2013年1月18日金曜日

ジャブ(インド連邦・ニューデリー~アーグラ、第53〜54日目)

北京を離れた飛行機は、無事に深夜のニューデリーに着陸した。極寒の中国西部を脱出し、再び私は、暑い国へと戻ってきたのである。
インドに入国する場合、日本人は通常ビザを取得しなければならないが、最近になって日本人はビザ・オン・アライバルが空港で取得できるようになった。
このビザ・オン・アライバルだが、どういうわけか対象国が「フィンランド、日本、ルクセンブルグ、ニュージーランド、シンガポール、カンボジア、ベトナム、フィリピン、ラオス」の9ヶ国という実にてんでばらばらなラインナップになっていて、どういう理由でこの何の脈絡もない9ヶ国なのか不思議で仕方がないが、とにかくビザなど取るのは面倒なのであるから、使えるものは何でも使おうという魂胆で、体当たりで受け付けカウンターに向かうことにした。

ビザ・オン・アライバルを取得するには、60ドル、パスポートサイズの顔写真、ホテルの宿泊予約、出国予定のチケット、有効期限の余裕(確か6ヶ月)のあるパスポートが必要である。これらがあれば、ビザを取らなくてもインドに入国できる。実際カウンターで、何の問題もなくビザを取得できた。
ところが、問題はインドの空港を出た後であった。予約を入れておいた宿にタクシーで向かったところ、タクシーが「夜間は道路が封鎖されて行けないよ。テロ警戒のためなんだ、ホラ見てくれ」などと言い出したのである。確かに、道道にゲートがあり、それが閉じられている。
そこで、「宿に連絡をとりたいが電話番号が分からないから近くのあいてるネットカフェに行ってくれ」と言うと、運転手は「空いてるネットカフェはこのへんにはない」と言い、「知り合い」という怪しい旅行会社に私を連行した。


その旅行会社のパソコンを借りてインターネットで宿の電話番号を調べ、電話を掛けると、今度は宿のほうが「悪いね、君の部屋はもう他人に売っちゃったんだよ! ゴメンゴメン、返金するから」などと言い出したのである。現地払いが基本のHostel Worldで予約したのに返金も何もあったものではないが、そんなことより予約を無視して他人に部屋を渡すとは、どういう神経をしているんだ?
「インドではそれが当たり前なんだよ。高く買ってくれる人に優先して売るのはよくあることなんだ。インド人だって余所の州に行くときは宿を取ったり列車の席を取ったりするのは大変なんだよ。インドでは金が全てなんだ」などと旅行会社のオッサンは流暢な日本語で言った。しかも彼らの話によると、ニューデリーでは祭りの期間中に入っており、宿はどこもパンクしている状態で今から宿など取れるわけがないというのだ。
話の雲行きは、さらに怪しくなりはじめた。
「よくわかったよ。じゃあ、空港に戻る」というと、この旅行会社のボスは、
「無理だ」と言うのだ。
「なに? なぜ?」
「空港に入るにはチケットの予約書が要る。それがないと入れない」(これは後で確認したところ事実だった)
「じゃあ、またインターネットを貸してくれないか。ネットで宿を探すから」
「いや、それは駄目だ。セキュリティの関係でネットは関係者以外には使わせてやれない…」
「さっき宿の電話番号検索させてくれたじゃないか。金は払う」
「いや、だめだ」
「…」
本当にこの時、ネットで事前に見つけてあった、空港の近くにあるもっとちゃんとした、値段も手頃で評判もいい別のホステルにしておけばよかったと心の底から後悔した。そこだったら、空いていたかもしれないのに。そもそも、祭りとやらが本当にやっているのかどうかも怪しいが、夜中だから確認のしようがない。そのホテルの住所も名前も控えていなかったせいで、今からそのホテルに鞍替えすることも出来なかった。
「それで、この後はどこに行くんだね」
「タージマハールを見学してからムンバイに行くつもりだけど」
「よし。まず今すぐここを出発してアーグラに行く。アーグラでタージマハールを見る。その後、ピンク・シティーのジャイプールに行く。それからブルー・シティのジョードプルに行こう。その後はウダイプールだな。それからアフマダーバードに行って、最後にムンバイに着くのがオススメだ。金額はこれだ」
「ちょっと待て!」
あれこれと弾丸のように、希望してもいないのにルートを次々と決め始める旅行会社のオッサンに、私はイライラし始めていた。
「そんなことこっちは頼んでないんだよ。もういい分かった、今すぐデリーからムンバイに行く飛行機を手配してくれ。それでいい」
「おいおい、タージマハールには行かないつもりか? ウダイプールは? ジョードプルは? 何が気に入らないんだ? 値段か? 飛行機が嫌なら、列車に変えることもできるぞ」
「全部だ。全部気に入らない」
これは本音だった。この時、既に深夜の三時近くを回っていた。朝、中国の西部を出発して、十数時間も掛けてインドまで辿り着いた挙句、宿に裏切られ、一息つくことも許されず、夜中の三時まで営業している怪しい旅行会社に連れ込まれて勝手にツアーを組み立てられて、どうして愉快な気持ちでいられるだろうか。しかも金額もぜんぜん安くないのだ。
「うーむ。じゃあどうしたいんだ。これはオススメのルートなんだぞ!」
などと旅行会社のボスは言うが、初日からこの有様なせいで、市川くんのブログや、タイで出会ったインドと犬が大好きなキモトさんから見聞きして膨らませていたインドへの期待と希望は、針を刺されて空気の抜けた風船並みに萎み、もう二度と回復しないのではないかというところまで落ち込んでいた。
「とにかく、ジョードプルもウダイプールもアフマダーバードもない。行かない」
「よしわかった、じゃあこうしよう、今からすぐアーグラに行く。タージマハールを見て一泊する。その後ジャイプールに行く。ジャイプールで観光して二泊し、飛行機に乗ってムンバイに行く。それでどうだ。それなら値段はこれだけだ。これがラストプランだ!」
と、最初の金額から半額以下にまで値切られた額が提示された。
「…」
それでもまだ高かったが、他に選択肢もなく、私はこのプランで行くことを承諾した。疲れていたのもあるし、一刻も早くとっととニューデリーから出たいという気持ちになっていたせいもあった。私が承諾すると、一人の若い男性が部屋の中に入ってきた。
「よし。じゃあ、彼が君のドライバーだ。君をアーグラとジャイプールに連れて行ってくれる。いいドライバーだったらチップを渡してやってくれ。よい旅を!」
こうして朝の四時、私とドライバーの二人は、アーグラを目指して出立した。真っ暗闇の道中、珍妙なホーン音をかき鳴らした4tトラックが、私が乗った車をギャンギャンと追い越していった。

朝の七時ごろ、私の乗った車はアーグラにあるホテルに入った。
「外は危険だから出ないように。一眠りしたら、昼に迎えに来るから」といって、運ちゃんは何処かに走っていった。外に出るなという言葉にもしょぼくれたが、それ以上に私は眠く、昼まで何もする気にもなれないまま、眠りについた。
昼ごろ目を覚まして下に降りると、運ちゃんが気のよさそうな顔をして待ち構えていた。彼に連れられるまま、アーグラの街を見て廻る。ゴミゴミとした雑踏は凄まじく、まるで東南アジアのどこかの街に逆戻りしたかのようであり、ウシ、インド人、オートリクシャ等などが、よくぶつからないものだと感心したくなるくらい激しく往来している。

運ちゃんと二人で、「ベビー・タージ」ことエーテマードゥ・ッ・ドウラー廟を見物したついでに、近所の雑貨屋台でペットボトルの水を買い求めてみた。運ちゃんには、物は外で買わないようにとまで言われていたが、500mlの水1つ買い求める程度のことでいちいち運ちゃんにお伺いを立てていては、いくら彼にチップを払わなければならないかわかったものではない。
ところが、屋台の兄ちゃんたちに紙幣を差し出すと、彼らの差し出してきたお釣りはえらく少なかった。まるで、一桁少ない額の紙幣のお釣りだと言わんばかりだ…。
「…俺は◯◯ルピーの紙幣を出したぞ」というと、彼らは笑いながら、
「ハハハ、フレンド、俺たちゃ詐欺師じゃないさ! 安心しなよ、お釣りはこれだよ、ハハハハ!」と、残りの釣りを差し出してきた。全くもって、油断も隙もない連中である(車に戻った後、その様子を車から見ていた運ちゃんに、「いくら払わされたんだい!?」と心配されてしまった)。



その後、タージ・マハルに入り、その美しさに見とれていると、何処からともなく現れたオヤジが、「ここが写真のベストポイントだ!」などと私のカメラを引っ掴み、バシャバシャと勝手に写真を撮り始めた。嫌な予感がして、「いや、もういいって」と言ったが、「まあ、いいからいいから」などと、オヤジは更にあちこちに移動しながら写真を撮りまくる。


「今度はこっちだ!!」などと、更に大移動を始める気配を見せたので、「もういい、後はこっちで勝手に撮るから」とカメラを取り返すと、オヤジは
「わかった! じゃあ、500ルピーな!!」
などと、さも当然の如く主張した。
  _, ._
( ゚ Д゚)

「いや、別に頼んでないよ」
「君のために写真を沢山撮ってやったじゃないか! 500ルピーだよ!」
「そうか、じゃ100ルピーやるから、どっか行ってくれ」
「はぁ? 何言ってるんだ、500だって!」
「あ、そう。じゃあね」
と、私が100ルピーを引っ込めて私がタージ・マハルの奥に向かおうとすると、背後から
「ウェーイト! フレンド、ウェイトウェイトウェーイト!」
と、オヤジが追いかけてくる。
「500! 500だよ!」
としつこくつきまとうオヤジに、私は懲りずに100ルピーを差し出した。
するとオヤジはコレ以上の交渉は無駄と判断したらしく、苦虫を噛み潰したような表情で100ルピーを受け取ると、また次の獲物を求めて何処かに歩いて行った。


私と運ちゃんの二人は、そうしてタージ・マハル、猿の多いアーグラ城塞などの歴史と美に溢れる建築物を見物して廻ったが、私の気持ちは一向に晴れなかった。
私はジャブを喰らい続けていたからだ。それは、インドからのジャブであった。
中国の最後で強烈なボディーブローを喰らい、ニューデリーではボッタクリとしか思えない怪しい旅行会社に屈服する屈辱(まるでアッパーカットのような)を味わい、続いてアーグラでは、鬱陶しい人々から立て続けにジャブとフックが打ち込まれた。ボッタクリ屋台や押し売りカメラマンはそれでも何とか撃退したけれど、それはほんの些細な勝利、局地的で限定的な、いわば大局に影響のない無価値な勝利だった。


私の気力は早くも強烈なインドの世界に押し潰され、どこか体内の奥に縮こまってしまったようになってしまったのだった……。

2013年1月12日土曜日

大失態(新疆ウイグル自治区・トルファン市&ウルムチ市、第48〜52日目)


新疆ウイグル自治区は、文字通りウイグル人の住み暮らす土地である。テュルク系のウイグル人やその他の異民族、そして東方の漢民族との間で、この地は幾度も揺れた。
事実、東トルキスタンという名で独立を宣言したこともあるし、漢民族の盛世才という男が、第二次世界大戦末期までこの地を、事実上の独立国として支配していた時期もある(スウェーデンの冒険家、スヴェン・ヘディンが冒険中、この男に捕まったことがある。また、同じくスウェーデンのゲームメーカー・Paradox Interactiveのシミュレーションゲーム・Hearts of Ironシリーズにも、新疆地方を支配する軍閥の指導者として名前が出てくる)。
いずれにせよ、現在は中国が支配しているが、チベットともども、時折異民族支配に対する不満が出てくるのは周知の通りだ。数年前にも、省都ウルムチで暴動が起きたのは記憶に新しいことだろう。
彼らの中国支配に対する複雑な心境は、6年ほど前に知り合った新疆人との話の中から垣間見たことがある。
以前勤めていた会社に入社したばかりの頃、私は仙台にある会社の本社に勤めていたが、その時新人研修を一緒に受けていた関連会社の新入社員が、トルファン近郊出身のウイグル人だったのである。
彼と親しくなった時、たまたま同じ会社の漢民族の中国人の人とも親しくなり、彼らとお茶でも飲みに行こうという話になった。
国分町のドトールコーヒーだったと思うが、私を真ん中に挟んで、中国のことについて激論を交わす彼らのことを今でも忘れられない。
漢民族の同僚と別れ、ウイグル人の彼と二人で会社方面に戻る時、彼は「彼はやっぱり、新疆は中国のものだと思っていますね」と呟いていた。また、彼はよく、「新疆は中国の植民地みたいなところです」と ことあるごとに他の同期達の前で話していたものだ。
何事にも永遠はないから、やがては異民族支配が終わる日ももしかしたら来るのかもしれないが、その時どんな出来事が起きるのか、想像が付かない。
異民族支配を受けたことのない日本人の口からは、どんなコメントも重くはならないだろうけれども、いずれにせよ平和的に物事を進めて欲しいとしかコメントのしようがない。

敦煌を出た後、私はおよそ10時間ほど、寝台列車の中で過ごした。はじめ、寝台列車というので、タイに行くときに乗ったマレーシア・タイ国際寝台列車や、以前富山から青森まで乗った「日本海」のような、居心地の良い寝台列車を想像してワクワクしていたのだが、現実にはこんな楽しくない寝台列車は初めてというほどつらいものとなった。
硬い・狭い・五月蠅い・臭いと、軍に入隊して前線に送られるむさ苦しい輸送列車に乗ったらこうだろうか、と想像せずには居られない辛い旅路だった。
それでも何とか頑張って寝て、それから目を覚ますと、列車はまだ薄暗い中をひた走っているところだった。トルファン到着までまだ時間もあるな、とのんびりしていると、人々が身支度を整え始めたので、トルファンの一つ前の駅かな、などと考えていると、実際にはトルファンに30分近く早く到着したのだと聞かされ、慌ただしく身支度を整えて降りる羽目になった。後数分気づくのが遅かったら、降り遅れるところだった。

駅から出ると、そこは中国とは別の国のような世界だった。薄暗いうちから、ウイグル人たちがパンを駅前の店先で焼いている。まるで、気づかないうちに国境を越えてしまい、(行ったことはまだないが)中央アジアの国に出てしまったかのようだ。
バスに乗って、まだ薄暗い中をトルファン市内に向けて走る。敦煌の隋さんに、「中国の人は時差がないことになってるから、西の人達は、朝の7時とか8時になっても薄暗いのは不便じゃないですか?」と聞いたところ、「中国では場所によって何時から何時まではまだ暗いというイメージが出来上がっているし、地方でそれぞれ起きる時間や仕事をする時間をずらしているから、別に言うほど問題ではないですよ」とは聞かされていたが、やはり朝の9時半になっても日が昇らないというのは、いくらなんでもあんまりである。
そのせいか、やはり新疆のウイグル人は新疆時間という、北京時間から2時間遅れの独自時間を使っていたが、聞くところによると新疆の漢民族は新疆時間は使わず、北京時間を使っているという(ウイグル人が新疆時間を使い、漢民族が北京時間を使っていることに、彼らの本音が現れていると言ったら、それは穿ち過ぎだろうか?)。

とはいえ、トルファン市内に着いた頃には、さすがに日も昇ってきた。とりあえずホテルに行こうとタクシーを探すと、珍しく英語で話し掛けてきた人が居て、その人に頼むと、なんと日本語も達者な人だった。
その人に頼んでホテルに荷物を置き、信用できる人だと判断したので、トルファンの市民の暮らしを見学しに連れて行ってもらうことにした。彼の甥というマリオみたいな顔のマンニッキさんと三人で、ウイグル風の蒸しパンと、塩入りのホットミルクの朝食を食べた後、彼らの仕事場である干しプラムと干しブドウの工場を見物した。

ここまでは良かったが、そこで私は、中国の滞在期限がギリギリに迫ってきていることに気づいた。昆明-西安-敦煌と一都市に3~5日は滞在していたから、後3日もすれば滞在期限を迎えてしまう。
仕方なく公安に行ったが、公安も「申請に一週間かかる」というつれない態度で、ここでの延長は諦めるほかなかった。
その後、彼に頼んで、漢代から残る巨大な都市遺跡・交河故城と、天山山脈から雪解け水を運んでくる伝統の地下水路・カレーズを見学した。

カレーズの中は、NHK特集・シルクロードの中では「地上は暑いが、中は別世界のように涼しい」と紹介されていたが、冬の今は逆で、「地上は極寒だが、中は別世界のように温かい」という不思議な状態だった(今思うと、博物館の中だったから、暖房が入っていたのかもしれない)。
最後に、彼らに頼んで地元の市場を見学し、山積みの干しブドウやプラムを見せてもらった後、彼に別れを告げてホテルに戻った。

次の日、私はトルファンに1日で別れを告げて、ウルムチにバスで向かった。
ウルムチは、「シルクロードのロマンを求める日本の旅人が飛行機で降り立つとがっかりさせられる都市」として有名だが、それはウルムチが日本のそれと対して変わらない巨大で近代的な大都市であり、旅情をかき立てられるものがほとんどないからである。

私は幸い、東から西に歩を進めてきたからそのようなことはなかったけれど、確かにいきなりウルムチに降り立った人が、何だここはとガッカリさせられるのはやむを得ないな、と思わざるを得ない町並みではあった。
しかし、全く何の面白みもないかといえば、そういうわけでもなかった。たとえば、ウルムチのウイグル人地区に行くと、巨大なバザールがある。イスラムの雰囲気に溢れ、中国というイメージから解き放たれた中央アジアの世界観を表現した素晴らしいバザールであるが、なんとこのバザールには地下階があり、地下階に行くと近代的なスーパーマーケットがあったりするのだ。
中央アジアの伝統的なバザールも、近代的化の波には乗らざるを得ないらしい。なんだか、上だけ伝統的で下がスーパーなこの不思議な空間に、シュールさを感じずにはいられなかった。


ウルムチの公安に改めてビザ延長について問い合わせたが、結局ここでも1週間かかることに変わりはなかった。何食わぬ顔してパスポートを預けておき、自分はパスポートのコピーを持ってカシュガルにでも行けばよいではないか、という意見もあるだろうが、中国では都市間バスに乗るのにもパスポートの提示が求められるので、コピーでは移動ができないのだ。つまり、パスポートを預けて1週間ウルムチにカンヅメになるか、諦めて次の国に移動するか、の二択である。私は、後者を選択せざるを得なかった。
カシュガルにも行ってみたかったけれど、隋さんからパキスタンへ続く陸路の国境は閉鎖されていると言われていたし、飛行機の便もなかったので、大人しく飛行機でウルムチから北京を経由してデリーに向かうことにした。
最後とばかりに、私は『楼蘭の美女』に会いに、新疆ウイグル自治区博物館に向かった。
『楼蘭の美女』とは、1980年にタクラマカン砂漠の真ん中、かつて楼蘭王国があった一帯で出土した、女性のミイラである。この女性は3800年前、現在の南ロシアから移住してきた白人系の女性であるらしい。このミイラもまた、NHK特集・シルクロードで紹介されたことがある。
中国の奥地に眠る古代の謎の王国に、美しい白人の女性のミイラ。これは見ずにはおれない。というわけで、私は新疆ウイグル自治区博物館に向かったわけだが、実際に私をそこで出迎えたのは、『陳雲同志没後17周年記念展示会』であった。
「…誰?」
ということで調べると、陳雲同志は中国共産党の八大元老という最重要の重鎮の一人であったらしい。とりわけ保守派の重鎮として、改革派の鄧小平と対立したが、1992年に鄧小平によって批判されて失脚、引退…とそんなことはどうでもよくて、肝心の楼蘭の美女はどこだ、と博物館の中を調べて回ったが、何故か楼蘭の美女の展示は行われていなかった。
楼蘭の美女が、おじいちゃんに様変わりしてしまった。いや、楼蘭の美女もおばあちゃんどころか枯れ切った水分0のミイラなわけだが、私は釈然としないまま、陳雲同志の生涯について学ぶ羽目になってしまった。

そんな出来事にもめげず、私は翌日、ついにインドに出発するため、ウルムチの空港に向かった。ここで私は、この旅の中でも最大級のミスを犯してしまった。
保安検査を抜ける際、カバンにMacbookを入れたままにしていたのだが、それを保安検査員の女性に見咎められたのである。「出せ!」と女性は声高に言い放ち、カバンからMacbookを引っ張りだすと、それをどこかに持って行ってしまった。
そこで私は保安検査を抜けるとカバンの荷物を纏めたが、急いでいたためであろうか、何故かMacbookのことをうっかり忘れ去ってしまったのだ! 私はMacbookを置き去りにしたまま、飛行機に乗り込んでしまった…。
その10分後、私は飛行機の中で、Macbookがないことに気づいた。せめて後5分早く気づいていれば、すぐに保安検査ゲートに戻れたのだが、気づいた時には時既に遅く、飛行機はゲートを離れてゆっくりと、滑走路に向かって動き始めていた。
この時の絶望は伝わるだろうか。自分のノートPCがあることが分かっているのに、ゆっくりと離陸するのを、ただ呆然と眺めなければならないこの状況を。

北京の空港に到着した後、すぐさま私は空港の係員に頼み込んで、ウルムチに問い合わせてもらった。すると、ウルムチの空港にMacbookがあることがわかった。北京に送ってもらえないかと頼み込んだが、係員は首を横にふるだけだった。
私は慌ててデリー行きの飛行機をキャンセルすると、荷物を回収してウルムチ空港に戻ることにした。1日の間に、中国を西の端から東の端まで、往復することになったわけだが、Macbookを回収するためには、他にどういう方法もなかった。
ここで私は飛行機の便を調べ、朝4時ウルムチ発、カザフスタンのアルマトイ経由のデリー行きに乗ろうというプランBを立てた(それほどまでに急いでいたのは、この時点で既にオーバーステイになっていたからであり、朝早い便であれば、ウルムチの出入国管理官も、寝ぼけて見逃してくれるのではないかと期待したためであった)。
ウルムチの空港に戻ったが、肝心の遺失物係は受付時間が終わってしまっていた。それでもさんざん頼み込んで、空港公安に取ってきてもらうように頼みに行ったが、これが恐ろしいほど頼りにならない公安で、いかにも寝起きのタンクトップ姿の兄ちゃんたちが、寝ぼけ眼で迷惑そうにのそのそと現れる始末だった。
遺失物係があると言っていた、持ってきてくれ、場所は◯◯ゲートだったと話しているのに、「どこで落としたのか? 上海空港で落としたのか?」「そんなにそれが大事なのか」などと素っ頓狂なことばかり言い出した挙句、「探したけどそんなものはどこにも見つからなかった」というだけで、遺失物の倉庫を確認しに行くという発想は微塵もないようだった。
英語も話せない相手だったのでGoogle翻訳に頼るしかない中、私は彼らにMacbookを持ってきてもらうのを諦めるよりほかになかった。
コレで本当に敵の多いであろう中国の空港の治安が守れるのかと、他人事ながら心配になるくらいだったが、結局のところ、一番の間抜けはMacbookをど忘れした自分であって、如何に相手が抜作・田吾作の類であろうと、彼らに向かって不平不満をぶつけるわけにはいかなかった。
空港の外では、吹雪が空を支配していた。こうしてプランBも潰え、空港で朝まで待つというプランCのみが手元に残った。この失態が原因で、多額の旅費を無残に浪費する羽目になったのは、言うまでもないことである。

空港で一晩明かし、遺失物係からMacbookをようやく回収した後、私は次のデリー行きが翌日であるので、やむなくウルムチでもう一泊することにした。最初にウルムチ空港に向かう時に見た、「ウルムチにまた来てね」という意味の大看板が、まるで私をせせら笑っているかのように感じながら、私はウルムチに戻った。
二日後、私は今度こそ、デリーに向けて旅立った。北京の空港で、出入国管理官が「今回だけだよ」と、オーバーステイを見逃してくれた。
何かと問題の多い両国だったが、西安のユースホステル、隋さん、トルファンの運転手の兄さん、そして彼の処置は、何よりも増して替え難い、彼ら中国人からの温かい饗応として、私の心に残ったのは言うまでもない。

今度は、Macbookは忘れなかった。

その他の写真はこちらにあります。

敦煌・2(中国甘粛省・敦煌市、第43〜47日目)

ミスター敦煌・隋さんは、新疆出身の漢民族ではなく、上海出身の漢民族の人であった。しかし、数十年前にこちらに惚れ込んで移り住んだそうであり、それ以来ずっとここで住んでいるという。
日本に行ったことはないというが、日本語は極めて堪能で、敦煌を訪問する日本人の頼みの綱として、知る人ぞ知る存在であったらしい。
また、ビールが大好物な人でもあり、
「私はビールを呑まないと喋れないんですよ…」
と言いながら、昼間からどんどんとビールを飲み進めていた。後で聞いたところによると、ビールの飲み過ぎで痛風になったこともあったらしいが、特別な中国茶を飲むことで体の調子を改善したのだという。
隋さんのツアーは、敦煌周辺の人気のない遺跡を訪問したり、夕方から夜に掛けて鳴沙山の砂漠で天ノ川を眺めるツアーなど、豊富なプランが用意されていた。
「この、夜の敦煌ツアーと、特別砂漠ツアーというのは何ですか?」
この2つのツアーは、隋さんのHPにも書かれていないツアーだった。
「それは、男性向けの、夜のお楽しみツアーなんですよ」
ほほう。
興味はありますか、と聞かれたが、参加するのは止めておくことにした。わざわざバックパック姿で敦煌まで来て、スッキリするために金を使うこともないだろう…。

翌日、隋さんとドライバーの『カさん』(漢字が分からなかった)と、敦煌から60km以上離れた人里離れた奥地にあるという、件の謎の遺跡に向かった。
この遺跡は「石包城」という名前で、敦煌からあまりに遠すぎ、観光地化もされていないことからほとんど観光客が来ることがないという遺跡だった。
朝の敦煌郊外はひどく冷え込み、雪が積もっていないだけで、真冬の寒さである。敦煌郊外の人気のない、極めて低い山脈の裾野に来ると、隋さんは車を停め、私を連れて山の谷間に分け入った。

「これは狼のウンチです。これはウサギのおしっこ。ついさっきのものですね。これはラクダの足あと。ん、これは一ヶ月前に来た時の私の足あとだな」
と、隋さんは地面から次々と動物の痕跡を発見していく。
「狼が居るんですか?」
「居ますね。普段はどっかそこらへんに隠れていますよ」
と、隋さんは更に谷の奥に踏み込んでいく。
「ん、数が多いな…」
「え?」
「マナブさん、石か何か拾っておいて下さい」
「…?」
と、隋さんは、足元の石ころを拾う。
何のことだろう。何もいないのに。もしかしてそれって、チャイニーズジョークなのか?
そう思って、人気の全くない山肌を見つめていると…
ガラガラガラっ!
「うおおおおおおおおっ!?」
突然、頭上から石ころが崩れる音がして、死ぬほどびっくりしてそちらを見上げると、キツネのような生き物が、山頂に向かって走って逃げていくところだった。
「……」
「いやー、びっくりしましたね」
私は、すぐさま、足元に転がっていた長い枯れ木を掴んだ。
「狼の足あとが結構ありますね。危ないから、そろそろ止めて車に戻りましょう」
「……」
チャイニーズジョークでもなんでもなく、本当に危ない場所なのであった。

石包城は、車で更に2時間以上、祁連山脈の端のほうを越えてモンゴル側に向かった場所にあった。途中にはモンゴル人の小集落があり、縦書きのモンゴル文字の看板が目に付くが、それ以外には遊牧民向けの休憩小屋があるだけだ。
「石包城」と彫られた真新しい石碑が正面に置かれていたが、それ以外、周囲には最近突然出来たという、隋さんも何のためのものなのか知らないという、掘削プラントのようなものが置かれた小さな工場以外、何一つ見当たらない。隋さんは、政府はここを観光地化したいようです、と言ったが、敦煌からこれほど遠くてこれだけ何もないのだから、ここを観光地にするのは無理であろうと思った。

この石包城は、唐代の要塞跡である。唐代に、中国の北に居た羌族という異民族の侵入を防ぐために作られた要塞であるという。
山の頂上付近に、崩れた煉瓦の山が乗っかっている。見渡す限り、一面の荒野が続くだけだ。頂上付近には、崩れた煉瓦を積み上げたものに、布やら何やらで飾りを施した祠のようなものが立っていた。一見、写真や漫画で見るチベット族の塔に似ている。訊けば、地元のモンゴル系遊牧民たちが煉瓦を崩して祭りのために積み上げたものだという。
ここは唐代の遺跡なのだから、一応1100年以上昔の文化財ということになるはずだが、遊牧民たちはそのような文化遺産には興味がないということで(後のアフリカ・ソマリランドでも聞いたが、遊牧民たちは国家という価値観をあまり持ちあわせていないのであろう)、勝手に破壊してしまうらしい。
「マナブさん、見て下さい。あそこ、ほら、竜巻ですよ」
隋さんの指差す方向で、小さな竜巻が2つ3つと、荒野を突っ切って何処かに向かっていた。日本の陸地で竜巻が起こったら大災害になってしまうが、この茫漠たる荒野の中では、竜巻などいくつ起ころうが、破壊すべきものもなく、空回りしてやがて力尽きるだけである。それはまた、広大な中国大陸の包容力といえた。

二日目に私は、今度は『カさん』と彼の奥さん(ガイド見習い)の三人で、陽関、玉門関に向かった。
彼の奥さんはガイド見習いということだったが、二人共英語が全く喋れないので、何だか彼らの休日ドライブに私が混ざってしまったようで、どこか座りが悪かった。
ともかく二人に任せて座っていると何だか眠くなり、何もすることがないので後部座席で居眠りをしてしまう。
どれくらいそのまま眠ったのだろうか、気がつくと、一面砂漠だったはずの風景が、一面雪原に様変わりしていた。

「……」
ほんの数十分居眠りしただけで、砂漠から雪原に切り替わる中国大陸の凄まじさ。砂漠と雪原が同時に存在し得る激烈な気候。竜巻が空回りする大地。日本の比較的温和な気候条件では考えられない異質な世界がそこにあった。こうした気候が、中国人達の気性に影響を与え、苛烈で逞しい気質にしたと考えても、何の不思議もないというようなことを思った。
玉門関を訪問し、その後雪深い陽関に向かった。

玉門関と陽関は、古代シルクロードの要衝である。今はもう、ぼろぼろの石塊のようになっているが、かつての漢の時代には、何千という兵士が玉門関と陽関に駐屯していたという。
だからであろうか、陽関はまた、古代から中国人が故郷を想う場所でもあったらしい。「西出陽關無故人」といえば、日本の中学生でも聞いたことくらいはある有名な王維の詩だが、あの詩で言及されている「陽關」が、ここなのだ。
私は漢詩の世界は門外漢だけれども、江戸時代に柏木如亭という人が日本語訳したこのバージョンが好きなので、少しご紹介しよう。私はこの柏木如亭のダイナミックでいながら繊細を極めたこの訳し方が大好きである。
このバージョンは、「訳注聯珠詩格」という岩波文庫の本に収録されている。

渭城といふとこまで送てきたれば
朝(けさ)の雨で軽塵(みちのほこり)も裛(しづまつ)て
客舎(はたごや)にある柳の色も青々として新(めづらし)い
勧君(おすすめまう)す酒(わかれざけ)だから更(かくべつ)に一杯尽(すご)したまへ
これから西のはうの陽関(おせきしょ)を出(こし)たら飲(のも)ふといつても無故人(つれがあるまい)

陽関の入り口から、遺跡までロバ馬車に載せてもらうことにした。距離はさほどではないが、雪が深くて歩くのは少々億劫であった。遺跡のそばには、中国の有名な書家達が描いたらしい詩を彫った石碑がいくつも立てられていた。その内の幾つかは、やはり「送元二使安西」であった。

ひと通り見学した後、ロバ馬車に乗って入り口まで戻ろうとしたら、ロバ馬車が滑って転倒し、私はロバ馬車の下敷きになってそのまま数メートル引きずられてしまった。
さすがに驚いたが、雪の上だったことから怪我一つせず、カメラも雪に濡れただけで故障することはなかった。
あの有名な、教科書にも載っている詩の世界で、ロバ馬車の下敷きになった自分がどこかおかしくて、何故か笑いが止まらなくなってしまうのだった。



最終日、私はトルファンまで行く寝台列車の切符を隋さんに頼んで買ってきてもらい、彼とカさんと三人で、莫高窟に向かった。

莫高窟は、前に書いたように、敦煌文献が発見された場所である。
莫高窟には、実は奈良の大仏のような巨大な大仏が、二体も収められている。カメラ禁止とのことだったので写真はないけれど、その迫力は絶大なものであった。
また、井上靖の『敦煌』のラストシーンで、趙行徳と僧侶たちが巻物を納めた莫高窟第16窟、第17窟。オーレル・スタインやポール・ペリオ達が文献を王円籙から買い取って持ち去っていったここも、見ることが出来た。
勿論、『敦煌』は架空の物語で、趙行徳が文化財を守るためにここに巻物を封じたというのが架空の物語であるというのは分かっているけれども、それでもここがシルクロードにとっての重大な一ページであることに変わりはない。
ようやくここに来れたという感動を、色々と言葉でこねくり回して表現しても良いけれど、陳腐になってしまうから、ここでは止めにすることにしよう。
ちなみに、莫高窟を見学し終わった後、隋さんと二人で莫高窟のそばを呑気に歩いていたところ、敦煌の観光関係の機関に勤めているという、カメラを担いだ二人組の女性が現れ、彼女らが出題したクイズに答えている様子を撮影された。
この映像は、ボツにならないかぎり、これから敦煌の観光案内ビデオに使われるだろう。そうなったら、隋さんと僕の二人は中国人民の皆さんの視線に晒されまくることになるわけである。
何時からどこで公開になるのかわからないが、たぶん隋さんが見つけてくれるだろうから、隋さんから連絡が来るのを楽しみに待つとしよう。

その日の夜、私は5日間も一緒に旅をさせてもらった隋さんに別れを告げ、敦煌の北80kmにある柳園駅に向かった。そこから、新疆ウイグル自治区へと向かう列車が出発する。
用を足すために外に出ると、今までに見たこともないほど美しい星空がそこに瞬いていた。タクラマカン砂漠の真ん中で、周囲に何一つ遮るもののない夜空は、もう二度と見ることはできないのではないかというほど美しい輝きに満ちていた。

その他の写真はこちらにあります。

2013年1月6日日曜日

ソマリランド紀行・まとめ

<ビザ取得~入国の様子>

まず、アンバサダーホテルのマネージャーにメールでビザ取得代行の依頼をし、パスポートの顔写真ページのスキャン画像をメールで送付する。その後、各地にあるソマリランドの送金会社・ダハブシール(Dahabshiil)のエージェントで60ドルを送金すれば、数日後にメールでビザが送られてくるので、それを印刷して持っていけばOK。わざわざエチオピアくんだりのソマリランドの連絡事務所に取得しに行く必要はない。エージェント一覧はダハブシールのHPにあり、日本から最も近い場所としては香港にある。ドバイにも複数のエージェントがあり、便利である(日本国内にはない)。
アディスアベバの空港のソマリランド行きは何故か国内線扱いなので、アディスアベバに到着したら国内線ターミナルに移動すること。
なお、アンバサダーホテルのベルベラからハルゲイサまでの送迎は片道250ドルと高く、飛行機が遅れたなどの理由でソマリランド行きの飛行機に乗り損ねて1日遅く行かなければならない時などに「護衛を空港で一泊させねばならないので追加料金250ドルを払え」と迫られたりするので、ビザだけ頼んで後はベルベラのタクシーの運転手などに頼んだほうが安上がりで済む(私は500ドルも払いたくなかったので「そんなにかかるなら行かない」と連絡し、アンバサダーホテルのことは放置することにしたが、別に問題なかった)。
ハルゲイサ-ベルベラ間の移動はタクシーで100ドルなら良心的で、護衛にもれなく10ドルが掛かる。護衛を付けないと、各地のチェック・ポイントで誰何され、面倒ごとに巻き込まれる可能性が高いらしい。

なお、入国時に空港税を34ドルを現金で支払う必要がある。出国時にも、34ドル+セキュリティ代10ドルを支払う必要がある。

<ハルゲイサ・ベルベラの街中の様子>

いかにも発展途上国の田舎町といった雰囲気。特にハルゲイサは、インドの街に雰囲気が似ていると感じた。

建物は平屋建てのレンガ造りの建物が多いようで、その他雑貨屋台、カート屋台、両替屋台などがあちこちにある。三階建て以上の高さの建物はあまり多くなく、ハルゲイサ中心部にある建設中の六か七階建てのビジネスセンターのビルを「これが新しく建設中のビルだ」と運転手に嬉しそうに紹介された。
意外なことに、建設中のビルの足場の骨組みに、インドのような発展途上国に多く見られる竹ではなく、鉄パイプを使ったきちんとした足場を組んで作業しているビルがあったが、その他のビルでは相変わらず竹の足場が使われているものもあって、単に建設主の資金力の違いではないかという印象を受けた(運ちゃんいわく、「イサックのビル」ということを強調していたので、ビルひとつにも氏族がバックにあるのだというのが印象深かった)。

その他、各建物の扉は「青・白」のソマリアカラー、「緑・白(プラス赤)」のソマリランドカラーが頻繁に使用されており、もしかしてこれは各戸がソマリアを支持しているか・ソマリランドを支持しているかの違いなのではないかと一瞬推理したが、青・白の扉の建物にソマリランド国旗が書いてあったり、青・白の扉の建物の屋上にソマリランド国旗が翻ったりしているのを見ると、どうもそんな政治的な立場を示すようなものではまったくなく、単に伝統色だからか、好きな色だから使っているだけに過ぎないように見えた。

他にもソマリランドカラーは車止めや塀・門扉など街のあちこちにみられ、6日の滞在のうち、ソマリア国旗を見ることはついにただの一度もなかった。

大きな道路は舗装されてはいるが、所々穴が開いたまま放置されており、政府は確かにあまりインフラにお金を回せていないように思える。その他の細い路地などでは、舗装はされていないところが多い。

<治安の様子>

街中、郊外ともに、危険な兆候は全く感じられず、物騒な連中の姿は影も形もない。一応郊外に出る時は護衛を付けなければならない規則になっているそうで、ハルゲイサ・ベルベラ間を移動した際はAKを背負った護衛が付いてくれたが、彼らもカートをやりながらダラダラしているだけという印象で、本当に危険な敵が襲ってくるとは彼ら自身考えていないように見えた。
郊外に出ると、所々にある小集落以外、ラクダ、ヤギの他にはたまに遊牧民が歩いているくらいで、人の気配は全くない。

<人々の様子>

まず、私を見かけると「チャイナ!」か「チーナ!」(「ジャッキーチェン!」という人も一人いた)であり、畢竟、珍獣が動物園の檻を抜けだして街をさまよっているが如き扱いを受ける。街ですれ違って声を掛けてきただけの人も含めればおそらく50人以上のソマリランド人に出会っていることになるだろうが、ひと目で私を日本人と見ぬいた人は、一人だけであった。
挨拶したり話しかけてくる人はかなりいたが、別段何かを企んで声をかけてくるわけではないらしく、単に物珍しくて声をかけてくるだけのようである。挨拶を交わしたり、無視したりしても、別に追いすがってくる様子もなければ、何かを売りつけてくる様子もない。観光地ズレしていないためであろう。

子供たち、特に女の子たちは「ギブミー・マネー」してくる傾向が非常に強い。あげないでいても特に縋りつかれたりするわけではないし、向こうも本気で欲しくてやっているのかどうか疑わしいところがある。その子たちを運ちゃんがカラのペットボトルを投げつけて追い払ったのにはびっくりしたが、子供たちも笑いながらさっさと逃げ出してしまい、別に追い払われたからといって気にしている様子はなかった。他の大人たちは「ギブミー・マネー」してこないが、「年配のお母さん」風の人だけは時々してきた。
また、物乞いもハルゲイサ中心部に何人かおり、地雷か戦争か何かで足のない人などが道端でお金を求めているのを見た。
イスラムの強い土地柄だけに女性の写真はあまり撮らないようにしていたが、「撮っていいか」と両替屋台のオバさんに聞いたら何の問題もなかったり、通りかかりの道端の女の人が投げキッスしてきたり、そうかといえば道端で風景写真を撮っていたら、たまたま正面にいたオッサンが「何故俺の写真を撮っているんだ」と言いながら近づいてきたりもした。

高野秀行さんが「アフリカ人とは思えないくらい動作がキビキビしている」といっていたが、たしかに気が早い性質なのか、ウェイターが小走りに注文を取りに来たり、電話で要件が終わると挨拶もそこそこにさっさと電話を切るなどの習慣があるようだ(そうかと言えば、Aさんが「政府の中に働いてない奴が多い」と言ったりしているので、よくわからない)。
男性は特に声が大きく、電話などで怒鳴っているように喋る人も多いが、見ていると別に怒っているのではなく、単に大声でしゃべる習慣なだけか、カートでハイになっているだけのように見える。

<人々の対ソマリア感情の様子>

ソマリランド人の南部ソマリアへの反応はあまりよくない。
人々に南部ソマリアについて聞いてみると、インターネットで散見される「ソマリランドはソマリアと違って平和でいいだろ」そのままの反応が返ってくる。
南部の人々については、「ブラザー」ではあるが「同じ国ではない」という反応で、兄弟国ではあるという認識は持っているようであるから、「ブラザーはブラザーだが、ダメなブラザーとは一緒に暮らしたくない」ということなのだろうと忖度した。Aさんの言うように、南部の氏族がソマリランド側に対して補償を行なっていないという背景も不仲の理由にあるのであろう。これから氏族間の和解がもし達成されたら、その時南部ともう一度やり直すつもりなのかどうかまではわからなかった。

<食事の様子>

ソマリランド人の主食は、イタリアン・パスタかご飯である。その他に、ゆでた山羊肉料理、焼き魚料理、スープなどがあるが、どれも驚くほど日本人の口にあい、「現地民には美味しいんだろうけど、日本人の口にはちょっと…」というものは全くお目にかからなかった。
パスタは大量に茹でおきしておいたものにソースを掛けるという日本風のスパゲティとよく似た作り方である。ソースはじゃがいも、にんじん、玉ねぎなどを入れた薄いカレールーのようなものや、ミートソース、トマトソースなどがあり、アルデンテという概念はまったくないが、おいしかった。この国の料理は何を食べてもだいたいうまいので、毎食が楽しみですらあった。

その他、街中には揚げ餃子とカレー風味のコロッケの屋台があり、これが非常に美味しい。

コーヒーはアラビアンコーヒーのような濃口のものが多く、ソマリティーはインドのマサラチャイに似たミルクティーである。

 <カート(チャット)の様子>

ベルベラ-ハルゲイサの移動中にカートを一房奢ってもらい、他にすることもないので2時間半ひたすらカートを食べていたが、量が足りなかったらしく、それほどハイにはならなかった。
味はたんに苦く、美味しくはないのだが、きっとこれが「節分の時に大して好きでもない豆を一袋食べていた」というたぐいの「癖になるまずさ」なのではないだろうか。

ただ、一房の葉っぱを食べきった後に、若干気持ちが楽になったような気持ちになり、「荷物が行方不明になり旅を続けられるかどうか分からない」という状況にもかかわらず、「まあ、それも旅の一つさ」などと明確に気楽な気持ちになったのが印象的だった。なお、別段酔っ払ったような酩酊した状態にはならなかった(だから運転しながらカートをやるのであろうが)。

<店先の様子>

壁にぎっしりと在庫を敷き詰めるのが好きなのか、いやに物が豊富にある印象を受ける。ペットボトルの水、並びに「コカ・コーラ」「ファンタ」「スプライト」の三種類はソマリランド製(現地のSBIの工場が稼働を始めた2011年以降で、それより古い500mlの在庫はおそらくドバイ経由の代物と思われる)。

「キットカット」「ヌテラ」「リプトン」「ウィータビックス」などの国際ブランド品もみつかる。お菓子はドバイで作られたものが多く輸入されているようで、その他石鹸などはMade in C.E.のものも見られた。その他市場に行くと、絨毯やおもちゃ、電化製品なども大量に売られている。

<貨幣の様子>

ソマリランド・シリングは500シリングが上限と言われていたが、2011年以降は5000、1000、500になったらしく、500未満の貨幣は消滅して一度もお目にかからなかった。
そのため、かつてほど「大量に現金を持ち歩く」必要はなくなったようだが、それでも大量の枚数が必要なことにかわりはなく、アメリカ・ドルのほうがより普通に通用する(ZAADの通貨単位もドルであり、ソマリランド・シリングではない)。従ってアメリカドルを持ち歩いていれば、ソマリランド・シリングがなくても不自由はしない。
とはいえ、カンボジア・リエルのように、「ドルで買い物をした後に付いてくる抽選補助券」レベルの泣くほど悲しい扱いを受けているわけでもないようで、国民の間での重要度は「カンボジア・リエル<ソマリランド・シリング<ミャンマー・チャット」といったイメージである。
また市民は人力でデノミを敢行しており、「5シリング」と言われたら「5000シリング」だったり、「250シリング」だったら「2500シリング」だったりする。
なお、ATMは存在しない。従って、旅行前に事前に大量の現金を用意しておく必要がある。

<車の様子>

ほとんど全てが日本車であり、それ以外の韓国車、ドイツ車、アメリカ車などはまったくお目にかからなかった。

ソマリランド人は「マーク2」「ランドクルーザー」「タウンエースノア」などが好きな様子で、「ヴィッツ」はハルゲイサ市内のタクシーなどに多く使われていた。
日本で使われていた車が塗装も変えずにそのまま使われているのが特徴で、前に使われていた会社の社名などが入った車が大量に街中を走っているのはコミカルですらある。同じく社名が入ったままの日本車が走り回っているミャンマーと非常に似ている。

<インターネットの様子>

インターネット環境はあまりよろしくない。ホテルでの使用形態は無線LANだが、根本的に速度は極めて遅く、頻繁に接続が途切れることがある。安宿のみならず、マンスール級のホテルですら同じであるので、プロバイダー側の問題と思われるが、確認はできなかった。
なお、一般市民が普段携帯でネットを使っているかどうか、自宅でネットを使っているかどうかは確認できなかったが、「Facebookのアカウントを持っている」という人や、ホテルの受け付けのパソコンでFacebookに興じている人はいた。
。インターネットカフェは、ハルゲイサに一軒のみ見かけたが、他は見かけなかった。

<ZAAD(サード、サッド)の様子>

電子マネーサービスのZAADは、外国人でも簡単に登録できる。
まずはTelesomの事務所に行くと、3ドルでSIMカードが簡単に購入でき、特に申請書類を記入するなどの手続きも必要ない。

その後、パスポートの顔写真ページとソマリランドビザのページのコピーを用意して、Telesomの事務所に行き、係員の説明を聞きながら必要事項を係員に話していけば、小一時間くらいでZAADのアカウントを開設することができる。
その際、ソマリランド人の知り合いの名前が一人必要であるので、タクシーの運転手とでも親しくなっておき、電話番号と名前を聞いておけば、ZAADの登録時に使用できる。勝手に名義を借りても連絡が行くわけでもなんでもないようで、何の問題もない。
ZAADの使用方法は簡単で、街中にいくらでもある両替屋台に行ってドルを渡し、自分の電話番号を示せば手数料なしで入金してくれる。
大抵の雑貨屋や屋台にはZAAD番号(個人の場合は電話番号で、商店・ホテルの場合はマーチャントNo.)が書いてあり、どこでも使用することができる。ホテルやレストラン、タクシーの場合も同様で、ホテルならZAAD番号がレシートに記載されている。

使い方は簡単で、「*888#」にダイアルするとメニュー画面が現れ、「2.Send Money」(個人宛て)または「4.Pay Bill」(商店宛て)を選択し、画面に従って入金額を入力すれば、数秒後には相手に入金される。出金することもできるようだが、両替屋台で頼めるのか、Telesomの事務所ですべきなのか、試していないのでわからなかった。
またZAADは募金にも利用されているようで、地元のテレビの放送中に、ZAAD番号が字幕スーパーでドンと出てくることがあった。なるほど、これなら携帯電話から好きな金額を即座に入金できるんだから、かなり便利と膝を打った。

<ホテルの様子>

  • マンスール・ホテル
 日本の帝国ホテルにあたるホテル。ハルゲイサの外れの閑静な一角にあり、入り口にチェックポイントがあったり、にも関わらず鹿が5匹も住んでいたり、かといえば政府の記者会見が行われたり、UNDPの職員が住んでいたりと、面白い場所。現地の上流階級の社交場にもなっているようで、身なりの良い人々が詰めかけている。レストランの食事も美味しい物ばかり。中心部から外れているために自分の足のない旅人はタクシーを使わなければならず、ホテル代以上に高く付くのが難点。コテージで一泊35ドル。
  • インペリアル・ホテル
 大統領府付近にあるホテル。レストランがあり、UNDP職員のAさん御用達。部屋は薄暗く、それなり。一泊15ドル。
  • オリエンタル・ホテル
 ハルゲイサ中心部にあるホテル。1953年創業の老舗。市場やZAADの事務所も近くにあり、何かと便利。内部のレイアウトも洗練されており、居心地がよい。ツアー会社の事務所が併設されており、ここからサファリツアーなどにも出られる様子。一泊15ドル。

  • ヤヒェ・ホテル(Yaxhe hotel)
 ベルベラ市街地、Telesomの事務所付近にあるホテル。安宿で温水もないが、一泊するには何の問題もない。一泊8ドル。
  • マンスール・ベルベラ
 マンスール・ホテルのベルベラ支店。ベルベラ市街地から遠く離れたビーチの目の前にあり、ビーチでのんびり過ごしたい人向け。ただし、クルマがないと移動は困難。一泊50ドル(支店の方が高い理由は、場所柄夏は特に暑く、エアコンを設置しないと滞在できないため)。

<観光地の様子>

  • ラースゲール遺跡
 ハルゲイサからクルマで1時間弱の位置。幹線道路をそれて道無き道を30分行くとお目にかかれる。ビジターノートを確認すると、1日2人以上は訪問しているようで、国籍はアメリカ、イギリス、フィンランド、ドイツ、タイ、ソマリランドなど。日本人は1人しか発見できなかった。観光地として整備されているわけではないが、荒々しい荒野の中の岩山に、古代の壁画がそのまま残されており、指で触れるほど近くで見物できるのが迫力。

  • ベルベラビーチ
 マンスール・ホテルの支店、マンスール・ベルベラ付近のビーチは砂の質もよく海の色も綺麗で、景色も非常によい。

ただし、ゴミのポイ捨てが多いのと、海に入るとウニが沢山転がっているのでうっかり踏まないように気をつけないといけないのが難点。踏むと痛いが、特に毒などはないとのことなので心配は不要。ビーチの海深はあまり深くなく、100m以上は行かないと足がつかないほど深くはならないとみられる。実にのんびりしていて平和そのものなので、アデン湾に面した海でリラックスして過ごせる。

  • シランヨ大統領
 大晦日にマンスール・ホテルのフロントにしつこく頼んで連絡をとってもらい、タクシーで大統領府前まで連れて行ってもらったのだが、とうとう会えなかった。電話がかかってきて、正体不明の老人から「明日なら会える」との言葉をもらったが明日の何時、何処なのかの指示はまったくなく、待機していても音沙汰がないので、大統領府までもう一度行ったが、結局セキュリティに停められて会えず、日本人のAさんから色々話も聞けたのでもういいやという気分になり、諦めた。

<その他>

実際に行ってみて気づいたことは、「何かとカネのかかる国」であるということだった。
もちろん、食事などはそれほど高くはないし、ホテルも15ドルで十分な設備のあるホテルに泊まることが出来る。しかし、入出国時の空港税68ドル、ビザ取得代60ドルはもとより、タクシー代が日本並みに高いことに注意しなければならない。
ほんの少し移動しただけで数千円が飛んでしまうし、可能であれば、ハルゲイサ-ベルベラ間の移動はしないか、するにしても1回で済ませたほうが節約になる(ハルゲイサ空港が再開されれば、ハルゲイサとベルベラを往復する必要はなくなるだろう。ハルゲイサ空港は今年の2月か3月には開港する見込みとのこと)。
特にマンスールホテル・アンバサダーホテルなどの郊外ホテルに泊まると、ホテルと市街地をタクシーで往復するだけで一泊分が吹き飛ぶので、必要でなければハルゲイサ中心部のオリエンタルホテルなどに泊まったほうがよい。

その他の写真は、こちらにあります。

2013年1月1日火曜日

UNDP所属の日本人・Aさん ソマリランドについて語る

Aさん・UNDP所属、ソマリランドで支援活動を行われている日本人男性。国際支援活動の道に携わって十数年のベテラン。
(現地のUNDP職員はゲートのあるホテルに滞在しなければならないと決められているそうで、アンバサダーホテルやマンスールホテルの一室を借り受けて住んでいる。EU職員も恐らく同じ。)

Q.ソマリランドとソマリアは境界線の紛争で揉めていますが、現在はどのような状況にあるのでしょうか?
A.ソマリランドもソマリアも遊牧民が多い国。遊牧民は外国人の考えるような近代的な国家という価値観を持っておらず、どうでも良いと考えているので、政府が無理やり境界線などを設けたり、外国人があれこれと横から口を出したりしてもトラブルの元になるだけ。正直、グレーのまま放っておいたほうがよいのではないかと思う。ちなみに、ソマリランド東部には外国人は宿泊できない規則になっている。

Q.日本の政府はソマリランドに退避勧告をしていますが、危険ですか
A.日本の政府の職員が視察にやって来ることが時々あるが、日本政府の立場としてはモガディシオの治安が回復して大使館を設置出来るようにならない限り、ソマリランドに対しても避難勧告を解除するつもりはないらしい。UNDPに金を落としても金の使い方が非効率的なのでJICAの事務所くらい置いたらどうだと日本政府に薦めているが、同じ理由で設置するつもりはないようである。つまり、当面設置される見込みはないということ。ただ、ソマリランド内部から状況を観察する限り、安全であると断言することはできない。

Q.最近はソマリア連邦政府が成立しましたが、今後の見込みはどうでしょうか
A.内戦後にソマリランドの氏族間で和平を達成するのだけでも10年間を要したのに、南部ソマリアの中では全く氏族の和解は終わっていないし、これから何年掛かるかも分からない。スタートラインに立ったか立たないかに過ぎない状態。
今、ソマリア連邦政府には大統領がとりあえずいることはいるが、それは名前だけの大統領みたいなもので、何の権限も無いに等しい状態。これからリーダーシップを発揮できるかと言われると非常に疑わしいし、外国の軍隊が撤退し、大統領が一人になった後、「みんなが嫌がること」を大統領が始めた時に、彼に従うものがいるかどうか非常に怪しい。

Q.ここにはソマリランド政府があり、国としての体裁もあるように見えますが
A.ソマリランドの政府もかなり適当で、政府の中できちんと働いている職員というのは100人程度ではないだろうか。どう見ても働いてないような連中もたくさんいる。税金の徴収などもきちんと行われているわけではないし、何かトラブルなどが発生した時政府が統制できるかどうかはかなり怪しい。従っていつも避難ルートなどは頭に入れている。
なお、ソマリランドの国家予算の90%くらいは人件費に使われているようだ。インフラ整備などに使われているのは10%足らずで、これは明らかに全然足りてない異常な状態である。

Q.ソマリアの氏族とはどんなものなのでしょうか
A.ソマリランドの氏族は一種の保険機構のような存在。何かトラブルがあると、バックに付いている氏族が出て来て、問題の裁定を下してくれる、保険会社の代わりを担っている重要な存在。しかし、トラブルや犯罪が個人間の問題に留まらないという事も意味するので、後から後から関係ない人がどんどん出てきてかえってトラブルが大きくなったりする。ちなみに、例えば南部ソマリアの人がソマリランドで事故にあったとしても、氏族が違うので誰も助けてくれない。

Q.ソマリ人の氏族社会というのは難しいですね
A.とはいえ、南スーダンに比べると、まだソマリアのほうが状況は良いと感じる。特に南スーダンとスーダンは国内すら纏まっていないため、互いに敵対し合わないと国内を抑えられないという惨状にある。研究対象としては面白いが、現実として見せつけられると暗澹とした気持ちになる。未来は暗いだろう。

Q.ソマリランド人に聞くと南部ソマリアの評判はえらく悪いですね
A.ソマリランド人はソマリア人に対しては、民族も同じで言語も同じなので個人的な付き合いには特に問題ないだろう。ハルゲイサ大学にも南部ソマリア出身の人がいる。ただし、バーレ大統領のバックに付いていた氏族が、戦争中にソマリランド側の氏族に与えた被害に対して何ら補償を行なっていないので、ソマリランド側はバーレ大統領のバックについている氏族に対して補償を求めているし、今後も補償を求め続けると思われる。この補償問題が解決しない限り、ソマリアとソマリランドの対立は続くだろう。逆にソマリランド側氏族に何らかの補償が成されれば、ソマリアの一部として残るという可能性もあるかもしれないし、ないかもしれない。未知数。

Q.ソマリランド人はソマリア連邦政府についてどう思っているのでしょうか
A.ソマリランド人は、連邦政府がどうこうというより、大統領のバックに付いている氏族が何であるか、バーレ大統領とどういう関係にあるかのほうに興味があるだろう。

Q.ベルベラ・ハルゲイサ間の移動などについて教えて下さい
A.ハルゲイサのエチオピア航空の事務所でチケットを買えば、無料でマイクロバスでベルベラまで送迎していってくれるはずだ。チケット代にバス代が含まれている。タクシー・護衛付きで移動する場合、110ドルなら良心的な価格だろう。

Q.オススメのスポットについて教えてください。
A.ベルベラのビーチに行くとよいだろう。綺麗なビーチを貸切状態で楽しめること請け合いだ。

2012年12月25日火曜日

敦煌・1(中国甘粛省・敦煌市、第43〜47日目)

敦煌。20世紀初頭、王円籙という一人の道士(道教のプロの宗教家)が、この小さな街の郊外にある遺跡・莫高窟の封印された1窟の中から、大量の古文書を発見した。彼は当局にこれを届け出たが、当局はまったく関心を示さず、適当に処理しておけと申し渡しただけであった。
その後、各国の探検隊(イギリスのオーレル・スタイン、フランスのポール・ペリオ、日本の大谷光瑞など)がこの街にやってきて、大量の古文書を王円籙から買い取って自国に持ち帰っていくのを見て、清朝当局はようやく古文書の価値に気がついたが、時既に遅く、古文書はイギリス、フランス、日本、ロシアなどに散逸してしまった後だった。これが、敦煌という街を一躍有名にした敦煌文献である。
なぜ、こうした古文書が大量に洞窟の中に仕舞い込まれて洞窟が塞がれたのか、正確なところはよく分かっていないが(内容から判断すると、要らなくなった文書をしまっておいただけらしい)、この文書がなぜ洞窟の中に封じられたのか、を巡る物語を描いたのが、有名な井上靖の『敦煌』という小説である。

小説『敦煌』は、約1000年前の、茫漠たるシルクロードを舞台に、歴史の影に生きた人々の息遣いを、飾り気のない文体で綴った、ロマン溢れる傑作小説である。
主人公・趙行徳は、科挙の試験を落第した後、紆余曲折を経て当時勃興していた西夏の兵士にされてしまうが、後に仲間と共に西夏に反逆して離反する。やがて彼は西夏の軍勢に追い詰められて敦煌に逃れるが、進軍する西夏の軍勢から仏教の文化遺産を守ろうと決意し、僧侶たちとともに古文書を莫高窟に封じる。そして、莫高窟に財宝が隠されていると勘違いして襲撃してきた商人・尉遅光(うっちこう)を撃退した後、侵攻してきた西夏の軍勢に飲み込まれて姿を消してしまう(物語の最後に、彼が更に西のどこかの国で生きているらしいことが示唆される)。
NHK特集・シルクロードを見た上、この小説を読んだからには、是非ともシルクロードを訪問しなければならない。私は西安を離れ、一路敦煌へと飛んだ。


(こりゃまた、ヤバいところに来たんじゃないか…?)
敦煌の空港に降り立った時、空港の周囲に何一つ建物も植物も見当たらない事に気づいて、私は少し驚いてしまった。建物自体は比較的立派だが、ミャンマーのバガンの空港より何もない。空港ターミナルを抜けて外に出ると、後は駐車場しかなく、建物も何もない。客待ちをするタクシーも無ければ、バスもない。売店もない。何もない。

先に空港に降り立った人々は、さっさと自分を待つ車に乗って去っていき、私は一人ぽつねんとその場に取り残されてしまった。
しばらくどうしようかと思案していると、一人の男性が「タクシー」と言って手招きした。駐車場に一台の車が停まっている。信用すべきかどうすべきかと一瞬悩んだが、誰にも英語も通じない中、彼に置いていかれたらどうやって移動してよいのか分からない。大人しくその車に乗り込むと、比較的適正な価格で市内まで届けてくれると申し出てくれ、きちんと目的地のユースホステルに私を送り届けてくれた。
市内に着くまでの間は、ミャンマーのバガンのような場所を想像していたが、市内に入ってみると、町並みは小さいながらもきちんと整備されており、バガンと比較しては失礼なほど立派な『街』であった。考えてみれば、これだけ寒くなる場所な上、シルクロード観光の要衝なのだから、バガンのような呑気な雰囲気の町なわけがないか、と考えを改めた。


ユースホステルに着くと、私はインターネットで早速敦煌の情報を調べ始めた。聞くところによると、敦煌には「隋さん」なる日本語が堪能な人物が居り、彼がオリジナルのツアーなども手配してくれるのだという。しかし、とりあえず空腹が勝ってきたので、私は隋さんに連絡するのを後回しにして、昼飯を食べに近所の市場「瓜州市場」に入った。
屋根付きの市場では、干しブドウなどの果物や、焼き鳥、衣類、糸、靴など色々なものが所狭しと並べて得られていた。その奥に、碁盤の升目状に麺や焼き飯などの安食堂が並ぶ食堂街が現れた。
(何食うかな…ここまで来たからには、地元の料理が食いたいよな)
と、食堂街の奥に入り込んでいくと、「新疆」との文字の書かれた緑色の看板が目についた。
(新疆ってこた、ウイグル料理が食べられるのか。こいつはイーじゃんかよぉ)
中に入ると、高校生くらいの女の子二人がいそいそと働いていた。その他、地元の漢民族風の客や、ウイグル人風の客が食事をつついている。
私が適当な料理を注文して待っていると、女の子が何かのノートを私のテーブルにそっと置いた。
(? なんだこれは?)
と、ノートを開いてみると、驚くべきことに、中には日本の旅行者たちが綴った日本語がびっしりと書き込まれていたのだ。
(こ、これは?)
と、店のドアに目をやると、ドアにも日本語で「旅人の家 いらっしゃいませ」という言葉がプリントされている。間抜けなことに全然気づかなかった。
ということは、ここはもしかして…。
そう思ったが、如何せん英語が通じないのであるから、店員さんにどう説明することもできない。とにかく昼飯を食べてから考えようと食事に手をつけていると、そこに一人の男性がドアをくぐって現れた。
「や、あなたですか日本人は? 私が隋です」
やっぱりだった。私は隋さんと、早速遭遇してしまったのであった。

2012年12月24日月曜日

出発地点(中国陝西省・西安市、第39〜42日目)

昆明を出て、私は西安に向かった。
「うーむ、なんだか、風景が段々と親しみやすくなってきたな」
西安の空港に降り立って、バスで西安の街に向かう途中の風景は、どこか北海道に近い雰囲気を漂わせていた。雪こそ降っていないが、気温は零下にまで下がっている。そのせいか、植生が北海道に似ているのだ。
バスに乗っている間に段々と陽が落ち、街の摩天楼が姿を現す頃には、濃いガスが街をすっかり覆っていて、どこか怪しい雰囲気を街に与えていた。バスは、街のランドマークである大鐘楼の付近で私を降ろした。

中国の中央部に位置する西安は、かつては長安と呼ばれ、旧市街を巨大な外壁で囲まれた街である。旧市街の中央部には、30年前のNHK特集の番組・シルクロードの冒頭で、陳舜臣さんが「今、私は西安に来ています」と言って番組を始めた場所、大鐘楼がある。
その他、天竺から帰って来た玄奘三蔵法師が巻物を納めたという大雁塔、シルクロードを伝ってアラブの商人がここまで来ていたことを表すという、見た目はどう見ても仏教寺院なのに、中に入ってよく見ると実は「モスク」という、世にも奇妙な大清真寺がある。

郊外に眼を移すと、秦の始皇帝陵と、それに附随してほんの40年ばかり前に発見されたばかりの、日本でもおなじみの兵馬俑遺跡がある。西安は、その他にも実に色々なシルクロードを巡る文化遺産が眠っている街なのだが、それだけではなく、現在の西安は中国の中でも十本の指に入るであろう大都市である。
街は綺麗に整備され、街の中心部のほんの半径100か200mほどの狭い範囲内の中に、アップルストアが3件も4件もあったりする。

予約してあったユースホステル「Hang Tan Inn Guest House」は、いわゆる欧米人の集まる「白人宿」で、極めて分かりにくい住宅地の真ん中にあった。同じ場所をぐるぐる廻って、探すのに40分近くかかったほどだ。しかし、事前のネットの評判の通り、中は欧米人好みの、洗練された雰囲気の居心地の良い宿であった。ルームメイトは、イスラエルから来たという女性ネタさんに、鼾のうるさいオーストラリア人の兄ちゃん、クールな雰囲気の小柄なスウェーデン人の青年、温厚そうなスペイン人の男性などであった。
ネタさんとは、エアコンが漢字で分からないというのであれこれ操作してあげたり、パンを貰ったり、中国でネット規制を回避する方法について話すなど、割と仲良くなった。

やってきて二日目に、ユースホステルのゲストハウスのツアーに参加し、欧米人たちと徒党を組んで兵馬俑と秦の始皇帝陵の遺跡に向かった。
秦の始皇帝陵は、その名の通り秦の始皇帝を埋葬するために作られた古墳である。しかし、外目からは単なる小高い丘が公園として整備されているだけで、面白くもなんともないのが特徴である。実際、始皇帝陵の見学時間は5分足らずで終わった。
しかし、実はこの小高い丘の下には、始皇帝の死後の邸宅として作られた巨大な宮殿が眠っている。実際、調査で宮殿の形までは分かっているそうだ。しかも、歴史書によればこの宮殿には水銀の河や海なども作られたという。これは長い間誇張だと思われていたらしいが、実際に地面から高濃度の水銀の反応があったため、本当にそれを作ったのだという可能性が高くなっているという。おまけに、宮殿内部には、盗掘者を射殺すための仕掛け弓などの装置も用意されているらしい。なんと壮大で、ロマンに溢れる話しなんだろうか!
本当にあるのかどうか、早く掘り起こして見せて欲しいものだが、掘り返すときに失敗すると取り返しがつかないとの理由から、まだ発掘はされていないのだそうだ。

その後、兵馬俑に向かった。
兵馬俑は、始皇帝陵と一緒に作られた付属の遺跡のようなもので、陶器で作られた精巧な兵士たちの人形が大量に収められているところから、英語では「テラコッタ・アーミー」という。

これは有名すぎるから、特に説明する必要はないが、出土された大量の兵士たちや馬たちが遠くまで続いているのは圧巻である。
作られてからというもの、敵軍によって押し入られて破壊されたり、後の時代になって盗掘されたり、終いには地元民の誰かが墓に使った場所もあったりそうで、現在になって「発見」される前から、実は「知っている人は知っている」場所だったのかもしれない。

付属の博物館の売店コーナーには、兵馬俑の発見者の一人である、楊老人が座って昼飯を食べていた。兵馬俑の発見者は一人と思われがちだが、実は数人の「楊さん一族」が一緒に発見した遺跡である。
NHKのインタビューを受けていた「楊さん」は、残念ながらその場におらず、昼飯を食べているのは別の「楊さん」だった。
挨拶をしてみたが彼からは何の反応もなく、サインも本の購入者に限るとの事だったので、コミュニケーションを取るのは諦めた。彼らは今や中国人の間ではスターのような存在で、発見以来何十年も博物館にこうしているわけだから、いちいち愛想をよくしていてはきりがないのであろう。
その夜は、ホステルの中で中国の伝統酒の利き酒大会に参加し、楽しく過ごせた。ユースホステルは人に気を使わなければならないことも多くて面倒だが、孤独な一人旅の中では、こうした大勢で何かを楽しむ機会がちょっとした癒しと活力になる。

三日目は西安の町中をさまよって過ごした。西安の町では、零下だというのに、店のドアを開け放ったり、食品工場の入り口にかけてあるビニールの垂れ幕のようなものでドアを代用している店が多く、店の中がとにかく寒いのが特徴である。アップルストアさえ、ドアを開け放って営業している。北海道でこのようなことをしたら顰蹙ものだろうが、誰一人として寒いのに構っている様子はない。後で敦煌で人に聞いたところによると、西安人にとってはあの気温はそれほど寒いものではないらしく、店員が面倒臭がってドアを閉めていないだけであることが分かった。一方私は、帽子と手袋を購入した。

四日目、またトラブル。またしても、朝早い飛行機に乗り遅れてしまったのだ。これで、たぶん人生で6度目くらいの飛行機乗り遅れだろう。この日、私は西安を離れて、敦煌に向かうつもりでおり、朝早くホステルを離れて離陸の2時間半前に空港に向かったのだが、途中の渋滞などで時間を食ってしまい、結局チェックインには間に合わなかったのだ。
西安の空港の中にはカプセルホテルのような、珍しい施設がある。「蜂の巣」と名付けられたその施設は、空港の通路の脇に、狭い箱の中に大人一人がようやく入れる大きさのベッドを置いただけのもので、1時間で50元(675円)もするバカ高い代物だったが、インターネットが使えるとあって1時間だけその中に潜り込み、今後のことについて考えることにした。
今日の敦煌行きの飛行機はもうないが、明日なら敦煌行きの別の飛行機がある。しかし、それまでの間どうするか。いっそこの狭っ苦しい場所に次の日の朝まで居ようか。いや、そんなことをしたら、こんな迫っ苦しい空間とネットひとつのために何百元吹き飛ぶかわかったものじゃない。そもそも一泊二泊と滞在するためのものではないし、飯も風呂もないのだ。

…結論。Hang Tan Innに帰ろう。帰ってまた明日出直そう。チケットは出発後でも一部返金してくれるというし、空港に居たって何のいいこともない。
私はそう決めて、気晴しに空港内のちょっと高いビュッフェで昼飯を食べて西安市内に帰った。「今日は空港を見物に行ったんだ」と無理やり自分を納得させながら。「あれ、戻ってきたの?」と、Hang Tan Innのスタッフやネタさんには笑われてしまった。
とはいえ、くよくよ考えても仕方がないのが一人旅である。臨機応変に行けば、銃を突き付けられて身ぐるみ剥がされ、どこかの見知らぬ山中に裸でうっちゃられたというのでもない限り、大抵のトラブルは自分でカバーできるだろう。

次の日、私は更に早い時間に起きてバスに飛び乗り、空港に向かった。今度は、大丈夫だった。
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