2013年3月24日日曜日

分断された聖地(イスラエル・テルアビブ&エルサレム、80〜86日目)

エジプトを経て、私はイスラエルに向かった。
エジプトは中東戦争の際、他のアラブ諸国から一抜けを宣言し、真っ先にイスラエルと和平を結んだ国である。その時、エジプトと国家連合を組んでいたリビアのカダフィ大佐が激怒し、国家連合を解体、カダフィ大佐は、エジプトと同じ国旗になっていた当時のリビアの国旗を廃止し、部下たちに一晩で新しい国旗を作れと無茶振りをしたのだが、一夜では当然まともなデザインの国旗を作る時間があるはずもなく、あの有名な緑一色の国旗となったという有名な逸話がある。
そんなイスラエルと真っ先に和平を結んだエジプトではあるが、意外なことにイスラエル行きの交通機関がそれほどあるわけではない。列車も飛行機の直行便もなく、選択肢はバスだけである。しかも、地中海に沿ってまっすぐイスラエルに向かうのではなく、わざわざシナイ半島を横切ってビーチリゾートのダハブのある紅海沿岸まで行き、しかるのちテルアビブに向かって北上するというルートを取らねばならない。
イスラエルに向かうにあたっては、地中海に沿って真っ直ぐ行くルートのバスもないかどうか調べてみたが、あるんだかないんだかさっぱりわからず、当てにならなかった。
かといって、シナイ半島を横断するバスも使いたくなかった。というのも、イスラエルは周囲を敵に囲まれている関係上、出入国審査が異様に厳しいことで有名な国だからだ。
特に、アラブ圏を通ってきた「不審な」旅行者は、出入国審査で頻繁に長時間待たされるケースがあるといい、しかも国境を通過するバスが、そうした長時間待たされている不運な旅行者を捨ておいて、無事通過した者だけでさっさと行ってしまうという話を聞いていたのである。
UAE、エジプト、ソマリランド。特にソマリランドを通過した私は、長時間の誰何をされる可能性が高い。国境の荒野に一人取り残されてしまったら、どうやってテルアビブまで向かったらよいのか分からなくなってしまう。別にダハブに行きたいわけでもないし。

そこで、私は運賃はかかるが、キプロス島を経由して飛行機でイスラエルに乗り込んでみてはどうかと思い立った。もともと南北に分断されたキプロスの様子も見てみたかったし、ベングリオン空港まで乗り込んでしまえば、入国拒否されない限りどうとでもなる。
そんなわけで、私はキプロスに入り、キプロスで一泊、翌日イスラエル行きの飛行機に乗り込んだ。南キプロスはすでにEU圏内で、後のトルコのボスポラス海峡を通過して美しくアジアに別れを告げヨーロッパに入るということはできなくなってしまったが、中東の荒野に放り出されるよりは幾分ましだ。

テルアビブのベン・グリオン空港に深夜降り立ち、長い渡り廊下を歩いていると、早速空港の係員二人組が現れて私を呼び止めた。ついに来た! これがイスラエル名物の厳しいチェックだ。
「どこから来たのか」
「これまでどこに行ったのか」
「ソマリア、エジプト、UAEに友人は居るのか」
「長旅の目的は何か」
等々…。あれこれたっぷりと10分間の質問攻めから開放されると、それから更に出入国審査官に色々と問いただされる。
「イスラエルでは何処に行くのか」
「何の職業に就いているのか」
「前職は何という会社に勤めていたのか」
「旅の資金はどうやって手に入れたのか」
「両親の職業は何か」…。
何処かに電話をかけて、前の会社の名前の確認までしているので、さすがにびっくりした。「ヒタチ」なる会社が日本に実在するかどうか確かめたようだ。財政状況についても、誰の金で旅行しているのかが気になるらしい。
とはいえ、予想よりもイスラエルの入国審査は呆気無く終わったように思えたので拍子抜けした。どちらかといえば、先のゴアのあの憎たらしいロマンスグレーの入国審査のほうが大変だったからだ。あれはほとんど喧嘩に近い内容だったし、イスラエルの審査の方がまだ理性的だった。

ようやく審査も終わり、空港からタクシーで予約していたテルアビブ市内の宿に向かった。時刻はまたしても深夜の1時を過ぎている。
くたびれながら宿のチャイムを鳴らしたが、誰も出てこない。
(おかしいな。住所はここであってんのに…)
諦めずにドアをノックしたり、チャイムを鳴らしたりしていると、やがて一人の太った親父がドアの奥からぬっと現れて、こう言った。
「受付は10時までだ。今日はもうやってない」
「いや、だけど予約はもうとってあるんだけど…」
「10時で終わりだ。他のホステルに行ってくれ」
「…。」
じゃあなんの意味があってアンタこの時間に居るんだよ、とは思ったがどう交渉する余地もなく、私は深夜の2時近く、知る人もいない外国の街角に一人放り出されてしまった。ここが何処かもわからず、外は雨が降っていて野宿もできない。またしても最悪の展開だ。
しかしその時、近くをタクシーが通っているのを見かけた。その瞬間、極限ギリギリの状態が生んだ閃きだろうか、自分にしては珍しく冴えたやり方を思いついた。そうだ、地元のタクシーの運ちゃんなら、近場の安いホステルを知っているんじゃないか? いや、もうそれ以外に方法はない!
そんなわけで、私は運ちゃんを捕まえて、近くのホステルに連れて行ってもらうことにした。
「どこから来た?」
「日本だよ」
「そうか…。イスラエルは好きか?」
中年の運ちゃんは、私を乗せるなりそんなことを聞いてきた。
「…? ああ、ここはいいところだよね」
「そうかそうか」
運ちゃんは、私を近くのまともなホステルに案内して、去って行った。タクシーには嫌な目にばかり合わされてきたけれど、今回ばかりは感謝しなくちゃいけない。そんな風に感ぜられた。

しかし、私には引っかかるところがあった。
今までタクシーに何度も乗ってきたけれど、いきなりこの国は好きかなんて聞いてきた人は今までいなかったのだ。
それだけに、その質問はひどく奇妙な印象を残していた。
この国に来てまだ数時間も経っていない旅行者に、そんなことを訊ねる人々。
そうだ。ここは異端。ユダヤの浮島。周囲を敵に囲まれた国。
ここはイスラエルなのだ…。

2013年3月3日日曜日

ナイルのほとりにて・2(エジプト・カイロ、75〜79日目)


翌日、さっそくユースホステルの近所から、カイロ散策を始めることにした。革命後のカイロは今どうなっているだろう。
アフリカの一部・イスラム圏でありながらも、カイロの町並みには、今までの国にない強いヨーロッパの香りが漂っている。自分がいよいよ、ヨーロッパに接近してきているのを、実感として感じる。
ホステルから地図を貰って、ようやく自分がどこに居るか分かってきた。つい最近の革命で反体制派の拠点にもなったタハリール広場のすぐ近く。市内の中心部に近く、どこに行くにもアクセスが良い。なんで運ちゃんは昨夜あんなに迷ったのだろうと、よく分からなくなってきた。
とりあえず、カイロといえば名物のカイロ博物館に行ってみようと、適当に歩いてみた。市内は少なくとも平静を取り戻しているようで、何ら緊迫した雰囲気は感じない。危険というなら、インドのほうがまだ危険なような気がする。
適当に歩き過ぎたせいですっかり道に迷ったが、ひたすら歩き続けるとビル群から抜け、急にナイル川が目の前に広がった。


雄大なナイルのほとり。古代から氾濫することによって肥沃な大地を育み、エジプトの人々の生活を支え続けてきた大河。何か感慨深いものがあるかとも思ったけれど、街に取り囲まれていては、ナイル川も地元の亀田川や豊平川と、(当たり前だが)それほど大きな違いのあるものには見えない。


カイロ博物館では、伝説的なまでに有名なツタンカーメンの仮面に会った。彼の仮面は、その他の似たような仮面が長年の劣化で古ぼけて輝きを失っているのとは対照的に、未だに怪しい黄金色に輝いている。この魔力のような輝きが、長年多くの人々を魅惑してきた理由であろうか、などと思ったりもした。

博物館から外に出て、カフェでコーヒーを飲むことにした。カフェには、数匹の猫がウロウロしている。すると、一匹の茶色い猫がやってきて、じっと私を見上げた。
(うーん、何かあげたいけど、コーヒーじゃなぁ。何も持ってないし…)
そう思っていると、その猫はひょいと私の膝の上に飛び乗って、そこで香箱座りになって寛ぎ始めたのだ。
かわいい。犬派だけど猫もいい。猫を撫でると、野良の割りにはいい餌を食べているのか、毛並みもよくフワフワしている。本当は旅先で猫など触らないほうが良いのだが、向こうからなついてきたのだからしょうがない。
それにしても、犬だらけで猫はまったく見かけなかったインドとは逆で、ここでは犬が少なくて猫が多い。国によっても、犬派と猫派に分かれているのだろうか。
(猫が飼えればいいんだけどな…)
そう思いながら、私はその猫を暫く膝に載せたまま過ごした。実家だろうとどこだろうと、今現在生き物を飼える環境はどこにもない。飼えるのは植物くらいなもので、それはなんとも味気ない現実だった。

カイロ博物館から出て、タハリール広場の方向に向かっていると、奇妙なものを見つけた。
道路の真ん中に、瓦礫やガラクタを積み上げたような山が置かれている。どうしてこんな邪魔臭いものを誰も片付けないのだろうと訝しんでいると、タハリール広場に広がる野戦基地のようなテント群が見えてきた。

↑タハリール広場に通じる道路に置かれたバリケードらしきもの

↑遠くから見たタハリール広場

(あ…これは、バリケードか!)
タハリール広場には、車両の出入りを封鎖するように、バリケードが構築されているのだ。広場の内部にはテントを囲んで屋台や出店などが並んでいるほか、あちこちに手持ち無沙汰な様子の人々が屯して、何か雑談に興じている。
そういえば、カイロ博物館のすぐ脇に、黒く焼け焦げた建物や車が、見るも無残な残骸を晒していた。あれは、革命の残骸なのか。

↑エジプト革命で焼き討ちにあった政府機関系ビル。修理されず放置されている

そこにいる人々から、何か危険なエネルギーを感じた。革命は一段落などしていない。ニュースで聞いた通りだ。まだまだ、彼らの社会に対する不満は晴らされていないのではないか。
そして、こうして人々はバリケードを作って、こうしてタハリール広場に燻っているのだ。まるで、焚き火の跡の熾のように。
流石に、テント村の内部にまで潜り込んで、彼らの輪に混ざるような真似はとても出来なかった。ソマリランドにもなかった、特殊な緊迫感がそこにあった。

↑何の用があるのか、手持ち無沙汰気味の人々が溜まっている

その後のエジプトでの旅は恙無く過ぎた。「駱駝はジェントルさ、大人しい動物さ」などというガイドの言葉とは裏腹に、どう見ても乗られるのを嫌がって怒り狂っているようにしか見えない駱駝に乗ってピラミッドまで行き、すっかりお尻も痛くなってしまった。


ピラミッドの外壁によじ登り、そこから見るカイロの市街地には、曇り空から太陽の光の柱が幾筋も注ぎ込み、実に美しかった。4000年以上ものあいだ、ピラミッドとスフィンクスは、変わらずここに佇み、時にはナポレオンに鼻を取られ、時には日本からやって来た侍の一行と一緒に記念撮影をし、そして今や、三度起こったエジプトの革命を見下ろしていた。
キリストが生まれるよりもずっとずっと前から、何を思ってそれだけの時間を黙って過ごしてきたのだろうか。
しかしもちろん、ピラミッドもスフィンクスも、そのような問いに応じることはない。

滞在最終日に、『ジョジョ』第三部で主人公一行が敵と戦ったとされるあたりを歩いた後、夜の帳の降りたエジプトの街をタハリール広場の方面に戻った。
タハリール広場の方向から、私が戻ってきた方角に向かって、5台もの救急車が列をなして、巨大なサイレン音を奏でながら疾走していった。
何があったのかは定かではないが、何かその巨大な救急車の隊列の不気味なサイレン音は、遠くまでも響き渡り、カイロの町並みに不穏な空気を齎していた。
何か、あったのだろうか…。
私は、街全体を霧のように飲み込んだ不気味な空気に不安を覚えながら、一刻も早く安全なホステルに帰ろうと、道を急いだ。

私が去って一ヶ月もしないうちに、タハリール広場周辺でまた大規模な抗議デモが起きたのは、ニュースで報じられた通りである。

ナイルのほとりにて・1(エジプト・カイロ、75〜79日目)


ほんの2年前、アラブの春の革命によって独裁政権が崩壊したエジプト。ニュースでは、大規模な騒乱の映像が連日放送された事は記憶に新しいが、その後の報道では全てが一件落着したわけでは全くなく、現在に至ってもなお、騒乱の火種が燻っていると報じられている。
一方エジプトは、大人気の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』第三部の舞台となったロマン溢れる国でもあるのだ。
そんなエジプト、現在はどうなっているだろう。ソマリランドでの強烈な体験を終えたのち、私はアディスアベバを経由して、一路エジプトはカイロに飛んだ。

『ジョジョ』では、主人公一行はサウジアラビアの砂漠を横断した後、紅海を潜水艦で横断し、アスワン近郊の海岸に上陸した(それって密入国?)後、ナイル川に沿ってアスワン→ルクソール→カイロとエジプトを北上する旅をしたけれども、今回の私は、勿論合法的に飛行機で、危険なスーダンを飛び越してカイロに辿り着いた。カイロ空港に降り立ったのはもう深夜になってからのことで、私はしかたなく、タクシーを使って宿に入ることにした。
空港ロビーでタクシーを探すと、すぐに怪しい男がタクシーに乗らないかと迫ってきた。私は男があまりにしつこい(荷物を回収するまで待とうと、ぴったりくっついてくる)のが気に食わず、男を無視することにしたが、荷物がベルトコンベアに乗って現れた丁度いいタイミングで、男の携帯電話が掛かって来て、男は誰かを話しながら遠ざかって行った。
チャンス! 私はバックパックを背負うと、すぐにその場を後にし、男を撒くことができた。

ロビーに出ると、ロビーにタクシーのカウンターがある。タクシーは、きちんとしたところで頼まないと、トラブルのもとだ。
「この住所のとこまで行きたい」
「OK。じゃあ、付いて来て」と、受付係の男が私をタクシー乗り場まで誘導し、一台のタクシーを示した。
「これに乗ってくれ。運転手の彼は俺の友達なんだ」
へえ。
「ところで私はツアーやホテルの手配もしているんだが…。ツアーやホテルが必要なら是非連絡してくれ。格安のホテルを手配するから…」
などと、名刺を横しながら、彼は予約していたホステルの4倍の価格の「格安」ホテルを紹介してきた。まったく油断も隙もない。もちろん、頼るつもりはまったくなかった。
彼が「友人」の運ちゃんに目的の宿の行き方をメモ用紙に書いて手渡すと、タクシーはカイロ空港を出発した。

(それにしても大都会だ)
もちろん、ドバイのような現代的な大都市というわけではないけれども、首都だけに道幅も広く、建物もヨーロッパ風の、古い建物がぎっしり立ち並んでいる。合計6日間も滞在したソマリランドの風景に目が慣れていたせいか、風景の変わり様に目が驚いてしまっている。
交通事故で群集が騒いでいる脇をすり抜けると、タクシーは、先のエジプト革命の中心地にもなったタハリール広場の付近に差し掛かった。
ところが、そこから運ちゃんの様子が怪しくなり始めた。あちこちをキョロキョロしたり、同じ場所を行ったり戻ったり、車を停めて人に道を聴き始めたりしている。でもさっき、受付係の兄ちゃんに道順を紙に書いて教えてもらっていたじゃないか。あれで分からないなら、なんであの友だちに確認しないんだろう…。
それからも十数分間、あちこちをウロウロしたが、結局運ちゃんは道が分からなくなってしまったらしく、車を停めると後ろを振り向いて「ホテルの電話番号は?」と聞いてきた。
「えーと、これだけど?」
と、私はスマホのメモ帳を見せる。
「そうか。ちょっと自分の携帯で掛けて…」
(ええー…あんたので掛けてくれないのかよ、しょうがないなぁ)
携帯でホステルに連絡すると、ホステルの受付の男性が出たので、運ちゃんに代わった。運ちゃんは、携帯でホステルとああでもないこうでもないと話をしながら、運転を続けるのだが、説明がうまく伝わっていないのか、電話がなかなか終わらない。
(おいおい、早めに切ってくれよ! その携帯、緊急連絡用で物凄く通話料高いんだぞ)
私は運ちゃんがダラダラ話すのをイライラしながら聞いていたが、結局通話は十分近くかかってしまい、ようやくタクシーがタハリール広場近くにあるホステルに辿り着いたのも、それから更に十分以上かかってからのことだった。

目的地に着いてから、タクシーを降りて荷物を背負って歩き出そうとすると、運ちゃんが私を引き止めて、何やら物欲しそうな目で私を見つめてきた。
「何か?」と聞くと、彼は「お金がまだなんだけど…」と言う。
「お金? 運賃なら君の友達に100ポンド払ったよ。見てただろ?」
「いや、運転手の代金は別なんだ」
「……」
ソマリランドを離れて、深夜3時過ぎにクタクタになりながらようやくカイロに辿り着いたばかりだというのに、私はまたしてもタクシーにタカられている。せっかく、空港で怪しい男の追跡を振り切って、きちんとしたタクシーを選んだはずだったのに、どうしてこう途上国のタクシーというのはトラブルばっかりなんだ。私はまたムカムカしてきた。
「知らないよ。君の友達は100って言っただろ。もう払ったよ」
「いやいや、待ってくれ!!」
「じゃあな」
無視して行こうとすると、ホステルの受付係の兄さんが騒ぎを聞きつけたのか、階下に降りてきて二人であれこれ話をし始めたが、私は構わずホステルに入ることにした。
また例によって、背後から「ウェーイト!」という声が聞こえてきたが、これまでにもあちこちで似たような経験をしてきた結果、私はもうそんな声に貸す耳は持たなくなっていた。なんだか、すっかり自分が心の狭い人間になってしまったようで、虚しい。

ホステルの受付で受付係の兄さんを待っていると、彼は運転手を何とかして帰したのか、一人で戻ってきた。
「色んなとこ行ったけど、どいつもこいつも日本人を財布と勘違いしてるんだよ!」
「いや…そんなことはないが…」
彼はくだを巻く私に困ったような顔をして、チェックインの手続きを始めるのだった。
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