2013年1月23日水曜日

衝突事故(インド連邦・ジャイプール、第55〜56日目)

次の日の朝、アーグラを離れた車は、一路ジャイプールに向かった。


赤い城壁に囲まれたジャイプールは、別名を「ピンク・シティー」という。あちこちの建物にピンクの塗装を施していることから付いたあだ名だが、これは1876年にイギリスのヴィクトリア女王がこの地を訪問した際、建物の色をピンクに塗装したことから、伝統的にピンク色の塗装をするようになったのだという(むろん、何から何までピンクだらけの町並みというわけではないし、ピンクもショッキングピンクのようなケバケバしいものではなく、穏やかな色合いだ)。
地図上でアーグラとジャイプールを見ると大して離れていないように感じるが、実際には200km以上も離れている。インド亜大陸の広大さを否が応でも認識させられる。

途中の観光客向けの立派なレストランで昼食を取って、そこからまたジャイプールを目指して走った。目的地であるジャイプールに入ったのは、陽も傾きはじめた夕方になってからだった。
「ジャイプールではどこに行きたい?」
と運転手の兄さんに聞かれて、「そうだなぁ。やっぱりジャイプールといえば、シティパレスに…」
「モンキーテンプルという場所があるよ。まずはそこに行ってみよう」
「モンキーテンプル?」
「サルがいっぱいいるんだ」
そういえば、インドでは妙に猿も沢山居るように感じていた。インドの動物と言えば勿論牛だが、牛以外にも色々な動物がウロウロしている。猿以外では、リス、山羊、イノシシ(野生の豚?)、そして犬が特に多いようだ。リスや猿は観光地だけでなく街中にも住み着いているようで、アーグラの街中でも、遠くのビルの屋上を猿がぶらぶらと歩いているのを目にしていた。
話は逸れるが、意外なことにインド滞在中にネコの姿はほとんど見かけなかった。野良犬があちこちに寝転がっているのだから、野良猫もあちこちに転がっていてもよさそうなものだが、ネコの姿は非常に少ない。そこで運ちゃんに、「インド人はネコが嫌いなの?」と聞くと、
「そんなことはない。インド人はネコが大好きだよ。ネコは家の中でだけ飼ってるんだ」
と彼は答えた。本当なのかどうかわからないが、地面に落ちているものはゴミを除くと犬かインド人かというくらい犬が何処にでも転がっているということを考えると、猫は確かに何らかの特別な扱いを受けているのは間違いないのだろう。
そんなわけで、私は運ちゃんに連れられて、モンキーテンプルに向かった。

モンキーテンプルとは、小高い山の麓に作られたヒンドゥー教の寺院で、その名の通り、寺院全体がサルの群れの棲家となっている場所である。正式名称は「ガルタージ(Galtaji)」という。


ここには文字通り凄まじい数のサルが生息しているが、何よりもこの地のサルが特徴的なのは、人間と生活空間を共有しているためか、他の場所のサルのように、人間が近づいてきてもいちいち威嚇したり逃げたりせず、無関心を貫いていることであった。50cm程度まで近づいてもこちらは見向きもされず、面倒くさそうに脇に避けられるだけである。まるで、動物園の猿山の中に、自分だけが突然放り込まれたようだ。


山頂を目指して登って行くと、サル達が怒声を挙げながら、一箇所に走っていく場面に出くわした。何事が起こったのかと自分もその群衆の中に混じって騒ぎを観察すると、寺院の隅で、一匹の強面のサルがもう一匹の首筋に噛み付き、屈服させているところだった。


その他のサルたちもまた、その周囲でキーキーと喧しくがなり立てながら、その様子を見守っている。やがて、強面のサルがもう一匹を放すと、それは慌てた様子で山頂へ向かう階段を駆け上がって行き、他のサルたちもそれを追いかけるように、山頂の方向に走り去っていった。
つい1分ほど前まで怒号の渦中にあった寺院の一角は、あっという間に何事もなかったかのように静まり返り、部外者の私だけがそこに取り残された。

山頂にたどり着くと、そこにはジャイプールの町並みを見下ろすように、小さな祠と、それを守る管理人の家が建っていた。初老の男性に招き入れられて中に入ると、彼は祠の錠を外して扉を開き、そこに祀られている二体のヒンドゥー教の神様の像を私に見せてくれた。


神様の名前は何と言ったか忘れてしまったが、何でもこの神様は夫婦なのだという。どんないわれのある神様か分からないけれど、きっとジャイプールを守る神様なのだろう。何やらギョロ目をした、穏やかな顔のような妖怪の顔のような、不思議な神様の像だった。
小高い山の上から見下ろすジャイプールは、ニューデリーにも負けないような大きな街だった。暮れなずむ空の下で、街が霧で霞んだ地平線の先まで続いている。
なんだか不思議な光景だった。眼下では、車や人が忙しそうに往来しているのに、夕焼けに溶け込んでいく町並みには、奇妙なほど穏やかな空機が流れていた。
それは、普段のインドのイメージとは一味違った、インドのもう一つの表情であったのかもしれない。


麓の寺院にまで降りていく途中、サル達が麓に向かって一斉に走り出していく様子を見た。
(何か麓であるのかな…)
と、彼らの様子を見に下まで降りて行くと、サル達の飼育員らしい数人の男たちが、ダンボールに入ったバナナの山をサル達に振舞っているところが目に飛び込んできた。
猿山全てのサルが総結集したのだろう、軽く百匹以上のサルが、飼育員たちを取り囲んでおり、彼らを追いかけていった私もまた、いつの間にかサル達の群れのど真ん中に放り込まれていた。


飼育員たちがバナナを放り投げると、そこに向かって一斉にサル達が殺到する。押し合い圧し合い奪い合い、バナナを手にしようとサル達は必死になって競い合っている。ある者は真っ先にバナナを手にしようというのか、飼育員たちの足にしがみついてみたり、またある者は他のサルから強引に奪いとろうとしたり、まだバナナがないのかと、カラのダンボール箱を引っ掻き回してみたりしている。
中にはどこから来たのか、白黒の毛の大柄なハヌマンラングールらしいサルまで現れて、他のサルたちを圧倒してバナナを奪い取っている。


仔猿が私の方を見つめていたので見つめ返してみると、母猿が仔猿を片手で後ろに庇い、私を威嚇してきた。そんな様子を見ていると、猿も人間と変わらないなと思ったりもする。
猿の群れの向こう側には、今から山頂へ向かおうとする数人の年配の白人女性の姿があったが、あまりにも数が多いのに危険を感じたのか、歩みを止めてポカンとこちらを見ていた。
この寺院は、まるで人間の社会の縮図だ。

次の日の昼間は、ジャイプールの郊外にあるアンベール城や、シティ・パレスを見物して過ごした。アンベール城には、中国の万里の長城を思わせる城壁や、山頂に美しい空中庭園があった。


その日の夜になって、事件は起こった。
「今日の晩飯はどうする? 昨日のところでいいかい? それとも別の場所にしようか?」
「そうだなぁ…」
その日の行程を終えた私と運ちゃんの車は、夕食のレストランに向かおうと、ホテルの近所にある交差点で右折待ちをしているところだった。
「じゃあ、今日は…」
別のレストランを紹介してくれ、と言おうとした時、ガゴン、という鈍い音と共に、車に軽い衝撃が走って、運ちゃんはブレーキを踏み込んだ。
「な、なんだ?」
見ると、我々の車のそばで、倒れた原付を起こそうとしている二人組のインド人女性の姿があった。女性たち二人は、しまった、というような顔で私達を見ている。
「やりやがった!」
と、運ちゃんは運転席のドアを開けて、女性二人に何かを言おうとした。ところがその時、どこから現れたのか、突然二人組の警察官が姿を見せた。
二人組の警察官は口に咥えたホイッスルを鳴らしながら、運ちゃんに向かって「降りろ」というような手振りを示した。
運ちゃんは渋面を浮かべて車を車道の脇に寄せると、警察官の手招きに従って、交差点の反対側の方へと歩いて行った。
事故、事故だ。今更ながら、自分たちがトラブルに巻き込まれたことが実感として分かった。しかし、事故と言ったって、自分たちの車が右折をしようと停まっていたところに、二人組のバイクが勝手に突っ込んできたのだ。悪いのはあの二人組で、こちらに責任はない。
そうは思ったが、運ちゃんがなかなか戻ってこないので、私は心配になって車から降りて交差点の反対側の様子を見ていた。すると、見ず知らずの野次馬の男性二人が現れて、
「君のドライバーはベリーグッドだ。心配するな」
と言うのだ。何がベリーグッドなのかさっぱり分からないけれど、とにかく待つしかない。車に戻ってしばらく待っていると、やがて怒った様子の運ちゃんが戻ってきた。
「くそっ!」
「一体どうしたんだ?」
運ちゃんにそう聞くと、驚くべき答えが返って来た。
「警官どもに金を要求されたんだよ!」
「なんだって? どうして? それでどうしたんだ?」
「金なんか無いって言って払わなかったよ!」
「あのバイクの二人組は?」
「知らない。奴ら、さっさとどっかに行ってしまったよ!」
それは、実に信じられないインド警察の実態だった。
あの警察官たちは、こちらの車には何の非も無いというのに、こちらの運ちゃんの免許を取り上げるなどといってワイロを要求してきたらしいのだ。
つまり、あの警察官たちは、雁首揃えて現れておきながら、金になりそうな外国人の乗っている私の車にだけ目を付け、金にならないインド人の女二人組は放ったらかしたということである。
しかも、事故が起きてから警察官が登場するのがいやに早いと思ったが、彼らは要所要所の交差点を見張っていて、事故が起きるとすぐに飛んでくるというのだ。交通整理とか、そういうのはおそらくせずに。まるでこれでは、警察官たちのほうが、事故を狙って網を張って待ち構えている蜘蛛みたいだった。彼らの目的は事故の防止だとか交通の秩序を守るということではなく、カネなのだ!
以前一度、フィリピンのセブ島で、同じように私の乗った車の運ちゃんが、悪徳警官にワイロをせびられているところを目撃したことはあるけれど、ここまであからさまな腐敗を見せつけられると、何だか頭がクラクラするような感じがした。この国は、やはり日本では考えられないような混沌と腐敗が支配しているのだ。
怒髪天を衝く勢いで怒る運ちゃんは、そのまま前日と同じレストランに私を降ろした。せっかくだから別のレストランがいい、と言おうとしたけれど、とても言える状況ではなくなってしまった。

とはいえ、私は内心、この国の訳の分からなさが逆に面白く感じ始めていた。
初日から続くインドのヘンテコで奇妙な出来事の数々が、一周して却って面白く感じ始めていたのである。
ジャイプールの次には、いよいよ、インドで最もインパクトの強かった街、ムンバイが私を待ち構えていた。

2013年1月18日金曜日

ジャブ(インド連邦・ニューデリー~アーグラ、第53〜54日目)

北京を離れた飛行機は、無事に深夜のニューデリーに着陸した。極寒の中国西部を脱出し、再び私は、暑い国へと戻ってきたのである。
インドに入国する場合、日本人は通常ビザを取得しなければならないが、最近になって日本人はビザ・オン・アライバルが空港で取得できるようになった。
このビザ・オン・アライバルだが、どういうわけか対象国が「フィンランド、日本、ルクセンブルグ、ニュージーランド、シンガポール、カンボジア、ベトナム、フィリピン、ラオス」の9ヶ国という実にてんでばらばらなラインナップになっていて、どういう理由でこの何の脈絡もない9ヶ国なのか不思議で仕方がないが、とにかくビザなど取るのは面倒なのであるから、使えるものは何でも使おうという魂胆で、体当たりで受け付けカウンターに向かうことにした。

ビザ・オン・アライバルを取得するには、60ドル、パスポートサイズの顔写真、ホテルの宿泊予約、出国予定のチケット、有効期限の余裕(確か6ヶ月)のあるパスポートが必要である。これらがあれば、ビザを取らなくてもインドに入国できる。実際カウンターで、何の問題もなくビザを取得できた。
ところが、問題はインドの空港を出た後であった。予約を入れておいた宿にタクシーで向かったところ、タクシーが「夜間は道路が封鎖されて行けないよ。テロ警戒のためなんだ、ホラ見てくれ」などと言い出したのである。確かに、道道にゲートがあり、それが閉じられている。
そこで、「宿に連絡をとりたいが電話番号が分からないから近くのあいてるネットカフェに行ってくれ」と言うと、運転手は「空いてるネットカフェはこのへんにはない」と言い、「知り合い」という怪しい旅行会社に私を連行した。


その旅行会社のパソコンを借りてインターネットで宿の電話番号を調べ、電話を掛けると、今度は宿のほうが「悪いね、君の部屋はもう他人に売っちゃったんだよ! ゴメンゴメン、返金するから」などと言い出したのである。現地払いが基本のHostel Worldで予約したのに返金も何もあったものではないが、そんなことより予約を無視して他人に部屋を渡すとは、どういう神経をしているんだ?
「インドではそれが当たり前なんだよ。高く買ってくれる人に優先して売るのはよくあることなんだ。インド人だって余所の州に行くときは宿を取ったり列車の席を取ったりするのは大変なんだよ。インドでは金が全てなんだ」などと旅行会社のオッサンは流暢な日本語で言った。しかも彼らの話によると、ニューデリーでは祭りの期間中に入っており、宿はどこもパンクしている状態で今から宿など取れるわけがないというのだ。
話の雲行きは、さらに怪しくなりはじめた。
「よくわかったよ。じゃあ、空港に戻る」というと、この旅行会社のボスは、
「無理だ」と言うのだ。
「なに? なぜ?」
「空港に入るにはチケットの予約書が要る。それがないと入れない」(これは後で確認したところ事実だった)
「じゃあ、またインターネットを貸してくれないか。ネットで宿を探すから」
「いや、それは駄目だ。セキュリティの関係でネットは関係者以外には使わせてやれない…」
「さっき宿の電話番号検索させてくれたじゃないか。金は払う」
「いや、だめだ」
「…」
本当にこの時、ネットで事前に見つけてあった、空港の近くにあるもっとちゃんとした、値段も手頃で評判もいい別のホステルにしておけばよかったと心の底から後悔した。そこだったら、空いていたかもしれないのに。そもそも、祭りとやらが本当にやっているのかどうかも怪しいが、夜中だから確認のしようがない。そのホテルの住所も名前も控えていなかったせいで、今からそのホテルに鞍替えすることも出来なかった。
「それで、この後はどこに行くんだね」
「タージマハールを見学してからムンバイに行くつもりだけど」
「よし。まず今すぐここを出発してアーグラに行く。アーグラでタージマハールを見る。その後、ピンク・シティーのジャイプールに行く。それからブルー・シティのジョードプルに行こう。その後はウダイプールだな。それからアフマダーバードに行って、最後にムンバイに着くのがオススメだ。金額はこれだ」
「ちょっと待て!」
あれこれと弾丸のように、希望してもいないのにルートを次々と決め始める旅行会社のオッサンに、私はイライラし始めていた。
「そんなことこっちは頼んでないんだよ。もういい分かった、今すぐデリーからムンバイに行く飛行機を手配してくれ。それでいい」
「おいおい、タージマハールには行かないつもりか? ウダイプールは? ジョードプルは? 何が気に入らないんだ? 値段か? 飛行機が嫌なら、列車に変えることもできるぞ」
「全部だ。全部気に入らない」
これは本音だった。この時、既に深夜の三時近くを回っていた。朝、中国の西部を出発して、十数時間も掛けてインドまで辿り着いた挙句、宿に裏切られ、一息つくことも許されず、夜中の三時まで営業している怪しい旅行会社に連れ込まれて勝手にツアーを組み立てられて、どうして愉快な気持ちでいられるだろうか。しかも金額もぜんぜん安くないのだ。
「うーむ。じゃあどうしたいんだ。これはオススメのルートなんだぞ!」
などと旅行会社のボスは言うが、初日からこの有様なせいで、市川くんのブログや、タイで出会ったインドと犬が大好きなキモトさんから見聞きして膨らませていたインドへの期待と希望は、針を刺されて空気の抜けた風船並みに萎み、もう二度と回復しないのではないかというところまで落ち込んでいた。
「とにかく、ジョードプルもウダイプールもアフマダーバードもない。行かない」
「よしわかった、じゃあこうしよう、今からすぐアーグラに行く。タージマハールを見て一泊する。その後ジャイプールに行く。ジャイプールで観光して二泊し、飛行機に乗ってムンバイに行く。それでどうだ。それなら値段はこれだけだ。これがラストプランだ!」
と、最初の金額から半額以下にまで値切られた額が提示された。
「…」
それでもまだ高かったが、他に選択肢もなく、私はこのプランで行くことを承諾した。疲れていたのもあるし、一刻も早くとっととニューデリーから出たいという気持ちになっていたせいもあった。私が承諾すると、一人の若い男性が部屋の中に入ってきた。
「よし。じゃあ、彼が君のドライバーだ。君をアーグラとジャイプールに連れて行ってくれる。いいドライバーだったらチップを渡してやってくれ。よい旅を!」
こうして朝の四時、私とドライバーの二人は、アーグラを目指して出立した。真っ暗闇の道中、珍妙なホーン音をかき鳴らした4tトラックが、私が乗った車をギャンギャンと追い越していった。

朝の七時ごろ、私の乗った車はアーグラにあるホテルに入った。
「外は危険だから出ないように。一眠りしたら、昼に迎えに来るから」といって、運ちゃんは何処かに走っていった。外に出るなという言葉にもしょぼくれたが、それ以上に私は眠く、昼まで何もする気にもなれないまま、眠りについた。
昼ごろ目を覚まして下に降りると、運ちゃんが気のよさそうな顔をして待ち構えていた。彼に連れられるまま、アーグラの街を見て廻る。ゴミゴミとした雑踏は凄まじく、まるで東南アジアのどこかの街に逆戻りしたかのようであり、ウシ、インド人、オートリクシャ等などが、よくぶつからないものだと感心したくなるくらい激しく往来している。

運ちゃんと二人で、「ベビー・タージ」ことエーテマードゥ・ッ・ドウラー廟を見物したついでに、近所の雑貨屋台でペットボトルの水を買い求めてみた。運ちゃんには、物は外で買わないようにとまで言われていたが、500mlの水1つ買い求める程度のことでいちいち運ちゃんにお伺いを立てていては、いくら彼にチップを払わなければならないかわかったものではない。
ところが、屋台の兄ちゃんたちに紙幣を差し出すと、彼らの差し出してきたお釣りはえらく少なかった。まるで、一桁少ない額の紙幣のお釣りだと言わんばかりだ…。
「…俺は◯◯ルピーの紙幣を出したぞ」というと、彼らは笑いながら、
「ハハハ、フレンド、俺たちゃ詐欺師じゃないさ! 安心しなよ、お釣りはこれだよ、ハハハハ!」と、残りの釣りを差し出してきた。全くもって、油断も隙もない連中である(車に戻った後、その様子を車から見ていた運ちゃんに、「いくら払わされたんだい!?」と心配されてしまった)。



その後、タージ・マハルに入り、その美しさに見とれていると、何処からともなく現れたオヤジが、「ここが写真のベストポイントだ!」などと私のカメラを引っ掴み、バシャバシャと勝手に写真を撮り始めた。嫌な予感がして、「いや、もういいって」と言ったが、「まあ、いいからいいから」などと、オヤジは更にあちこちに移動しながら写真を撮りまくる。


「今度はこっちだ!!」などと、更に大移動を始める気配を見せたので、「もういい、後はこっちで勝手に撮るから」とカメラを取り返すと、オヤジは
「わかった! じゃあ、500ルピーな!!」
などと、さも当然の如く主張した。
  _, ._
( ゚ Д゚)

「いや、別に頼んでないよ」
「君のために写真を沢山撮ってやったじゃないか! 500ルピーだよ!」
「そうか、じゃ100ルピーやるから、どっか行ってくれ」
「はぁ? 何言ってるんだ、500だって!」
「あ、そう。じゃあね」
と、私が100ルピーを引っ込めて私がタージ・マハルの奥に向かおうとすると、背後から
「ウェーイト! フレンド、ウェイトウェイトウェーイト!」
と、オヤジが追いかけてくる。
「500! 500だよ!」
としつこくつきまとうオヤジに、私は懲りずに100ルピーを差し出した。
するとオヤジはコレ以上の交渉は無駄と判断したらしく、苦虫を噛み潰したような表情で100ルピーを受け取ると、また次の獲物を求めて何処かに歩いて行った。


私と運ちゃんの二人は、そうしてタージ・マハル、猿の多いアーグラ城塞などの歴史と美に溢れる建築物を見物して廻ったが、私の気持ちは一向に晴れなかった。
私はジャブを喰らい続けていたからだ。それは、インドからのジャブであった。
中国の最後で強烈なボディーブローを喰らい、ニューデリーではボッタクリとしか思えない怪しい旅行会社に屈服する屈辱(まるでアッパーカットのような)を味わい、続いてアーグラでは、鬱陶しい人々から立て続けにジャブとフックが打ち込まれた。ボッタクリ屋台や押し売りカメラマンはそれでも何とか撃退したけれど、それはほんの些細な勝利、局地的で限定的な、いわば大局に影響のない無価値な勝利だった。


私の気力は早くも強烈なインドの世界に押し潰され、どこか体内の奥に縮こまってしまったようになってしまったのだった……。

2013年1月12日土曜日

大失態(新疆ウイグル自治区・トルファン市&ウルムチ市、第48〜52日目)


新疆ウイグル自治区は、文字通りウイグル人の住み暮らす土地である。テュルク系のウイグル人やその他の異民族、そして東方の漢民族との間で、この地は幾度も揺れた。
事実、東トルキスタンという名で独立を宣言したこともあるし、漢民族の盛世才という男が、第二次世界大戦末期までこの地を、事実上の独立国として支配していた時期もある(スウェーデンの冒険家、スヴェン・ヘディンが冒険中、この男に捕まったことがある。また、同じくスウェーデンのゲームメーカー・Paradox Interactiveのシミュレーションゲーム・Hearts of Ironシリーズにも、新疆地方を支配する軍閥の指導者として名前が出てくる)。
いずれにせよ、現在は中国が支配しているが、チベットともども、時折異民族支配に対する不満が出てくるのは周知の通りだ。数年前にも、省都ウルムチで暴動が起きたのは記憶に新しいことだろう。
彼らの中国支配に対する複雑な心境は、6年ほど前に知り合った新疆人との話の中から垣間見たことがある。
以前勤めていた会社に入社したばかりの頃、私は仙台にある会社の本社に勤めていたが、その時新人研修を一緒に受けていた関連会社の新入社員が、トルファン近郊出身のウイグル人だったのである。
彼と親しくなった時、たまたま同じ会社の漢民族の中国人の人とも親しくなり、彼らとお茶でも飲みに行こうという話になった。
国分町のドトールコーヒーだったと思うが、私を真ん中に挟んで、中国のことについて激論を交わす彼らのことを今でも忘れられない。
漢民族の同僚と別れ、ウイグル人の彼と二人で会社方面に戻る時、彼は「彼はやっぱり、新疆は中国のものだと思っていますね」と呟いていた。また、彼はよく、「新疆は中国の植民地みたいなところです」と ことあるごとに他の同期達の前で話していたものだ。
何事にも永遠はないから、やがては異民族支配が終わる日ももしかしたら来るのかもしれないが、その時どんな出来事が起きるのか、想像が付かない。
異民族支配を受けたことのない日本人の口からは、どんなコメントも重くはならないだろうけれども、いずれにせよ平和的に物事を進めて欲しいとしかコメントのしようがない。

敦煌を出た後、私はおよそ10時間ほど、寝台列車の中で過ごした。はじめ、寝台列車というので、タイに行くときに乗ったマレーシア・タイ国際寝台列車や、以前富山から青森まで乗った「日本海」のような、居心地の良い寝台列車を想像してワクワクしていたのだが、現実にはこんな楽しくない寝台列車は初めてというほどつらいものとなった。
硬い・狭い・五月蠅い・臭いと、軍に入隊して前線に送られるむさ苦しい輸送列車に乗ったらこうだろうか、と想像せずには居られない辛い旅路だった。
それでも何とか頑張って寝て、それから目を覚ますと、列車はまだ薄暗い中をひた走っているところだった。トルファン到着までまだ時間もあるな、とのんびりしていると、人々が身支度を整え始めたので、トルファンの一つ前の駅かな、などと考えていると、実際にはトルファンに30分近く早く到着したのだと聞かされ、慌ただしく身支度を整えて降りる羽目になった。後数分気づくのが遅かったら、降り遅れるところだった。

駅から出ると、そこは中国とは別の国のような世界だった。薄暗いうちから、ウイグル人たちがパンを駅前の店先で焼いている。まるで、気づかないうちに国境を越えてしまい、(行ったことはまだないが)中央アジアの国に出てしまったかのようだ。
バスに乗って、まだ薄暗い中をトルファン市内に向けて走る。敦煌の隋さんに、「中国の人は時差がないことになってるから、西の人達は、朝の7時とか8時になっても薄暗いのは不便じゃないですか?」と聞いたところ、「中国では場所によって何時から何時まではまだ暗いというイメージが出来上がっているし、地方でそれぞれ起きる時間や仕事をする時間をずらしているから、別に言うほど問題ではないですよ」とは聞かされていたが、やはり朝の9時半になっても日が昇らないというのは、いくらなんでもあんまりである。
そのせいか、やはり新疆のウイグル人は新疆時間という、北京時間から2時間遅れの独自時間を使っていたが、聞くところによると新疆の漢民族は新疆時間は使わず、北京時間を使っているという(ウイグル人が新疆時間を使い、漢民族が北京時間を使っていることに、彼らの本音が現れていると言ったら、それは穿ち過ぎだろうか?)。

とはいえ、トルファン市内に着いた頃には、さすがに日も昇ってきた。とりあえずホテルに行こうとタクシーを探すと、珍しく英語で話し掛けてきた人が居て、その人に頼むと、なんと日本語も達者な人だった。
その人に頼んでホテルに荷物を置き、信用できる人だと判断したので、トルファンの市民の暮らしを見学しに連れて行ってもらうことにした。彼の甥というマリオみたいな顔のマンニッキさんと三人で、ウイグル風の蒸しパンと、塩入りのホットミルクの朝食を食べた後、彼らの仕事場である干しプラムと干しブドウの工場を見物した。

ここまでは良かったが、そこで私は、中国の滞在期限がギリギリに迫ってきていることに気づいた。昆明-西安-敦煌と一都市に3~5日は滞在していたから、後3日もすれば滞在期限を迎えてしまう。
仕方なく公安に行ったが、公安も「申請に一週間かかる」というつれない態度で、ここでの延長は諦めるほかなかった。
その後、彼に頼んで、漢代から残る巨大な都市遺跡・交河故城と、天山山脈から雪解け水を運んでくる伝統の地下水路・カレーズを見学した。

カレーズの中は、NHK特集・シルクロードの中では「地上は暑いが、中は別世界のように涼しい」と紹介されていたが、冬の今は逆で、「地上は極寒だが、中は別世界のように温かい」という不思議な状態だった(今思うと、博物館の中だったから、暖房が入っていたのかもしれない)。
最後に、彼らに頼んで地元の市場を見学し、山積みの干しブドウやプラムを見せてもらった後、彼に別れを告げてホテルに戻った。

次の日、私はトルファンに1日で別れを告げて、ウルムチにバスで向かった。
ウルムチは、「シルクロードのロマンを求める日本の旅人が飛行機で降り立つとがっかりさせられる都市」として有名だが、それはウルムチが日本のそれと対して変わらない巨大で近代的な大都市であり、旅情をかき立てられるものがほとんどないからである。

私は幸い、東から西に歩を進めてきたからそのようなことはなかったけれど、確かにいきなりウルムチに降り立った人が、何だここはとガッカリさせられるのはやむを得ないな、と思わざるを得ない町並みではあった。
しかし、全く何の面白みもないかといえば、そういうわけでもなかった。たとえば、ウルムチのウイグル人地区に行くと、巨大なバザールがある。イスラムの雰囲気に溢れ、中国というイメージから解き放たれた中央アジアの世界観を表現した素晴らしいバザールであるが、なんとこのバザールには地下階があり、地下階に行くと近代的なスーパーマーケットがあったりするのだ。
中央アジアの伝統的なバザールも、近代的化の波には乗らざるを得ないらしい。なんだか、上だけ伝統的で下がスーパーなこの不思議な空間に、シュールさを感じずにはいられなかった。


ウルムチの公安に改めてビザ延長について問い合わせたが、結局ここでも1週間かかることに変わりはなかった。何食わぬ顔してパスポートを預けておき、自分はパスポートのコピーを持ってカシュガルにでも行けばよいではないか、という意見もあるだろうが、中国では都市間バスに乗るのにもパスポートの提示が求められるので、コピーでは移動ができないのだ。つまり、パスポートを預けて1週間ウルムチにカンヅメになるか、諦めて次の国に移動するか、の二択である。私は、後者を選択せざるを得なかった。
カシュガルにも行ってみたかったけれど、隋さんからパキスタンへ続く陸路の国境は閉鎖されていると言われていたし、飛行機の便もなかったので、大人しく飛行機でウルムチから北京を経由してデリーに向かうことにした。
最後とばかりに、私は『楼蘭の美女』に会いに、新疆ウイグル自治区博物館に向かった。
『楼蘭の美女』とは、1980年にタクラマカン砂漠の真ん中、かつて楼蘭王国があった一帯で出土した、女性のミイラである。この女性は3800年前、現在の南ロシアから移住してきた白人系の女性であるらしい。このミイラもまた、NHK特集・シルクロードで紹介されたことがある。
中国の奥地に眠る古代の謎の王国に、美しい白人の女性のミイラ。これは見ずにはおれない。というわけで、私は新疆ウイグル自治区博物館に向かったわけだが、実際に私をそこで出迎えたのは、『陳雲同志没後17周年記念展示会』であった。
「…誰?」
ということで調べると、陳雲同志は中国共産党の八大元老という最重要の重鎮の一人であったらしい。とりわけ保守派の重鎮として、改革派の鄧小平と対立したが、1992年に鄧小平によって批判されて失脚、引退…とそんなことはどうでもよくて、肝心の楼蘭の美女はどこだ、と博物館の中を調べて回ったが、何故か楼蘭の美女の展示は行われていなかった。
楼蘭の美女が、おじいちゃんに様変わりしてしまった。いや、楼蘭の美女もおばあちゃんどころか枯れ切った水分0のミイラなわけだが、私は釈然としないまま、陳雲同志の生涯について学ぶ羽目になってしまった。

そんな出来事にもめげず、私は翌日、ついにインドに出発するため、ウルムチの空港に向かった。ここで私は、この旅の中でも最大級のミスを犯してしまった。
保安検査を抜ける際、カバンにMacbookを入れたままにしていたのだが、それを保安検査員の女性に見咎められたのである。「出せ!」と女性は声高に言い放ち、カバンからMacbookを引っ張りだすと、それをどこかに持って行ってしまった。
そこで私は保安検査を抜けるとカバンの荷物を纏めたが、急いでいたためであろうか、何故かMacbookのことをうっかり忘れ去ってしまったのだ! 私はMacbookを置き去りにしたまま、飛行機に乗り込んでしまった…。
その10分後、私は飛行機の中で、Macbookがないことに気づいた。せめて後5分早く気づいていれば、すぐに保安検査ゲートに戻れたのだが、気づいた時には時既に遅く、飛行機はゲートを離れてゆっくりと、滑走路に向かって動き始めていた。
この時の絶望は伝わるだろうか。自分のノートPCがあることが分かっているのに、ゆっくりと離陸するのを、ただ呆然と眺めなければならないこの状況を。

北京の空港に到着した後、すぐさま私は空港の係員に頼み込んで、ウルムチに問い合わせてもらった。すると、ウルムチの空港にMacbookがあることがわかった。北京に送ってもらえないかと頼み込んだが、係員は首を横にふるだけだった。
私は慌ててデリー行きの飛行機をキャンセルすると、荷物を回収してウルムチ空港に戻ることにした。1日の間に、中国を西の端から東の端まで、往復することになったわけだが、Macbookを回収するためには、他にどういう方法もなかった。
ここで私は飛行機の便を調べ、朝4時ウルムチ発、カザフスタンのアルマトイ経由のデリー行きに乗ろうというプランBを立てた(それほどまでに急いでいたのは、この時点で既にオーバーステイになっていたからであり、朝早い便であれば、ウルムチの出入国管理官も、寝ぼけて見逃してくれるのではないかと期待したためであった)。
ウルムチの空港に戻ったが、肝心の遺失物係は受付時間が終わってしまっていた。それでもさんざん頼み込んで、空港公安に取ってきてもらうように頼みに行ったが、これが恐ろしいほど頼りにならない公安で、いかにも寝起きのタンクトップ姿の兄ちゃんたちが、寝ぼけ眼で迷惑そうにのそのそと現れる始末だった。
遺失物係があると言っていた、持ってきてくれ、場所は◯◯ゲートだったと話しているのに、「どこで落としたのか? 上海空港で落としたのか?」「そんなにそれが大事なのか」などと素っ頓狂なことばかり言い出した挙句、「探したけどそんなものはどこにも見つからなかった」というだけで、遺失物の倉庫を確認しに行くという発想は微塵もないようだった。
英語も話せない相手だったのでGoogle翻訳に頼るしかない中、私は彼らにMacbookを持ってきてもらうのを諦めるよりほかになかった。
コレで本当に敵の多いであろう中国の空港の治安が守れるのかと、他人事ながら心配になるくらいだったが、結局のところ、一番の間抜けはMacbookをど忘れした自分であって、如何に相手が抜作・田吾作の類であろうと、彼らに向かって不平不満をぶつけるわけにはいかなかった。
空港の外では、吹雪が空を支配していた。こうしてプランBも潰え、空港で朝まで待つというプランCのみが手元に残った。この失態が原因で、多額の旅費を無残に浪費する羽目になったのは、言うまでもないことである。

空港で一晩明かし、遺失物係からMacbookをようやく回収した後、私は次のデリー行きが翌日であるので、やむなくウルムチでもう一泊することにした。最初にウルムチ空港に向かう時に見た、「ウルムチにまた来てね」という意味の大看板が、まるで私をせせら笑っているかのように感じながら、私はウルムチに戻った。
二日後、私は今度こそ、デリーに向けて旅立った。北京の空港で、出入国管理官が「今回だけだよ」と、オーバーステイを見逃してくれた。
何かと問題の多い両国だったが、西安のユースホステル、隋さん、トルファンの運転手の兄さん、そして彼の処置は、何よりも増して替え難い、彼ら中国人からの温かい饗応として、私の心に残ったのは言うまでもない。

今度は、Macbookは忘れなかった。

その他の写真はこちらにあります。

敦煌・2(中国甘粛省・敦煌市、第43〜47日目)

ミスター敦煌・隋さんは、新疆出身の漢民族ではなく、上海出身の漢民族の人であった。しかし、数十年前にこちらに惚れ込んで移り住んだそうであり、それ以来ずっとここで住んでいるという。
日本に行ったことはないというが、日本語は極めて堪能で、敦煌を訪問する日本人の頼みの綱として、知る人ぞ知る存在であったらしい。
また、ビールが大好物な人でもあり、
「私はビールを呑まないと喋れないんですよ…」
と言いながら、昼間からどんどんとビールを飲み進めていた。後で聞いたところによると、ビールの飲み過ぎで痛風になったこともあったらしいが、特別な中国茶を飲むことで体の調子を改善したのだという。
隋さんのツアーは、敦煌周辺の人気のない遺跡を訪問したり、夕方から夜に掛けて鳴沙山の砂漠で天ノ川を眺めるツアーなど、豊富なプランが用意されていた。
「この、夜の敦煌ツアーと、特別砂漠ツアーというのは何ですか?」
この2つのツアーは、隋さんのHPにも書かれていないツアーだった。
「それは、男性向けの、夜のお楽しみツアーなんですよ」
ほほう。
興味はありますか、と聞かれたが、参加するのは止めておくことにした。わざわざバックパック姿で敦煌まで来て、スッキリするために金を使うこともないだろう…。

翌日、隋さんとドライバーの『カさん』(漢字が分からなかった)と、敦煌から60km以上離れた人里離れた奥地にあるという、件の謎の遺跡に向かった。
この遺跡は「石包城」という名前で、敦煌からあまりに遠すぎ、観光地化もされていないことからほとんど観光客が来ることがないという遺跡だった。
朝の敦煌郊外はひどく冷え込み、雪が積もっていないだけで、真冬の寒さである。敦煌郊外の人気のない、極めて低い山脈の裾野に来ると、隋さんは車を停め、私を連れて山の谷間に分け入った。

「これは狼のウンチです。これはウサギのおしっこ。ついさっきのものですね。これはラクダの足あと。ん、これは一ヶ月前に来た時の私の足あとだな」
と、隋さんは地面から次々と動物の痕跡を発見していく。
「狼が居るんですか?」
「居ますね。普段はどっかそこらへんに隠れていますよ」
と、隋さんは更に谷の奥に踏み込んでいく。
「ん、数が多いな…」
「え?」
「マナブさん、石か何か拾っておいて下さい」
「…?」
と、隋さんは、足元の石ころを拾う。
何のことだろう。何もいないのに。もしかしてそれって、チャイニーズジョークなのか?
そう思って、人気の全くない山肌を見つめていると…
ガラガラガラっ!
「うおおおおおおおおっ!?」
突然、頭上から石ころが崩れる音がして、死ぬほどびっくりしてそちらを見上げると、キツネのような生き物が、山頂に向かって走って逃げていくところだった。
「……」
「いやー、びっくりしましたね」
私は、すぐさま、足元に転がっていた長い枯れ木を掴んだ。
「狼の足あとが結構ありますね。危ないから、そろそろ止めて車に戻りましょう」
「……」
チャイニーズジョークでもなんでもなく、本当に危ない場所なのであった。

石包城は、車で更に2時間以上、祁連山脈の端のほうを越えてモンゴル側に向かった場所にあった。途中にはモンゴル人の小集落があり、縦書きのモンゴル文字の看板が目に付くが、それ以外には遊牧民向けの休憩小屋があるだけだ。
「石包城」と彫られた真新しい石碑が正面に置かれていたが、それ以外、周囲には最近突然出来たという、隋さんも何のためのものなのか知らないという、掘削プラントのようなものが置かれた小さな工場以外、何一つ見当たらない。隋さんは、政府はここを観光地化したいようです、と言ったが、敦煌からこれほど遠くてこれだけ何もないのだから、ここを観光地にするのは無理であろうと思った。

この石包城は、唐代の要塞跡である。唐代に、中国の北に居た羌族という異民族の侵入を防ぐために作られた要塞であるという。
山の頂上付近に、崩れた煉瓦の山が乗っかっている。見渡す限り、一面の荒野が続くだけだ。頂上付近には、崩れた煉瓦を積み上げたものに、布やら何やらで飾りを施した祠のようなものが立っていた。一見、写真や漫画で見るチベット族の塔に似ている。訊けば、地元のモンゴル系遊牧民たちが煉瓦を崩して祭りのために積み上げたものだという。
ここは唐代の遺跡なのだから、一応1100年以上昔の文化財ということになるはずだが、遊牧民たちはそのような文化遺産には興味がないということで(後のアフリカ・ソマリランドでも聞いたが、遊牧民たちは国家という価値観をあまり持ちあわせていないのであろう)、勝手に破壊してしまうらしい。
「マナブさん、見て下さい。あそこ、ほら、竜巻ですよ」
隋さんの指差す方向で、小さな竜巻が2つ3つと、荒野を突っ切って何処かに向かっていた。日本の陸地で竜巻が起こったら大災害になってしまうが、この茫漠たる荒野の中では、竜巻などいくつ起ころうが、破壊すべきものもなく、空回りしてやがて力尽きるだけである。それはまた、広大な中国大陸の包容力といえた。

二日目に私は、今度は『カさん』と彼の奥さん(ガイド見習い)の三人で、陽関、玉門関に向かった。
彼の奥さんはガイド見習いということだったが、二人共英語が全く喋れないので、何だか彼らの休日ドライブに私が混ざってしまったようで、どこか座りが悪かった。
ともかく二人に任せて座っていると何だか眠くなり、何もすることがないので後部座席で居眠りをしてしまう。
どれくらいそのまま眠ったのだろうか、気がつくと、一面砂漠だったはずの風景が、一面雪原に様変わりしていた。

「……」
ほんの数十分居眠りしただけで、砂漠から雪原に切り替わる中国大陸の凄まじさ。砂漠と雪原が同時に存在し得る激烈な気候。竜巻が空回りする大地。日本の比較的温和な気候条件では考えられない異質な世界がそこにあった。こうした気候が、中国人達の気性に影響を与え、苛烈で逞しい気質にしたと考えても、何の不思議もないというようなことを思った。
玉門関を訪問し、その後雪深い陽関に向かった。

玉門関と陽関は、古代シルクロードの要衝である。今はもう、ぼろぼろの石塊のようになっているが、かつての漢の時代には、何千という兵士が玉門関と陽関に駐屯していたという。
だからであろうか、陽関はまた、古代から中国人が故郷を想う場所でもあったらしい。「西出陽關無故人」といえば、日本の中学生でも聞いたことくらいはある有名な王維の詩だが、あの詩で言及されている「陽關」が、ここなのだ。
私は漢詩の世界は門外漢だけれども、江戸時代に柏木如亭という人が日本語訳したこのバージョンが好きなので、少しご紹介しよう。私はこの柏木如亭のダイナミックでいながら繊細を極めたこの訳し方が大好きである。
このバージョンは、「訳注聯珠詩格」という岩波文庫の本に収録されている。

渭城といふとこまで送てきたれば
朝(けさ)の雨で軽塵(みちのほこり)も裛(しづまつ)て
客舎(はたごや)にある柳の色も青々として新(めづらし)い
勧君(おすすめまう)す酒(わかれざけ)だから更(かくべつ)に一杯尽(すご)したまへ
これから西のはうの陽関(おせきしょ)を出(こし)たら飲(のも)ふといつても無故人(つれがあるまい)

陽関の入り口から、遺跡までロバ馬車に載せてもらうことにした。距離はさほどではないが、雪が深くて歩くのは少々億劫であった。遺跡のそばには、中国の有名な書家達が描いたらしい詩を彫った石碑がいくつも立てられていた。その内の幾つかは、やはり「送元二使安西」であった。

ひと通り見学した後、ロバ馬車に乗って入り口まで戻ろうとしたら、ロバ馬車が滑って転倒し、私はロバ馬車の下敷きになってそのまま数メートル引きずられてしまった。
さすがに驚いたが、雪の上だったことから怪我一つせず、カメラも雪に濡れただけで故障することはなかった。
あの有名な、教科書にも載っている詩の世界で、ロバ馬車の下敷きになった自分がどこかおかしくて、何故か笑いが止まらなくなってしまうのだった。



最終日、私はトルファンまで行く寝台列車の切符を隋さんに頼んで買ってきてもらい、彼とカさんと三人で、莫高窟に向かった。

莫高窟は、前に書いたように、敦煌文献が発見された場所である。
莫高窟には、実は奈良の大仏のような巨大な大仏が、二体も収められている。カメラ禁止とのことだったので写真はないけれど、その迫力は絶大なものであった。
また、井上靖の『敦煌』のラストシーンで、趙行徳と僧侶たちが巻物を納めた莫高窟第16窟、第17窟。オーレル・スタインやポール・ペリオ達が文献を王円籙から買い取って持ち去っていったここも、見ることが出来た。
勿論、『敦煌』は架空の物語で、趙行徳が文化財を守るためにここに巻物を封じたというのが架空の物語であるというのは分かっているけれども、それでもここがシルクロードにとっての重大な一ページであることに変わりはない。
ようやくここに来れたという感動を、色々と言葉でこねくり回して表現しても良いけれど、陳腐になってしまうから、ここでは止めにすることにしよう。
ちなみに、莫高窟を見学し終わった後、隋さんと二人で莫高窟のそばを呑気に歩いていたところ、敦煌の観光関係の機関に勤めているという、カメラを担いだ二人組の女性が現れ、彼女らが出題したクイズに答えている様子を撮影された。
この映像は、ボツにならないかぎり、これから敦煌の観光案内ビデオに使われるだろう。そうなったら、隋さんと僕の二人は中国人民の皆さんの視線に晒されまくることになるわけである。
何時からどこで公開になるのかわからないが、たぶん隋さんが見つけてくれるだろうから、隋さんから連絡が来るのを楽しみに待つとしよう。

その日の夜、私は5日間も一緒に旅をさせてもらった隋さんに別れを告げ、敦煌の北80kmにある柳園駅に向かった。そこから、新疆ウイグル自治区へと向かう列車が出発する。
用を足すために外に出ると、今までに見たこともないほど美しい星空がそこに瞬いていた。タクラマカン砂漠の真ん中で、周囲に何一つ遮るもののない夜空は、もう二度と見ることはできないのではないかというほど美しい輝きに満ちていた。

その他の写真はこちらにあります。

2013年1月6日日曜日

ソマリランド紀行・まとめ

<ビザ取得~入国の様子>

まず、アンバサダーホテルのマネージャーにメールでビザ取得代行の依頼をし、パスポートの顔写真ページのスキャン画像をメールで送付する。その後、各地にあるソマリランドの送金会社・ダハブシール(Dahabshiil)のエージェントで60ドルを送金すれば、数日後にメールでビザが送られてくるので、それを印刷して持っていけばOK。わざわざエチオピアくんだりのソマリランドの連絡事務所に取得しに行く必要はない。エージェント一覧はダハブシールのHPにあり、日本から最も近い場所としては香港にある。ドバイにも複数のエージェントがあり、便利である(日本国内にはない)。
アディスアベバの空港のソマリランド行きは何故か国内線扱いなので、アディスアベバに到着したら国内線ターミナルに移動すること。
なお、アンバサダーホテルのベルベラからハルゲイサまでの送迎は片道250ドルと高く、飛行機が遅れたなどの理由でソマリランド行きの飛行機に乗り損ねて1日遅く行かなければならない時などに「護衛を空港で一泊させねばならないので追加料金250ドルを払え」と迫られたりするので、ビザだけ頼んで後はベルベラのタクシーの運転手などに頼んだほうが安上がりで済む(私は500ドルも払いたくなかったので「そんなにかかるなら行かない」と連絡し、アンバサダーホテルのことは放置することにしたが、別に問題なかった)。
ハルゲイサ-ベルベラ間の移動はタクシーで100ドルなら良心的で、護衛にもれなく10ドルが掛かる。護衛を付けないと、各地のチェック・ポイントで誰何され、面倒ごとに巻き込まれる可能性が高いらしい。

なお、入国時に空港税を34ドルを現金で支払う必要がある。出国時にも、34ドル+セキュリティ代10ドルを支払う必要がある。

<ハルゲイサ・ベルベラの街中の様子>

いかにも発展途上国の田舎町といった雰囲気。特にハルゲイサは、インドの街に雰囲気が似ていると感じた。

建物は平屋建てのレンガ造りの建物が多いようで、その他雑貨屋台、カート屋台、両替屋台などがあちこちにある。三階建て以上の高さの建物はあまり多くなく、ハルゲイサ中心部にある建設中の六か七階建てのビジネスセンターのビルを「これが新しく建設中のビルだ」と運転手に嬉しそうに紹介された。
意外なことに、建設中のビルの足場の骨組みに、インドのような発展途上国に多く見られる竹ではなく、鉄パイプを使ったきちんとした足場を組んで作業しているビルがあったが、その他のビルでは相変わらず竹の足場が使われているものもあって、単に建設主の資金力の違いではないかという印象を受けた(運ちゃんいわく、「イサックのビル」ということを強調していたので、ビルひとつにも氏族がバックにあるのだというのが印象深かった)。

その他、各建物の扉は「青・白」のソマリアカラー、「緑・白(プラス赤)」のソマリランドカラーが頻繁に使用されており、もしかしてこれは各戸がソマリアを支持しているか・ソマリランドを支持しているかの違いなのではないかと一瞬推理したが、青・白の扉の建物にソマリランド国旗が書いてあったり、青・白の扉の建物の屋上にソマリランド国旗が翻ったりしているのを見ると、どうもそんな政治的な立場を示すようなものではまったくなく、単に伝統色だからか、好きな色だから使っているだけに過ぎないように見えた。

他にもソマリランドカラーは車止めや塀・門扉など街のあちこちにみられ、6日の滞在のうち、ソマリア国旗を見ることはついにただの一度もなかった。

大きな道路は舗装されてはいるが、所々穴が開いたまま放置されており、政府は確かにあまりインフラにお金を回せていないように思える。その他の細い路地などでは、舗装はされていないところが多い。

<治安の様子>

街中、郊外ともに、危険な兆候は全く感じられず、物騒な連中の姿は影も形もない。一応郊外に出る時は護衛を付けなければならない規則になっているそうで、ハルゲイサ・ベルベラ間を移動した際はAKを背負った護衛が付いてくれたが、彼らもカートをやりながらダラダラしているだけという印象で、本当に危険な敵が襲ってくるとは彼ら自身考えていないように見えた。
郊外に出ると、所々にある小集落以外、ラクダ、ヤギの他にはたまに遊牧民が歩いているくらいで、人の気配は全くない。

<人々の様子>

まず、私を見かけると「チャイナ!」か「チーナ!」(「ジャッキーチェン!」という人も一人いた)であり、畢竟、珍獣が動物園の檻を抜けだして街をさまよっているが如き扱いを受ける。街ですれ違って声を掛けてきただけの人も含めればおそらく50人以上のソマリランド人に出会っていることになるだろうが、ひと目で私を日本人と見ぬいた人は、一人だけであった。
挨拶したり話しかけてくる人はかなりいたが、別段何かを企んで声をかけてくるわけではないらしく、単に物珍しくて声をかけてくるだけのようである。挨拶を交わしたり、無視したりしても、別に追いすがってくる様子もなければ、何かを売りつけてくる様子もない。観光地ズレしていないためであろう。

子供たち、特に女の子たちは「ギブミー・マネー」してくる傾向が非常に強い。あげないでいても特に縋りつかれたりするわけではないし、向こうも本気で欲しくてやっているのかどうか疑わしいところがある。その子たちを運ちゃんがカラのペットボトルを投げつけて追い払ったのにはびっくりしたが、子供たちも笑いながらさっさと逃げ出してしまい、別に追い払われたからといって気にしている様子はなかった。他の大人たちは「ギブミー・マネー」してこないが、「年配のお母さん」風の人だけは時々してきた。
また、物乞いもハルゲイサ中心部に何人かおり、地雷か戦争か何かで足のない人などが道端でお金を求めているのを見た。
イスラムの強い土地柄だけに女性の写真はあまり撮らないようにしていたが、「撮っていいか」と両替屋台のオバさんに聞いたら何の問題もなかったり、通りかかりの道端の女の人が投げキッスしてきたり、そうかといえば道端で風景写真を撮っていたら、たまたま正面にいたオッサンが「何故俺の写真を撮っているんだ」と言いながら近づいてきたりもした。

高野秀行さんが「アフリカ人とは思えないくらい動作がキビキビしている」といっていたが、たしかに気が早い性質なのか、ウェイターが小走りに注文を取りに来たり、電話で要件が終わると挨拶もそこそこにさっさと電話を切るなどの習慣があるようだ(そうかと言えば、Aさんが「政府の中に働いてない奴が多い」と言ったりしているので、よくわからない)。
男性は特に声が大きく、電話などで怒鳴っているように喋る人も多いが、見ていると別に怒っているのではなく、単に大声でしゃべる習慣なだけか、カートでハイになっているだけのように見える。

<人々の対ソマリア感情の様子>

ソマリランド人の南部ソマリアへの反応はあまりよくない。
人々に南部ソマリアについて聞いてみると、インターネットで散見される「ソマリランドはソマリアと違って平和でいいだろ」そのままの反応が返ってくる。
南部の人々については、「ブラザー」ではあるが「同じ国ではない」という反応で、兄弟国ではあるという認識は持っているようであるから、「ブラザーはブラザーだが、ダメなブラザーとは一緒に暮らしたくない」ということなのだろうと忖度した。Aさんの言うように、南部の氏族がソマリランド側に対して補償を行なっていないという背景も不仲の理由にあるのであろう。これから氏族間の和解がもし達成されたら、その時南部ともう一度やり直すつもりなのかどうかまではわからなかった。

<食事の様子>

ソマリランド人の主食は、イタリアン・パスタかご飯である。その他に、ゆでた山羊肉料理、焼き魚料理、スープなどがあるが、どれも驚くほど日本人の口にあい、「現地民には美味しいんだろうけど、日本人の口にはちょっと…」というものは全くお目にかからなかった。
パスタは大量に茹でおきしておいたものにソースを掛けるという日本風のスパゲティとよく似た作り方である。ソースはじゃがいも、にんじん、玉ねぎなどを入れた薄いカレールーのようなものや、ミートソース、トマトソースなどがあり、アルデンテという概念はまったくないが、おいしかった。この国の料理は何を食べてもだいたいうまいので、毎食が楽しみですらあった。

その他、街中には揚げ餃子とカレー風味のコロッケの屋台があり、これが非常に美味しい。

コーヒーはアラビアンコーヒーのような濃口のものが多く、ソマリティーはインドのマサラチャイに似たミルクティーである。

 <カート(チャット)の様子>

ベルベラ-ハルゲイサの移動中にカートを一房奢ってもらい、他にすることもないので2時間半ひたすらカートを食べていたが、量が足りなかったらしく、それほどハイにはならなかった。
味はたんに苦く、美味しくはないのだが、きっとこれが「節分の時に大して好きでもない豆を一袋食べていた」というたぐいの「癖になるまずさ」なのではないだろうか。

ただ、一房の葉っぱを食べきった後に、若干気持ちが楽になったような気持ちになり、「荷物が行方不明になり旅を続けられるかどうか分からない」という状況にもかかわらず、「まあ、それも旅の一つさ」などと明確に気楽な気持ちになったのが印象的だった。なお、別段酔っ払ったような酩酊した状態にはならなかった(だから運転しながらカートをやるのであろうが)。

<店先の様子>

壁にぎっしりと在庫を敷き詰めるのが好きなのか、いやに物が豊富にある印象を受ける。ペットボトルの水、並びに「コカ・コーラ」「ファンタ」「スプライト」の三種類はソマリランド製(現地のSBIの工場が稼働を始めた2011年以降で、それより古い500mlの在庫はおそらくドバイ経由の代物と思われる)。

「キットカット」「ヌテラ」「リプトン」「ウィータビックス」などの国際ブランド品もみつかる。お菓子はドバイで作られたものが多く輸入されているようで、その他石鹸などはMade in C.E.のものも見られた。その他市場に行くと、絨毯やおもちゃ、電化製品なども大量に売られている。

<貨幣の様子>

ソマリランド・シリングは500シリングが上限と言われていたが、2011年以降は5000、1000、500になったらしく、500未満の貨幣は消滅して一度もお目にかからなかった。
そのため、かつてほど「大量に現金を持ち歩く」必要はなくなったようだが、それでも大量の枚数が必要なことにかわりはなく、アメリカ・ドルのほうがより普通に通用する(ZAADの通貨単位もドルであり、ソマリランド・シリングではない)。従ってアメリカドルを持ち歩いていれば、ソマリランド・シリングがなくても不自由はしない。
とはいえ、カンボジア・リエルのように、「ドルで買い物をした後に付いてくる抽選補助券」レベルの泣くほど悲しい扱いを受けているわけでもないようで、国民の間での重要度は「カンボジア・リエル<ソマリランド・シリング<ミャンマー・チャット」といったイメージである。
また市民は人力でデノミを敢行しており、「5シリング」と言われたら「5000シリング」だったり、「250シリング」だったら「2500シリング」だったりする。
なお、ATMは存在しない。従って、旅行前に事前に大量の現金を用意しておく必要がある。

<車の様子>

ほとんど全てが日本車であり、それ以外の韓国車、ドイツ車、アメリカ車などはまったくお目にかからなかった。

ソマリランド人は「マーク2」「ランドクルーザー」「タウンエースノア」などが好きな様子で、「ヴィッツ」はハルゲイサ市内のタクシーなどに多く使われていた。
日本で使われていた車が塗装も変えずにそのまま使われているのが特徴で、前に使われていた会社の社名などが入った車が大量に街中を走っているのはコミカルですらある。同じく社名が入ったままの日本車が走り回っているミャンマーと非常に似ている。

<インターネットの様子>

インターネット環境はあまりよろしくない。ホテルでの使用形態は無線LANだが、根本的に速度は極めて遅く、頻繁に接続が途切れることがある。安宿のみならず、マンスール級のホテルですら同じであるので、プロバイダー側の問題と思われるが、確認はできなかった。
なお、一般市民が普段携帯でネットを使っているかどうか、自宅でネットを使っているかどうかは確認できなかったが、「Facebookのアカウントを持っている」という人や、ホテルの受け付けのパソコンでFacebookに興じている人はいた。
。インターネットカフェは、ハルゲイサに一軒のみ見かけたが、他は見かけなかった。

<ZAAD(サード、サッド)の様子>

電子マネーサービスのZAADは、外国人でも簡単に登録できる。
まずはTelesomの事務所に行くと、3ドルでSIMカードが簡単に購入でき、特に申請書類を記入するなどの手続きも必要ない。

その後、パスポートの顔写真ページとソマリランドビザのページのコピーを用意して、Telesomの事務所に行き、係員の説明を聞きながら必要事項を係員に話していけば、小一時間くらいでZAADのアカウントを開設することができる。
その際、ソマリランド人の知り合いの名前が一人必要であるので、タクシーの運転手とでも親しくなっておき、電話番号と名前を聞いておけば、ZAADの登録時に使用できる。勝手に名義を借りても連絡が行くわけでもなんでもないようで、何の問題もない。
ZAADの使用方法は簡単で、街中にいくらでもある両替屋台に行ってドルを渡し、自分の電話番号を示せば手数料なしで入金してくれる。
大抵の雑貨屋や屋台にはZAAD番号(個人の場合は電話番号で、商店・ホテルの場合はマーチャントNo.)が書いてあり、どこでも使用することができる。ホテルやレストラン、タクシーの場合も同様で、ホテルならZAAD番号がレシートに記載されている。

使い方は簡単で、「*888#」にダイアルするとメニュー画面が現れ、「2.Send Money」(個人宛て)または「4.Pay Bill」(商店宛て)を選択し、画面に従って入金額を入力すれば、数秒後には相手に入金される。出金することもできるようだが、両替屋台で頼めるのか、Telesomの事務所ですべきなのか、試していないのでわからなかった。
またZAADは募金にも利用されているようで、地元のテレビの放送中に、ZAAD番号が字幕スーパーでドンと出てくることがあった。なるほど、これなら携帯電話から好きな金額を即座に入金できるんだから、かなり便利と膝を打った。

<ホテルの様子>

  • マンスール・ホテル
 日本の帝国ホテルにあたるホテル。ハルゲイサの外れの閑静な一角にあり、入り口にチェックポイントがあったり、にも関わらず鹿が5匹も住んでいたり、かといえば政府の記者会見が行われたり、UNDPの職員が住んでいたりと、面白い場所。現地の上流階級の社交場にもなっているようで、身なりの良い人々が詰めかけている。レストランの食事も美味しい物ばかり。中心部から外れているために自分の足のない旅人はタクシーを使わなければならず、ホテル代以上に高く付くのが難点。コテージで一泊35ドル。
  • インペリアル・ホテル
 大統領府付近にあるホテル。レストランがあり、UNDP職員のAさん御用達。部屋は薄暗く、それなり。一泊15ドル。
  • オリエンタル・ホテル
 ハルゲイサ中心部にあるホテル。1953年創業の老舗。市場やZAADの事務所も近くにあり、何かと便利。内部のレイアウトも洗練されており、居心地がよい。ツアー会社の事務所が併設されており、ここからサファリツアーなどにも出られる様子。一泊15ドル。

  • ヤヒェ・ホテル(Yaxhe hotel)
 ベルベラ市街地、Telesomの事務所付近にあるホテル。安宿で温水もないが、一泊するには何の問題もない。一泊8ドル。
  • マンスール・ベルベラ
 マンスール・ホテルのベルベラ支店。ベルベラ市街地から遠く離れたビーチの目の前にあり、ビーチでのんびり過ごしたい人向け。ただし、クルマがないと移動は困難。一泊50ドル(支店の方が高い理由は、場所柄夏は特に暑く、エアコンを設置しないと滞在できないため)。

<観光地の様子>

  • ラースゲール遺跡
 ハルゲイサからクルマで1時間弱の位置。幹線道路をそれて道無き道を30分行くとお目にかかれる。ビジターノートを確認すると、1日2人以上は訪問しているようで、国籍はアメリカ、イギリス、フィンランド、ドイツ、タイ、ソマリランドなど。日本人は1人しか発見できなかった。観光地として整備されているわけではないが、荒々しい荒野の中の岩山に、古代の壁画がそのまま残されており、指で触れるほど近くで見物できるのが迫力。

  • ベルベラビーチ
 マンスール・ホテルの支店、マンスール・ベルベラ付近のビーチは砂の質もよく海の色も綺麗で、景色も非常によい。

ただし、ゴミのポイ捨てが多いのと、海に入るとウニが沢山転がっているのでうっかり踏まないように気をつけないといけないのが難点。踏むと痛いが、特に毒などはないとのことなので心配は不要。ビーチの海深はあまり深くなく、100m以上は行かないと足がつかないほど深くはならないとみられる。実にのんびりしていて平和そのものなので、アデン湾に面した海でリラックスして過ごせる。

  • シランヨ大統領
 大晦日にマンスール・ホテルのフロントにしつこく頼んで連絡をとってもらい、タクシーで大統領府前まで連れて行ってもらったのだが、とうとう会えなかった。電話がかかってきて、正体不明の老人から「明日なら会える」との言葉をもらったが明日の何時、何処なのかの指示はまったくなく、待機していても音沙汰がないので、大統領府までもう一度行ったが、結局セキュリティに停められて会えず、日本人のAさんから色々話も聞けたのでもういいやという気分になり、諦めた。

<その他>

実際に行ってみて気づいたことは、「何かとカネのかかる国」であるということだった。
もちろん、食事などはそれほど高くはないし、ホテルも15ドルで十分な設備のあるホテルに泊まることが出来る。しかし、入出国時の空港税68ドル、ビザ取得代60ドルはもとより、タクシー代が日本並みに高いことに注意しなければならない。
ほんの少し移動しただけで数千円が飛んでしまうし、可能であれば、ハルゲイサ-ベルベラ間の移動はしないか、するにしても1回で済ませたほうが節約になる(ハルゲイサ空港が再開されれば、ハルゲイサとベルベラを往復する必要はなくなるだろう。ハルゲイサ空港は今年の2月か3月には開港する見込みとのこと)。
特にマンスールホテル・アンバサダーホテルなどの郊外ホテルに泊まると、ホテルと市街地をタクシーで往復するだけで一泊分が吹き飛ぶので、必要でなければハルゲイサ中心部のオリエンタルホテルなどに泊まったほうがよい。

その他の写真は、こちらにあります。
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