ミスター敦煌・隋さんは、新疆出身の漢民族ではなく、上海出身の漢民族の人であった。しかし、数十年前にこちらに惚れ込んで移り住んだそうであり、それ以来ずっとここで住んでいるという。
日本に行ったことはないというが、日本語は極めて堪能で、敦煌を訪問する日本人の頼みの綱として、知る人ぞ知る存在であったらしい。
また、ビールが大好物な人でもあり、
「私はビールを呑まないと喋れないんですよ…」
と言いながら、昼間からどんどんとビールを飲み進めていた。後で聞いたところによると、ビールの飲み過ぎで痛風になったこともあったらしいが、特別な中国茶を飲むことで体の調子を改善したのだという。
隋さんのツアーは、敦煌周辺の人気のない遺跡を訪問したり、夕方から夜に掛けて鳴沙山の砂漠で天ノ川を眺めるツアーなど、豊富なプランが用意されていた。
「この、夜の敦煌ツアーと、特別砂漠ツアーというのは何ですか?」
この2つのツアーは、隋さんのHPにも書かれていないツアーだった。
「それは、男性向けの、夜のお楽しみツアーなんですよ」
ほほう。
興味はありますか、と聞かれたが、参加するのは止めておくことにした。わざわざバックパック姿で敦煌まで来て、スッキリするために金を使うこともないだろう…。
翌日、隋さんとドライバーの『カさん』(漢字が分からなかった)と、敦煌から60km以上離れた人里離れた奥地にあるという、件の謎の遺跡に向かった。
この遺跡は「石包城」という名前で、敦煌からあまりに遠すぎ、観光地化もされていないことからほとんど観光客が来ることがないという遺跡だった。
朝の敦煌郊外はひどく冷え込み、雪が積もっていないだけで、真冬の寒さである。敦煌郊外の人気のない、極めて低い山脈の裾野に来ると、隋さんは車を停め、私を連れて山の谷間に分け入った。
「これは狼のウンチです。これはウサギのおしっこ。ついさっきのものですね。これはラクダの足あと。ん、これは一ヶ月前に来た時の私の足あとだな」
と、隋さんは地面から次々と動物の痕跡を発見していく。
「狼が居るんですか?」
「居ますね。普段はどっかそこらへんに隠れていますよ」
と、隋さんは更に谷の奥に踏み込んでいく。
「ん、数が多いな…」
「え?」
「マナブさん、石か何か拾っておいて下さい」
「…?」
と、隋さんは、足元の石ころを拾う。
何のことだろう。何もいないのに。もしかしてそれって、チャイニーズジョークなのか?
そう思って、人気の全くない山肌を見つめていると…
ガラガラガラっ!
「うおおおおおおおおっ!?」
突然、頭上から石ころが崩れる音がして、死ぬほどびっくりしてそちらを見上げると、キツネのような生き物が、山頂に向かって走って逃げていくところだった。
「……」
「いやー、びっくりしましたね」
私は、すぐさま、足元に転がっていた長い枯れ木を掴んだ。
「狼の足あとが結構ありますね。危ないから、そろそろ止めて車に戻りましょう」
「……」
チャイニーズジョークでもなんでもなく、本当に危ない場所なのであった。
石包城は、車で更に2時間以上、祁連山脈の端のほうを越えてモンゴル側に向かった場所にあった。途中にはモンゴル人の小集落があり、縦書きのモンゴル文字の看板が目に付くが、それ以外には遊牧民向けの休憩小屋があるだけだ。
「石包城」と彫られた真新しい石碑が正面に置かれていたが、それ以外、周囲には最近突然出来たという、隋さんも何のためのものなのか知らないという、掘削プラントのようなものが置かれた小さな工場以外、何一つ見当たらない。隋さんは、政府はここを観光地化したいようです、と言ったが、敦煌からこれほど遠くてこれだけ何もないのだから、ここを観光地にするのは無理であろうと思った。
この石包城は、唐代の要塞跡である。唐代に、中国の北に居た羌族という異民族の侵入を防ぐために作られた要塞であるという。
山の頂上付近に、崩れた煉瓦の山が乗っかっている。見渡す限り、一面の荒野が続くだけだ。頂上付近には、崩れた煉瓦を積み上げたものに、布やら何やらで飾りを施した祠のようなものが立っていた。一見、写真や漫画で見るチベット族の塔に似ている。訊けば、地元のモンゴル系遊牧民たちが煉瓦を崩して祭りのために積み上げたものだという。
ここは唐代の遺跡なのだから、一応1100年以上昔の文化財ということになるはずだが、遊牧民たちはそのような文化遺産には興味がないということで(後のアフリカ・ソマリランドでも聞いたが、遊牧民たちは国家という価値観をあまり持ちあわせていないのであろう)、勝手に破壊してしまうらしい。
「マナブさん、見て下さい。あそこ、ほら、竜巻ですよ」
隋さんの指差す方向で、小さな竜巻が2つ3つと、荒野を突っ切って何処かに向かっていた。日本の陸地で竜巻が起こったら大災害になってしまうが、この茫漠たる荒野の中では、竜巻などいくつ起ころうが、破壊すべきものもなく、空回りしてやがて力尽きるだけである。それはまた、広大な中国大陸の包容力といえた。
二日目に私は、今度は『カさん』と彼の奥さん(ガイド見習い)の三人で、陽関、玉門関に向かった。
彼の奥さんはガイド見習いということだったが、二人共英語が全く喋れないので、何だか彼らの休日ドライブに私が混ざってしまったようで、どこか座りが悪かった。
ともかく二人に任せて座っていると何だか眠くなり、何もすることがないので後部座席で居眠りをしてしまう。
どれくらいそのまま眠ったのだろうか、気がつくと、一面砂漠だったはずの風景が、一面雪原に様変わりしていた。
「……」
ほんの数十分居眠りしただけで、砂漠から雪原に切り替わる中国大陸の凄まじさ。砂漠と雪原が同時に存在し得る激烈な気候。竜巻が空回りする大地。日本の比較的温和な気候条件では考えられない異質な世界がそこにあった。こうした気候が、中国人達の気性に影響を与え、苛烈で逞しい気質にしたと考えても、何の不思議もないというようなことを思った。
玉門関を訪問し、その後雪深い陽関に向かった。
玉門関と陽関は、古代シルクロードの要衝である。今はもう、ぼろぼろの石塊のようになっているが、かつての漢の時代には、何千という兵士が玉門関と陽関に駐屯していたという。
だからであろうか、陽関はまた、古代から中国人が故郷を想う場所でもあったらしい。「西出陽關無故人」といえば、日本の中学生でも聞いたことくらいはある有名な王維の詩だが、あの詩で言及されている「陽關」が、ここなのだ。
私は漢詩の世界は門外漢だけれども、江戸時代に柏木如亭という人が日本語訳したこのバージョンが好きなので、少しご紹介しよう。私はこの柏木如亭のダイナミックでいながら繊細を極めたこの訳し方が大好きである。
このバージョンは、「訳注聯珠詩格」という岩波文庫の本に収録されている。
渭城といふとこまで送てきたれば
朝(けさ)の雨で軽塵(みちのほこり)も裛(しづまつ)て
客舎(はたごや)にある柳の色も青々として新(めづらし)い
勧君(おすすめまう)す酒(わかれざけ)だから更(かくべつ)に一杯尽(すご)したまへ
これから西のはうの陽関(おせきしょ)を出(こし)たら飲(のも)ふといつても無故人(つれがあるまい)
陽関の入り口から、遺跡までロバ馬車に載せてもらうことにした。距離はさほどではないが、雪が深くて歩くのは少々億劫であった。遺跡のそばには、中国の有名な書家達が描いたらしい詩を彫った石碑がいくつも立てられていた。その内の幾つかは、やはり「送元二使安西」であった。
ひと通り見学した後、ロバ馬車に乗って入り口まで戻ろうとしたら、ロバ馬車が滑って転倒し、私はロバ馬車の下敷きになってそのまま数メートル引きずられてしまった。
さすがに驚いたが、雪の上だったことから怪我一つせず、カメラも雪に濡れただけで故障することはなかった。
あの有名な、教科書にも載っている詩の世界で、ロバ馬車の下敷きになった自分がどこかおかしくて、何故か笑いが止まらなくなってしまうのだった。
莫高窟は、前に書いたように、敦煌文献が発見された場所である。
莫高窟には、実は奈良の大仏のような巨大な大仏が、二体も収められている。カメラ禁止とのことだったので写真はないけれど、その迫力は絶大なものであった。
また、井上靖の『敦煌』のラストシーンで、趙行徳と僧侶たちが巻物を納めた莫高窟第16窟、第17窟。オーレル・スタインやポール・ペリオ達が文献を王円籙から買い取って持ち去っていったここも、見ることが出来た。
勿論、『敦煌』は架空の物語で、趙行徳が文化財を守るためにここに巻物を封じたというのが架空の物語であるというのは分かっているけれども、それでもここがシルクロードにとっての重大な一ページであることに変わりはない。
ようやくここに来れたという感動を、色々と言葉でこねくり回して表現しても良いけれど、陳腐になってしまうから、ここでは止めにすることにしよう。
ちなみに、莫高窟を見学し終わった後、隋さんと二人で莫高窟のそばを呑気に歩いていたところ、敦煌の観光関係の機関に勤めているという、カメラを担いだ二人組の女性が現れ、彼女らが出題したクイズに答えている様子を撮影された。
この映像は、ボツにならないかぎり、これから敦煌の観光案内ビデオに使われるだろう。そうなったら、隋さんと僕の二人は中国人民の皆さんの視線に晒されまくることになるわけである。
何時からどこで公開になるのかわからないが、たぶん隋さんが見つけてくれるだろうから、隋さんから連絡が来るのを楽しみに待つとしよう。
その日の夜、私は5日間も一緒に旅をさせてもらった隋さんに別れを告げ、敦煌の北80kmにある柳園駅に向かった。そこから、新疆ウイグル自治区へと向かう列車が出発する。
用を足すために外に出ると、今までに見たこともないほど美しい星空がそこに瞬いていた。タクラマカン砂漠の真ん中で、周囲に何一つ遮るもののない夜空は、もう二度と見ることはできないのではないかというほど美しい輝きに満ちていた。
その他の写真はこちらにあります。
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