2013年1月12日土曜日

大失態(新疆ウイグル自治区・トルファン市&ウルムチ市、第48〜52日目)


新疆ウイグル自治区は、文字通りウイグル人の住み暮らす土地である。テュルク系のウイグル人やその他の異民族、そして東方の漢民族との間で、この地は幾度も揺れた。
事実、東トルキスタンという名で独立を宣言したこともあるし、漢民族の盛世才という男が、第二次世界大戦末期までこの地を、事実上の独立国として支配していた時期もある(スウェーデンの冒険家、スヴェン・ヘディンが冒険中、この男に捕まったことがある。また、同じくスウェーデンのゲームメーカー・Paradox Interactiveのシミュレーションゲーム・Hearts of Ironシリーズにも、新疆地方を支配する軍閥の指導者として名前が出てくる)。
いずれにせよ、現在は中国が支配しているが、チベットともども、時折異民族支配に対する不満が出てくるのは周知の通りだ。数年前にも、省都ウルムチで暴動が起きたのは記憶に新しいことだろう。
彼らの中国支配に対する複雑な心境は、6年ほど前に知り合った新疆人との話の中から垣間見たことがある。
以前勤めていた会社に入社したばかりの頃、私は仙台にある会社の本社に勤めていたが、その時新人研修を一緒に受けていた関連会社の新入社員が、トルファン近郊出身のウイグル人だったのである。
彼と親しくなった時、たまたま同じ会社の漢民族の中国人の人とも親しくなり、彼らとお茶でも飲みに行こうという話になった。
国分町のドトールコーヒーだったと思うが、私を真ん中に挟んで、中国のことについて激論を交わす彼らのことを今でも忘れられない。
漢民族の同僚と別れ、ウイグル人の彼と二人で会社方面に戻る時、彼は「彼はやっぱり、新疆は中国のものだと思っていますね」と呟いていた。また、彼はよく、「新疆は中国の植民地みたいなところです」と ことあるごとに他の同期達の前で話していたものだ。
何事にも永遠はないから、やがては異民族支配が終わる日ももしかしたら来るのかもしれないが、その時どんな出来事が起きるのか、想像が付かない。
異民族支配を受けたことのない日本人の口からは、どんなコメントも重くはならないだろうけれども、いずれにせよ平和的に物事を進めて欲しいとしかコメントのしようがない。

敦煌を出た後、私はおよそ10時間ほど、寝台列車の中で過ごした。はじめ、寝台列車というので、タイに行くときに乗ったマレーシア・タイ国際寝台列車や、以前富山から青森まで乗った「日本海」のような、居心地の良い寝台列車を想像してワクワクしていたのだが、現実にはこんな楽しくない寝台列車は初めてというほどつらいものとなった。
硬い・狭い・五月蠅い・臭いと、軍に入隊して前線に送られるむさ苦しい輸送列車に乗ったらこうだろうか、と想像せずには居られない辛い旅路だった。
それでも何とか頑張って寝て、それから目を覚ますと、列車はまだ薄暗い中をひた走っているところだった。トルファン到着までまだ時間もあるな、とのんびりしていると、人々が身支度を整え始めたので、トルファンの一つ前の駅かな、などと考えていると、実際にはトルファンに30分近く早く到着したのだと聞かされ、慌ただしく身支度を整えて降りる羽目になった。後数分気づくのが遅かったら、降り遅れるところだった。

駅から出ると、そこは中国とは別の国のような世界だった。薄暗いうちから、ウイグル人たちがパンを駅前の店先で焼いている。まるで、気づかないうちに国境を越えてしまい、(行ったことはまだないが)中央アジアの国に出てしまったかのようだ。
バスに乗って、まだ薄暗い中をトルファン市内に向けて走る。敦煌の隋さんに、「中国の人は時差がないことになってるから、西の人達は、朝の7時とか8時になっても薄暗いのは不便じゃないですか?」と聞いたところ、「中国では場所によって何時から何時まではまだ暗いというイメージが出来上がっているし、地方でそれぞれ起きる時間や仕事をする時間をずらしているから、別に言うほど問題ではないですよ」とは聞かされていたが、やはり朝の9時半になっても日が昇らないというのは、いくらなんでもあんまりである。
そのせいか、やはり新疆のウイグル人は新疆時間という、北京時間から2時間遅れの独自時間を使っていたが、聞くところによると新疆の漢民族は新疆時間は使わず、北京時間を使っているという(ウイグル人が新疆時間を使い、漢民族が北京時間を使っていることに、彼らの本音が現れていると言ったら、それは穿ち過ぎだろうか?)。

とはいえ、トルファン市内に着いた頃には、さすがに日も昇ってきた。とりあえずホテルに行こうとタクシーを探すと、珍しく英語で話し掛けてきた人が居て、その人に頼むと、なんと日本語も達者な人だった。
その人に頼んでホテルに荷物を置き、信用できる人だと判断したので、トルファンの市民の暮らしを見学しに連れて行ってもらうことにした。彼の甥というマリオみたいな顔のマンニッキさんと三人で、ウイグル風の蒸しパンと、塩入りのホットミルクの朝食を食べた後、彼らの仕事場である干しプラムと干しブドウの工場を見物した。

ここまでは良かったが、そこで私は、中国の滞在期限がギリギリに迫ってきていることに気づいた。昆明-西安-敦煌と一都市に3~5日は滞在していたから、後3日もすれば滞在期限を迎えてしまう。
仕方なく公安に行ったが、公安も「申請に一週間かかる」というつれない態度で、ここでの延長は諦めるほかなかった。
その後、彼に頼んで、漢代から残る巨大な都市遺跡・交河故城と、天山山脈から雪解け水を運んでくる伝統の地下水路・カレーズを見学した。

カレーズの中は、NHK特集・シルクロードの中では「地上は暑いが、中は別世界のように涼しい」と紹介されていたが、冬の今は逆で、「地上は極寒だが、中は別世界のように温かい」という不思議な状態だった(今思うと、博物館の中だったから、暖房が入っていたのかもしれない)。
最後に、彼らに頼んで地元の市場を見学し、山積みの干しブドウやプラムを見せてもらった後、彼に別れを告げてホテルに戻った。

次の日、私はトルファンに1日で別れを告げて、ウルムチにバスで向かった。
ウルムチは、「シルクロードのロマンを求める日本の旅人が飛行機で降り立つとがっかりさせられる都市」として有名だが、それはウルムチが日本のそれと対して変わらない巨大で近代的な大都市であり、旅情をかき立てられるものがほとんどないからである。

私は幸い、東から西に歩を進めてきたからそのようなことはなかったけれど、確かにいきなりウルムチに降り立った人が、何だここはとガッカリさせられるのはやむを得ないな、と思わざるを得ない町並みではあった。
しかし、全く何の面白みもないかといえば、そういうわけでもなかった。たとえば、ウルムチのウイグル人地区に行くと、巨大なバザールがある。イスラムの雰囲気に溢れ、中国というイメージから解き放たれた中央アジアの世界観を表現した素晴らしいバザールであるが、なんとこのバザールには地下階があり、地下階に行くと近代的なスーパーマーケットがあったりするのだ。
中央アジアの伝統的なバザールも、近代的化の波には乗らざるを得ないらしい。なんだか、上だけ伝統的で下がスーパーなこの不思議な空間に、シュールさを感じずにはいられなかった。


ウルムチの公安に改めてビザ延長について問い合わせたが、結局ここでも1週間かかることに変わりはなかった。何食わぬ顔してパスポートを預けておき、自分はパスポートのコピーを持ってカシュガルにでも行けばよいではないか、という意見もあるだろうが、中国では都市間バスに乗るのにもパスポートの提示が求められるので、コピーでは移動ができないのだ。つまり、パスポートを預けて1週間ウルムチにカンヅメになるか、諦めて次の国に移動するか、の二択である。私は、後者を選択せざるを得なかった。
カシュガルにも行ってみたかったけれど、隋さんからパキスタンへ続く陸路の国境は閉鎖されていると言われていたし、飛行機の便もなかったので、大人しく飛行機でウルムチから北京を経由してデリーに向かうことにした。
最後とばかりに、私は『楼蘭の美女』に会いに、新疆ウイグル自治区博物館に向かった。
『楼蘭の美女』とは、1980年にタクラマカン砂漠の真ん中、かつて楼蘭王国があった一帯で出土した、女性のミイラである。この女性は3800年前、現在の南ロシアから移住してきた白人系の女性であるらしい。このミイラもまた、NHK特集・シルクロードで紹介されたことがある。
中国の奥地に眠る古代の謎の王国に、美しい白人の女性のミイラ。これは見ずにはおれない。というわけで、私は新疆ウイグル自治区博物館に向かったわけだが、実際に私をそこで出迎えたのは、『陳雲同志没後17周年記念展示会』であった。
「…誰?」
ということで調べると、陳雲同志は中国共産党の八大元老という最重要の重鎮の一人であったらしい。とりわけ保守派の重鎮として、改革派の鄧小平と対立したが、1992年に鄧小平によって批判されて失脚、引退…とそんなことはどうでもよくて、肝心の楼蘭の美女はどこだ、と博物館の中を調べて回ったが、何故か楼蘭の美女の展示は行われていなかった。
楼蘭の美女が、おじいちゃんに様変わりしてしまった。いや、楼蘭の美女もおばあちゃんどころか枯れ切った水分0のミイラなわけだが、私は釈然としないまま、陳雲同志の生涯について学ぶ羽目になってしまった。

そんな出来事にもめげず、私は翌日、ついにインドに出発するため、ウルムチの空港に向かった。ここで私は、この旅の中でも最大級のミスを犯してしまった。
保安検査を抜ける際、カバンにMacbookを入れたままにしていたのだが、それを保安検査員の女性に見咎められたのである。「出せ!」と女性は声高に言い放ち、カバンからMacbookを引っ張りだすと、それをどこかに持って行ってしまった。
そこで私は保安検査を抜けるとカバンの荷物を纏めたが、急いでいたためであろうか、何故かMacbookのことをうっかり忘れ去ってしまったのだ! 私はMacbookを置き去りにしたまま、飛行機に乗り込んでしまった…。
その10分後、私は飛行機の中で、Macbookがないことに気づいた。せめて後5分早く気づいていれば、すぐに保安検査ゲートに戻れたのだが、気づいた時には時既に遅く、飛行機はゲートを離れてゆっくりと、滑走路に向かって動き始めていた。
この時の絶望は伝わるだろうか。自分のノートPCがあることが分かっているのに、ゆっくりと離陸するのを、ただ呆然と眺めなければならないこの状況を。

北京の空港に到着した後、すぐさま私は空港の係員に頼み込んで、ウルムチに問い合わせてもらった。すると、ウルムチの空港にMacbookがあることがわかった。北京に送ってもらえないかと頼み込んだが、係員は首を横にふるだけだった。
私は慌ててデリー行きの飛行機をキャンセルすると、荷物を回収してウルムチ空港に戻ることにした。1日の間に、中国を西の端から東の端まで、往復することになったわけだが、Macbookを回収するためには、他にどういう方法もなかった。
ここで私は飛行機の便を調べ、朝4時ウルムチ発、カザフスタンのアルマトイ経由のデリー行きに乗ろうというプランBを立てた(それほどまでに急いでいたのは、この時点で既にオーバーステイになっていたからであり、朝早い便であれば、ウルムチの出入国管理官も、寝ぼけて見逃してくれるのではないかと期待したためであった)。
ウルムチの空港に戻ったが、肝心の遺失物係は受付時間が終わってしまっていた。それでもさんざん頼み込んで、空港公安に取ってきてもらうように頼みに行ったが、これが恐ろしいほど頼りにならない公安で、いかにも寝起きのタンクトップ姿の兄ちゃんたちが、寝ぼけ眼で迷惑そうにのそのそと現れる始末だった。
遺失物係があると言っていた、持ってきてくれ、場所は◯◯ゲートだったと話しているのに、「どこで落としたのか? 上海空港で落としたのか?」「そんなにそれが大事なのか」などと素っ頓狂なことばかり言い出した挙句、「探したけどそんなものはどこにも見つからなかった」というだけで、遺失物の倉庫を確認しに行くという発想は微塵もないようだった。
英語も話せない相手だったのでGoogle翻訳に頼るしかない中、私は彼らにMacbookを持ってきてもらうのを諦めるよりほかになかった。
コレで本当に敵の多いであろう中国の空港の治安が守れるのかと、他人事ながら心配になるくらいだったが、結局のところ、一番の間抜けはMacbookをど忘れした自分であって、如何に相手が抜作・田吾作の類であろうと、彼らに向かって不平不満をぶつけるわけにはいかなかった。
空港の外では、吹雪が空を支配していた。こうしてプランBも潰え、空港で朝まで待つというプランCのみが手元に残った。この失態が原因で、多額の旅費を無残に浪費する羽目になったのは、言うまでもないことである。

空港で一晩明かし、遺失物係からMacbookをようやく回収した後、私は次のデリー行きが翌日であるので、やむなくウルムチでもう一泊することにした。最初にウルムチ空港に向かう時に見た、「ウルムチにまた来てね」という意味の大看板が、まるで私をせせら笑っているかのように感じながら、私はウルムチに戻った。
二日後、私は今度こそ、デリーに向けて旅立った。北京の空港で、出入国管理官が「今回だけだよ」と、オーバーステイを見逃してくれた。
何かと問題の多い両国だったが、西安のユースホステル、隋さん、トルファンの運転手の兄さん、そして彼の処置は、何よりも増して替え難い、彼ら中国人からの温かい饗応として、私の心に残ったのは言うまでもない。

今度は、Macbookは忘れなかった。

その他の写真はこちらにあります。

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