エジプトを経て、私はイスラエルに向かった。
エジプトは中東戦争の際、他のアラブ諸国から一抜けを宣言し、真っ先にイスラエルと和平を結んだ国である。その時、エジプトと国家連合を組んでいたリビアのカダフィ大佐が激怒し、国家連合を解体、カダフィ大佐は、エジプトと同じ国旗になっていた当時のリビアの国旗を廃止し、部下たちに一晩で新しい国旗を作れと無茶振りをしたのだが、一夜では当然まともなデザインの国旗を作る時間があるはずもなく、あの有名な緑一色の国旗となったという有名な逸話がある。
そんなイスラエルと真っ先に和平を結んだエジプトではあるが、意外なことにイスラエル行きの交通機関がそれほどあるわけではない。列車も飛行機の直行便もなく、選択肢はバスだけである。しかも、地中海に沿ってまっすぐイスラエルに向かうのではなく、わざわざシナイ半島を横切ってビーチリゾートのダハブのある紅海沿岸まで行き、しかるのちテルアビブに向かって北上するというルートを取らねばならない。
イスラエルに向かうにあたっては、地中海に沿って真っ直ぐ行くルートのバスもないかどうか調べてみたが、あるんだかないんだかさっぱりわからず、当てにならなかった。
かといって、シナイ半島を横断するバスも使いたくなかった。というのも、イスラエルは周囲を敵に囲まれている関係上、出入国審査が異様に厳しいことで有名な国だからだ。
特に、アラブ圏を通ってきた「不審な」旅行者は、出入国審査で頻繁に長時間待たされるケースがあるといい、しかも国境を通過するバスが、そうした長時間待たされている不運な旅行者を捨ておいて、無事通過した者だけでさっさと行ってしまうという話を聞いていたのである。
UAE、エジプト、ソマリランド。特にソマリランドを通過した私は、長時間の誰何をされる可能性が高い。国境の荒野に一人取り残されてしまったら、どうやってテルアビブまで向かったらよいのか分からなくなってしまう。別にダハブに行きたいわけでもないし。
そこで、私は運賃はかかるが、キプロス島を経由して飛行機でイスラエルに乗り込んでみてはどうかと思い立った。もともと南北に分断されたキプロスの様子も見てみたかったし、ベングリオン空港まで乗り込んでしまえば、入国拒否されない限りどうとでもなる。
そんなわけで、私はキプロスに入り、キプロスで一泊、翌日イスラエル行きの飛行機に乗り込んだ。南キプロスはすでにEU圏内で、後のトルコのボスポラス海峡を通過して美しくアジアに別れを告げヨーロッパに入るということはできなくなってしまったが、中東の荒野に放り出されるよりは幾分ましだ。
テルアビブのベン・グリオン空港に深夜降り立ち、長い渡り廊下を歩いていると、早速空港の係員二人組が現れて私を呼び止めた。ついに来た! これがイスラエル名物の厳しいチェックだ。
「どこから来たのか」
「これまでどこに行ったのか」
「ソマリア、エジプト、UAEに友人は居るのか」
「長旅の目的は何か」
等々…。あれこれたっぷりと10分間の質問攻めから開放されると、それから更に出入国審査官に色々と問いただされる。
「イスラエルでは何処に行くのか」
「何の職業に就いているのか」
「前職は何という会社に勤めていたのか」
「旅の資金はどうやって手に入れたのか」
「両親の職業は何か」…。
何処かに電話をかけて、前の会社の名前の確認までしているので、さすがにびっくりした。「ヒタチ」なる会社が日本に実在するかどうか確かめたようだ。財政状況についても、誰の金で旅行しているのかが気になるらしい。
とはいえ、予想よりもイスラエルの入国審査は呆気無く終わったように思えたので拍子抜けした。どちらかといえば、先のゴアのあの憎たらしいロマンスグレーの入国審査のほうが大変だったからだ。あれはほとんど喧嘩に近い内容だったし、イスラエルの審査の方がまだ理性的だった。
ようやく審査も終わり、空港からタクシーで予約していたテルアビブ市内の宿に向かった。時刻はまたしても深夜の1時を過ぎている。
くたびれながら宿のチャイムを鳴らしたが、誰も出てこない。
(おかしいな。住所はここであってんのに…)
諦めずにドアをノックしたり、チャイムを鳴らしたりしていると、やがて一人の太った親父がドアの奥からぬっと現れて、こう言った。
「受付は10時までだ。今日はもうやってない」
「いや、だけど予約はもうとってあるんだけど…」
「10時で終わりだ。他のホステルに行ってくれ」
「…。」
じゃあなんの意味があってアンタこの時間に居るんだよ、とは思ったがどう交渉する余地もなく、私は深夜の2時近く、知る人もいない外国の街角に一人放り出されてしまった。ここが何処かもわからず、外は雨が降っていて野宿もできない。またしても最悪の展開だ。
しかしその時、近くをタクシーが通っているのを見かけた。その瞬間、極限ギリギリの状態が生んだ閃きだろうか、自分にしては珍しく冴えたやり方を思いついた。そうだ、地元のタクシーの運ちゃんなら、近場の安いホステルを知っているんじゃないか? いや、もうそれ以外に方法はない!
そんなわけで、私は運ちゃんを捕まえて、近くのホステルに連れて行ってもらうことにした。
「どこから来た?」
「日本だよ」
「そうか…。イスラエルは好きか?」
中年の運ちゃんは、私を乗せるなりそんなことを聞いてきた。
「…? ああ、ここはいいところだよね」
「そうかそうか」
運ちゃんは、私を近くのまともなホステルに案内して、去って行った。タクシーには嫌な目にばかり合わされてきたけれど、今回ばかりは感謝しなくちゃいけない。そんな風に感ぜられた。
しかし、私には引っかかるところがあった。
今までタクシーに何度も乗ってきたけれど、いきなりこの国は好きかなんて聞いてきた人は今までいなかったのだ。
それだけに、その質問はひどく奇妙な印象を残していた。
この国に来てまだ数時間も経っていない旅行者に、そんなことを訊ねる人々。
そうだ。ここは異端。ユダヤの浮島。周囲を敵に囲まれた国。
ここはイスラエルなのだ…。