれは、後でうまくいかないことが判明する)。

「寒い!」
今年の6月に開港したばかりの真新しい昆明の空港に降り立った最初の感想はそれである。昆明が海抜約1900mの高地にあるためなのか、長い間暑い国ばかり移動してきたせいなのか、気温17度のはずなのにやたらと寒く感じた。
「都会だ!」
昆明の町並みは、とかく文明的だった。今までの東南アジアの町並みと比べて、明らかに垢抜けて、都会的な様相を呈している。

「ネットが…」
中国では、金盾(キンジュン、グレートファイアウォール)という仕組みによって中国当局にとって都合の悪いウェブサイトは全てブロックされている。
Facebook、twitter、YouTube、ニコニコ動画、fc2、ebloggerなどといったインフラは全て不可であり、そのかわりに中国人は中国製の似たようなバッタ物を使用している。これを回避する方策は、ミャンマーで既に立ててあった。
「英語が通じない…」
最大の問題はこれであった。とにかく、簡単な英語ができる人にさえ、まったくお目にかからないのである。タクシードライバーはもとより、ホテルの従業員や空港の職員にも英語が通じないことが多いことがわかった。
かと言って、中国語を話そうにもうまくいかない。中国語は声調のある言語である。有名な話だが、普通話をしゃべる場合、四種類のアクセントを滑らかに使い分けて発音しないと、カタカナ中国語をそのまま読んでも中国人には通じないのだ。
ホテルに入って、慌てて最低限の旅行会話を手帳に書き込んだ。日本人の場合、漢字という文字を共有しているから、必要最低限の簡体字を知れば、ある程度のコミュニケーションを取れる可能性はあるが、漢字の読み書きができない、中国語もできない欧米人が中国を旅行するのは本当に大変だろうと思う。
そのせいなのだろうか、単に寒いせいなのだろうか、これまで東南アジアの各国の何処にでも居た欧米人の姿が、ぱったりと消えてしまった。

言葉の壁の問題の中でも、特に中国人の不思議なところは、相手が明らかに中国語が喋れないと分かっていても、ひたすら中国語で話し続けるところである。
英語が分からないなら分からないで、I can't speak Englishでも、Noでもいいから言ってさっさと会話を切り上げてくれた方がずっと簡単で楽だと思うのだが、彼らはこちらが中国語の分からない外国人だと気づいた後でも、ひたすら中国語を喋り続けるのである。
その心中は何なのであろう。
中国に来る外国人なのだから中国語くらいわかるだろう、と考えているのだろうか。
分からないのは承知の上で、とりあえず何かを伝えようと試みているのだろうか。
それとも単に、こちらが外国人なのに全く気づいていないで、同じ中国人のくせに中国語が分からんとはけしからん奴だ、とか思っているのだろうか。
よく分からないが、要するに彼らは学校で英語を習わないのだろう。田舎のお年寄りが英語を話せないというのなら分かるが、大都会に暮らすどんな若い人にも簡単な英語1つ通じないのだから、それ以外に考えられない。
ネットを見ると、中国人のTOEFLの成績は日本人・韓国人より上とか、中国人は英語がうまいという話が散見されるけれども、それは恐らく上海とか北京とかの中国一先進的な都会限定の話か、どこかの当局がデータをいじくっているのに過ぎないのではないかと思う。そうでなければ、昆明のような大都会でOKとかPleaseとかWhere is toilet? さえ通じないという状況に説明が付けられない。はっきり言って日本の小さな地方都市と大差ないと思うし、中国語で延々としゃべり続けるあたりが、少なくとも「英語は分かりません」と意思表示するか、しどろもどろになって何も言えなくなってしまって外国人側もすぐにあきらめてしまう日本人よりも面倒臭いと思う。

雲南省は、中国でもかなり少数民族の多い場所である。
イ族、ペー族、ハニ族、チワン族、ミャオ族、ワ族、チベット族等々…。雲南省にしかいない少数民族が15もあるというから驚きだ。
それを象徴するかのように、雲南省には雲南民族村という少数民族のショーウインドウのような観光施設もある。
この雲南民族村は昆明市の南10kmほどの場所に位置する観光地で、各少数民族の生活を持ち寄って再現した小さな村を集めたような場所である。近くには、登龍門の語源になった龍門という旧跡もある。そこを訪問してみることにした。
こんな場所を訪問したからといって少数民族の暮らしぶりが分るかといえばそんなわけもないと思ったが、まあ訪問しないよりは、少しばかりはましである。

雲南民族村に入り、各民族の展示を眺めた後で、午後の3時半からショーが開かれた。各民族の生活や文化をごった煮にして歌と踊りで表現したような歌劇である。
正直な話し、どれがどの少数民族の文化を表現しているのかもよくわからなかったし、これらが少数民族の文化を正しく反映しているのかも定かではなかったけれど、遠くから観ても迫力のあるショーであった。

(まてよ。そういえば、もう一つ少数民族のショーがあったはずだ。かなり評判の良いヤツだぞ)
ホテルに戻ってからネットで調べると、ヤン・リーピンという大スターの「雲南映像(Dynamic Yunnan)」という舞台であることがわかった。日本の横浜でも開催されたことがあるという。
早速夜になってから開催場所に出向いてこのショーを鑑賞したが、なるほど人気があるのも頷ける内容だった。
太陽をモチーフにした太鼓から始まるプロローグに、各民族をモチーフにした歌と踊りが続く。その全てに不思議な威力とどこか鳥肌が立ってくるような感動があった。
中でも、劇の開始前から要所要所で登場するチベット族の男性を主人公にした荘厳なチベット族の章と、ヤン・リーピンをスターにしたという人間離れした「月光」の章は、目を離せなかった。
タイで鑑賞したニューハーフ・ショー以来の素晴らしいショーであった。これを見るために昆明に来るのもありだと思わせるほどであった。

昆明滞在を終えて、次に向かったのは西安である。西安はシルクロードの起点であり、また私のシルクロード訪問の出発点であった。

2012年12月15日土曜日

遺跡地獄・2(ミャンマー・バガン、第30~35日目)


もうもうと砂埃の立ち込めるニューバガンの町並みを走って、タクシーはニューバガンのモーテル、Duwun Motelの前に停止した。
巻きスカートに白いシャツの年配の従業員が現れて、私を部屋に案内した。部屋は広くゆったりしていたが、どこかかび臭く、(そんなはずはないのだが)長いこと使われていなかったような雰囲気を呈していた。Wifiはなく、温水と書かれた蛇口を捻っても水しか出ない。しかし、このホテル不足を前にしては、そんな文句を言っているわけにもいかない。
細かい事は忘れて一眠りすると、午後から近所で自転車をレンタルして、オールドバガン目指して早速走りだした。しかし、ペダルを漕いでも、あっという間に砂にタイヤを取られてしまう。
ニューバガンからオールドバガンまでの幹線道路らしい大きな通りは舗装がされているのだが、道路の両脇から押し寄せる砂が道路上に堆積していて、ものすごく走りづらい。かと言って、頻繁に車が往来しているから、道路中央を走るわけにもいかない。

走っていると、早速遺跡にお目にかかった。煉瓦を積み重ねて作られた仏塔。すぐ近くに、管理人と思しき人々の家があって、子供たちが歓声を挙げている。中に入ると、仏陀の像が荘厳な表情を浮かべて静かに佇んでいる。
写真を撮って、また道路に戻る。またすぐに遺跡が現れる。写真を撮って戻る。また遺跡。また遺跡。
ほんの1~2kmを走っている間にも、立派な仏教遺跡がいくらでも現れる。人気のない遺跡もあって、そういう所に入り込むと、まるで遺跡を貸し切っているような気分になる。
小高い丘の上に建っている遺跡に登って遠景を見ると、遺跡の数々が地平線の彼方まで連なっている。その一つ一つに色々な由来があるのだろうけれど、あまりにも数が多くて、その一つ一つの歴史を確かめる気にはとてもなれない。
ただただ、サバンナのごとき雄大な平原に、遺跡がある。世界三大仏教遺跡の呼び名が誇張でもなんでもないことは、ここに来ればすぐに分かった。

自転車でオールドバガンに着き、食事をして鄙びたオールドバガンを見廻った頃には、もう辺りは真っ暗闇に包まれてしまった。
自転車で何とかニューバガンに戻ろうとしたが、街灯もない真っ暗闇の道が延々と続いていて、足元が砂なのか舗装路なのかも分からない。挙句、舗装路に空いた穴にタイヤを取られて転びそうになる。
唯一の光源と言えば通りを行き交う車だけで、こんなに車に通りがかってほしいと思った道もなかった。「行きはよいよい帰りはこわい」という言葉通りのとてつもない田舎道である。

次の日は自転車に疲れたこともあって、馬車に乗って一帯を廻ってみることにした。自転車では進入しにくい平原の中の遺跡を案内してほしい旨を御者に希望したが、意外にも馬車は自転車で十分廻れそうな場所しか通ってくれず、期待外れだった(けれど、馬車でゆっくりと廻る田舎道は、のんびりしていてそれはそれで悪くなかった)。
遺跡のところどころで、何故かオバマ大統領のコブシを利かせたスピーチが聞こえてくる。大統領はちょうどその頃、数日前に私が行ったスー・チーさんの家でスピーチを行なっていたのだった。
「プレジデント」「オバマ」「アメリカ」といった単語を話しているのも聴こえる。彼らがどう思っているのかは定かではないが、大統領のスピーチのウケはそれほど悪くはなさそうであった。

(現金が足りない…)
夜になって改めて現金の枚数を数えてみると、現金が不足していることが分かった。やはり、現金は全てにおいて必要であり、みるみるうちに減ってしまった。
だが、バガンで現金を手に入れる方法は一切ない。
もし、ニャウンウー空港でチケットを買えなければ、15時間のヤンゴン行き地獄バスに強制参加させられてしまう。
なんとかしなければと策を巡らすと、マネーバッグに一枚だけ、予備の1万円札を取っておいたことを思い出した。これを両替できないだろうか?

バガンのみならず、ミャンマー全体で円は立場がない。広く流通しているのはドル、ユーロ、そして何故かシンガポール・ドルであって、円やタイバーツはヤンゴン空港でさえ両替してもらえないのである。
インターネットで調べると、つい最近、11月の初旬から中頃にバガンに滞在していた人のサイトを発見した。そのサイトによると、ホテルの従業員に1万円札を両替してもらおうとしたが、75000チャットだと言われて諦めたとの記述があった。75000チャットということは、約2000円が従業員の懐に収まるレートである。これは幾らなんでも足元を見すぎだ。
しかし、そのレートでもいいから両替しないと、15時間バスに乗らざるをえない。
モーテルの従業員にその旨を伝えると、モーテルのオーナー夫人なる年配の女性が現れて、流暢な英語で相談に応じてくれた。
彼女はすぐにオーナーに電話を掛けると、円を両替できる場所がすぐそばにあるということがわかった。オーナー夫人と従業員二人に付き添ってもらって歩いて行くと、看板も何もない商店のような建物の店先で、母娘とおもわれる女性二人が店番をしていた。
レートは90000チャット。一も二もなくオーケーした。
「良かったわね。これで飛行機のチケットが買えるわよ」
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
ミャンマー人のホスピタリティに触れたような気がした。ミャンマーはATM1つとっても不便な国だが、にも関わらず、ミャンマー人の人当たりの良さは、これまで通ってきた東南アジアのどの国にも勝るところがあるように感じられるのだった。

次の日とその次の日の飛行機の出発時刻まで、インターネットカフェにこもって時間を潰したり、安い自転車を使って遺跡を見て廻ることに費やした。
facebookに接続すると、トモコさん夫婦もまた現金の欠乏に苦しめられ、旦那さんが現金を手に入れるためにヤンゴンに戻ったという書き込みがあった。
私もまた、限界まで現金の欠乏に苦しめられた。飛行機の出発時に残された現金は、3ドルと750チャット、日本円にして315円にまで減っていた。
ATMもなければカードも使えない国で、315円しか手持ちがないという現実に、ATMやクレジットカードという文明の利器が如何に有り難いものであるかを骨の髄まで思い知る羽目になるのだった。

<北朝鮮直営レストランの憂鬱・2>

ヤンゴンに戻った次の日の昼、私はどうしても諦めきれなくて、もう一度あの北朝鮮直営レストランに出向いた。昼の北朝鮮レストランは、数日前の喧騒が嘘のように静まり返って、従業員の他には客一人居ない有様だった。
がらんとしたレストランの中で、今回はきちんと席に案内された。料理を決めて伝えると、ウェイトレスに「日本人?」と聞かれたので、Yesと答えた。注文を受け付けてもらったので、ためしに「カムサハムニダ」と言ってみると、ウェイトレスは驚いたような顔をして奥に引っ込んでいった。
料理を待っていると、別のウェイトレスがカラオケの曲リストを持ち出して声をかけてきた。
「日本人? 日本のいい曲教えてよ。ブルー・ライト・ヨコハマーってやつ」
「うーん、それはすごく有名だけど、僕はよく知らない」と言うと、彼女たちは驚いて、
「日本人でしょ? なんで知らないの?」というので、
「それはもう少し歳が上の人が好きな曲だ。年齢によって好きな曲は違う。ここに来る日本人の好きな曲は分からないよ」と説明したが、よく分かっていないようだった。
考えてみると北朝鮮人と話すのは初めての体験だった。この時間帯の彼女たちは暇を持て余しているらしく、向こうから話しかけてくるほどだった。ほとんどの国民が外に出られない北朝鮮にあって、海外に出て「敵国民」の韓国人や日本人と普通に話し、しかも恐らく北朝鮮当局が逃亡したり亡命したりはしないとお墨付きを与えて海外に送り出しているわけだから、彼女たちはきっと特別な存在なのであろうが、話した感じは別に特別な雰囲気は感じられず、ただの普通の韓国人女性のようにも見えた。

試しにカラオケの曲リスト本を捲ってみると、意外なことに最近のヒットソングやアニソンが大量に収録されていることに気がついた。
北朝鮮当局はどこからこんな新しいカラオケマシンを調達してきたのだろう。謎だったが、とりあえずここに来る日本人が最新ヒット曲やアニソンを歌うという絵面が想像できないし、カンボジアの売春カラオケがまたフラッシュバックしてきたので、もうそれ以上突っ込むのはやめることにした。
北朝鮮の冷麺は氷漬けにされて出てくるものらしい。冷麺とスープを飲んで、店を出ることにした。料理の味は普通だった。
支払った代金がミサイルの製造に使われないことを祈りながら、私はホテルに帰ることにした。

2012年12月12日水曜日

遺跡地獄・1(ミャンマー・バガン、第30日目)


バガンに向かう飛行機は、またもや早朝便である。いい加減早朝に起きることにも少しずつ慣れてきつつあり、私は朝早く起きると、食事を取る暇もなくホテルを後にした。
ヤンゴン空港に向かうと、事前に便を予約しておいた会社、エア・マンダレーのチェックインカウンターを探したが、チェックインカウンターには誰もいない。そこで空港の職員らしき人に声をかけてみると、
「エア・マンダレーは出発済みだよ」
「別の飛行機を手配してあげよう」
ということになった。おかしい…。まだ飛行機の出発時間の1時間前なのに、もう出発済みときた。しかも、簡単に別の会社の飛行機に変えてくれるというこのイージー・ゴーイングっぷりにも驚かされる。
しかし、ここは日本ではない。もう、細かい事をいちいち気にしないことにも慣れてきつつあった。
「現金で121ドル。持ってる?」
「現金? カードで払えませんか?」
「現金だけだね」
「…分かりました。チャットでお願いします」
「チャットか…OK、両替するから出して」
この時、ふと自分が少々マズい事になっているのではないかということに気づいた。
考えてみれば、エア・マンダレーのHPで予約した時にも、カードの番号を入力したりといった支払いの作業は一切行なっていなかったのだ。とすれば、当然、飛行機に乗るときには、チェックインする時に現金で支払うしかないということになる。
前日、カードで支払いができないというのでATMからお金を降ろしたわけだが、ATMに屯していた男たちの好奇の視線に耐えかねたのと、ATMから出てきたチャットの札束のものすごい厚み(1万円札だとしたら、100万円分くらいの厚みがあった)に目が眩んだのもあって、一度降ろしただけで満足してホテルに引き返してしまったのである。
…まてよ、そういえば、ヤンゴンに戻る帰りの飛行機のチケットも、現金で支払わなければならないはずだ。
それに、首都でつい数日前に初めてサービスが開始されたATMが、バガンなどという田舎の町に備わっているわけがない。
とすれば、ヤンゴンに帰るまでの間、チケット代の現金をキープしなければならないのでは?
「………」
これは、マズいことになったのではないか。金はどこで使うことになるか分からない。しかしもう、ここまで来れば後は行くしかなかった。

「日本の方ですよね? ホテルがどのへんにあるのかわかりますか?」
途中の機内で、日本人の女性が声をかけてきた。トモコさんはアメリカに在住しておられ、アメリカ人の旦那さんとミャンマーで2週間滞在する予定とのことだった。
「この三本の道路を結んだ三角形の地域に遺跡が沢山あるそうです。ホテルはオールドバガン地区にはないそうで、ニャウンウーかニューバガン地区になるらしいですよ」
などと情報交換をし、知っているホテルの名前を伝えると、どうせだからタクシーをシェアして一緒にホテルを探しに行こう、ということになった。

バガンの空港に到着すると、三人は空港の観光案内所に向かった。朝早い便だから、ホテルの空きが取れるかもしれない。何はともあれ、宿がとれなければ観光どころではないのだからと、三人は観光案内所のお姉さんに頼み込み、片っ端からホテルに当たってもらうことにした。
トモコさん夫婦のホテルは、案外あっさりと決まった。少し高めのホテルなら、空きがあったようだ。私は、現金をなるべく減らしたくない思惑もあって、別の宿を当たってもらうことにし、トモコさん夫婦は一足先にタクシーでホテルに向かっていった。
「今はなかなか無いのよ…」と、お姉さんは片っ端から宿に電話で確認を取っていく。
「一日に7000人の観光客がバガンに来るのよ。でも、バガンには部屋が2600部屋しかないの。ホテルが足りないのよ」と、別のお姉さん。
…ちょっと待てよ。2600部屋しかないってことは、仮にそれが全部ダブルベッドで全部入れたとしても5200人だ。勿論、そんなわけには行かないし、何日も泊まる人も当然居るわけだから、一日に数千人の人が宿にありつけずに立ち往生するということになるのではないか。
「宿に泊まれなかった人は、どうするんですか?」と聞くと、
「空港で寝てるわね」とお姉さんは答えた。
空港は小さくてとても数千人を収容できるようなスペースはないし、すべての人が空港に泊まりにやって来るわけはないとしても、たぶんかなりの人が一夜を空港で明かしているのだろう。ヤンゴンでもそうだったが、ミャンマーの深刻な宿不足の現実をまざまざと見せつけられた思いがした。
やがて、何十回も電話をかけ続けてくれたお姉さんが、とうとう一軒の空室を発見してくれた。私は、思わず「ありがとう。あなたは天使だ!」と手を握り返してしまった。

タクシーで空港を離れて道路を走っていると、風景はがらりと変わって、まるで自分がアフリカのサバンナの中を横断しているような雰囲気になってきた。
「あれがオールドバガンだよ」
「おお!」
そのサバンナの向こう側に、遺跡の群れがポツポツと姿を現し始めた。
遺跡。
まるで、あの付近一帯が全て遺跡だとでも言うかのように、どこまでもあちこちに遺跡が連なっている。
「…なんだここは…」
それとともに、ニューバガンに入ると更に驚かれた。グーグル・マップの地図上では、一見、碁盤の目状に道が整備された綺麗な町並みがあるように見えていたが、実際のニューバガンは、道路など舗装されておらず、道路上に砂埃が一日中舞い上がっている、おおよそ日本人の考える町とはかけ離れた場所だったからである。

2012年12月2日日曜日

アジアン・フロンティア(ミャンマー・ヤンゴン、第28~29日目)


<一日目>

バンコクでミャンマービザを取る事に成功した私は、翌日にドンムアン空港からヤンゴン行きの飛行機に乗り込んだ。チェンマイに行く時にもドンムアンを使ったから、この短いタイ滞在中に二回もドンムアンとバンコクを往復したことになる。

(思ったより近代的な空港だな)
ミャンマーの空港に降り立った時に、最初に思ったことはそれだった。バンコクからミャンマーに行ったというある人のブログを見ると、ヤンゴンの空港は酷いところでバンコクに帰ったら文明のありがたみがわかった、というような記事が載っているので、どんな酷い場所なのかと思っていたのだ。
空港でタクシーに乗り込むと、タクシーはドル払いだった。やれやれ、またか、という思いが頭をかすめる。それというのも、カンボジアではドルが自国通貨よりも優遇されていて、カンボジア・リエルは紙くずに近い扱いを受けていたので、それと同じようなことがここでも行われているのではと考えたのだった。

しかし、ヤンゴンのダウンタウンに入ってみると、思いの外ヤンゴンの街に活気が溢れていることに驚いた。ヨーロッパ風の建物の立ち並ぶダウンタウンの通りのあちこちで、屋台や会社の事務所、インターネットカフェやゲストハウスが立ち並び、人々が忙しそうにあちこちを行き来している。
日本の企業や、韓国の企業の小奇麗なオフィスビルも目立つ─INAX、ソニー、サムスン、富士フィルム…多くの企業が、チャンスを求めて集まってきている。
ほんの数年前まで国際社会から経済制裁され、世界から孤立していた国とは思えない活状だ。

「おお、ここはスカートの国だ!」
この国では、男性もスカートを履いているのが目に付く。民族衣装の巻きスカートだ。男性のスカートと言えば、スコットランドのバグパイプ奏者の男たちが有名だけれど、こちらはその比ではない。街ゆく多くの男女が、普通にスカートを履いて歩いているので、男性がスカートを履いていることにまったく違和感を感じない。
また女性と子供は、顔に灰色の粉を塗りたくっているのが印象的だ。はじめは泥を塗りつけているのかと思ったけれど、あとでタナカという木の粉を塗っているのだとわかった。日焼け止めの効果があるらしいのだが、人によっても塗り方に違いがある。何でも、塗り方によって美人かどうか─つまり、モテるモテないにも関わってくるらしい。所変われば習慣も変わる─まさにこのことである。

カンボジアと違って、自国通貨のチャットが広く流通していることにも気がついた。これは、チャットが少しずつ信頼を取り戻しているということなのだろうと思った。ATMさえ当たり前のようにドルを吐き出すカンボジアの有様を見ているだけに、それだけでも、この国が良い方向に向かっているのではないかと思わせるのに十分だった。
そして、ハイ・シーズンとのことでどこのゲストハウスにも先客が詰まっていることもわかり、結局空室のあった若干高めのホテルに泊まることになった。

タクシーの運転手に聞いてみた。
「どうですか? この国は変わってきていますか?」
「今、この国は変わっているところだよ。外国の企業も沢山チャンスを求めてやってきている。いいことさ」と運転手は言った。

<二日目>

二日目、私はまず、ホテルの近くにあるアウン・サン・スーチーさんの生家を訪問してみることにした。大学のある道幅の広い通りをホテルから30分ほどもかけて歩いて行くと、やがて一軒の変わった雰囲気の家を見つけた。
灰色の鉄製の門と、スー・チーさん率いる野党NLDのマーク。塀の上には、有刺鉄線が張り巡らされている。これがスー・チーさんの家に違いない。
近くに警備員風の人々が屯していたので、ためしに写真を撮っても良いかと聞くと、「OK」という返事が呆気なく返って来た。数年前までは、近づくだけでも「帰れ」と強面の警備員に追い返されるということだったから、それだけでも相当この国が変わっているということを示しているに違いなかった。
写真を撮っていると、何かの車が門の前に乗り付けた。門がゆっくりと開いたので、せっかくだから門の中を見せてもらおうと車の後ろから覗きこむと、中にいた巻きスカートを履いた強面の男が私をキッと睨みつけ、すぐに門を閉じてしまった。
あとで気づいたことだが、この二日後に、アメリカのオバマ大統領が、ここを訪問し、スーチーさんと面会する予定になっていたのだ。中の人々が相当殺気立っていただろうことは、容易に想像がつく。

その後、ヤンゴンと言えばとりあえず観ておかないとならないシュエダゴン・パゴダを訪問した。
ミャンマーというか、東南アジアの仏像や仏教施設は、とにかく金色にギラギラ輝いているのが特徴で、木造の侘び寂びの寺の世界に親しんでいる日本人の自分にとっては、どこかサイケデリックな印象さえ感じる。どこを観てもあんまりギラギラしているので、ほどほどにして見るのを止めて帰ることにした。

パゴダから出る時、そういえばお金を降ろしたいな、思った。手持ちの現金では少し足りないような気がしていたのだが、ホテルのそばの銀行のATMにカードを入れてもカードが拒否されてしまい、どこで降ろせるのか分からなかった。
パゴダの入り口にいた観光案内の職員のおばちゃんが、「XXタワーのエキゾティックツアーという会社に行きなさい。そこなら両替もお金を降ろすのも出来るわよ」と教えてくれた。
なぜツアー会社に行くと両替したりお金を降ろしたりできるんだ??
その時はそういう疑問が膨らんできたが、他にどういうアイディアもなく、そのアドバイスに従って、言われた通りのツアー会社を訪ねた。

ツアー会社の受付嬢に、お金を降ろしたいと説明すると、彼女は自分が何を言われているのかさっぱり分からない、という怪訝な顔で私を見たあと、オフィスの奥に行って人を呼んできた。
受付嬢に代わって現れたのは、キャリアウーマン風の女性だった。彼女は私に名刺を渡したあと、こう言った。
「うちはツアー会社だから、ツアーのアシスタントはするけれど、両替もお金の引き落としもしないですよ」と言われる。そこで、(ああ、あのパゴダのおばちゃんは、俺がどこかのツアー会社のツアーで来ていると勘違いしたらしい…)と合点がいった。
そこで、「どこかにマスターカードでお金を降ろせるATMはありませんかね」と尋ねると、彼女は信じられない言葉を返してきた。
「ミャンマーの銀行はどこも国際クレジットカードのシステムに接続していないのよ。だから外国人はお金を降ろすことはできないの」

…そんな国が、あったのか。驚きのあまり、声が出なかった。
あのカンボジアのシェムリアップ、あの道路が舗装されていなくて、マリオカートのコースみたいに凸凹だらけで、売春カラオケ屋に連れて行かれるあのカンボジアですら、そこらの道端にあるATMでドルを降ろすことができたのに、それすらできない国もあるなんて。
「ということは、僕はどうやってもお金を降ろせないんですか?」
「そうなるわね…あ、ちょっと待って…」と言って、彼女はオフィスの奥に一度入ってまた戻ってきた。
「最近、つい二三日前に、マスターカードが使えるATMがダウンタウンにオープンしたというニュースが流れたのよ。そこを試してみるといいわ」と言って、彼女はATMの場所を調べて教えてくれた。
相談料に1ドル渡そうとしたが、彼女は決して受け取ろうとはしないのだった。

彼女に教えられたATMに向かうと、確かにそこに、マスターカードのマークのついたATMが鎮座していた。
しかし、ATMの前には、何もしないでただ座っているだけの男たちが、何人も屯している。近くの屋台で食事を取りながら、彼らが立ち去るのを待ったが、彼らは座ったまま一向にその場を離れようとしないので、ついに意を決して彼らにどいてもらい、ATMにカードを差し込んでみた。
パスワードを入力し、金額を選ぶ…
暫くして、指定した額のミャンマー・チャットがニュッとATMから姿を表した。
(やった!!)
これで当分はお金に困らなくてすむ。ATMからお金を降ろせることがこんなに素晴らしいだなんて…と感激しながら振り向いた時、私は背筋が寒くなった。

10人近い男たちが、私がお金を降ろしている様子を凝視していたからだ。
私が驚いていると、男たちは頼みもしないのに電卓を取り出し、ドルとチャットのレートを入力しはじめたので、慌ててその場から逃げ出すことにした。
ともかく、これで後の旅は大丈夫だ。
その時はそう思っていたが、あとでそれが間違いであることが判明する。

<北朝鮮直営レストランの憂鬱>

その日の終わり、私はヤンゴンに北朝鮮直営のレストラン「Pyongyang Koryo Restaurant」があると聞き、店の位置を調べると、夜レストランに向かった。日本の駒込で寿司職人として働いていたという日本語の堪能な親切なタクシードライバーに連れられてレストランに近づくと、一人の男が現れて、私を店の中まで案内した。
レストランの中に入ると、そこでは噂に名高い北朝鮮人従業員による歌謡ショーがすでに始まっているところだった。
レストランの内部は既に韓国人団体客に埋め尽くされ、席の空く様子は微塵もない。「一人です」と英語で言うと、年配の従業員が朝鮮語で何事かを早口でまくし立て、壁際にある椅子(席ではない。テーブルがなく、ただ椅子があるだけである)を薦めてきた。

舞台の上で歌って踊る従業員たちは、何やら80年代のキャバレーのホスト嬢のようなギラギラと輝くミニスカートのドレスに身を包み、統率の取れた動きでムード歌謡のような曲を披露している。
韓国人ツアー客は嬉しそうにそれを眺めながら北朝鮮料理に舌鼓をうち、更には一つの演目が終わると歓声を上げ、何処からともなく持ちだされた花束が、ショーの出演者たちに手渡される。
にやけた顔つきの中年男性たちが数人、演台のそばに近寄って動画を撮影し、「NO PHOTO」との張り紙を気にする人は一人も居ない。
数人の韓国人ツアー客が、ぼうっと壁際の席に座り続けている私の様子を不審そうな眼差しでチラチラと見るが、やがて数秒で興味を失って、彼らの視線は演台に戻る。

北朝鮮人のウェイトレスさんたちは、キリキリと素早い身のこなしで次々と韓国人ツアー客のテーブルに食事を運んでいくが、壁際で寄る辺なく座り続ける私に声をかけてくれる人も、声をかけられそうな雰囲気の人も一人も居ない。


非常にシュールな光景だった。
数十年前から深刻な対立を続け、つい最近でも潜水艦を爆破させたり、砲撃を加え合って人を殺している国同士で、別に問題が解決したわけでもなんでもないのに、この花束と歓声の宴は何なんだ?
爆撃を加えた国の相手に花束や大歓声を送ったり、黙々と給仕をし続けるこの様子をどう解釈すればいいんだ?
それとも、国同士の対立は建前で、同じ民族同士本当はとても仲が良いということなのか?

30分ほどもショーを黙って見続けたころ、数人の身なりの良い中東風の男女が現れた。ウェイトレスたちは、彼らは何も言わないうちから素早く彼らを二階に連れて行った。
(帰るかぁ…)
その様子を観て、私は黙ってレストランを出ることにした。いつまで経ってもこの宴が終わる気配はないし、この宴が終わってガラガラになった後で、ぽつねんと一人で飯を食べる気持ちにはとてもなれなかった。

北朝鮮レストランを出て、私は隣の中華料理店に行った。ウェイターたちは、私を快くもてなしてくれ、食事もビールも全てが美味いのだった。
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