バトゥパハを後にして、マラッカにバスで向かった。バスはバトゥパハのバスターミナルで1時間待たせた挙句、ターミナルで待っていた私を置いてけぼりにして出発しようとし、危うく乗り遅れるところだった。
実際、後10秒気づくのが遅れていたら、完全にバスに乗り遅れていただろう。
座席指定のチケットを買わせて、ターミナルのどこから出発するかもはっきり分からないバスを一時間も待たせておきながら、着いたらよく確かめもアナウンスもせず出発するなんて、なんて不親切なんだ…と言いたくなるところだが、おそらくバス会社からしてみれば、来たバスに乗らないほうが悪いのだし、遠い日本からこんなところまで来る時間も金もたっぷりある奴が、たかがバスに遅れたぐらいで何を怒ることがあるのか…と彼らは思うであろう。
マラッカに着くと、タクシーに乗り込んで本日の宿に向かった。
「リラックスリラックス、私は必ず目的地に送ってあげるよ、ハハハ!」と5回も6回も言いつつ、5分で着くはずの場所をぐるぐる回って20分以上経っても着かず、終いには自分が道案内をするはめになった。
どう見ても地元在住数十年のタクシーの運転手のおっさんに、到着10分の外国人が「見ろ、今左手に見えているのがアブドゥル・アジズ通りだ。目的の宿はマラッカ川沿いにあって今我々の後ろにマラッカ川がある。ということは我々の右後ろに宿があるはずだ」
などととくとくと説いて道案内するのは、日本人の感覚からすると何だかひどく滑稽である。しかし、フィリピンでもそうだったが、タクシーの運転手たちは地理にあまり詳しくないことが多い。
住所を教えて、近くのランドマークを教えて、スマートフォンで場所を見せて、それでもなかなか辿り着かない事があるし、そもそも彼らがちょっとした市街地の地図一枚持ち合わせているところすら見たためしがない。
そして、目的地に着いた後、日本なら「あたしのせいで大分掛かったから◯◯◯円でいいですよ」という話になるが、そうならずにキッチリメーター分請求してくるのもまた、こちら流のようである。
しかしそれもまた、バスと同じで「金持ちの暇人が何を(略)」ということに落ち着くであろう。
マラッカは元々、マラッカ王国というイスラム教の王国があったところである。そののち、ポルトガル、オランダ、イギリスといったヨーロッパ列強の植民地になり、日本も一時期ここを占領したことがある。
その後マレーシアが独立した時、ラーマン首相が独立宣言(メルデカ!)したのもここである。以降、マラッカはマレーシアの特別市になり、世界遺産になった。歴史的に意義の高い町である。
マラッカの街には不思議な魅力があった。赤塗りの壁のヨーロッパ様式の町並みと、中国系の店が軒を連ねる乱雑な通りが、マレーの気怠げな雰囲気と混ざり合って、どこかのんびりとしている。
観光地としてこなれていながらも、やれ世界遺産だといって気取ったり、気負ったりしている様子はあまりない。どこか田舎の楽しげな雰囲気を湛えているのが楽しい。
トライショーと呼ばれる恥ずかしいくらい豪華な装飾が施された輪タクに乗せてもらい、町中を案内してもらった。歴史的な町並みと、近代的なショッピングモールがぶつかり合わずに併存している。
町の中心部にある遊覧タワー(ぐるぐると回転する遊覧スペースが、地上80mくらいの高さまで登っていくしくみ)に乗って、町を上空から眺めると、美しいヨーロッパ風の町並みと、マラッカ海峡の美しく広大な海が見えた。
植民地時代の古い教会にゆくと、一人の壮年のマレー人男性が、のんびりとしたギターの曲を弾いて歌っていた。
その様子が実に雰囲気にマッチしていて、聞き惚れてしまうようなところがあった。
「ここはちょっとした家なら結構安いよ。10万リンギットくらいでいいの買えるよ」とトライショーの兄さんに言われて、正直な話し、少し心が動いてしまった。
結局、本当は二泊ですますはずのところを、延泊して三泊してしまった。新しい靴を調達したり、予備のメガネを作ってもらったりと、マラッカは便利な町でもあった。いつかまた、再就職して忙しくなった頃に手に入れた連休とかで、またあそこでのんびりしたくなるだろうな、などと思わずにはいられない街であった。
マラッカの画像はこちらにアップロードしました。
長生きし、喜び満ちたる時も
やがて暗き日々が多く来たること忘るるなかれ。
何が来ようと、全ては虚しい。
若者よ、若いうちに愉しむべし。
心にかなう道を 心の赴くまま進め。
人よ知れ、神はそれらすべても裁きの座に連れ行かん。
─『コヘレト書』
2012年10月30日火曜日
2012年10月26日金曜日
峇株巴轄(バトゥパハ・第6日目)
バトゥパハ(Batu Pahat、峇株巴轄)は、マレーシアのジョホール州の海沿いにある、小さな田舎町である。取り立てて見るものもなく、外国人に特別に知られているわけでもなければ、観光客がやって来ること自体が稀なこの街に、今回シンガポールを出て行ってみることにした。
実は前々からこの街には是非足を伸ばして見たかったのだが、なぜそんな事を考えたのかというと、それはある小説を読んだからに他ならない。
明治生まれの小説家、金子光晴。愛知県に生まれたこの人物は、1930年代初頭にマレー半島をあてもなく旅し、後にその体験を「マレー蘭印紀行」という小説にまとめた。
彼のこの小説は、何処か気だるげな幻想感の漂う、不思議な紀行文だ。緑に塗り込められたマレーシア半島の片田舎の小さな町で、日本を離れ、一人あてもなく彷徨う金子光晴の体験が、綴られている。その文章は、所々難解な表現が出てくることもあるが、幽玄と言ってもいい不思議な世界観で、文章の存在する次元が違うのではないかとさえ思わせてくれる。かの立松和平もまた、この紀行文の愛読者だったらしい。
その金子光晴が、一人やってきたのがこのバトゥパハという小さな街で、彼はこの街にあった日本人クラブの建物の三階で寝泊まりをして過ごしていた。
今回、シンガポールを出てマラッカに向かう途中で、バスでバトゥパハをわざと経由し、乗り換え時間でバトゥパハの町並みと、今も現存する、かつて金子光晴が住み暮らしたあの日本人クラブの建物を見てやろうと、寄り道をしたのであった。
そんなわけで、シンガポールから一路陸路で国境を越え、マレーシア側のラーキンというバスターミナルから、バトゥパハ行きのバスに乗り込んだ。
バトゥパハには3時ごろ着いた。
ネットで見聞きしたバトゥパハという町は、観光地どころかいよいよもって全く何もない単なる鄙びた田舎町で、外国人とみれば珍しいので話しかけられたりじろじろ見られたりする、という話だった。
そういうわけで、日本の田舎の漁村のような、緩やかに限界集落に向かって死を待つだけの町を想像していたのだが、実際に町に入ってみると、巨大なモスクや警察署、近代的なショッピングモールにKFC等々と、最初のイメージとはまったくかけ離れた町並みが広がっていた。
町の道路は幅が広くて直線が長いため、どこか帯広の町を連想させるものがあった。
バスターミナルから降りてみると、自分が完全にイスラム圏に入り込んだことがわかった。全身をチャードルに包んだ女性や、頭にヒジャブだけ巻いて、あとは洋装というあべこべな感じの女性たち、ソンコという帽子を被った男たちなどが、大荷物を抱えてバスターミナルをウロウロしている。バスターミナルの中には、イスラム教の礼拝所まであった。後から聞いた話だと、これから週末に掛けてマレーシアの祝日だというので、里帰りなどの旅行者であるらしい。
しかも、じろじろ見られるとか、話しかけられるということもまったくない。みな、忙しそうに歩いているし、こちらのことを気にかけるような素振りの人など一人も居ない。もう、外国人など珍しくないくらい、町も発展が進んでいるということだろう。あるいは、里帰りの都会から来た人たちだらけだったかのどちらかだ。
早速乗り継ぎのバスのチケットを取り、タクシーで目的の日本人クラブを見てやろうとしたのだが、実は肝心の日本人クラブの位置がどうしてもわからなかった。ネット上には何人か訪問の記録を書いている人がいて、建物の写真は何枚もあるのだが、住所がどこかということは誰も書いていない。
『川べりを10分歩いて』とか、『タクシーの運転手に適当に流してもらって見つけた』とか、その程度であった。
しかし、大荷物を抱えて歩きたくなかったので、タクシーの運転手を捕まえて「昔の日本人クラブの建物に連れて行ってくれ。バトゥパハの町の中で、川の近くにあって、今は使われていないはずで、近くに税関がある」というと、その建物を知っているという人がいるので、早速そのタクシーに乗り込んだ。
すると、タクシーはどういうわけか市街地を離れてパームヤシのプランテーションの中の道をひたすら突き進み始めた。
目的地はかなり遠く、15分くらいかかるし、タクシーを捕まえることは難しいので、私を使って往復しろという。…そんな場所だったかなと思いながらも、おとなしくそれに従って乗って行くと、タクシーはやがて小さな集落のそばの廃墟の前に乗り付けた。
「これがそうか?」
「そうだ。見ろ。税関は知らないが、川のそばで、相当昔の建物で、町がそばにあって、今は誰も使っていない」
ロケーションはいちおう合っている。しかし、明らかに建物が違う。だいたい、町中にある三階建の建物だというのに、目の前の朽ちかけた廃墟は草むらの中の平屋建てだ。
「ここで合っているのか?」
「私の知る限り、日本の建物はここしかない。時折日本人がここに来るが、みながっかりして帰っていく。どうだ、がっかりしたか」
と言って、運転手は笑う。
しかし、どう考えてもここではなかった。第二次世界大戦中にイギリス軍と日本軍が戦闘したというその場所を後にして町中に戻り、インターネットができる喫茶店に連れて行ってもらって、店員たちに地図と写真を見せながら、ここはどこかと尋ねた。
すると、年配の店員が、
「Jalan Enganだ」と言う。なんと、バスターミナルから本当に歩いて10分足らずの場所にあったのだ。
バックパックを背負って、Jalan Enganへと歩いて行くと、ようやく、写真と同じ、旧日本人クラブの建物が姿を表した。
建物の一階は何かの会社が使っており、二階以上は封鎖されていて上がることはできないが、ようやく辿り着けたという感慨深さで、胸が熱くなるものを感じた。最初に小説を読んで数年、ついに、こんなところにまで来てしまったのだ。
建物の横には今も税関がやはりあり、男たちが船便の荷物の揚げおろしをしていた。税関の警備員に写真を撮っていいかと聞くと、5分だけだと言って好きに取らせてくれた。きっと彼は、たまによそ者が来て写真を撮りたがるが、一体全体ここに何があるのだろうと不思議に思っているに違いない。
写真を撮った後、建物の壁に背を預け、パソコンを開いて『マレー蘭印紀行』の一節を読んだ。
『バトパハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた町すじの、袋小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊(カキ・ルマ)のある家々で続いている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹き抜けてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街を取り囲んで、打ち負かされることなく森森と茂っている…』
思えば、70年以上も前に書かれたただ一冊の本が、遠い日本に住む、何の縁もゆかりもない一人の人間を、マレーシアの田舎のひとつの建物の前にまで導いてきたのだった。
自分のやっていることとはいえ、人の世の縁の不思議を思わずには居られない。もちろん、やっていることといえばアニメの舞台を巡る「聖地巡礼」と大した違いのない、まったくもってミーハーな振る舞いでしかないのだけれども。
ふと、携帯から日本の実家に電話を掛けてみると、母親が出た。今はもう、ここはかつての密林の深奥に広がる幽玄と気怠さの漂う町ではなく、もっと新しい街になったのだろう。きっと、よそ者が増えて開発が進み、ボタンを押すだけで実家にいつでも電話が掛けられるような。
それにしても、あのタクシーの運転手に連れられて、高い金を払って何の関係もない建物に連れて行かれてがっかりして帰っていった日本人が何人もいるのかと思うと、何だか面白くてしかたがない。
けれどもまあ、悪いのは他に誰もこんなところに来ないだろうとたかをくくって正確な所在地を書かない他の旅行者の皆様であるので、私は以下に正確な位置を明示しておこうと思います。行きたい人がいれば、Jalan Enganと現地の人に訊けば、すぐにたどり着けるはずです。
旧日本人クラブの位置はこちら(正確には、Jalan Engan通りと、Jalan Shah Bandar通りの角の場所です)
Batu Pahatの写真はこちらにアップロードしました。
実は前々からこの街には是非足を伸ばして見たかったのだが、なぜそんな事を考えたのかというと、それはある小説を読んだからに他ならない。
明治生まれの小説家、金子光晴。愛知県に生まれたこの人物は、1930年代初頭にマレー半島をあてもなく旅し、後にその体験を「マレー蘭印紀行」という小説にまとめた。
彼のこの小説は、何処か気だるげな幻想感の漂う、不思議な紀行文だ。緑に塗り込められたマレーシア半島の片田舎の小さな町で、日本を離れ、一人あてもなく彷徨う金子光晴の体験が、綴られている。その文章は、所々難解な表現が出てくることもあるが、幽玄と言ってもいい不思議な世界観で、文章の存在する次元が違うのではないかとさえ思わせてくれる。かの立松和平もまた、この紀行文の愛読者だったらしい。
その金子光晴が、一人やってきたのがこのバトゥパハという小さな街で、彼はこの街にあった日本人クラブの建物の三階で寝泊まりをして過ごしていた。
今回、シンガポールを出てマラッカに向かう途中で、バスでバトゥパハをわざと経由し、乗り換え時間でバトゥパハの町並みと、今も現存する、かつて金子光晴が住み暮らしたあの日本人クラブの建物を見てやろうと、寄り道をしたのであった。
そんなわけで、シンガポールから一路陸路で国境を越え、マレーシア側のラーキンというバスターミナルから、バトゥパハ行きのバスに乗り込んだ。
バトゥパハには3時ごろ着いた。
ネットで見聞きしたバトゥパハという町は、観光地どころかいよいよもって全く何もない単なる鄙びた田舎町で、外国人とみれば珍しいので話しかけられたりじろじろ見られたりする、という話だった。
そういうわけで、日本の田舎の漁村のような、緩やかに限界集落に向かって死を待つだけの町を想像していたのだが、実際に町に入ってみると、巨大なモスクや警察署、近代的なショッピングモールにKFC等々と、最初のイメージとはまったくかけ離れた町並みが広がっていた。
町の道路は幅が広くて直線が長いため、どこか帯広の町を連想させるものがあった。
バスターミナルから降りてみると、自分が完全にイスラム圏に入り込んだことがわかった。全身をチャードルに包んだ女性や、頭にヒジャブだけ巻いて、あとは洋装というあべこべな感じの女性たち、ソンコという帽子を被った男たちなどが、大荷物を抱えてバスターミナルをウロウロしている。バスターミナルの中には、イスラム教の礼拝所まであった。後から聞いた話だと、これから週末に掛けてマレーシアの祝日だというので、里帰りなどの旅行者であるらしい。
しかも、じろじろ見られるとか、話しかけられるということもまったくない。みな、忙しそうに歩いているし、こちらのことを気にかけるような素振りの人など一人も居ない。もう、外国人など珍しくないくらい、町も発展が進んでいるということだろう。あるいは、里帰りの都会から来た人たちだらけだったかのどちらかだ。
早速乗り継ぎのバスのチケットを取り、タクシーで目的の日本人クラブを見てやろうとしたのだが、実は肝心の日本人クラブの位置がどうしてもわからなかった。ネット上には何人か訪問の記録を書いている人がいて、建物の写真は何枚もあるのだが、住所がどこかということは誰も書いていない。
『川べりを10分歩いて』とか、『タクシーの運転手に適当に流してもらって見つけた』とか、その程度であった。
しかし、大荷物を抱えて歩きたくなかったので、タクシーの運転手を捕まえて「昔の日本人クラブの建物に連れて行ってくれ。バトゥパハの町の中で、川の近くにあって、今は使われていないはずで、近くに税関がある」というと、その建物を知っているという人がいるので、早速そのタクシーに乗り込んだ。
すると、タクシーはどういうわけか市街地を離れてパームヤシのプランテーションの中の道をひたすら突き進み始めた。
目的地はかなり遠く、15分くらいかかるし、タクシーを捕まえることは難しいので、私を使って往復しろという。…そんな場所だったかなと思いながらも、おとなしくそれに従って乗って行くと、タクシーはやがて小さな集落のそばの廃墟の前に乗り付けた。
「これがそうか?」
「そうだ。見ろ。税関は知らないが、川のそばで、相当昔の建物で、町がそばにあって、今は誰も使っていない」
ロケーションはいちおう合っている。しかし、明らかに建物が違う。だいたい、町中にある三階建の建物だというのに、目の前の朽ちかけた廃墟は草むらの中の平屋建てだ。
「ここで合っているのか?」
「私の知る限り、日本の建物はここしかない。時折日本人がここに来るが、みながっかりして帰っていく。どうだ、がっかりしたか」
と言って、運転手は笑う。
しかし、どう考えてもここではなかった。第二次世界大戦中にイギリス軍と日本軍が戦闘したというその場所を後にして町中に戻り、インターネットができる喫茶店に連れて行ってもらって、店員たちに地図と写真を見せながら、ここはどこかと尋ねた。
すると、年配の店員が、
「Jalan Enganだ」と言う。なんと、バスターミナルから本当に歩いて10分足らずの場所にあったのだ。
バックパックを背負って、Jalan Enganへと歩いて行くと、ようやく、写真と同じ、旧日本人クラブの建物が姿を表した。
建物の一階は何かの会社が使っており、二階以上は封鎖されていて上がることはできないが、ようやく辿り着けたという感慨深さで、胸が熱くなるものを感じた。最初に小説を読んで数年、ついに、こんなところにまで来てしまったのだ。
建物の横には今も税関がやはりあり、男たちが船便の荷物の揚げおろしをしていた。税関の警備員に写真を撮っていいかと聞くと、5分だけだと言って好きに取らせてくれた。きっと彼は、たまによそ者が来て写真を撮りたがるが、一体全体ここに何があるのだろうと不思議に思っているに違いない。
写真を撮った後、建物の壁に背を預け、パソコンを開いて『マレー蘭印紀行』の一節を読んだ。
『バトパハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた町すじの、袋小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊(カキ・ルマ)のある家々で続いている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹き抜けてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街を取り囲んで、打ち負かされることなく森森と茂っている…』
思えば、70年以上も前に書かれたただ一冊の本が、遠い日本に住む、何の縁もゆかりもない一人の人間を、マレーシアの田舎のひとつの建物の前にまで導いてきたのだった。
自分のやっていることとはいえ、人の世の縁の不思議を思わずには居られない。もちろん、やっていることといえばアニメの舞台を巡る「聖地巡礼」と大した違いのない、まったくもってミーハーな振る舞いでしかないのだけれども。
ふと、携帯から日本の実家に電話を掛けてみると、母親が出た。今はもう、ここはかつての密林の深奥に広がる幽玄と気怠さの漂う町ではなく、もっと新しい街になったのだろう。きっと、よそ者が増えて開発が進み、ボタンを押すだけで実家にいつでも電話が掛けられるような。
それにしても、あのタクシーの運転手に連れられて、高い金を払って何の関係もない建物に連れて行かれてがっかりして帰っていった日本人が何人もいるのかと思うと、何だか面白くてしかたがない。
けれどもまあ、悪いのは他に誰もこんなところに来ないだろうとたかをくくって正確な所在地を書かない他の旅行者の皆様であるので、私は以下に正確な位置を明示しておこうと思います。行きたい人がいれば、Jalan Enganと現地の人に訊けば、すぐにたどり着けるはずです。
旧日本人クラブの位置はこちら(正確には、Jalan Engan通りと、Jalan Shah Bandar通りの角の場所です)
Batu Pahatの写真はこちらにアップロードしました。
2012年10月25日木曜日
シンガポールのコインランドリー
シンガポールにはコインランドリーというものはあまりない。あるのは普通のクリーニング屋ばかりである。
今回、溜まった洗濯物をホテルのランドリーサービスに預けようとしたところ、「今日はもう回収し終わったから明日の朝10時に出しなさい。明後日の朝に戻ってくる。値段は3500円」という、明日の朝にチェックアウトする人間には何のありがたみもないコメントが受付から帰ってきたので、ネットでコインランドリーがないかどうか調べてみた。
シンガポールでは、コインランドリーは"laundromat"と言うらしい。今回泊まったヴィクトリアストリートのホテルから最も近いのは、セレギーストリートのPoMoモールの地下にある「Systematic laundromat」である。これは正確には日本のコインランドリーのような無人の店舗ではなく、人間がコインランドリーの機械を使って洗濯をしてくれるという店だったが、1000円ほど、4時間で綺麗な衣服を戻してくれた。
他にも、「Easy wash」という、日本のコインランドリーと同じ仕組みの店舗がシンガポール内に幾つかある。
ちなみに、systematic laundromatのそばには、「Angel Beats!」風のロゴのアニメショップがあり、日本のアニメ雑誌や最新のアニメのポスター・東方のフィギュアなどがゴロゴロ転がっており、店の中ではシンガポール人が嬉しそうにオタトーク(らしきこと)をしていた。
アニメ好きの旅人が居たら暇つぶしに入ってみるのも良いかもしれない。
今回、溜まった洗濯物をホテルのランドリーサービスに預けようとしたところ、「今日はもう回収し終わったから明日の朝10時に出しなさい。明後日の朝に戻ってくる。値段は3500円」という、明日の朝にチェックアウトする人間には何のありがたみもないコメントが受付から帰ってきたので、ネットでコインランドリーがないかどうか調べてみた。
シンガポールでは、コインランドリーは"laundromat"と言うらしい。今回泊まったヴィクトリアストリートのホテルから最も近いのは、セレギーストリートのPoMoモールの地下にある「Systematic laundromat」である。これは正確には日本のコインランドリーのような無人の店舗ではなく、人間がコインランドリーの機械を使って洗濯をしてくれるという店だったが、1000円ほど、4時間で綺麗な衣服を戻してくれた。
他にも、「Easy wash」という、日本のコインランドリーと同じ仕組みの店舗がシンガポール内に幾つかある。
ちなみに、systematic laundromatのそばには、「Angel Beats!」風のロゴのアニメショップがあり、日本のアニメ雑誌や最新のアニメのポスター・東方のフィギュアなどがゴロゴロ転がっており、店の中ではシンガポール人が嬉しそうにオタトーク(らしきこと)をしていた。
アニメ好きの旅人が居たら暇つぶしに入ってみるのも良いかもしれない。
摩天楼の王国(シンガポール・第5日目)
シンガポールという国がある。
マレー人、インド人、中国人の3つの民族が混ざり合って暮らすこの国は、元はマレーシア連邦の一員として、マラヤ・サラワク・サバと共に独立を果たした。ところが、1963年に中央政府との間に民族間の仲違いが生じ、追い出されるようにして独立した。
独立の当時、リー・クアンユー首相は演説中に泣いたという。本人はシンガポール独立を望んでいなかった上に、共にマレーシア独立のために長年戦ってきたマレーシアの戦友・ラーマン首相に、民族間の融和は不可能だといって追い出されてしまったようなものだからだ。
それ以来、シンガポールは一つの都市がまるごと国家になった都市国家として発展しつづけ、今やシンガポールは国全体が大都市のようになっている。
けれど、シンガポールは表向きの発展とは裏腹に、長年独裁が続く独裁国家である。野党があり選挙もあることにはあるが、野党が勝った選挙区には制裁があるとか、反体制的なジャーナリストなどが弾圧・国外追放を受けたりしているという。ゲリマンダーや言論統制も日常茶飯事とのことだ。
シンガポールが『明るい北朝鮮』と言われる所以だ。
そんなシンガポールに実際に行ってみたが、シンガポールは噂通りの大都市であった。
街は綺麗で美しく、街にはインド風、マレー風、中国風の人々が、縦横無尽に行き交っている。高層ビルがこれでもかというほど立ち並び、圧倒的な情景を演出する。東京と横浜を足して二で割ったような印象だ。
実際、街には何の問題もないように思える。様々な人種が衝突することなく混ざり合い、街は発展し続けているのだから。
こうした人々の中には、祖国を離れて、経済的に豊かなシンガポールに移住してきた人たちもいることだろう。つまり、そうした人々は民主主義でも貧しい国より、独裁でもいいから豊かな国のほうが良いと思っているはずである。
一体、どちらが正しいのだろうか?
きっと、シンガポールはリー首相が亡くなってから、あるいは今の首相(リー首相の息子)が辞めてから、新たな物凄いカリスマが現れない限り、一悶着起きると思う。
独裁制で野党を支持すると制裁されるから、国民はあまり政治に関心がないというし、そういう国民が民主主義をしても上手く行かないのはよくある話である。
また、カリスマがいなくなった後、各民族が自分たちの主張ばかりして衝突した結果、国が砕け散ってしまったユーゴスラビアの例もある。
果たして、シンガポールはこれからどうなっていくのだろう。
きっとそんな話をすれば、シンガポール人は笑って、「うちのことなんかより、お前の国の首相がころころ変わるのを心配しろよ」と言うのだろうけれど。
そんなことを思いながら眺めるシンガポールの街並みは、美しい限りだった。
マレー人、インド人、中国人の3つの民族が混ざり合って暮らすこの国は、元はマレーシア連邦の一員として、マラヤ・サラワク・サバと共に独立を果たした。ところが、1963年に中央政府との間に民族間の仲違いが生じ、追い出されるようにして独立した。
独立の当時、リー・クアンユー首相は演説中に泣いたという。本人はシンガポール独立を望んでいなかった上に、共にマレーシア独立のために長年戦ってきたマレーシアの戦友・ラーマン首相に、民族間の融和は不可能だといって追い出されてしまったようなものだからだ。
それ以来、シンガポールは一つの都市がまるごと国家になった都市国家として発展しつづけ、今やシンガポールは国全体が大都市のようになっている。
けれど、シンガポールは表向きの発展とは裏腹に、長年独裁が続く独裁国家である。野党があり選挙もあることにはあるが、野党が勝った選挙区には制裁があるとか、反体制的なジャーナリストなどが弾圧・国外追放を受けたりしているという。ゲリマンダーや言論統制も日常茶飯事とのことだ。
シンガポールが『明るい北朝鮮』と言われる所以だ。
そんなシンガポールに実際に行ってみたが、シンガポールは噂通りの大都市であった。
街は綺麗で美しく、街にはインド風、マレー風、中国風の人々が、縦横無尽に行き交っている。高層ビルがこれでもかというほど立ち並び、圧倒的な情景を演出する。東京と横浜を足して二で割ったような印象だ。
実際、街には何の問題もないように思える。様々な人種が衝突することなく混ざり合い、街は発展し続けているのだから。
こうした人々の中には、祖国を離れて、経済的に豊かなシンガポールに移住してきた人たちもいることだろう。つまり、そうした人々は民主主義でも貧しい国より、独裁でもいいから豊かな国のほうが良いと思っているはずである。
一体、どちらが正しいのだろうか?
きっと、シンガポールはリー首相が亡くなってから、あるいは今の首相(リー首相の息子)が辞めてから、新たな物凄いカリスマが現れない限り、一悶着起きると思う。
独裁制で野党を支持すると制裁されるから、国民はあまり政治に関心がないというし、そういう国民が民主主義をしても上手く行かないのはよくある話である。
また、カリスマがいなくなった後、各民族が自分たちの主張ばかりして衝突した結果、国が砕け散ってしまったユーゴスラビアの例もある。
果たして、シンガポールはこれからどうなっていくのだろう。
きっとそんな話をすれば、シンガポール人は笑って、「うちのことなんかより、お前の国の首相がころころ変わるのを心配しろよ」と言うのだろうけれど。
そんなことを思いながら眺めるシンガポールの街並みは、美しい限りだった。
2012年10月23日火曜日
バコロド、再び(第2日目〜第4日目)
世界一周をする一ヶ月ほど前まで、語学を学ぶためにフィリピンに留学していた。
留学先はマニラでもセブでもなかった。フィリピン中部のヴィサヤ諸島、ネグロス島の西に位置する、バコロド市である。
バコロドの人口は40万ほどで、特にこれと言った大観光地のようなものはない、一地方都市である。
しかし、それが故にバコロドは治安がよく、人々はフレンドリーで穏やかだった。日本人も少なく、日本人だけで常に固まるような状態になりにくく、勉強に集中しやすい。それが、バコロドに行く事に決めた理由で、実際にバコロドに行ったのは正しかったと思う。
今、Across The Universeという人気のブログをたちあげて世界一周中の市川くんもまた、自分と同じころに同じ学校に行っていた仲間である。
今回、そんなバコロドにわざわざ帰国後一ヶ月で出戻りを果たしたのは、毎年10月の中頃に、マスカラフェスティバルというフィリピン最大級のお祭りが開かれるからだった。
街中の至るところでダンスコンテストやイベントが開かれ、パレードや出店も数えきれないほどであるという。留学していた時、これを見れずに帰ったのが、目下の心残りであった。
とはいえ、わざわざそのために、一度帰った場所にまた戻るべきかどうか悩んだが、全く未知の土地に向かう前に、海外で知っている場所を一度訪問し、調子を整えてから向かいたいという思いがあった。
何より、その話をすると母はこう言った。
「行ける時に行っておいたほうがいい。そうしないと後悔するから」と。
全くもってその通りである。来年の今頃、バコロドに行けるかどうかなど、誰にも分からないのだ。
そうしてバコロドに再びやって来ると、街はすっかりお祭りムードに充たされ、主要なスポットはまさしく人ごみに埋め尽くされていた。まるで、街全てがひとつのアトラクションになったかのようだった。
かつての仲間たちと再会し、食事を交わし、旧交(というほど昔でもないけれど)を温め、ともにフェスティバルを愉しむ。
そうしているうちに、少しずつ調子が戻ってくるような感じがした。函館を出る直前は、自分のことだというのに、何だか世界一周というものが遠い場所にあるかのような気さえしていた。
それが、バコロドに戻ってきて、雑然とした熱気の中に迷い込んだだけで、気持ちが留学中の時のように上向いてきたことを確かに感じた。思い通りの結果だった。
バコロド滞在の最終夜に、大ショッピングモール・SMモールのそばに設置された移動遊園地に友人たちとともに出かけた。
「ヤバいですよ」としきりに乗るように勧められた空中ブランコに乗りたいと思っていたのだ。
空中ブランコに乗り込むと、ブランコは恐るべきスピードで回り始めた。遠心力で遥か彼方に吹き飛ばされそうになりながら夜空を見上げると、美しい月が浮かんでいた。
その月を眺めていると、いよいよ明日からは、本当の旅が始まるのだという思いが、心のなかから湧きあがるのだった…。
留学先はマニラでもセブでもなかった。フィリピン中部のヴィサヤ諸島、ネグロス島の西に位置する、バコロド市である。
バコロドの人口は40万ほどで、特にこれと言った大観光地のようなものはない、一地方都市である。
しかし、それが故にバコロドは治安がよく、人々はフレンドリーで穏やかだった。日本人も少なく、日本人だけで常に固まるような状態になりにくく、勉強に集中しやすい。それが、バコロドに行く事に決めた理由で、実際にバコロドに行ったのは正しかったと思う。
今、Across The Universeという人気のブログをたちあげて世界一周中の市川くんもまた、自分と同じころに同じ学校に行っていた仲間である。
今回、そんなバコロドにわざわざ帰国後一ヶ月で出戻りを果たしたのは、毎年10月の中頃に、マスカラフェスティバルというフィリピン最大級のお祭りが開かれるからだった。
街中の至るところでダンスコンテストやイベントが開かれ、パレードや出店も数えきれないほどであるという。留学していた時、これを見れずに帰ったのが、目下の心残りであった。
とはいえ、わざわざそのために、一度帰った場所にまた戻るべきかどうか悩んだが、全く未知の土地に向かう前に、海外で知っている場所を一度訪問し、調子を整えてから向かいたいという思いがあった。
何より、その話をすると母はこう言った。
「行ける時に行っておいたほうがいい。そうしないと後悔するから」と。
全くもってその通りである。来年の今頃、バコロドに行けるかどうかなど、誰にも分からないのだ。
そうしてバコロドに再びやって来ると、街はすっかりお祭りムードに充たされ、主要なスポットはまさしく人ごみに埋め尽くされていた。まるで、街全てがひとつのアトラクションになったかのようだった。
かつての仲間たちと再会し、食事を交わし、旧交(というほど昔でもないけれど)を温め、ともにフェスティバルを愉しむ。
そうしているうちに、少しずつ調子が戻ってくるような感じがした。函館を出る直前は、自分のことだというのに、何だか世界一周というものが遠い場所にあるかのような気さえしていた。
それが、バコロドに戻ってきて、雑然とした熱気の中に迷い込んだだけで、気持ちが留学中の時のように上向いてきたことを確かに感じた。思い通りの結果だった。
バコロド滞在の最終夜に、大ショッピングモール・SMモールのそばに設置された移動遊園地に友人たちとともに出かけた。
「ヤバいですよ」としきりに乗るように勧められた空中ブランコに乗りたいと思っていたのだ。
空中ブランコに乗り込むと、ブランコは恐るべきスピードで回り始めた。遠心力で遥か彼方に吹き飛ばされそうになりながら夜空を見上げると、美しい月が浮かんでいた。
その月を眺めていると、いよいよ明日からは、本当の旅が始まるのだという思いが、心のなかから湧きあがるのだった…。
ラベル:
旅行日誌
場所:
フィリピン バコロド
2012年10月18日木曜日
誓約書(第1日目)
フィリピンへの語学留学を終えてから一ヶ月、ついに世界一周の旅を始めた。
どこまで行けるのか分からないが、一生に一度あるかないかの機会である。やれるだけのことはやらなくてはならない。
そう思ってはみたものの、人間とは不思議なもので、世界一周がいざ目の前に差し掛かると、どうも調子が乗らないからもっと後で出発しようとか、準備が済んでいないからもっと後で出発しようとか、そういう気持ちが心の中から湧きだしてきていた。
会社員時代、何年間も、毎日のように夢見てきた旅路だというのに、である。
この一ヶ月、日本の生活にすっかり馴染みきってしまい、ついつい毎日ダラダラと過ごす日々が続いていたせいかもしれない。あるいは、本来の性格がそういう後回しタイプの人間だからか…。
いずれにしても、こんなことではいけないと思い、出発日を無理やり決めてしまった。
フィリピンで語学留学していたネグロス島のバコロド市。そこで、10月19日からマスカラフェスティバルというフィリピン第一のお祭り(のハイライト)がある。
留学していた頃から、見てみたいとずっと思いながらも、とうとう果たせずに帰国してしまった。
それを見てやろうというのである。
語学留学したばかりの街に、一ヶ月と経たず戻ってくるというのはどうなんだという気持ちはある。実際、留学先の日本人スタッフの人に、一年ぐらいしてから戻ってきてくれたほうがこっちも安心するわと冗談を言われたりもした。
とはいえ、見たいというのだから仕方がない。小田実じゃないが、『何でも見てやろう』という位の気持ちでいたほうが、日本に戻ってくる頃により多くのものを得られるはずである。
ところが、初日から旅は波瀾の幕開けを迎えた。
バックパックを抱えて函館空港の国際線ロビーにたどり着き、椅子に座って一息ついて、印刷しておいたコリアンエアのチケット控えを取り出したら、何か違和感がある。
よく見ると、函館から韓国のインチョン、インチョンからマニラへ一日のうちに飛ぶ予定になっていたはずが、インチョンからマニラまでのフライトが明日の朝のフライトになっていたのだ。
いきなり、ホームラン級のボケを披露してしまったことに狼狽し、慌ててチェックインカウンターでフライトを変えてもらえてないかと掛け合ったが、今日のフライトは満席だ、ということであった。
しかも、問題はそれだけに終わらなかった。どうしようかと考えていると、受付の女性が深刻そうな顔で私のパスポートとチケット控えを見つめている。
「何か問題でも?」
そう聞くと、女性は「帰りのフライトがありませんが…」という。
「それで合ってますよ。ここには帰らずに、フィリピンからまた別の国に移動するんです。フライトはまだ予約してないですけど」というと、女性は「そうなんですか…」と言いつつ、何かの用紙を取り出した。
紙には、「誓約書」なる文言が書かれている。
「何ですか、これ?」
「フィリピンのビザをお持ちでないので、誓約書を書いていただかなければなりません」
ビザ? ビザってなんだ? 今回は一週間もフィリピンに居ない予定のはずだ。ビザなんて必要ないはず。帰りのチケットがないとフィリピンには入国させてもらえないのか? そんな話は聞いたことがない。
「そんなに長くいる予定ではないので、ビザはもともとないのが普通のはずですが…」
「いえ、書いていただくことになっておりますので…」
PHビザ未所持。ビザを所持していないことによるいかなる損害も大韓航空に請求しないことを誓約致します…云々と、不穏な言葉がこれでもかと並んでいるが、サインをしないと乗せてもらえないということなので、仕方がなくサインした。
それでも、インチョン国際空港には定刻通りに到着した。
急遽トランジットホテルを取り、そこに投宿。本場のビビンバはこれでもかというほど美味しかった。
そうして今これを書いている。旅はまだ始まったばかりだ。
どこまで行けるのか分からないが、一生に一度あるかないかの機会である。やれるだけのことはやらなくてはならない。
そう思ってはみたものの、人間とは不思議なもので、世界一周がいざ目の前に差し掛かると、どうも調子が乗らないからもっと後で出発しようとか、準備が済んでいないからもっと後で出発しようとか、そういう気持ちが心の中から湧きだしてきていた。
会社員時代、何年間も、毎日のように夢見てきた旅路だというのに、である。
この一ヶ月、日本の生活にすっかり馴染みきってしまい、ついつい毎日ダラダラと過ごす日々が続いていたせいかもしれない。あるいは、本来の性格がそういう後回しタイプの人間だからか…。
いずれにしても、こんなことではいけないと思い、出発日を無理やり決めてしまった。
フィリピンで語学留学していたネグロス島のバコロド市。そこで、10月19日からマスカラフェスティバルというフィリピン第一のお祭り(のハイライト)がある。
留学していた頃から、見てみたいとずっと思いながらも、とうとう果たせずに帰国してしまった。
それを見てやろうというのである。
語学留学したばかりの街に、一ヶ月と経たず戻ってくるというのはどうなんだという気持ちはある。実際、留学先の日本人スタッフの人に、一年ぐらいしてから戻ってきてくれたほうがこっちも安心するわと冗談を言われたりもした。
とはいえ、見たいというのだから仕方がない。小田実じゃないが、『何でも見てやろう』という位の気持ちでいたほうが、日本に戻ってくる頃により多くのものを得られるはずである。
ところが、初日から旅は波瀾の幕開けを迎えた。
バックパックを抱えて函館空港の国際線ロビーにたどり着き、椅子に座って一息ついて、印刷しておいたコリアンエアのチケット控えを取り出したら、何か違和感がある。
よく見ると、函館から韓国のインチョン、インチョンからマニラへ一日のうちに飛ぶ予定になっていたはずが、インチョンからマニラまでのフライトが明日の朝のフライトになっていたのだ。
いきなり、ホームラン級のボケを披露してしまったことに狼狽し、慌ててチェックインカウンターでフライトを変えてもらえてないかと掛け合ったが、今日のフライトは満席だ、ということであった。
しかも、問題はそれだけに終わらなかった。どうしようかと考えていると、受付の女性が深刻そうな顔で私のパスポートとチケット控えを見つめている。
「何か問題でも?」
そう聞くと、女性は「帰りのフライトがありませんが…」という。
「それで合ってますよ。ここには帰らずに、フィリピンからまた別の国に移動するんです。フライトはまだ予約してないですけど」というと、女性は「そうなんですか…」と言いつつ、何かの用紙を取り出した。
紙には、「誓約書」なる文言が書かれている。
「何ですか、これ?」
「フィリピンのビザをお持ちでないので、誓約書を書いていただかなければなりません」
ビザ? ビザってなんだ? 今回は一週間もフィリピンに居ない予定のはずだ。ビザなんて必要ないはず。帰りのチケットがないとフィリピンには入国させてもらえないのか? そんな話は聞いたことがない。
「そんなに長くいる予定ではないので、ビザはもともとないのが普通のはずですが…」
「いえ、書いていただくことになっておりますので…」
PHビザ未所持。ビザを所持していないことによるいかなる損害も大韓航空に請求しないことを誓約致します…云々と、不穏な言葉がこれでもかと並んでいるが、サインをしないと乗せてもらえないということなので、仕方がなくサインした。
それでも、インチョン国際空港には定刻通りに到着した。
急遽トランジットホテルを取り、そこに投宿。本場のビビンバはこれでもかというほど美味しかった。
そうして今これを書いている。旅はまだ始まったばかりだ。
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