2013年6月3日月曜日

分断された聖地・3(イスラエル・テルアビブ&エルサレム、80〜86日目)


旧市街を探索した翌日、私はパレスチナを訊ねることにした。目的地はヨルダン川西岸地区、エルサレムの南、分離壁の向こう側にある街、ベツレヘムである。
ベツレヘムはイエス・キリストが生誕した場所として知られている。クリスマス・ツリーのてっぺんに飾られている星の名前は「ベツレヘムの星」だし、それと同じ名前のアガサ・クリスティの短編小説もあったりする。
エルサレムからそう遠いわけでもないし、同じパレスチナでもガザ地区などと違って特別危険なわけでもない。パレスチナ初心者にはうってつけの場所だ(と言っても、完全に平穏な街というわけでもない。2002年にもパレスチナ側とイスラエルの間で戦闘が起き、そこに戦闘が起こったことを知らない日本人のカップルがノコノコやってきたというので、ちょっとしたニュースになったことがある)。

ベツレヘムへは、バスで行くのが手っ取り早い。バスはエルサレム旧市街の北側、アラブ門の近くにあるバスターミナルから出発している。私は、前日出向いたヤッファ門から再び旧市街に入り、迷い迷いしながら、アラブ門へと抜けた。
アラブ門の付近は、その名前の通り、アラブ人風の人々が多く露天を並べていて、一種独特の雰囲気を漂わせている界隈だった。あたかも、イスラエルの中のアラブの飛び地のようだ。パレスチナ側に住んでいるパレスチナ人達も、ここに商売をしに来ているのかもしれない。
ベツレヘム行きのバスに乗り込むと、バスの中はアラブ人でいっぱいで、ユダヤ人や白人風の人々の姿は見られなかった。なんだか場違いなところに紛れ込んでしまったようだが、そんなのはソマリランドで既にたっぷり経験済みで、今更ビクビクする必要もない。

バスは旧市街の壁を横目に見ながら、南に向かって進んだ。10分程すると、やがて大地に高い壁がそそり立っているのが見えてきた。
あれが、悪名高いイスラエルの分離壁、アパルトヘイト・ウォールか…。
コンクリート製の壁はどっしりと大地に鎮座していて、思ったよりもずっと背が高い。ビルの3階か4階分くらいはあるのではないか。
それに、思ったよりもずしりとした厚みも備えている。これならば、確かに自動車爆弾やRPGの攻撃を受けても、びくともしないだろう。
バスは分離壁に設けられた検査所の入り口で停まり、降りるように促された。検査所はまるで国境審査のような作りで、通行する人々をチェックしているようだったので、一応パスポートを取り出して用意したが、私が明らかにパレスチナ人ではないためか、女性の検査員はパスポートの中身を確かめることもせず、顎で「行け」と出口を示しただけで、ノーチェックだった。


てっきり、別に検査を受けたバスが出入り口で待ち構えているものと思っていたのだが、実際にはバスは待っておらず、ここで終点だということが分かった。
その代わりに待ち受けていたのは、明らかにアラブ人風のタクシードライバーだった。
「ヘイ! タクシー? タクシー? どこに行く?」
と、一人の運ちゃんが早速しつこく絡んできたが、私はこれまでの経験から、発展途上国のタクシードライバーを全く信用していないことは、今までの国でさんざん触れてきたとおりだ。
「なあ、どこに行く? 英語喋れるか? どこに行くんだ? ハロー?」
と、運ちゃんはしつこく付きまとってきたが、私は一言も口を利かず、見向きもしないことに決めていたので、そのまま無視して歩き続けた。やがて、取り付く島もないと気付いた運ちゃんは、
「街までは5キロもあるんだぞ! 頭おかしいんじゃねえのか!?」
などと喧しくがなり立てていたが、諦めて検査所のほうに戻っていった。
徒歩で歩くことよりも、怪しげなタクシードライバーにその身を委ねることのほうが危険だ。ましてや、初対面で「頭おかしいんじゃねえのか」と言ってくるような運ちゃんでは、乗り込んだが最後、とんでもない額を吹っ掛けてくるに決まっていよう。
ヨーロッパの香りのするイスラエルから一転、壁を通り抜けただけで、一瞬にして文化がアラブ圏に変わったことを、はっきりと実感した。「トンネルを通り抜けたら雪国」どころではない。あまりの違いに、頭がくらくらするような感じがした。


スマホの地図とGPSがあるとはいえ、まったく知らない道を歩くのは不安ではあった。しかし、怪しい連中が屯っているような気配もなかったので、私はとにかく南に向けて進路を取り続けた。道沿いから、分離壁の向こう側、盆地になっているイスラエル側の領土の畑が見える。
スマホの地図に従いながら分離壁沿いの細い路地をずっと歩く。分離壁には、パレスチナ人や、パレスチナ側を支持する外国人たちの手になるストリート・アートがぎっしりと描き込まれていて、その上には、イスラエルとパレスチナの間で起きた様々な出来事を綴った看板が、たくさん掲げられていた。中には、日本人が描いていったものもあった。そう、こういったものが見たかったのだ。タクシーに乗らなかったかいがあった。


それからしばらく歩いて行くと、細い路地が分離壁に阻まれて途切れている場所に出くわした。スマホの地図上では、道がこのまま続いているはずなのに、現実には道がなくなっている。
どうしたことだろうかと、地図を見ながらしばらくそこで考えていた。GPSで現在位置は分かっているから、位置を読み間違えることも無いはずなのだが…。
すると、すぐそばにあった土産物屋の店主らしい男性が店から出てきて、こう言った。

「ここはClosedなんだ。そこの道から行きなさい」
「そうですか。ありがとうございます」


彼に教わった通り、ひたすら歩き続けると、やがて車通りの多い幹線道路と思しき場所に出て、それから小高い丘の斜面に築かれた古い街が姿を現した。ここがベツレヘムか。目指すのは、丘の頂上にある、イエス・キリストが生まれたという生誕教会だ。
街は一見、平穏そうだった。だが、街から離れて郊外の分離壁沿いを歩けば、じきにイスラエル人とパレスチナ人の間で土地を巡って争い事が絶えず起こっていることだろう。
急にトイレに行きたくなったので、近くにあった高級そうなホテルに入ってトイレを借りたところ、トイレのある多目的室のようなホールで、韓国人の大学生らしい集団が、何かの勉強会らしいものを開いているところだった。
韓国人がパレスチナまで来て合宿もないだろうから、たぶん何かのNGOか何かで、パレスチナ支援をしているグループなのかもしれない。一瞬、もしかしてフィリピン時代の知り合いでもいないかと見て回ったけれど、さすがにそんなことはなかった。
一方、韓国人たちも、遠いベツレヘムで自分たちによく似た東洋人がふらりと現れたのがよほど珍しかったのか、ジロジロとこちらを見ていた。


生誕教会の屋根には、赤・オレンジ・群青色のアルメニア国旗が建てられていた。なぜこんなところにアルメニア国旗かというと、アルメニア人がここの管理に関わっているかららしい。聖墳墓教会にもひけをとらない荘厳な教会だったが、イエスが生まれたという穴蔵(2000年も前だから地面に埋まってしまったらしく、教会の地下にあった)を参拝する人々が行列を作っていた。



教会から出て、街中をぶらぶらと歩くと、いくつかの場所で、イスラエルの占領政策に抗議する立て看板や、占領地の現状について書かれた掲示板がいくつかあった。
もちろん、現状としてはイスラエルに生殺与奪権を握られている状態ではあるだろうが、それでもイスラエルに対する抗議や報道ができる自由があるというだけでも、まだ救いがあると思った。世の中には、そんな自由すらないところも珍しくないはずだ。

ひとしきり街を見て回った頃には、すっかり夕暮れ時になってしまった。行きは徒歩で来たことだし、帰りも徒歩で帰ろうかと思っていたのだが、なんとなく薄暗くなってきた町並みを見ていると、さすがに夜に徒歩でうろつくのも嫌だなという気がしてきて、結局タクシーを雇うことにした。タクシーの運ちゃんは、頭に布を巻きつけた典型的なアラブ人風のおじさんである。
「エルサレムのゲートまで行きたい。いくら?」
「そうだな、25シェケルかな」
「じゃあ乗るよ」
そう言って乗り込んだ後で、腹が減っていることに気がついた。エルサレム側に戻ってから食べてもいいが、せっかくパレスチナに来たのだし、何が食えるのかわからないが、パレスチナ側で食事を取ってみたい。
「ゲートの近くにレストランか何かある?」
「あるよ。そこでいいのか?」
「そこに行ってほしい」
そこまでは問題なかった。ところがタクシーがゲートに近づいてきた頃、運ちゃんが「これが分離壁だ。どうだ、写真を撮っていけ」と言い始めた。
「いや、写真はもう撮ったからいいんだよ」
「まあ、そう言わずに…」
「いや、いい」
こういうのにいちいち応じていたらきりがない。
タクシーがゲートの近くにあるレストランに着いても、運ちゃんはまだなんだかんだと言って、私を「ツアー」に連れて行こうとし、運賃のお釣りをなかなか出そうとしなかったので、「いいから俺はここで降りるんだ。15シェケル、早く返してくれ」と矢のように催促して、渋る運ちゃんからようやくお釣りを奪い取って、レストランに入った。

実は、何のレストランかよく確かめていなかったのだが、そこはステーキレストランだった。分離壁とは、道路一本挟んですぐ向かいに建っている。
なんと、分離壁をスクリーン替わりにして、何かの歌手のPVらしきものを放送していた。客は殆ど居なかったが、頼んだTボーンステーキは旨味のこもった肉汁たっぷりで、歯ごたえも十分な、実に美味しい逸品だった。
まさかパレスチナで、こんなうまいTボーンステーキを食べることになるとは…。


パレスチナの人々は、イスラエルに圧迫されながらも、逞しく生きているようであった。自分たちの自由な往来を無情に阻む分離壁さえも、映画のスクリーンにしてしまう逞しさ。
あの土産物屋の店主も、圧倒的なスケールで立ちはだかり、道を閉ざす分離壁を前にして、「道がない」とは言わず、ただ、「Closed(閉鎖中)」だと語った。
彼は、おそらくこの分離壁が作られる前の道を知っているはずだ。そして、決してこの道はなくなったわけではなく、ただ「閉鎖しているだけで、いつかきっと開く時がくる」と、そう言っているのだろう。彼の何気ない「Closed」という一言には、そんな重みが潜んでいるはずだ。
毎日ボッタクリに勤しんでいるだろうあのタクシードライバーたちも、よく言えば逞しく生きている人々なのだ。

私はいろいろなことを考えながら、分離壁を超えて、再びエルサレムに戻った。街は再び、アラブからヨーロッパ風に姿を変えた。
私はイスラエルとパレスチナ、ユダヤ教徒とイスラム教徒の対立に口を挟む資格はないけれど、次に来ることがあれば、もっと色々なイスラエルとパレスチナの街を見て、知りたいと思った。

分断された聖地・2(イスラエル・テルアビブ&エルサレム、80〜86日目)

ようやく宿にありついたその翌朝、私は早くもテルアビブを離れて、聖地エルサレムに向かった。エルサレムへはバスがあったが、今回は列車に乗って行ってみることにした。
宿の近くのバス停からバスに乗り、駅で切符を買ってテルアビブへ。駅ナカで売っている焼きたてのプレッツェルとコーヒーが、良い香りを放っていた。

列車は郊外に出ると、やがて山がちな荒野に分け入って行った。山の斜面斜面に、人々の暮らす農村があった。
曇天の空の下にみえる家々はどこか無骨で荒々しく、装飾的な気配は微塵もない。それは、厳しい環境で荒野を切り拓いてきた人々の気質を表しているようでもある。
列車は一時間後、終着駅であるテルアビブの郊外の駅で停まった。


駅を降りてすぐ、軍用のM16系のアサルトライフルをぶら下げたイスラエル軍の兵士たちの姿を見かけた。バカでかいリュックを背中に背負ってバスを待っているところを見ると、休暇でこれから地元に帰るところなのか、あるいは休暇を終えてこれから任地に戻るところなのだろう。男性も女性も居るが、みな精悍な顔つきをしている。
こんなふうにアサルトライフルを街中で自然にぶら下げているにも関わらず、廻りの誰も気にも止めていない辺りが、イスラエルのお国柄だ。いつどこで銃が必要になるか分からない。それを、国民の誰もが承知し、納得している。こんな風景は、銃社会のアメリカやソマリランドでもそうそうお目にかからないだろう。ましてや日本で自衛隊員が同じ事をやったら、どこかの市民団体が騒ぎ立てて、翌日の朝日新聞あたりの三面を飾るだろう。


ようやく辿り着いたホステルの壁には、“アブラハムは最初のバックパッカーだったのさ”と、書いてあった。なるほど、由緒ある聖地はジョークも知的だ。
その日の夜は嵐が起こり、強風と大雪が降った。つい10日前まで、ソマリランドのビーチで海水浴したとはとても思えない変わりようだ。この異常気象の嵐はイラクやシリア、トルコなどの中東一帯を巻き込み、死者も出たそうだ。

翌日はよく晴れたので、テルアビブの旧市街に向かって、街をのんびりと歩いてみた。


それにしても、ここは明らかに『ヨーロッパ』だよなぁ。
テルアビブの街は、『古都』という当初のイメージとは少し違って、現代的な雰囲気の漂う都会だった。小雪のちらつく中、宿を目指して歩き続けてみると、街の雰囲気が少し分かった。うまく説明はできないが、街は明らかにアラブ風ではなく、ヨーロッパに近い。ただヨーロッパといっても、フランスやイタリア、ドイツのような西欧の街の雰囲気ではなくて、(行ったことはないけれど)戦前の東欧の街を復元するとこんなだろうか、というような感じだ。

街をそぞろ歩く人々も、超正統派のユダヤ教徒の男性(全身黒いスーツでヒゲを伸ばしている)や、キッパー(ユダヤ教徒が被る丸い帽子)を被った男性、どちらかと言えばアラブ人に近いような顔立ちも人も歩いているにはいるが、全体的に見ると、やはり白人が多いようだ。
単に街を歩いている人だけを見てここはどこだ、と聞かれたら、移民の多いヨーロッパのどこかの街、と答えてしまうかもしれない。
そうこうしながら市電の走る坂を下って行くと、いよいよ旧市街を囲む壁が見えてきた。壁は砂岩か何かで出来ているのか、淡いクリーム色だ。ここまで近づいてくると、さすがにヨーロッパ的なイメージは薄れて、沙漠に佇む古代の中東の雰囲気が漂ってくるが、昨日の大吹雪で薄く雪化粧されているのが面白い。
この壁の内側に、多くの宗教の聖地があるのだ…。市電の線路を外れて、私はヤッフォ門に向けて歩いた。

(ん?)

そういえば、と気づいた。
手持ちの地図に、街を横切るように線が引いてあって、ちょうどその上辺りに立っている。確か、このあたりから東エルサレム、つまりヨルダン川西岸地区、もっとハッキリ言えばパレスチナのはずだ。
けど、それを表すようなものは何かあっただろうか? ─ない。街に何か境界線を示すような代物は見られないのだ。
なるほど、イスラエルが東エルサレムを手放したがらないわけだ。誰だって、一度手に入れてしまったものを、ホイホイと隣の敵対的な人々に引き渡したいと思うわけがない。しかも、東エルサレム側には、エルサレム旧市街もある。イスラエルにとって、エルサレムの領有はいわば既成事実なのだ。


ヤッフォ門から中に入ると、決して手広くない壁の中に、所狭しと建物が犇めき、その身を寄せ合う古い町並みがあった。その隙間隙間を、まるで蜘蛛の巣の網目のように、細い路地が張り巡らされ、その両脇に土産物屋がびっしりと並んでいる。なんだか、エジプトの市場あたりに、雰囲気が少し似ているような気がする。
ちなみに、エルサレム旧市街は、おおまかにムスリム地区、キリスト教徒地区、ユダヤ教徒地区、アルメニア人地区の四つの区画に別れていて、それぞれの教徒が住み分けているそうだ。イスラエルはユダヤ人(=ユダヤ教徒)の国で、アラブ人やイスラム教徒は敵というイメージがあるが、正確にはアラブ人もイスラム教徒も居ることには居る。そもそも、イスラム教徒にとってもこの街は聖地であって、イスラエルがエルサレムを占領する前はアラブ人がここを管理していた。

細い路地を練り歩いて、聖墳墓教会を目指した。ここは、イエス・キリストが亡くなったとされる場所で、キリスト教徒最大の聖地の一つだ。
聖墳墓教会に足を踏み入れると、荘厳な聖堂の内部には、しんとした、清冽な空気が漂っていた。別にキリスト教徒でもなんでもないけれど、思わず姿勢を正したくなるような気配だ。聖堂の中心部に、もう一つ小さな祠があって、その入口に行列が出来ている。この中が、キリストの墓だ。
行列に並んで、静かに、祠の奥に分け入っていった。誰もが、神妙な面持ちで、一言も喋らずに行列を成している。カメラで中を撮ろうかと思ったけれど、とてもそんなことが出来る雰囲気ではなかったので、カメラを納めて、自分もじっと並んだ。
しばらくすると、自分の順番が来て、他の参拝者二人と共に祠の最奥部に入った。
祠の最奥部は、大人三人がしゃがまないと入れないほどのごく小さな部屋で、そこには、蝋燭の淡い光に照らされた、石棺が佇んでいる。石棺はいやにツルツルになっていて、この石棺が長い年月の間に多くの人に触れられ続けたであろうことを偲ばせていた。


キリスト教徒らしい白人の他の二人は、十字を胸元で切りながら、祈りを捧げていた。自分はキリスト教徒ではないから、十字を切るのは却って変だと思ったから、十字は切らず、ただ日本風に手を合わせて、それから石棺に触れて、無言で祈ってみることにした。これからの旅路の無事と、旅を終えた後によりよい人生が送れるようにと祈ってみた。
そういうことを祈るところなのか、他の二人は何を祈っているのか、さっぱり判らなかったが、一神教の神様と言うのはおしなべてアガペーに満ちているものだし、何より極東の遥か彼方から旅をしてきたのだから、それくらい神頼みしたって差し支えないだろう、などと思った。

「おい! 止まってないで早く出てくれ!」

外から、そんなことを言うオッサンの声がした。どこにでも、気忙しくてうるさい人は居るものだ。いくばくか興ざめしながら、三人はそそくさと外に出た。


聖墳墓教会を出てから、迷い迷い、嘆きの壁を目指した。都市計画など無かったであろう古代から続く町並みは、迷路のように入り組んでいて分かり辛い。それでもなんとか、嘆きの壁にたどり着いた。
空港の保安検査ゲートのような金属探知機を通って、階段を降りて嘆きの壁に近づく。
嘆きの壁に、頭のこすりつけるようにして、黒尽くめの超正統派ユダヤ教徒達が祈りを捧げている。壁に近づいてみると、砂岩で出来た壁の、ちょうど人間の頭ぐらいの高さの場所が、灰色の帯のように変色し、表面がつるつるになっていた。聖墳墓教会の石棺と同じように、長い年月の間に人々が込めた祈りの痕だ。


壁を形作る石の隙間隙間には、何かの紙がビッシリと挟み込まれていた。多くの人が願いを記して挟んでいった紙なのだという。なんだか、正月の神社のおみくじみたいだ。人間の発想って、やっぱりどこか似ているのかもしれない。
その後、嘆きの壁の左手に、天井がアーチ状になった礼拝所があったので、そこにも入り込んでみた。礼拝所の中では、何十人、何百人ものユダヤ教徒の男たちが、大人も子供も入れ乱れて、一心不乱に祈りを捧げていた。
ユダヤ教の祈り方は独特で、お辞儀をするように、ひたすら前に後ろに振りながら、祈りの句を口ずさむ。何十人、何百人もの人が、それをしている様子は、何とも言えない不思議な光景だ。甚だ不謹慎だが、オウム真理教の修行を連想してしまって、何とも言えず自分の貧困な知識が虚しくなってしまい、写真も撮らずに外に出た。もともと気が小さいし、宗教的な場所であまり写真を無遠慮にバシャバシャ撮るのも気が引けたのだ。

それから、アルメニア人地区を経由して、東エルサレムの郊外がよく見える丘に出てみた。はるか向こうまで、起伏に飛んだ丘陵地帯が広がっていて、そのところどころに、ユダヤ人の入植地と思われる村々が散らばっていた。
目に見える壁や境界線は何処にもなく、そこには平和な風景が広がっているだけだった。


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