エイジアンティークでカリプソ・ショーを堪能した翌日、私はまた非常に頑張って朝4時半に早起きした。
朝何とか目を覚ました後、荷物を纏めてツアー会社のオフィスに向かうことを考えると、たとえそのオフィスがホテルの100m圏内にあろうとも、集合2時間前には起きないと荷物のパッキングをして出発することができない。そういう人間なのだ(会社に通っていた時は、会社と家を決まった手順で往復するだけで、面倒な荷物の整理も特になかったから、始業3,40分前に起きてもギリギリ間に合うことができた)。
そうやってようやく6時半にオフィスの前に行くと、今回はすぐにツアー会社のスタッフがやって来て、また昨日と同じように移動用のバンに私を案内した。
今回の行きずりの仲間たちは、昨日とは違っていた。
名古屋出身のアキコさんに、大阪出身のアサミさん。それと、福岡は粕屋郡出身の男性(なんと、智さんと同じでまた粕屋郡だ!)。
うとうとしながらバンに揺られて数時間、タイ・カンボジア国境のレストランで昼食を取り、出入国審査で長時間待たされつつも、徒歩で国境を通過する。歩いて国境を越えるのは、初めての経験だ。
その後、バスに乗り換えてこのままシェムリアップに向かうのかと思いきや、バスはタイ国境を出てすぐの大きなバスターミナルに停車し、全員が降ろされた。次にどうすればいいのかとガイドの話を聞くと、次はタクシーに乗ってシェムリアップまで行くらしく、日本人たちはタクシーに同乗してシェムリアップに向かった。
(ちなみに、ツアーの内容によってここでタクシーに乗るか、普通のシェムリアップ行きバスに乗るかが変わるらしい。ところがバスは次いつ来るか分からない、多分数時間後だなどと寝ぼけたような話が始まり、国境越えまで一緒だったドイツ人カップルが「自分でカネを払ってタクシーに乗るよ」とガイドに言うと、ガイドは「だめだ。俺はカネを貰ってるからあんたのバスのチケットに対して責任がある。バスに乗れ」などと怒り出し「あんたに責任なんかないよ、カネは自腹で出すと言ってるだろ」というドイツ人カップルと口論していた。急げと言ってさんざん急かした割に何分も待たせたりとサービスはテキトーなのに、責任だなんだということにはなぜかシビアなガイドだった)
そうこうしてシェムリアップに向かったが、タクシーはえらくのんびりとしたペースで、どこまでも限りなく続く水田をひたすら走った。運転手曰く、2時間はかかるという。
走っても走ってもあまりに風景が変わらないため、仲間たちはやがて寝始めた。自分もまた寝た。次に目を覚ました瞬間、たまたま視界の中に「Siem Reap Province」と書かれた標識が目に入ったが、風景は寝る前と全く変わっていなかった。
仲間たちもやがて起きてきて「全然風景変わってないね…」などと口々に話した。そう、あまりにも風景が変わらなすぎて、だんだんみんな不安になってきたようだった。シェムリアップという町がどんな所なのか想像もつかなくなってきたのだ。
もしかして、畑のど真ん中にホテルとアンコールワット遺跡だけがぽつんとあるような場所なのではないか…?
そんな想像さえ、あながち笑い話とも思えないくらいに風景に変わりがなかった。一体全体、どれだけ大量のコメを作っているのだろう。どこかに輸出しているのだろうか? それにしては、カンボジア米なんて聞いたことがない。でも、これだけの面積ならものすごい量が採れそうな気がする…。
誰かが「これホントに進んでるの?」と言うので、「一応さっきシェムリアップ州に入ったみたいですから、進んでるはずですよ」というと「良く見てたねそんなの」と言われたが、何のことはない、目が覚めたらたまたま州境だっただけの話だ。
その次は道路脇の石の標識に「Siem Reap 23km」と書かれているのを発見し、一同にようやく安堵の色が広がるのだった。
そうして少しずつ風景が街中に変わっていき、シェムリアップに到着したが、シェムリアップはなんだか一言で言っておかしな街だった。
あちこちに高級リゾートホテルのような立派なホテルがドンドンと建っているにも関わらず、道は舗装があまり行き届いていないらしく、赤茶けた色の土埃があちこちに舞い上がり、街自体がどこか赤っぽい印象を与えている。立派なリゾートホテルの隙間にには、フィリピンの家を更に貧しくしたような佇まいの家々がそこかしこに犇めいている。そうかと思えば、東京あたりにありそうな近代的なビルが突然現れて、その中に旅行代理店のH.I.Sの事務所が入っている。
ホテルに入る道は一般の生活道路のような様相を呈し、舗装はおろか、赤茶けた色の土の道があたかもマリオカートのように、凸凹と上下に波打っている。にも関わらず、舗装されてない道の両脇には、観光客向けの小奇麗なバーやらレストランやらマッサージ店やらがずらずら並んでいる。
わけがわからない…。タイとも何処か違う、謎の国カンボジアが私を出迎えたのだった。
長生きし、喜び満ちたる時も
やがて暗き日々が多く来たること忘るるなかれ。
何が来ようと、全ては虚しい。
若者よ、若いうちに愉しむべし。
心にかなう道を 心の赴くまま進め。
人よ知れ、神はそれらすべても裁きの座に連れ行かん。
─『コヘレト書』
2012年11月15日木曜日
2012年11月13日火曜日
ニューハーフ・ショー(アユタヤ/バンコク・第16日目)
バンコク二日目の朝7時、私はホテルのすぐそばにあるツアー会社のオフィスに向かった。
そのツアー会社は日本人が経営しており、日本人のスタッフがいるということで、前日の昼間に行ってツアーの申し込みをしていた。
申し込んだのは、バンコクの北にあるアユタヤ見学ツアーと、隣国カンボジアのシェリムアップにあるアンコールワット見学ツアーである。
最初はバックパッカーがツアーに参加するというのも変かもしれないと思ったが、話に色々と聞くと、アユタヤもアンコールワットも個人で回るのが難しく、一人で右往左往して疲れるよりかは、現地発のツアーに参加して効率よく見て回ったほうがいいと判断したのだった。
というわけで、7時集合との指示を受けて非常に頑張って起き、7時ちょうどにツアー会社の前に行ったものの、オフィスは開いておらず、係の人も誰もいない。
すぐそばで欧米人連中が朝のお茶代わりにビールを飲んでいるのを横目で見ながら、もしかして集合場所を間違っただろうかなどと不安になりながら待っていると、ツアー会社のタイ人のスタッフは、7時半になってから何事もなかったかのように現れ(そういえばここは東南アジアだった)「何をしている。早く行くぞ」という素振りで、私や他の人々を車まで誘導するのだった。
そのままツアー会社のバンに乗り込むと、日本人も何人か乗り込んでいた。
将悟くんと同じく大学の学園祭期間を利用してやってきたという和宏くんにヒロアキくん、立川在住の萌さん舞依さん、元日立製作所所員で現在は弁理士のキモトさん(犬の写真大好きな女性で、遺跡の写真よりひたすら現地の犬の写真を撮りまくっていた。面白い人である)。
アユタヤに到着すると、一行はツアーガイドに案内されながら、仏教寺院の遺跡を見て回った。昔ブッダの遺骨が収められていたという寺院跡や、木の根元に埋め込まれているブッダの頭部の石像、そして世界で三番目に大きいというアユタヤの寝釈迦像に詣った。
アユタヤの寝釈迦像と言えば、格闘ゲームの「ストリートファイターⅡ」のキャラクター、サガットのステージとして我々の世代にはお馴染みで、これを見に行くのが楽しみだったのだ(ちなみに、今の大学生にサガットステージと言ってももう通用しない。話をしても「何のことすか?」という反応が返ってくるだけである)
さっそく、寝釈迦像の目の前でサガットの必殺技ポーズを作って写真を撮ってもらおうとしていたところ、そこにいきなり「リュウ役をやりたい」と言って飛び込んできた人があった。
福岡県の粕屋郡出身の智さんという男性である。さっそく彼に波動拳のポーズを作ってもらって、ようやく再現することに成功した(まったくもってくだらない遊びだが、こういうくだらないちょっとしたことが意外といい思い出になったりするものだ)。
最後の記念にみんなで象の背中に乗ると、元着た道をバンで戻ることにした。バンの中で、せっかく会ったのだしムエタイでも見に行きましょうか、と智さんを誘うと、萌さんが「ニューハーフショーもおもしろいらしいですよ」とパンフレットを見ながら言った。
そこで、急にムエタイからニューハーフショーに興味が移ってしまったうえ、和宏くんの「俺の先輩もニューハーフショーがおすすめだって言ってました」との言葉に、急遽ニューハーフショーを見に行くことにした。
萌さん舞依さんキモトさんと別れ、カオサンで男性陣4人が待ち合わせして集まると、さっそく目的のカリプソ・ショーが行われるというエイジアン・バンコク・ホテルに向かったが、そこで何か様子がおかしいことに気づく。
ホテルの入り口で、「カリプソは9月に別の場所に移転した。ここのショーは小さい。カリプソはここでチケット買えるしそこまで送ってやる」という強引な客引き風のタクシードライバーのオジさんと、「カリプソとは違うけど、同じショーがここでもやってる」というホテルマン風の男性二人が突然現れたのだ。
どう見ても怪しいのはタクシードライバー風のオジさんである。しかし、「カリプソは移転した派」の係の人も、ホテルのロビーの一角にコーナーを設けて受付らしいことをやっている。「ここで金を払えばタクシー代タダで今すぐ連れて行くよ」という相変わらず強引なオジさんを横目に、四人は「何だかこのオジさん怪しくないすか。強引だし」「でもカリプソは移転したみたいなんだよなぁ」「カリプソでなくてもここでもいいんじゃない?」などと喧々諤々と話し合ったすえ、ヒロアキくんが彼らを「わかった。ただしちゃんと目的地まで連れて行かなかったらカネは返してもらうぞ」と脅しつけた末に、ようやく四人はタクシーに乗って移動することになった。
タクシーは、ホテルを慌てて出発すると、突然高速道路に乗り付ける。車内では「やっぱりなんかこのオッサン怪しいですよ。20分って言ってましたよね。20分で着かなかったらボコりましょう」などと不穏な話し合いが持たれる。
結局、タクシーは渋滞に巻き込まれて40分もかかりながらも、それでも目的地の真新しいショッピングモール・エイジアンティークに到着した。そこにはカリプソ・ショーのブースがきちんと設けられており、結局のところ、オジさんは詐欺師でもなんでもなかったことが分かった。
そうして散々もめながらも、ニューハーフ・ショーは始まった。
ニューハーフ・ショーは日本にもあるが、一度も行ったことはなかった。雰囲気が怪しいし、そんなところには行きたいと思ったこともなかった。
ところが、タイのニューハーフ・ショーは、そんな気持ちはどこかに吹き飛ばすほどの、物凄いパワーを秘めたエンタテインメントだった。
ニューハーフたちの、己の全身全霊を賭けたような、力強い演技。妖艶なセクシーさの中に、あっけらかんとした楽天的な楽しさがあふれる。そして、美しさを計算し尽くした演出。
美空ひばりの『川の流れのように』にのせて踊られる美しい演技の余韻を、容赦なくギャグパートに落としこんで観客を盛り上がるおかしさ。
全てが素晴らしい舞台だった。何より、彼ら(彼女ら)は美しい。
きっと、彼らにしかわからない世間からの偏見や圧力にもめげず、楽天的に、どこまでも美の追求を怠らなかった努力がこのショーを生み出しているのだ。
西尾維新の「偽物語」にこんな言葉がある。『偽物故に、きっとなによりも本物に近い彼女たち』。まさに、彼女たちこそがそれだ。
ショーが終わってから、どうしても記念写真が撮りたくなって、ギャグパート担当の青いドレスの彼女と記念写真を撮ってしまった。
ショーが終わって、どこかすっきりしたような気分でカオサン・ロードに帰った。非常にいいものを見れたという満足感に包まれていた。もちろん他の三人の心境はわからないけれど、あの様子では自分と同じ気持ちだったと思って間違い無いと思う。
タイのニューハーフショーは、素晴らしい。
2012年11月11日日曜日
旅する仏像(バンコク・第15日目)
バンコクで迎えた初日は、それなりに朝早く起きることに成功すると、さっそく市内を見て回ることにした。
バンコクで見るものといえば、何はなくとも、ワット・プラケオ(王宮)、ワット・ポー(菩薩の寺)、ワット・アルン(暁の寺)である。
カオサン・ロードから、トゥクトゥクを雇ってワット・プラケオに向かうと、そこにはもうすでに大量の人だかりができていた。
中国の年配の観光客たちが団体で記念写真を撮影している横をすり抜けて王宮に入ると、金色に装飾された数々の仏塔や寺院が、私を出迎えた。
仏塔や寺院を彩るのは、精密巧緻をきわめる金細工の数々。寺なのにこんなにギラギラしていていいのかと思ったが、あとで調べたところによると、王室専用の仏教施設だということで、僧侶がここに住んでいるわけではないらしい。
ワット・プラケオの最も重要な寺院のひとつでは、エメラルドの仏像が鎮座ましましている。この仏像は、最初インドのパトナで作られ、その後スリランカに移された。その後、ビルマの王朝がスリランカから仏典を手に入れてビルマに持ち帰る際に一緒に持ち出されるも、船が難破してカンボジアのアンコールトムに流れ着き、アユタヤに移される。その後更にアユタヤからチェンライ、チェンマイ、ラオスのヴィエンチャンを経由して、ようやくバンコクに辿り着いたのだとか。
このエメラルド仏は季節によってタイ国王が衣替えをするという伝統があるらしく、今は冬服を着ていた。
旅の安全と無事をエメラルド仏に祈ってから、ワット・ポーに行き、寝釈迦像を拝み、ワット・アルンを遠くから眺めた。ワット・アルンは別名を暁の寺といい、三島由紀夫の小説の舞台になった寺でもある(私は読んだことはない)。
私が行った時、ワット・アルンではちょうど何かの行事が執り行われているところで、川の対岸から眺めることしかできない日にあたっていた。川べりに向かうと、ワット・アルンを背景に、細く長い形状のドラゴン・ボートに乗った僧侶たちが、祈りの歌を捧げながら、ゆっくりと川を下っていく場面に出くわした。
周囲には、祈りの声がぼうっと響く。観光客が川べりにたくさん張り付いてその様子を眺めているにもかかわらず、その歌声が、黄昏時の川辺を、どこかゆったりとした雰囲気に変えて流れつづけていた。
バンコクの写真は、こちらにアップロードしました。
バンコクで見るものといえば、何はなくとも、ワット・プラケオ(王宮)、ワット・ポー(菩薩の寺)、ワット・アルン(暁の寺)である。
カオサン・ロードから、トゥクトゥクを雇ってワット・プラケオに向かうと、そこにはもうすでに大量の人だかりができていた。
中国の年配の観光客たちが団体で記念写真を撮影している横をすり抜けて王宮に入ると、金色に装飾された数々の仏塔や寺院が、私を出迎えた。
仏塔や寺院を彩るのは、精密巧緻をきわめる金細工の数々。寺なのにこんなにギラギラしていていいのかと思ったが、あとで調べたところによると、王室専用の仏教施設だということで、僧侶がここに住んでいるわけではないらしい。
ワット・プラケオの最も重要な寺院のひとつでは、エメラルドの仏像が鎮座ましましている。この仏像は、最初インドのパトナで作られ、その後スリランカに移された。その後、ビルマの王朝がスリランカから仏典を手に入れてビルマに持ち帰る際に一緒に持ち出されるも、船が難破してカンボジアのアンコールトムに流れ着き、アユタヤに移される。その後更にアユタヤからチェンライ、チェンマイ、ラオスのヴィエンチャンを経由して、ようやくバンコクに辿り着いたのだとか。
このエメラルド仏は季節によってタイ国王が衣替えをするという伝統があるらしく、今は冬服を着ていた。
旅の安全と無事をエメラルド仏に祈ってから、ワット・ポーに行き、寝釈迦像を拝み、ワット・アルンを遠くから眺めた。ワット・アルンは別名を暁の寺といい、三島由紀夫の小説の舞台になった寺でもある(私は読んだことはない)。
私が行った時、ワット・アルンではちょうど何かの行事が執り行われているところで、川の対岸から眺めることしかできない日にあたっていた。川べりに向かうと、ワット・アルンを背景に、細く長い形状のドラゴン・ボートに乗った僧侶たちが、祈りの歌を捧げながら、ゆっくりと川を下っていく場面に出くわした。
周囲には、祈りの声がぼうっと響く。観光客が川べりにたくさん張り付いてその様子を眺めているにもかかわらず、その歌声が、黄昏時の川辺を、どこかゆったりとした雰囲気に変えて流れつづけていた。
バンコクの写真は、こちらにアップロードしました。
2012年11月8日木曜日
聖地(カオサン・ロード、第14日目)
国際急行列車の中で知り合った旅仲間・将悟くんとタイの首都バンコクに辿り着いたのは、昼1時ごろである。
バンコクに辿り着いた二人は、取るものも取りあえず、トゥクトゥクに乗り込むと、バンコク市内にあるカオサン・ロードへと向かった。カオサン・ロードといえば、東南アジアを旅する旅人にとっては聖地であり、多くの旅人がここからカンボジアやラオス、ミャンマーといった国々へと旅立っていく出発点でもある。旅をはじめる前から、その名声は私もよく耳にしており、是非私もそれに倣いたいと考えていたのであった。
昼のカオサン・ロードが、照り付ける白い日差しの中、私と将悟くんを迎え入れた。
(これが、噂のカオサン・ロードか…)
人ごみ、人ごみ、人ごみ。
人ごみが絶えることなく、ずっと続いている。道の至る所に、食事やジュース、Tシャツや偽造証明書などを売りさばく露天が軒を連ね、それを縫うように人やバイクが蠢き、左右のあちこちからクラブ・ミュージックが聞こえてくるさまは、完全に無法地帯である。その縺れきった人ごみの中で、ただカオサン・ロードの道だけが、混沌を均すただ一本の秩序ででもあるかのように、遥か彼方に向かってまっすぐ貫かれている。
その、あまりにも楽天的な雰囲気に押されながら、とりあえず食事を取ろうと将悟くんを誘って、レストランに入り、食事を取った。将悟くんはM大学の学園祭の期間中、学園祭には一切ノータッチでこちらに旅をしに来たらしい。
大学生のうちに旅をしておくのは良いことだと思う。フィリピンに留学していた時も、大学を休学したり、少ない路銀を何とかやりくりしてでも世界を見てやろう、あるいはNGOの活動に加わって、世界をよくしよう等々と考える気骨のある仲間たちが大勢いて、羨ましく思ったり、自分が恥ずかしく思えたりした。自分が大学生だった頃はそんなことは考えたこともなかったし、ただ漫然と時間を潰し、ストレートに卒業して適当な会社に入ることしか頭になかった。
将悟くんと別れてカオサン・ロード沿いに投宿し、夜になって再び外に出た。夜になっても変わらずカオサン・ロードは賑やかで、どこでもかしこでも欧米人が酒を飲み、歌い踊って人生を謳歌している。
この場所に、世界各地からありとあらゆる人々が集まり、そして一時の間盃を交わして、また何処ともなく己の目的に向かって立ち去っていく。あたかも、色々な色の糸が絡み合い、変わった色目の布が出来上がるみたいに。
自分もまたその一本の糸になり、カオサン・ロードの歴史に堆積する地層の1ミリになったのだということに、旅人の一人として晴れて認められたような気がして、どこか不思議な高揚感が芽生えた。
こんなところは他にあるまい。カオサン・ロード、そこはまさに、旅人の聖地である。
<<カオサン・ロードの人々>>
- 欧米人
とにかく一番多い。朝から次の日の朝まで酒を飲みつづけ、店の中でも路上でも、とにかく歌ったり踊ったりと羽目を外しているのは彼ら。
「ちょっと噂のカオサン通りを見に来ました」という一般人風の人も居れば、ヒッピーの残党軍のような出で立ちの人々もいる。オーガニックという言葉を肩から提げて歩いているような東洋かぶれの服装の人に、全身に施された刺青を見せつけながら歩くオバケのような姉さん、白い仮面を被ってペンキをぶっ掛けた作業服のような服を着て、終始無言でギターを引きつづける男などさまざま。
- 東洋人
一番多いのは日本人風の人。次に韓国人風と中国人風の人が多い。数は多いが雰囲気に押されている印象。最後に、現地の学生など若者(売り子は除く)。日本人風の女性は西洋人と同じでオーガニック風の服装が目に付く(絶対に自分の国では着なさそうな服を着て颯爽と歩く)。対して男性はいかにもバックパッカーのお上りさんというイメージ。韓国人風の男はサイズの小さいピチピチしたノースリーブのTシャツを着てウロウロしている(兵役の影響か?)。中国人風はよそ行きの観光客っぽい。
- 売り子たち
色々な店の売り子。地元風の人々がほとんど。パッタイ(麺料理)売り、ケバブ売り、カットフルーツ売り、ゲテモノ売り(昆虫食)、Tシャツ売り、マッサージ屋やバーの店員、おもちゃ売り(夜になると、タケコプターのような光って空をとぶおもちゃを一晩中空に打ち上げている)、アクセサリー売り、スーツ?売り(この人のメインターゲットは西洋人の男。東洋人には声をかけない)、民芸品売り(民族衣装風の服を着て、手元の楽器を鳴らしながらゆっくり歩く色の黒いおばあさん)、偽造証明書(国際学生証、プレスカード等)売り、等など。
- 仙人
カオサン在住数十年という感じの老人。何人か分からないほど灰色に枯れて、沈没というより完全にカオサンの歴史に埋没したような雰囲気の人もいた。
- あまり見ない人たち
インド人風、アフリカ人風(除く、アフリカ系アメリカ人風)で遊びにきたような雰囲気の人は見ない。ただしインド人の店はいくつかあり、インド人風の店員がいる。中東風の人も少ない。
- 動物
猫と犬が少し。
深夜急行(タイ国鉄・ペナン~バンコク行き、第13日目)
孫文の家を訪問した後、荷物を纏めてゲストハウスを離れた。ゲストハウスのそばをいつもウロウロしていた人懐こい可愛い猫に別れを告げて、フェリーでペナン島からマレーシア本土側に戻った。
このフェリーは、往路(バタワース→ジョージタウン)は有料だが、復路(その逆)はお金がかからない仕組みである。
バタワース駅から国際急行列車が出発したのは14:20だった。国際急行列車という立派な肩書きとは裏腹に、寝台車が2両だけという冗談のような編成をしている。この列車には後ほどタイ領のハジャイというところで一等車や食堂車が連結され、そこからようやく国際急行列車らしくなる。
(これとは別に、シンガポールからバンコク、バンコクからチェンマイまでの区間を、イースタン&オリエンタル・エクスプレスという、日本でいうトワイライトエクスプレスに相当する超豪華列車が運行している。車輪の付いたホテルがレールの上を走っているようなもので、値段も一番安くて23万から上は90万もする。もちろん、バックパッカーには無縁)
この列車は、夕方ごろ国境を越えた。国境の駅で一度降り、マレーシアの出国審査とタイの入国審査を受けた後、同じ列車に戻ってすぐに出発する。
太陽が完全に沈む頃になると、係の叔母さんが座席のテーブルをセッティングし、ついでメニューを持って夕食と次の日の朝食の注文を取りに来る。その後、次の停車駅で停まったタイミングで、料理が配膳されるという仕組みであった。
運ばれてきたタイカレーを食べながら、暗くなった車窓を眺めると、否応なしに、旅情が増して心が膨らむ感じがしてくる。列車の中で食べる食事は、たとえ少しばかり美味しくなくても、素敵な感じがするものだ。
食事を済ますと、今度は係の叔父さんが現れ、テーブルを外して各人の座席をベッドに仕立てる作業を始める。一人旅の客にも4人掛けのボックス席が1つ割り当てられているが、このL字型の座席のシートを倒してスライドし固定した後、その上にマットとシーツを掛けると、それが下段ベッドに変わってしまう。
上段には飛行機の荷物入れと同じような棚があり、それを開けると、それが上段ベッドになる。後はカーテンを引くと、ちょうど二人は寝られる個室が出来上がる。
言わずもがなだが、今の日本で寝台列車はほとんど実用性を無くしていて、乗りたい人が趣味で乗るものに近い。
日本には世界に誇る新幹線や飛行機があり、わざわざ列車で寝る必要性がないくらい早いのだから、それはそれで良いことだが、やはり寝台列車には寝台列車にしかない趣がある。
ベッドに横になって、外を眺めた。
外は完全に暗くなってしまい、見ても何の面白みもない。しかし、ベッドにうつ伏せになってみると、自分の体のすぐ下を、車輪がゴトゴトと音を立ててレールの上をひた走っている音が全身に伝わる。その不思議な感覚がなんとも言えず面白くて、まるで、列車を抱いて眠っているかのように思える。
けれど、停車したタイミングで外に出たなら、駅のプラットフォームが当たり前のようにそこにあり、旅行者たちが行き交っている。そのギャップがまた、楽しい。
旅人たちは、こうして一時の休息を得ながら、次の目的地・バンコクに向かった。
2012年11月2日金曜日
東洋の真珠(ジョージタウン・第10日目〜第12日目)
朝8時45分、クアラ・ルンプールを出発したバタワース行きの急行SINARAN UTARA号が目的地に到着したのは、夜の7時も大きく回った頃だった。
予定では夕方の4時過ぎに到着するはずだったから、都合3時間は遅れたことになる。途中の駅でずいぶん長いこと停車していたから事故か何かがあったのだと思われたが、(記憶が間違っていなければ)特に車掌や運転手から遅れている理由の説明はなかった。説明を求めるような律儀な乗客も居ないらしく、バタワースに到着するなり乗客たちはさっさと列車を降りていった。遅延が当たり前のマレー鉄道の面目躍如といったところだろう。
ペナン州の州都ジョージタウンは、本土側ではなく、本土から離れたペナン島側に位置する。本土と島嶼部を領有していて、島側に中心地があるという意味では、デンマークのコペンハーゲンや、赤道ギニアのマリボあたりに似ている。
バタワース駅のすぐそばにフェリー乗り場があり、フェリーで約15分ほどでジョージタウンにたどり着くことができる。フェリーから見る夜のペナン島は、いくつもの高層ビルが立ち並んで、明るく輝いている。ペナン島に降り立ってみれば、そこは再び大都市だった。
ペナン島はマラッカ同様、イギリスの植民地支配の拠点になった島である。辛亥革命のころの孫文が拠点をここに設けていたこともある。街の雰囲気はまた、マラッカとは一味違った趣を見せている。マラッカは穏やかな、のんびりとしたところのある街だったが、この街はもっとゴミゴミとして、活力がある。コロニアル様式の家々の連なりのなかに、中国の寺院やモスクがあり、リトル・インディアの雑然としたマーケットがある。遠くには、街のどこからでもよく見渡せる超高層ビル、コムタ・タワーが見える。ゲストハウスから少し歩いて行いたところに、屋台が軒を連ねていた。屋台の軒先では、テーブルを囲んで雑多な人々が話に花を咲かせていた。
島の中心部に位置する、ペナン・ヒルに向かってみることにした。ペナン・ヒルの麓までは、コムタ・タワー発のRapid Penang社の204号線のバスに乗って、45分ほどで着く。そこからは、麓から山頂までを一気に駆け上がるケーブルカーが運行されている。
ペナン・ヒルからは街が一望できる。出発地のコムタ・タワーが見え、その先にはマラッカ海峡の海が霞んでいる。
標高のためか涼しいペナン・ヒルには、サルが何匹も棲んでいた。サルたちは、人間たちから如何に食料をせしめるかに頭を悩ませている様子で、観光客たちに着かず離れず付いて回ったり、ゴミ箱からジュースを取り出して飲んでみたり、人間を威嚇してみたりしていた。
夜、モスクの付近を歩いてみることにした。モスクの付近に設置されたスピーカーからは、祈りの言葉が流れ、通りの隅々に流れ込んでいった。その祈りの声に合わせるかのように、犬たちもまた遠吠えをしていて、まるで一緒に祈りを捧げているかのようでさえある。
人と犬の織りなす祈りの声と共に歩く人気のない夜の通りは、どこか別の世界に迷い込んでしまったかのようにも思えた。
別の通りに出ると、路上で男たちが雑多なものを地面に並べながら、何かひそひそと話し込んでいるところに出くわした。
バイクか自転車の部品らしいものや、ヘルメット、何かの金属部品などがごちゃごちゃと並べられているが、商品名も値札も店の名前も、何も掲げられていない。
直感的に盗品市ではないかと思えた。こんな夜遅くに、こんな人通りのない場所で、訳の分からない部品を地面に並べて、まともな客が来るわけがない。
何か、堂々と商売ができない理由があるのだ…。そう思ってチラチラと様子を盗み見ていたが、男たちのこちらを伺うような目線を感じて、私は早々にその場を引き上げることにした。
ペナン滞在の最終日には、孫文の住んだ家を訪ねた(そこは、あの盗品市のあった場所のすぐ近くだった)。10年ほど前には、中国の胡錦濤国家主席や、マレーシアのマハティール首相もここを訪問したことがあるという。
孫文といえば、自分の中では安彦良和の『王道の狗』に出てきた、理想にあふれる革命家『孫大砲』時代の彼であるが、実際の孫文は、革命半ばにして亡くなっている。
中国は四分五裂、蒋介石の国民党に毛沢東の共産党、山西派、広西派、雲南派、馬家軍にスヴェン・ヘディンが捕まった盛世才の新疆に日本軍の侵略と、三国志も真っ青の群雄割拠時代に入り込んでしまった(後に、共産党が全てを手にしたわけだが…)。
『王道の狗』(フィクションである。念のため)の中で、主人公の貫真人と革命のために戦う孫文のことをふと思いながら、案内人に勧められた美味しい中国茶を飲んだ。
もし孫文が生きていたら、今の中国と台湾をどう思うだろうか? 毛沢東と蒋介石のことをどう思っていたのだろうか? 共産主義をどう考えていたのだろうか? 胡錦濤やマハティールはここに来て何を思ったのだろうか? そんなことを考えたが、そうした歴史と政治の世界は、異国の一市民にはあまりに遠すぎて、彼の家はほとんど何も語りかけてはくれないのだった。
泥の合流する場所(クアラ・ルンプール・第9日目)
マラッカを出て二時間、マレーシアの首都、クアラ・ルンプールに辿り着いた。
クアラ・ルンプールとは『泥の合流する場所』という意味であるらしい。その言葉通り、ここもまたマレー・インド・中国といった人種の人々が、シンガポールにも引けを取らないほどたくさん集まり、盛んに往来していた(結局こうなるのだったら、シンガポールを追放した意味はあったのだろうか?)。
シンガポールと同様、クアラ・ルンプールもまたとてつもない大都市だが、シンガポールと違うのは、シンガポールにはない、古ぼけて奇妙にゴミゴミとした雰囲気があるところと、それとまた同時に、大都市特有の洗練された佇まいが同居しているところだった。
町中には摩天楼が立ち並び、それをすり抜けるかのように、高架橋の上をトラムが行き来している。まるで、昭和時代と未来都市がごちゃまぜになったような雰囲気だ。
マラッカで思わず延泊をしてしまったため、クアラ・ルンプールはあまり長居せずにいようと決めていたのだが、次の日の出発の前に是非行っておきたいところが2つあった。
1つはむろんクアラ・ルンプールのシンボルマーク、ペトロナス・ツインタワーと、もう1つは水曜どうでしょうファンの道民には有名な、ホテル・イスタナである。
まずは翌日のチケットを取りにKL Sentral駅に向かった後、KLCC駅に移動した。KLCC駅はペトロナス・ツインタワーの地下と直結しており、駅を出るとタワーの真下にまろび出ることになった。お陰で、あれだけ高いタワーのはずなのにどこにも影も形もないのはどうしたことだろうとキョロキョロ見回し、真上を見上げてようやくここがタワーの真下だと気づくほどだった。
ペトロナス・ツインタワーは1998年竣工の超巨大高層ビルである。タワー1は日本が、タワー2は韓国の業者が建設したもので、さながら日韓共同事業といった趣がある。マイクロソフト・マレーシアはタワー2の30階にあり、フランスのスパイダーマンとして有名なアラン・ロベールは、ここの外壁を二度素手で登っている。
あまりにも高いタワーを見上げながら写真を撮ってみると、不思議と立派に見える写真が撮れた。大地から屹立するタワーが、夜空に向かって天高く聳えている。自然の存在にはない、人工物特有の美しさというようなものがあった。
タワーに登ってみようと、地下にある受付カウンターに向かってみると、ムスリムの受付嬢に「今日はもうチケットの販売は終わってしまった。また明日来てくれ」と言われ、追い払われてしまった。
奥のほうでは、これから本日最後の見学ツアーに参加するのであろう人々が行列をなして、空港の保安検査のゲートと同じ装置をくぐっていたが、どうすることもできず帰るしかないのだった。
ツインタワーにすげなく追い払われて、次に向かったのはホテル・イスタナである。このホテルは、北海道の人気番組『水曜どうでしょう』の企画中で、大泉洋さん・鈴井貴之さんを始めとするどうでしょう班が、1998年と2004年の二度に渡ってこのホテルに滞在し、タマン・ヌガラ国立公園に旅立っていった出発地点として有名である。
本当は是非とも一泊したかったのだが、予約が取れず、仕方なく外から見て、番組と同じアングルから写真を撮ることにした。無論、実際には本当に普通の立派なホテルであって、何の見るべきところもないのであった(ただし、宿泊した人のレビューによれば、値段に見合うだけのホスピタリティのある、実に良いホテルだということらしい。予約が取れなかったのが悔やまれる)。
ドミトリーでは、オランダ人のアンドレアスさんと知り合いになった。ヨーロッパ人らしい、金髪の立派な偉丈夫であった。聞くと、彼もなんとタマン・ヌガラ国立公園にこれから向かうのだといって笑った。もっと色々と話をしたいところだったが、その後は彼と会話をするタイミングはないままで終わってしまった。せっかくだからfacebookのアドレスぐらい訊いとけばよかったと後悔しているが、こう見えて初対面の人とすぐに打ち解けないところのある自分には、なかなかそういうことが難しいのだった(今後の課題である)。
クアラ・ルンプールの写真は、こちらにアップロードしました。
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