次の日の朝、アーグラを離れた車は、一路ジャイプールに向かった。
モンキーテンプルとは、小高い山の麓に作られたヒンドゥー教の寺院で、その名の通り、寺院全体がサルの群れの棲家となっている場所である。正式名称は「ガルタージ(Galtaji)」という。
赤い城壁に囲まれたジャイプールは、別名を「ピンク・シティー」という。あちこちの建物にピンクの塗装を施していることから付いたあだ名だが、これは1876年にイギリスのヴィクトリア女王がこの地を訪問した際、建物の色をピンクに塗装したことから、伝統的にピンク色の塗装をするようになったのだという(むろん、何から何までピンクだらけの町並みというわけではないし、ピンクもショッキングピンクのようなケバケバしいものではなく、穏やかな色合いだ)。
地図上でアーグラとジャイプールを見ると大して離れていないように感じるが、実際には200km以上も離れている。インド亜大陸の広大さを否が応でも認識させられる。
途中の観光客向けの立派なレストランで昼食を取って、そこからまたジャイプールを目指して走った。目的地であるジャイプールに入ったのは、陽も傾きはじめた夕方になってからだった。
「ジャイプールではどこに行きたい?」
と運転手の兄さんに聞かれて、「そうだなぁ。やっぱりジャイプールといえば、シティパレスに…」
「モンキーテンプルという場所があるよ。まずはそこに行ってみよう」
「モンキーテンプル?」
「サルがいっぱいいるんだ」
そういえば、インドでは妙に猿も沢山居るように感じていた。インドの動物と言えば勿論牛だが、牛以外にも色々な動物がウロウロしている。猿以外では、リス、山羊、イノシシ(野生の豚?)、そして犬が特に多いようだ。リスや猿は観光地だけでなく街中にも住み着いているようで、アーグラの街中でも、遠くのビルの屋上を猿がぶらぶらと歩いているのを目にしていた。
話は逸れるが、意外なことにインド滞在中にネコの姿はほとんど見かけなかった。野良犬があちこちに寝転がっているのだから、野良猫もあちこちに転がっていてもよさそうなものだが、ネコの姿は非常に少ない。そこで運ちゃんに、「インド人はネコが嫌いなの?」と聞くと、
「そんなことはない。インド人はネコが大好きだよ。ネコは家の中でだけ飼ってるんだ」
と彼は答えた。本当なのかどうかわからないが、地面に落ちているものはゴミを除くと犬かインド人かというくらい犬が何処にでも転がっているということを考えると、猫は確かに何らかの特別な扱いを受けているのは間違いないのだろう。
そんなわけで、私は運ちゃんに連れられて、モンキーテンプルに向かった。
モンキーテンプルとは、小高い山の麓に作られたヒンドゥー教の寺院で、その名の通り、寺院全体がサルの群れの棲家となっている場所である。正式名称は「ガルタージ(Galtaji)」という。
ここには文字通り凄まじい数のサルが生息しているが、何よりもこの地のサルが特徴的なのは、人間と生活空間を共有しているためか、他の場所のサルのように、人間が近づいてきてもいちいち威嚇したり逃げたりせず、無関心を貫いていることであった。50cm程度まで近づいてもこちらは見向きもされず、面倒くさそうに脇に避けられるだけである。まるで、動物園の猿山の中に、自分だけが突然放り込まれたようだ。
山頂を目指して登って行くと、サル達が怒声を挙げながら、一箇所に走っていく場面に出くわした。何事が起こったのかと自分もその群衆の中に混じって騒ぎを観察すると、寺院の隅で、一匹の強面のサルがもう一匹の首筋に噛み付き、屈服させているところだった。
その他のサルたちもまた、その周囲でキーキーと喧しくがなり立てながら、その様子を見守っている。やがて、強面のサルがもう一匹を放すと、それは慌てた様子で山頂へ向かう階段を駆け上がって行き、他のサルたちもそれを追いかけるように、山頂の方向に走り去っていった。
つい1分ほど前まで怒号の渦中にあった寺院の一角は、あっという間に何事もなかったかのように静まり返り、部外者の私だけがそこに取り残された。
山頂にたどり着くと、そこにはジャイプールの町並みを見下ろすように、小さな祠と、それを守る管理人の家が建っていた。初老の男性に招き入れられて中に入ると、彼は祠の錠を外して扉を開き、そこに祀られている二体のヒンドゥー教の神様の像を私に見せてくれた。
神様の名前は何と言ったか忘れてしまったが、何でもこの神様は夫婦なのだという。どんないわれのある神様か分からないけれど、きっとジャイプールを守る神様なのだろう。何やらギョロ目をした、穏やかな顔のような妖怪の顔のような、不思議な神様の像だった。
小高い山の上から見下ろすジャイプールは、ニューデリーにも負けないような大きな街だった。暮れなずむ空の下で、街が霧で霞んだ地平線の先まで続いている。
なんだか不思議な光景だった。眼下では、車や人が忙しそうに往来しているのに、夕焼けに溶け込んでいく町並みには、奇妙なほど穏やかな空機が流れていた。
それは、普段のインドのイメージとは一味違った、インドのもう一つの表情であったのかもしれない。
麓の寺院にまで降りていく途中、サル達が麓に向かって一斉に走り出していく様子を見た。
(何か麓であるのかな…)
と、彼らの様子を見に下まで降りて行くと、サル達の飼育員らしい数人の男たちが、ダンボールに入ったバナナの山をサル達に振舞っているところが目に飛び込んできた。
猿山全てのサルが総結集したのだろう、軽く百匹以上のサルが、飼育員たちを取り囲んでおり、彼らを追いかけていった私もまた、いつの間にかサル達の群れのど真ん中に放り込まれていた。
飼育員たちがバナナを放り投げると、そこに向かって一斉にサル達が殺到する。押し合い圧し合い奪い合い、バナナを手にしようとサル達は必死になって競い合っている。ある者は真っ先にバナナを手にしようというのか、飼育員たちの足にしがみついてみたり、またある者は他のサルから強引に奪いとろうとしたり、まだバナナがないのかと、カラのダンボール箱を引っ掻き回してみたりしている。
中にはどこから来たのか、白黒の毛の大柄なハヌマンラングールらしいサルまで現れて、他のサルたちを圧倒してバナナを奪い取っている。
仔猿が私の方を見つめていたので見つめ返してみると、母猿が仔猿を片手で後ろに庇い、私を威嚇してきた。そんな様子を見ていると、猿も人間と変わらないなと思ったりもする。
猿の群れの向こう側には、今から山頂へ向かおうとする数人の年配の白人女性の姿があったが、あまりにも数が多いのに危険を感じたのか、歩みを止めてポカンとこちらを見ていた。
この寺院は、まるで人間の社会の縮図だ。
次の日の昼間は、ジャイプールの郊外にあるアンベール城や、シティ・パレスを見物して過ごした。アンベール城には、中国の万里の長城を思わせる城壁や、山頂に美しい空中庭園があった。
その日の夜になって、事件は起こった。
「今日の晩飯はどうする? 昨日のところでいいかい? それとも別の場所にしようか?」
「そうだなぁ…」
その日の行程を終えた私と運ちゃんの車は、夕食のレストランに向かおうと、ホテルの近所にある交差点で右折待ちをしているところだった。
「じゃあ、今日は…」
別のレストランを紹介してくれ、と言おうとした時、ガゴン、という鈍い音と共に、車に軽い衝撃が走って、運ちゃんはブレーキを踏み込んだ。
「な、なんだ?」
見ると、我々の車のそばで、倒れた原付を起こそうとしている二人組のインド人女性の姿があった。女性たち二人は、しまった、というような顔で私達を見ている。
「やりやがった!」
と、運ちゃんは運転席のドアを開けて、女性二人に何かを言おうとした。ところがその時、どこから現れたのか、突然二人組の警察官が姿を見せた。
二人組の警察官は口に咥えたホイッスルを鳴らしながら、運ちゃんに向かって「降りろ」というような手振りを示した。
運ちゃんは渋面を浮かべて車を車道の脇に寄せると、警察官の手招きに従って、交差点の反対側の方へと歩いて行った。
事故、事故だ。今更ながら、自分たちがトラブルに巻き込まれたことが実感として分かった。しかし、事故と言ったって、自分たちの車が右折をしようと停まっていたところに、二人組のバイクが勝手に突っ込んできたのだ。悪いのはあの二人組で、こちらに責任はない。
そうは思ったが、運ちゃんがなかなか戻ってこないので、私は心配になって車から降りて交差点の反対側の様子を見ていた。すると、見ず知らずの野次馬の男性二人が現れて、
「君のドライバーはベリーグッドだ。心配するな」
と言うのだ。何がベリーグッドなのかさっぱり分からないけれど、とにかく待つしかない。車に戻ってしばらく待っていると、やがて怒った様子の運ちゃんが戻ってきた。
「くそっ!」
「一体どうしたんだ?」
運ちゃんにそう聞くと、驚くべき答えが返って来た。
「警官どもに金を要求されたんだよ!」
「なんだって? どうして? それでどうしたんだ?」
「金なんか無いって言って払わなかったよ!」
「あのバイクの二人組は?」
「知らない。奴ら、さっさとどっかに行ってしまったよ!」
それは、実に信じられないインド警察の実態だった。
あの警察官たちは、こちらの車には何の非も無いというのに、こちらの運ちゃんの免許を取り上げるなどといってワイロを要求してきたらしいのだ。
つまり、あの警察官たちは、雁首揃えて現れておきながら、金になりそうな外国人の乗っている私の車にだけ目を付け、金にならないインド人の女二人組は放ったらかしたということである。
しかも、事故が起きてから警察官が登場するのがいやに早いと思ったが、彼らは要所要所の交差点を見張っていて、事故が起きるとすぐに飛んでくるというのだ。交通整理とか、そういうのはおそらくせずに。まるでこれでは、警察官たちのほうが、事故を狙って網を張って待ち構えている蜘蛛みたいだった。彼らの目的は事故の防止だとか交通の秩序を守るということではなく、カネなのだ!
以前一度、フィリピンのセブ島で、同じように私の乗った車の運ちゃんが、悪徳警官にワイロをせびられているところを目撃したことはあるけれど、ここまであからさまな腐敗を見せつけられると、何だか頭がクラクラするような感じがした。この国は、やはり日本では考えられないような混沌と腐敗が支配しているのだ。
怒髪天を衝く勢いで怒る運ちゃんは、そのまま前日と同じレストランに私を降ろした。せっかくだから別のレストランがいい、と言おうとしたけれど、とても言える状況ではなくなってしまった。
とはいえ、私は内心、この国の訳の分からなさが逆に面白く感じ始めていた。
初日から続くインドのヘンテコで奇妙な出来事の数々が、一周して却って面白く感じ始めていたのである。
ジャイプールの次には、いよいよ、インドで最もインパクトの強かった街、ムンバイが私を待ち構えていた。